贖罪 Ⅵ


 能登あすなろ新聞社がスクープした『冤罪死刑執行さる』の号外と、テレビ石川の緊急特報番組は全国に衝撃を与えた。

 実は鞄の第一発見者が警察に届ける前にFDをコピーし、遺書と証拠品を写真に収めていたのである。そして遺書の内容から重大性を感じ取った司法と警察当局に脅しをかけられた事に義憤を駆られ、身の危険も辞せず、証拠を新聞社へ持ち込んだ。

 信じられない特ダネを入手したあすなろ社は警察庁、法務省の釈明謝罪会見と共に一面記事として公表するつもりであったが一週間経っても何の音沙汰もなく、これで発見者の危惧通り事件を揉み消してしまうのが明白となった。

 政治家の圧力に無縁のあすなろは間もなく遺書を大々的に掲載する事を決し、全国へ「美浜銀行員殺害事件の真相」を詳らかにした。それに遅れる事翌日、全国各紙は『戦後最大の大誤審』とか、『割れたか、浄玻璃じょうはりの鏡(死者の生前の行為を正しく映す閻魔えんまの鏡)』との耳目を引くキャッチコピーで一面を飾り、嘉樹を悪魔の化身と書き立てていた雑誌社でさえ掌を返し、身代わり孝行と評した。

 果然、冤罪死刑執行の余波は法務省だけに止まらなかった。

 全国でうねりを巻き起こした「死刑反対。法務大臣は責任を取れ。死刑執行官は廃官に」のシュプレヒコールは政界をも揺るがし、世界中のメディアが日本に注目した。

 ところが選挙中の林原は形式的に頭を下げたものの、冤罪に関しては警察の取り調べや裁判の進行などの適正手続きデュープロセス上のミスであり、それが死刑という刑罰を廃止するには至らないと強調し、法務省自体も責任の追及や賠償金問題について頑ななまでに認めようとせず、「現住建造物放火は死刑に値する」と言い張っていたが、刑法第百五条の「犯人又は逃走した者の親族がこれらの者の利益のために犯した時は、その刑を免除できる」と反論された。

 それに対し法務省は、「百五条の条目は飽くまでもできるであり、するとは記載されていない。重罪に関しては特に適用しない」と反撃した。しかし放火における死刑は大抵致死を伴わねばその判決が下らない事と、何より冤罪死刑のプレッシャーが甚大で結局マスコミに押さえ込まれた。

 旗色が悪くなり引っ込みがつかなくなった省は次には開き直り、「犯人蔵匿による誤審は司法の責任にあらず」とか「刑事補償法第三条一項の条文に従い、死刑執行における補償金の支払い義務は生じない」との論陣で対抗してきた。

 上を下への大騒ぎになっていた愛知県警や警察庁も又、「騙されたのはむしろ当方」と世間へ訴えた。

 更に起きてはならない事態も発生した。冤罪死刑囚を執行に追い込んだのは極刑を望んだ被害者感情のせいだとして橋爪の妻までもが非難の矢面に立たされたのである。これにはさすがに同情の声が多く寄せられ一枝への攻撃は徐々に止んだが、後味の悪い悲しみと怨念だけが押し付けられる結果となった。

 そしてその余波で間宮の処刑に感謝を表す存置派が「法務省は治安維持のために死刑の続行を」と反論の気炎を揚げ、廃止派と大々的に衝突する場面もテレビで何度も放送された。

 日本がそんな波乱に沸き立とうとする直前、当事者の一人である直樹は石川からインマヌエル教会へ車を飛ばしていた。

 執行の際、ジョゼフは「兄弟殺しフラトラサイド」と呟き、刑場で読み上げた祈りも今一つ判然としなかったし、掛け直した深紅のストラは殉教者を意味していた。

 神父は何かを知っているに違いなかった。

「確かに私は嘉樹さんから有りのままを告白されました。あれは父の犯行だと」

 長椅子に腰掛けたジョゼフは直樹の詰問に悪びれず答えた。

「どうして黙過していたんですか。執行前なら検事へ証言すれば何とかなったはずです」

「あれは告解、神への告白です。例えどんな状況であろうとも聴罪した我々告解を聴く司祭コンフェッサーは絶対に他言してはならないのです。それが法律に違反していてもです」

