第2話 始まりの過ち

 クッションが全面に張られているが、狭く奥行きが長い無重力の部屋を、僕は泳いでいく。

 ちゃんと障害物も設置されていて、棒状のものや、角が丸められた突起もでてくる。

 余計なモーメントを与えないように、迫ってくる障害物をそっと受け止め後ろにながす。

 腰でリアクションホイールがまた低目のモーター音を響かせた。

「いいですね。それではそこを右に。そこで止まってください」

 光に満ちた前方右に闇をたたえた黒い長方形が見える。インストラクターの指示に従い、障害物を使って前方に進む力を抑えた。そして慎重に左の壁を押す。

 体が変なスピンを始めたのでベルトにタッチ。モーター音があがり、スピンが収まる。

 そのまま、僕は四角い闇の中に入っていき、……出たのは展望テラスだった。

 音もなくゆっくりと人工の大地と川と呼ばれる採光窓がせりあがっていくのが見える。

 採光窓の向こうにはちょうどミラーが見えず、きらめく光の粒がばらまかれている。光は別のスペースセツルメントだ。 

「はーい、降りてくださーい。よかったですよぉ?」

 マグネソールをオンにしてゆっくりと降りる。

 その僕の肩に、インストラクターの手が置かれ、すぐ隣に降り立った。

 ふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。

「これなら帰化審査も通りそうですね」 

 彼女が花のように笑う。

 相変わらず、心からの笑顔だった。ロボットらしい無機質さもない。

 動作は洗練されていて、並の人間よりよほどしなやかだ。

 僕は礼を述べて頭を下げた。だが彼女は笑顔を消して怪訝そうな顔をした。

「あまりうれしそうではないですね? 何か悩み事でも?」

「あ、いや、大丈夫です」

 慌てて否定するが、内心では鋭さに冷や汗をかいていた。

「すいませんが、少し疲れました。僕はここで休みます。先生は時間ですから戻っていただいていいですよ?」

「そうですか? では今日は終わりますね。それではまた次。待ってますから」

 心配そうな顔をしながらも、俺が笑顔を作ると、彼女は引き下がった。

 そして何度も僕の方を見ながら、入ってきた入り口に消える。  

 僕は再び展望ガラスの方に向いて腰を下ろした。

 重いため息が漏れた。

 僕は何をやっているんだろう、そういう思いが鈍い疲れとなって体を巡る。

 目の前を自転する人工の大地を僕はぼーっと眺めてるうちに独り言がこぼれ落ちた。

「死ぬはずだったのにな」


 うたい文句は、「時間への挑戦」だった。

 中国で開催された倫理すれすれの、人体実験。

『100年冷凍睡眠実験』

 僕はきれいに死にたくて、実験に応募した。


 僕が大学受験に失敗して両親と妹の目が冷ややかだった頃の話だ。

 僕は彼女と出会った。が、初対面の彼女は控えめに言ってやばかった。

 左目に殴られたあざがあり、下着の上にダウンジャケットを羽織っていて、所持金はゼロで、腕には無数のリスカ跡。

 僕が大学に合格していたら彼女をきっと避けたと思う。

 だが弱り目にたたり目だった。

 僕は彼女にかまってしまった。助けようと思ってしまったのだ。

 家まで連れて行って、僕の部屋でカップ麺を食べさせ、ゆっくりと寝かせた。

 警察への通報は彼女が拒否した。僕はそのおかしさを愚かにも黙殺した。

 数日後、彼女は唐突に姿を消した。

 手を出さなかったのか? と思うかもしれないが、実際はやばすぎて哀れすぎて手を出す気にならなかった。

 それで終わったかと思ったら、また彼女と出会った。毎度暴行?を受けたようにシャツがよれよれだったり、 鼻血をだしていたりだった。

 そのたびごとに、僕は彼女をかくまった。警察の通報は激しく拒否されたので、触れないことにした。やさしさをはき違え、受験勉強もせずに良いことをしてるつもりだったのだ。

 一度だけ彼女に、誘われたことがあった。……あれはセックスの誘いだったと思う。

 僕は断った。そんなつもりはなかったし、見栄もあった。それっきり誘いはなかった。


 破滅は唐突だった。ある日の早朝、警察が家にやってきて、僕は逮捕された。

 監禁罪と強姦致傷罪と言われて、取調室で身に覚えがないと叫んだ僕に、一枚の写真が突きつけられた。彼女だった。

 そこからの記憶は曖昧だ。衝撃が大きすぎて僕はただうなずくだけだったらしい。

 新聞に記事が載り、訳のわからないまま裁判が僕の有罪で終わりかけた時、僕の弁護士という人がなにかをやって、唐突に裁判が中断されたのは覚えている。

 その弁護士の人は最初に会ったやる気のない人ではなかった。

 数ヶ月後に僕は無罪になった。訳のわからないことだらけだった。

 ただ僕の無罪は報道されることはなく、強姦の汚名はついて回った。

 僕は引きこもり、毎日死ぬ方法探して過ごし、そんな僕の前に100年冷凍睡眠実験の文字が躍り出た。


 中国の富豪が主催するこの実験に、僕は家族に黙ってエントリーし、合格した。

 そして両親と妹に置き手紙だけを残し、一人中国に渡り実験に参加した。

 僕は覚めることのない眠りについた……はずだった。



 訓練の次の日。僕は移民弁護士のオフィスに向かっていた。

 ネットでの面談だけではだめで、ある程度進んだら直接面会が必要だと移民弁護士が言ってきたのだ。

 なんとも面倒な話だったが外出許可をとって、ISSLインタースペースセツルメントラインという連絡船で、観光居留セツルメントまで出向いた。


 観光居留セツルメントは、観光地区、外国人居留区、帰化承認待機地区、各国大使館およびケイナン政府外務局のオフィス地区がある。と、案内板にはあった。

 ボットバス自動運転バスでオフィス地区に向かう。

 大使館通りからみえる大使館はしかしまばらに点在していた。ケイナンを承認している国は少ないらしい。その隙間に建つビルには移民弁護士事務所が数多く軒を並べていて、出入りする人間もひっきりなしだ。行き交う人は誰もが冴えない地味な男性だが、しかし表情は明るい。

 ボットバスに乗り込んできたおたくっぽい若いが地味な東洋人男性達が、屈託のない笑顔を浮かべ、拳をすこしあげ互いにぶつけあった。

「やったな、帰化承認ゲッツ!」

「スムーズにすんでよかったなぁ」

「訓練面倒くさかったけどな」

 混んでない車内の中で喜びにあふれて会話しあう彼らを、席に座る白人系の老人がちらっと横目でみて、温かな微笑を浮かべた。

 ミラーから反射された主星の光が、バスを含めたあたり一帯を照らす。

 開発予定の空き地と、ゆったりした大使館と、人が頻繁に出入りする弁護士事務所、そして歩道には露天の食べ物屋が出ている。

 若く活気と光に満ちた街をボットバスはゆっくりと走って行った。 

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