漆
直後に全館にアナウンスが流れる。
「火災です、直ちに外へ避難してください。エレベーターは乗らずに、西階段から降りて下さい。東階段は危険です、使わないでください」
新婚旅行に火災だなんて…。なんて自分は運がないのだろうと思い知らされる。
福田は2つのことを考えていた。
1つ目は、単純に逃げること。今自分は、夕食を食べたレストランのある七階にいる。方角は昨日把握しているので、歩いてでも十分に避難が可能。西階段に向かえばそれで終わり。
しかし福田は、2つ目を選ぼうとしていた。わざと火災現場に行くことである。真壁の目を気にして生きるぐらいなら、いっそのこと死ねば…。
だがその選択は、永遠に選ばれなかった。走って来た2人組にぶつかった。男が持っていたワインボトルが割れ、男の足にワインがかかった。
「おい、福田じゃないか」
「あ、やあ、真壁に谷川さん」
2人は血相を変えている。火災が相当、怖いのだろう。
「福田君も速く、逃げようよ! ここにいると危ないよ!」
よく見ると、亀井がいない。
福田は、亀井のことを探しに戻ると申し出た。だが真壁が福田の腕を掴んで、
「何言ってんだ? そんなことしてたら死ぬぞ?」
「でも、放っておくわけにもいかないじゃないか!」
そう言うと、真壁は手を放し、谷川も引き下がった。
「…」
ここで福田は、あることに気がついた。2人は、どちらに逃げれば良いのかわからないのだ。だからここに突っ立っているだけで、逃げようとしない。見た感じ、アナウンスが鳴ったのでレストランからとりあえず飛び出したってとこだろう。
福田は廊下の奥を指さした。
「あっちに西階段がある。俺は探しにまず、部屋に戻ってみる」
すると真壁と谷川は、福田の指示した方向に走って行った。その後ろ姿が遠ざかることを確認した福田は、本物の西階段を下りて一階に向かった。
2人が途中で気がつけなかったら、間違いなく死ぬ。
福田はそのことをわかっていて、嘘の逃げ道を教えた。
どうしてそのようなことをしたのかは、よくわかっている。真壁には恨みがあるし、伊藤の死を少しも悲しまなかった谷川のことも心地よくない。
でもだからといって、なぜこの時に嘘をすんなりと言えたのか。何も計画していなかったのに。
自分でも不思議なのが、2人が死ぬかもしれないのに平然としていたことだ。
外に避難すると、後から亀井も降りて来た。
「ねえ、真壁と谷川は? まさか2人、ワインで火が消せると思ったのかな?」
「ん? どういう意味?」
「さっきすれ違った時、ワインボトルを持っていなかったの。レストランで一本、買ってたのに。随分と焦ってたみたいで、私のことが目に入ってなかったみたいだけど」
後日、ホテル火災は鎮火された。犠牲者として公表された人の中には、真壁と谷川がいた。福田は実際に、黒焦げになった2人の遺体を目で確認した。
自分のせいで死んだ2人。しかし福田は、なんとも思わなかった。隣にいる亀井は泣いていたが、悲しいという気持ちが全くと言っていいほど浮かび上がらない。むしろ逆で、清々した気分だった。罪悪感は、今現在に至っても抱けていない。
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