「しかし、人の命が──」

「嘉樹さんの告解は鉄の意志でなされました!」

 ジョゼフは強く遮った。

「嘉樹さんはお父様の犠牲になると自ら希望なされたのです。その生き様と死に様を止めるのは人生そのものを奪うに等しいのです。ですから私は彼の意向を尊重し地下へ導きました。それが私の、カトリック教誨師の仕事でもあります」

 厳しいまでの真直な顔付きに直樹の追及は途絶えた。ジョゼフは使命を果たしただけで、責めるのは見当違いかもしれないが、不可逆な刑罰を呪うには神に対してしかなかった。

「でも、本当は私も嘉樹さんを冤罪で殺すのは忍びなかった。だからあの房の廊下で直樹さんに助けを求めようとしたのですが、寸前で嘉樹さんに止められてしまいました。私は自分が告解を守るべき人間なのをあれ程悔やんだ事はありません」

「いいえ、後悔というなら私は先生以上です。嘉樹を直接死に追いやったのは、決裁した法務大臣でも、刑事局の死刑担当検事でもなく、刑務官であった私だからです」

 直樹は無実に抗っていたレバーを強引に引き倒した右腕の感触を蘇らせた。

 そうするとここでジョゼフが思わぬ秘密を打ち明けた。

無限の愛アガペーを成し遂げられた嘉樹さんはアブラハムの懐へ召されましたが、地下行きの間際遺言を託されました。貴方とお父様にです」

「──父と、私に?」

「お父様には、もうお亡くなりですが、自分の執行後、暫くしたら貴方を通じてこう伝えてほしいと。『もし今もどこかで生きていたら、それを強く願っているが、一旦日本から逃げてほしい。静岡の用宗に別荘がある。そこに高飛び用の現金と、パスポートを作ってくれる偽造職人の住所録がある。それで海外へ飛び、ほとぼりが冷めたら事件後拉致されていたと大使館へ駆け込めばいい。記憶喪失の振りをすれば疑いの目を逸らせるだろう。誰も心の中など覗けないのだから』と仰って別荘の住所と鍵の隠し場所、住所録と現金の在処を書いたメモを私に手渡されました。メモは昨日廃棄しましたが、それがお父様への遺言です」

