二夜


「わたしの短冊も盗まれたかも・・・・・・」


 短冊泥棒の噂は六月後半からまことしやかに流れていた。今日も教室ではその話題で持ちきりだ。

 けれどユウヤは混ざることなく、一人のクラスメイト――天野ナナヨを視線で追っていた。


 ナナヨには友達がいない。転校当初、女子グループに誘われたこともあるようだが、うまくいかなかった。それは偏にナナヨが変わっていることに起因する……とは、女子グループの言い分だが。

 確かに彼女には一風変わったところがあった。小柄でスカートやブラウス、ワンピースなどの清楚な服装を好み、髪は二本のお下げにきっちり編んでいる。普通というにはあまりに古風な外見だった。浮いちゃうからやめたほうがいいよ、とわざわざ助言というか注意というか親切を装ったマウント取りが行われたが、ナナヨは無視した。結果、目立ちたがり屋とか、男子にこびを売ってるとか、ぶさいくのくせに勘違いしているとか、えげつない悪口が飛び交うようになった。

 しかし、ナナヨはナナヨで、時間を守らなかったり、宿題をしてこなかったり、廊下の反対側を歩いたりと、学校という集団生活おいてまったく非がないわけではない。それでも気にしたふうのないふうの彼女には〝ウチュージン〟というセンスのない渾名が付けられていた。

 

 だけれど自分たちはもう。運命の年齢だ。いつまでも子どもっぽいことをしてられない。


「ねえ、戸川君ってば! エリナの短冊盗まれたんだって。今から皆で捜しに行くから、戸川君も一緒に」

 学級委員の相方である鳥島ミドリがユウヤの肩を揺らす。その拍子に頬杖がかくんと外れ、ランドセルを背負い、挨拶もなく教室を出て行くナナヨの姿が視界の中でぶれた。別に苛立ったわけではないけど。

「短冊吊したのは、いつ、どこの、何本目の、どの枝? 短冊の色は? 素材は? 書いたのは油性ペン、水性ペン、それとも鉛筆、筆、ボールペン?」

 矢継ぎ早に問い掛ける。

 え、と女子に囲まれたその中心、涙を浮かべていたエリナが戸惑いの声を上げる。

 ――それを思い出してから捜索したほうが労力少なくて済むんじゃないかな。

 ユウヤは言って、ランドセル代わりのリュックサックを肩に掛けた。

 もう帰るのかよ、友人のタカアキがバスケットボール片手に声を掛けてくる。今日体育館開放日なのに、と。ごめん、塾の曜日増やしたんだ。げえ、お前ほんとに中学受験するのかよ。まあ、今やっとけば将来的に楽だから。永小一の秀才は言うこと違うねえ。

 この他愛ない会話を幾人の女子が全身を耳にして聴いているのを、ユウヤは知っていた。その中の一人を選び出し、告げる。

「鳥島、3チャンのドラマ録画しといて。あとで取りに行くから」

 え、あ、うん。どこか惚けたように、ミドリが答えるのを確認してから、ユウヤは世界に比べてあまりに小さな教室を後にした。


 ★


 大きく揺さぶられ、したたかに額を打つ。

 青、赤、黄、白、紫。唐突に現れた鮮やかな色々に、一瞬、あまりの痛みに目の奥で火花が散ったのかと勘違いした。雨粒が貼り付いたガラス窓ごしにぼんやり滲む五色。それは闇夜に溶け消えたかと思うと、一呼吸をおいてはまた現れる。まるで深海の魚と行き会うように。

 そこでようやく気付いた。あれは道々にしつらえられた笹飾り。

 隣町の塾からの帰路のバスの中。曲がり角に差し掛かり、一斉に同じ方向に揺れる吊革を眺めながら、ユウヤは欠伸を一つ吐き出した。

 フロントガラスのワイパーは動いておらず、どうやら雨はやんでいるらしい。電光掲示版を見上げ、次の停留所を確認すれば、ユウヤが下車するバス停はあと二つ先。寝過ごしていないことに胸を撫で下ろす。

 と、その電光掲示板のすぐ近くの車体に沿った向きの椅子に座る小柄な人影に気付く。

 天野ナナヨだった。 

 見間違えかと二三度瞬くが、まさしく、どうしようもなく、まぎれもなくナナヨだった。お下げが吊革と同じリズムで揺れている。

 どうして彼女がバスに乗っている? ユウヤが月曜にバスに乗るのは今日が初めてだ。たまたまだったのか、はたまた彼女のルーチンか、それとも。

 白鷺集会所前、白鷺集会所前。ワンマンバスのアナウンスにナナヨが立ち上がり、車体前部の降車口へと向かう。

 ああ、せっかくのチャンスが。居眠りしなければ、もっと早くに気付けたものを。

 けれど、どうやら自分は星に見捨てられていないようだった。ナナヨが去った座席の手すりに、赤い傘がポツネンと立て掛けられていたのだ。一瞬、迷ったが。

 ままよ、ユウヤはナップザックを肩にかけて立ち上がる。その勢いのままパスケースをかざす反対の手で赤い傘を掴み取り、ステップを駆け降りて雨上がりの町に飛び込んだ。



「わざわざありがとうございます」

 結論から言えば、ユウヤは賭けに勝った。

 赤い傘を握り締めてバスを飛び降りたは良いが、周囲を見渡してもナナヨの姿は見当たらなかった。辺りは住宅街で、入り組んだ道の先にいるのか、既に自宅へたどり着いているのか。

 うろうろしているところにさらさらという葉擦れの音に振り向けば、門扉に笹が飾られている家に気付く。なかなかに大きくて立派だが、同時に年季が入っていることも見て取れた。そこには『天野』という表札が掛かっており、逡巡の末、インターフォンを鳴らしたのだった。

 応対してくれたのは、背の高い白髪の老女で、あまり似ていないがナナヨの祖母なのだろう。

 玄関に招き入れられ、言われるがままにスニーカーを脱ぎ、待たされることしばし。

「あの子の部屋は二階です。私は足が悪くて。申し訳ないけど、持っていってもらえませんか?」

 と、麦茶が入ったグラス二つ載った盆を差し出された。 


 階段はなるほど急だった。昔ながらの家屋にありがちな造りだ。姉にいつもこき使われているので盆を運ぶことに慣れているのは幸いだった。

 危なげなく階段を上りきれば、右手に二つ、正面に一つ、飴色を帯びたドアがある。正面のドアはわずかに開いており、明かりが帯状に漏れていた。

 ほんの少し、悪いとは思ないこともなかったけれど。

 ユウヤは呼び掛けず、ノックもせず、躊躇いもせず、ドアを盆で押し開けた。

 青、赤、黄、白、紫。ほんの少し前にも見た色合いがくすんだピンクの絨毯の上に広がっていた。ハサミやセロハンテープ、こよりと共に。

 そして部屋の中央、それらに包囲されるようにして小さく座り込み、ポカンとした表情でユウヤを見上げるクラスメイトがいた。

 できるだけ長く、その珍しく呆けて緩んだ顔を眺めていたかったけれど。


「僕も手伝おうか?――

 

 そうして、できるかぎり紳士的な微笑みを天野ナナヨに投げかけたのだった。

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