中編 甘美な幸福体験

 午後3時。土田つちだ駅前の巨大な歩道橋には、沢山の人々が別々の目的を持って歩く。僕の住む田佐川たさがわ駅より15分ほど都心に近い土田駅周辺は、近年発展が目覚ましい。その影響によって田佐川駅周辺のアミューズメント施設、百貨店等が年々こちらに奪われており、田佐川の地元民は少なからず嫉妬心を抱いている。僕は駅前からたこの足のように伸びる歩道橋の中心、駅前歩道橋広場の端で、依頼人の恋人である白州若菜しらすわかなを待っていた。


「なかなか来ないなあ……。」


 今日の気候はまるでサウナに入っているようだ。熱い湿気がボウボウと僕を包み込んでいる。ハンカチで額の汗をゴシゴシと拭き、今朝本郷から受け取った依頼の詳細にもう一度目を通してみる。


8月3日 白州若菜とのデート

依頼主 寺田浩二

土田駅 15時 駅前歩道橋広場集合

シネマタウンにて映画「いとしの森」を鑑賞の後、レストラン「土田プラザ」にて食事。また……


 記されていた内容はとても簡潔で、大まかな流れと注意点、寺田浩二の恋人である白州若菜の顔写真のみであった。これを見て、昨日までは舞い上がっていたが、考えてみれば不安だ。


 何しろ、僕と白州若菜は全くの他人である。恋人である以前に友人でないし、友人である以前に出会ってもいない。そのような状態で恋人らしい振る舞いはできるのだろうか。僕は着慣れないワインレッドのフライスカットソーに、ジワリと汗がしみるのを感じた。


 行き交う人々の顔に注目していると、並々ならぬオーラを放っている女性が駅からこちらへと歩いている姿が目に入った。彼女とすれ違う男たちは全員が振り向き、心なしか表情がほころぶ。彼女が近くまで来ると、僕は気がついた。あれは白州若菜だ。


 白州若菜は、紺色のオールインワンに赤いヒール。頭には白いハット、左手には少し大きめのポーチを抱えることで、シンプルな中にアクセントをつけたコーディネートだ。年齢は僕と同じ10代後半か、20代前半くらいだろうか。ショートヘアが、あどけなさの残る童顔によく似合っている。ただ、何より目立つのはそのスタイルと清潔感だった。身長は僕と同じ170センチくらいで、足が長く顔が小さい。そして、肌の白さやヘアスタイルの洗練された印象は、一般人には無いような清潔感を与えている。話しかけるのもためらうほどの美しさだが、話しかけないわけにはいかない。目の前まで来るのを見計らい、僕は意を決して声をかけた。


「白州さん!」

「はい!?」


 想像より大きな声が出てしまい、白州若菜は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。しかし、少し思案した様子を見せた後、口を開いた。


「あ、代行の方ですか!」

「はい、そうです。私、幸福代行サービス業者の茅野かやのと申します。本日は寺田浩二てらだこうじ様のデート代行を務めさせていただきます。よろしくお願いいたします。」


 僕は本郷から言うように言われていた文言を読み上げた。かなり言わされている感じが出ていたと思う。白州若菜はニッと笑った後に「じゃあ行こっか。」と言って歩き始めた。あどけなさの残る笑顔がとても愛らしく見えた。


 2人で並んでシネマタウンを目指す。女の子とのデートを楽しむ余裕はできてきたが、やはり何を話せばいいのかがわからない。初めて会ったがために、白州若菜の好みも趣味も、まるでわからない。悩んでいる間、彼女は地面を見ながら無言でいた。気まずさを感じているのかなと考えると、頭の内側がチクチクとするのを感じる。


「あのさ……。」


 白州若菜が口を開いた。ドキンと胸が鳴った。


「もう付き合ってるんだし、いいかな。」


 そういって彼女は左手を僕の右手へと絡ませた。それはもちろん握手でなく、手を繋ぎたいということなのだろう。僕は何も言えずにその手を握り返し、恋人つなぎをした。大きさは変わらないが、男性とは異なる柔らかな手が僕の右手を包み込んだ。