 直樹は堪らず目を閉じた。嘉樹がそこまで父の将来を案じていたとは夢にも思わなかった。

「次いで直樹さん、貴方には嘉樹さんが最後に描いた聖画と共に二つの言伝ことづてがあります。一つ目はお母様の事です。『戯け』とだけ伝えてくれ、と」

 胸が痛みにうずいた。嘉樹は妙子への生体肝移植に同意していたのである。

「そして二つ目は、この画と関連して直接貴方へ、そのままの口調でお伝えします」

「はい」と直樹は四つ折りになったノート紙を受け取りながら、ジョゼフの動く唇をじっと見つめた。

「直よ、倉庫に未だ残っていれば、あの木の梯子で夫婦樫へもう一度登ってみろ」


 直樹は教会を離れると、その足で名私大病院の移植外科病棟を訪れ、佐和子を探した。

 だが、多用な佐和子はどれだけ走り回っても見付からず、代わりに、ナースステーションの中で看護師と談話している金城保が目に留まった。

 直樹は猛ったまま無断で押し入った。

「金城先生、あいつの臓器は移植されましたか」

 意外な侵入者に看護師は退去を願ったが直樹は無視して質問を続けた。

「竹之内嘉樹の臓器はうまく移植されましたか」

 金城はいきなり訪ねてきた男に戸惑ったが、暫くして双子の看守だと想起した。

「金城先生、どうなんです」

「え、ええ」

 金城は迫力に押され怖々と答えた。

「では希望通りに腎臓も角膜も皮膚も骨も全部使われたんですね」

「ええ、大体は」

「ならば移植された人に会わせて下さい」

「ええ──ええっ、それは無理です」

 ついと肯んじてしまった金城は慌ててひるがえした。

「プライバシー保護が法律で決まっているんです。以前も吉住が言明しましたがレシピエントとドナーでさえお互いの名前や住所を知る事は出来ません」

「そこをげてお願いします」

「駄目です。大体レシピエントがあのドナーの素性を知ったら嘆きます。移植されたのが死刑囚の臓器だなんて」

 恥じるように低く話す声に直樹は頭を垂れて叫んだ。

「違う、あいつは殺されるような罪なんて犯していないんだ。あいつは何もしていなかったんだ。だから先生、教えて下さい。この通りです」

「どれだけ頭を下げてもらっても許可出来ません。例え冤罪であってもです」

 と、背後から突如として聞き慣れた声がした。佐和子は半開きになっていた扉を堅く締めた。

「たった今ニュースで聴きました。嘉樹さんがとても死刑囚に思えなかった訳が漸く解りました。まさかお父様の身代わりとは」

「佐和子さん、お願いします。相手に会わせて下さい」

 直樹は再び深く頭を下げた。

「会ってどうなさるおつもりですか」

「もちろん嘉樹の無罪を伝えます。移植されたのはけがれ無いものだとも」

 佐和子は、ふう、と呆れた息を吐いた。

「いいですか、直樹さん。レシピエントはドナーには大変興味があります。脳死移植にしろ死体移植にしろ亡くなられた方から命を頂くんです。しかし、それは嬉しさと同時に重荷にもなるんです。今度の件が冤罪であればこそレシピエントはより辛い十字架を背負わねばなりません。本当なら元の身体で生きていくはずの臓器が間違って自分に移植された。それを聞かせられれば精神的負担は増すばかりです。いわば無期懲役を言い渡されたようなもの。ショックで患者さんに事故でも起きたら貴方は責任を負えますか」

