七夕には雨が降る
坂水
一夜
――どうやら、短冊泥棒の噂は本当らしかった。
六月も末の日曜の晩、世界中が水底に沈んだような雨がそぼ降る夜。ユウヤは中学受験の勉強の息抜きに、散歩に出た。特にあてがあったわけではないけれど、緩やかな坂道を上がる。
七夕には雨が降る。
梅雨が明けきらぬ七月の宵、雨もやい。
七夕には必ず雨が降る。
雨が降るから、人は願う……
高いほうへ高いほうへ、いつか聞き覚えた歌のような詩のような文句を口ずさみながら。
そうして行き着いたのは近所の高台の公園だった。
濃く立ち昇る緑の匂い、幾重にも重なる虫の声、淡い色合いながらつやっぽい紫陽花。夜の公園は無言のまましっとりとユウヤを迎え入れた。
そして緑樹が茂る並木道を抜けて公園の中央広場に出る。そこにはビニル傘を通して外灯が淡い黄色ににじみ、そのスポットライトを浴びて巨大な笹竹が一本佇んでいた。五色の短冊、吹流し、折鶴、紙衣、巾着、投網、屑籠。色とりどりの飾りをほどこされた巨大な笹竹。
もうすぐ七月七日。
ここ二宮市の七夕祭はなかなかに盛大だ。子どもがいる家では大抵笹を飾るし、そうでなければ学校、市役所、商業施設などの公共の空間に設えられた笹竹に短冊を飾る。今日はまだちらほらとしか見当たらないけれど、七夕が近づくにつれ短冊は増え、最終的には笹竹だけでなく、公園の樹という樹、遊具という遊具までも、短冊が吊り下げられるもの全てが短冊に染まるのだ。まるで公園全体、いや街中が、五色の風に吹かれるように。
ユウヤは笹竹に歩み寄る。ちょうど一年ぶりの対面だ。もちろん、笹竹自体は去年のそれとは違うのだけれど。一年前、ユウヤはここに設えられた笹竹に短冊を吊るした。今年はまだ吊るしていない。
願いごとが無いわけではなかった。けれど、去年、もうすでに願いが叶ったのかもしれなかったから。今はまだ検証期間であり、ジャッジできていない。もうしばらく時間が要る。
――と。かさり、風も無いのに葉擦れの音がしてユウヤは足を止めた。大きくしな垂れた笹竹の反対側に赤い傘が揺れる。闇夜にぽつんと浮かぶ、線香花火の丸い火の玉。そんなものを連想した。
・・・・・・天野ナナヨ?
それは、見知った人物だった。傘からのぞく横顔とお下げ髪。今年から同じクラスになった女子だ。彼女はユウヤに気付いておらず、傘を肩と顎で挟み、空いた両腕を笹竹へと一心不乱に伸ばしているのだった。
短冊を吊るしにきたのだろうか。こんな雨降りの夜、一人きりで?
自分の散歩は棚上げして奇妙に思う。周囲を見やるが、誰かと連れ立っているという様子はない。
そのうちに、ナナヨの手から、はらり青い短冊が落ちた。けれど彼女の手にはまだもう一枚赤い短冊が残っている。
んん、とユウヤは小さく漏らした。
短冊は一人一枚。それが二宮市での
ルールを知らないのかもしれない。彼女が転校してきたのは確か昨年の秋。だったら知らなくとも無理は無い、教えてやるのが先住民のとしての礼儀だ。ユウヤは声をかけようとして――その口を閉じた。
再び笹竹に手を伸ばしたナナヨの足元に散らばる鮮やかな色に気付いたから。
彼女は爪先立ちになって笹竹の一枝を掴もうとして……ざさっ!
突如しなった笹から零れ落ちた雨垂れに驚き、ナナヨは飛び上がった。それから小さく踊るようにステップを踏んだ後、周囲を見回し、慌てふためきながら落ちていた何枚もの短冊を拾い集め、脱兎のごとく駆けて行く。
闇夜に消えゆく、小柄な後姿を見送った後。ユウヤは竹笹の下へ行き、一枚地面に取り残されていた青い短冊を拾い上げた。
『ゴウキュウジャーになりたい』
喜怒哀楽という感情を昂ぶらせることで必殺技を繰り出す戦隊戦士に憧れた願い。セロハンテープがべたべたと貼られ、どう考えてもナナヨのものとは思えない稚拙な字で書かれている。つまり、彼女は。
……短冊泥棒?
疑問符を含んだ呟きは雨音にまぎれ、とぷん、と闇夜に沈んだ。
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