 白州若菜は代行である僕を完全に寺田浩二とみなしているようだった。最初の無言の間も、今考えれば照れていたように思える。代行業者の存在が知らぬ間に世間に広まっていたということだろうか。


 白州若菜と手を繋いでいると、香水ではない良い匂いがした。何気なく彼女の顔を見てみると、彼女は照れ臭そうにテヘと笑い、つられて僕も笑った。気づけば僕はこの状況を幸せに感じていた。2人ぴったりとくっつき、時折押し合ってふざけながら、シネマタウンを目指す。


 歩道橋を階段で降り、数分歩くとシネマタウンにたどり着いた。夏に恋人つなぎをすると汗ばんで仕方がなかったために、途中からは腕を組んで歩いていた。思えば女の子とデートをしたことがなかった僕は“夏に手を繋ぐと手が汗ばむ”なんていう当たり前のことを知らなかった。白州若菜は単純に緊張していたのかもしれなかった。


 映画館入り口を抜けると、大きなホールの左手にチケット券売所、中央にフードショップとグッズコーナー、右手にスクリーンへと向かう通路があった。僕らはチケットを買い、2人で別の味のチュロスを買い、スクリーンへと向かった。僕らはすでに、とても自然で、古くからの友人のような親しさを感じる会話ができるようになっていた。まるで本当に付き合っていると錯覚するほどだ。通路の突き当たりにあったスクリーンへと入り、指定された席へと座った。


 映画「愛しの森」は、主人公である20代の女性が、死別した恋人の呪縛から解放されるまでを描いた物語だった。物語は女性の恋人が病死してしまうところから始まる。女性は悲しみにくれ、泣き続け、「どうしていなくなってしまったの。」と虚空こくうに向かって問い続けるだけの日々を送った。いつしか自殺を考え裏山にある森に向かうと、見たことのない丘へ抜ける。そこで女子高生の見た目をした「イトシ」に出会い、どうにもならない胸中きょうちゅうを打ち明け、一緒に悩んでいく。


 興味深いなと感じた。イトシが自殺を考えていた女性に「生きるってなんだと思う?」と問うたところから、人生について深く考えさせられるような投げかけが続けられている作品だった。白州若菜もとても興味深そうに見ていた。上映中僕らはずっと手を握り合っていた。


 映画が終わると、僕らは駅近くのビル最上階にある土田プラザで食事をした。日の沈んだ土田の夜景を一望できるレストランで、穏やかな時間を過ごした。僕らは映画の感想を言い合ったり、若いカップルらしいあどけなく甘い会話をした。僕は仕事中であること忘れてしまうくらい夢中で、幸福だった。明日からもこんな日々が続く寺田浩二は、どれほど幸せなのだろう。僕らは食事を終えるとレストランを出た。そして、名残惜しさを抑えながら、歩道橋広場の薄暗い街灯の明かりの下で小さく手を振り、別れた。


 帰りに本郷のいる事務所に寄ることにした。まだほとぼりの冷めない体を、夜風で落ち着ける。


 仕事をするまでは不安に思っていたが、今日の僕は幸福にあふれていた。付き合いたてであるカップルの緊張と高揚。探り合うように愛を確かめるデート。美しく健気な女性とそのような恋愛を楽しめるだなんて素晴らしい。僕は上機嫌で足取りも軽いまま、事務所の入り口を抜けた。


「おー、茅野くんお疲れ様でした。初仕事の方はどうでしたか?」


 本郷の1番手前のデスクにいた。相変わらず仏のような笑顔をしている。他に職員はいないようだ。


「なんというか、楽しかったです。これこそ幸せだなという感じで。寺田浩二が羨ましいです。」

「そうですか、それは良かった。引き続き色々な依頼をこなしてもらいますよ。はい、次はこれね。」

「はい! 是非とも!」


 しかし、その後の依頼はなんとも言えないものばかりだった。

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