 尤もな反論であった。それでも提供を受けた患者に会いたかった。自己満足かもしれないが嘉樹の証を内包する人間に一目でもいいから会いたかった。

 佐和子は力なく項垂れる直樹を黙って観察した。

 拘置所で見た冷酷な瞳はどこかへ消え失せていた。

「直樹さん、私、これからとある方の病室を訪ねますが御一緒に如何ですか」

「え?」

 打ちひしがれていた直樹は佐和子に首を上げた。神々しい温顔に戻っていた。

「その患者さん、最近一人の男性ドナーから腎臓を提供されたんですけど」

「さ、佐和ちゃん、そりゃあいくら何でもまずいよ」

 金城は焦って詰め寄ったが、佐和子は大丈夫よと笑った。

「この人は単に付き添いするだけだから。さ、直樹さん、そうと決まれば早速行きましょう」

 佐和子は強引に直樹を外へ連れ出し病棟の東へ歩いていった。

 無言で後を付いていくと、やがて突き当たりの個室の前で足は止まった。

 佐和子は一度大きく息を吸い、「綿貫わたぬき舞衣」と記されたネームプレートのスライド扉をノックして開けた。

「はあい、舞衣ちゃん」

「あ、佐和子お姉ちゃん」

 直樹は佐和子の陽気な声にも驚いたが、ベッドで横になっている患者にも驚いた。腎臓を提供された綿貫とは邪気あどけなさが残る十歳そこそこの少女であった。

「手術終わってから元気にしてたかな」

 入室するなり佐和子は『青い鳥』を読んでいた舞衣の側に座った。

「うん。でも時々熱っぽい。おクスリ強いのかも」

「うーん、慣れるまでもう少しね。誰でも皆、最初は辛いの。でもほんのちょびっとだけの我慢よ」

「ほんと?」

「ほんとほんと。良くなるまでお姉ちゃんと頑張ろうね。約束、げんまん」 

 舞衣は佐和子の指切りに応じ満面の笑みを浮かべた。そしてちらりと直樹を見た。

「佐和子お姉ちゃん、あのー、後ろのおじさんってお医者さん?」

「ああ、この人は私のお友達。元気ないから舞衣ちゃんの頑張っているとこ見せてあげようと思って連れてきたの、はい、ここへ座って」

 佐和子は立ち上がり椅子を譲った。腰を下ろした直樹は「やあ」と少女へ遠慮がちな声を掛けた。

 舞衣は直樹をじっと観ると唐突に訊いた。

「おじさん、何処か悪いの」

「え、どうしてだい?」

「だって何か凄く痛そうだもん」

 直樹は心痛を指摘され切なく笑い、自分の左胸を指差した。

「おじさんね、ここが急に悪くなったんだ」

「じゃあ、心臓移植待ちなのね、大変」

 これには二人とも苦笑せずにはいられなかった。

 ぽかんとする舞衣に佐和子は言い添えた。

「そうじゃないのよ。おじさんは仲良しさんとお別れしちゃったから寂しいの」

「ふうん。あ、そうだ。ところでねえ、お姉ちゃん、これ届けてくれる」

 思い出したように舞衣はベッド横のビニール鞄から黄色いファンシー封筒を取り出した。表一面には赤いクレパスでハートマークが数え切れない程描かれている。

「ほら、お姉ちゃんがこの前教えてくれたの。腎臓をくれた人の家族へのお礼のお手紙」

「へえ、舞衣ちゃん、サンクスレター書いたんだ」

「うん。私の住んでる所も名前も書いてないから、お願い」

「任せて。きちんと渡すから」

「ありがとう。でも、私に腎臓をくれた人ってどんな人だったんだろう。お姉ちゃんは一回お話ししたから知ってるんでしょ。ね、もう名前は聞かないからそれだけでも知りたい」

「──そうね、優しくて温かくて、他の人ばかりを大切にする、まるで天使みたいな人。お姉ちゃんは大好きだった。きっと舞衣ちゃんも大好きになってたんじゃないかな」

「やっぱり会ってみたかったなあ」

「その人の腎臓が舞衣ちゃんの中にあるんだから、天使が舞衣ちゃんの中にいるのと同じよ」

「そっか。私のお腹に天使さんがいるんだね──あれ、おじさんどうして泣いてるの?」

 舞衣は忍び泣きする直樹に驚いた。

 直樹は嘉樹を思い出すと涙が止まらなかった。

 あいつはこんな形で掛け替えのない命を残した。父へも母へも身命を捧げたが俺がそれを断ち切ってしまった。しかし、この子には繋がった。少なくとも四人以上の人生を救った。只では死なないと公言していた嘉樹は言葉通り死刑の是非を問い質し、その上無償で命を分配し、生きてきた大きな証を残した。

 一説に「光を掲げる者」のルシフェルは、丁度プロメテウスが天の火を盗み人に与えたのと同じく、人間に神の叡智である光を授けようと敢えて天から墜ちたとも伝えられている。

 直樹が罪人の心の弱さを軽しめたのも自らが強くありたいと願ったからではない。強者という寄り掛かる大樹を探し、それに依存し、空威張りの仮面を被っていたに過ぎない。国家雇われの身分に甘んじ、司法の傘の下で官権を振りかざしてきただけに、気付けば後悔と悲哀が入れ違いになり自然と涙がはらはら零れていた。

「はい、どうぞ」

 病室を出るなり佐和子はサンクスレターを差し出した。

 直樹は目元を拭いながら躊躇った。

「いや。この手紙はドナーの」

「未だ家族じゃないってこだわっているんですか。これは弟の貴方が読むべきです」

 直樹は封筒を受け取ったが、廊下に佇んで表を黙視しているだけであった。

「開けないんですか」

「いえ、やはりこれを読む資格があるのは竹之内の養親だけです」

 直樹はそのまま佐和子へ返した。

「どうして? これには嘉樹さんの想いも籠もっているんですよ」

「だったら尚更です。俺には開封する価値さえありません」

「でも」

「もういいんです。俺が嘉樹に対し償える行動はたった一つしかありませんから」

 直樹は佐和子へ別れを告げると足早に病院を去った。


「これを瑞樹に渡して下さい」

 翌朝早く直樹は森本家へ赴き、妻の名を早書きした封書を輝樹へ手渡した。

 あすなろ新聞社は遺書の実名と住所には塗りつぶしを施していたが、鼻の利く記者が直樹の許へ押し寄せるのは間違いなく、それももはや時間の問題であった。

 しかしその前にたった一つだけ成すべき事、嘉樹の遺言の実行が残っていた。

 直樹は輝樹の引き止める腕を振り払い東の家へ急いだ。そして埃臭い倉庫を開け、俊昭が製作した、処分されずにブルーシートの下に残されていた古ぼけた例の木の梯子と太縄の塊を手にして裏山から常高寺へ向かった。

 あの時と同じ、和名山の針葉樹林を抜けて行くルートを選択した直樹であったが、昔二人掛かりで持ち上げた梯子は思いの外軽く感じた。

 そして誰にも見付からず常高寺へ辿り着き、目指す最終地点に足を進めた。

(メメント・モリ、汝は塵なれば塵に帰るべきなり──俺が帰る場所はこの樫しかない)

 二叉樫の根本に立ち、葉擦れにざわめく梢を見上げれば万感の思いが込み上げてくる。

 アブラハム、イサク、リベカ、それにエサウとヤコブ。

 ここが全ての始まりであった。

 嘉樹は怒っていると直樹は直感した。当時の梯子をと指定されたのである。まして処刑直前に叫んだ「天まで伸びる梯子を登れ」とはこの巨木に登って人生の決着を付けろとの示唆に違いない。

 ヤセの断崖では未遂であったが、二度目は本当に奈落へ突き落とした。

 殺した相手に同じ遣り方で報復したいとする心境は当然であろう。

 実際、ジョゼフから託された嘉樹の画には、翼を閉じたルシフェルが神の座に向けて梯子を上っていたし、用紙の下には辛辣にこう記されてあった。

 We ought to lay down our lives for the brethren.(私達は兄弟の為に魂をなげうつ務めがあります)

「お前からは何も話がないのか」

 あの時の嘉樹の眼差しが再び直樹を責めた。

「何の弁解も無いけれど、やらなければならない事は分かっている」

 直樹はロープを肩に巻き、ボルトで組み立てた重ね梯子を樫へ掛け、天をもう一度振り仰いだ。

 そうか、結局俺が闇の者で、嘉樹の眩しい翼に嫉妬していただけなんだな、と今更ながら心付いた直樹は梯子の横木に足を掛けた。

 一段、二段、三段、葉陰の間から覗く微かな空を睨みながら登っていくと、『失楽園』の文章が自ずと零れた。

「正しかざる兄がその正しき弟を殺したのだ。だが兄のこの血腥い行為は復讐を受け、弟の信仰は神に認められて正当な報酬を受けるであろう──汝はここを立ち去るがよい、汝の子『悪』も一緒に連れてゆき、『悪』本来の住処へ、地獄へゆくがよい──そうだ、汝も汝の悪しき徒党も全てだ! 騒擾さわぎを起すなら、地獄で起すがよい! そうだ、この懲罰の剣が断罪の裁きを下す前に、いや、なんらかの復讐の手が突如として神から放たれ、更に激しい苦痛を与えて汝を真っ逆様に堕とす前にだ!」

 死刑が合法だろうが違法だろうが正当化は許されない。嘉樹の開かれた輝かしい将来を、それに浴しただろう者達の幸福を閉ざしたのは間違いなく刑務官の俺なのだ。

 神の仔羊であるキリストを銀貨三十枚で売って十字架刑に処させた裏切りの弟子ユダの結末はどうであったか。ユダは己を恥じて西洋蘇芳すおうの枝から吊り下がり、世紀の大罪を自殺という形であがなった。

 また、エジプトシナイ山にある聖カタリナ修道院には『天国の梯子』という、修道士が昇天する様子を描いた古い聖像イコンがあり、その画には天界のキリストに迎え入れられる修道士とは対照的に、黒い数体の悪魔に首を括られ梯子の途中で容赦なく堕とされていく修道士達も見える。

 直樹はユダやイコンの修道士同様地獄へ直下するため、天国へ伸びる梯子を上がっていった。

 五段目、六段目、そして七段目を数えた時、正にその七という正数を口にした時であった。ここで予想外の、思いも寄らぬ異変が起きた。

 突然パキッという微音に伴い右足が空虚を踏み、そして忽ちバランスを崩した直樹は梯子と共に勢いよく三メートルの高さから地面に倒れ落ちてしまったのである。

「いてて──何だ」

 一体全体何がどうなったのか分からない。

 よろめいて立ち上がった直樹は石畳に直で打ち付けた背中と、右頬骨に激しい切り傷の痛みを覚えながら梯子を確認した。

 見ると七つ目の横木は真っ二つに折れ、木片の左側は釘にぶら下がり、外れた右側は釘先が剥き出しになって直樹の右頬を縦長に切り裂いていた。

 脆い梯子だから体重で折れたのか、と思量したが、外れた横木を手に持ち、断面を眺めてみるとやがてある現象に気付いた。

「あ、あ!」

 直樹は突如凍り付いた。折れた木の芯は微かに新しいが、染みで滲んだ周囲は明らかに過去の疵を示していた。

 則ちこれは以前にひび割れていた事への明らかな証拠であった。

 十歳の、昆虫採集の記憶が瞬く間に蘇った。

 倒れて庭石に当たった時、六メートル梯子の中心が折れたのである。であれば天地を逆さまにしても降りられない。まして横木の間隔は子供には広過ぎた。もしあのまま知らずに梯子を降りていたら今のように横木が折れて、頭から固い地面に落下し、大事故になったかもしれない。

「──まさか、嘉樹は」

 生傷に手を当てた直樹は震える胸で顧みた。

「俺を樹に残して帰ったのはアルミの繰り出し梯子を取りに行ったのか」

 それならばどうしてこの木の梯子を置いていかなかったのだろう。

 と、ここでふと脳裏に過ぎるものがあった。二叉樫の枝に乗る幼い嘉樹が面影に立った。

「この樫は登ったらあかん御神木だけどのん、直と俺の秘密基地だで」

 凝り固まっていた疑団が一度に氷解した。

 天然記念物に登ったのが知れると手酷く叱られるのは目に見えていた。だから目立たないよう木の梯子を一旦持って帰り、後でこっそりアルミ梯子を持ち出そうとした現場を母に見付かり、玄関で問い詰められていたのである。

 だが、嘉樹は決して口を割らなかった。

 二人だけの秘密基地を誰にも話さないと腕を絡め、つがえたあの他愛ない約束を守るために。

 思い起こせば「ざまあみろ、戯け」と捨て台詞を吐いたのではない。

「そこで待しとれ(待ってろ)。助けたるで」

 嘉樹の口は確かにそう動いていた。

 オチルコトハアイスルコト。タマシイヲナゲウツコト。

 翼を畳んだルシフェルは梯子を登っているのではなく、与えられた幸せの全てを手放し、羽をもがれて悪足掻きする蜻蛉を暗闇から救うために、光を掲げて降りてきていたのである。

 嘉樹がずっと言い損ねていた言葉が再度幼い幻影を通して直樹に伝わった。

「俺とおしは同じ時に産まれた双子だで、この樹みてえに同じ血を持つもう一人の俺だで。俺はおしでおしは俺だん。ほいじゃあ、いつも一緒ら」

「──戯けら、嘉、おしは戯けら」

 直樹は樫を拳で何度も打ち付けた。溢れた涙が頬の血を薄めていた。

「その通りじゃんか。ほんなら何でおし一人しとりで怒られる。怒られるんなら一緒に怒られりゃええら。俺んとう双子じゃん、同じ樹の片割れじゃんか。おしは戯けだん、ええかっこし過ぎだん、このど戯けが、嘉のど戯けが」

 子供の頃消えてしまいそうに感じたのは、何処か遠くへ飛び去ってしまいそうな翼を持ったもう一人の自分であった。兄も弟も、光も闇もない、たった一人の生命の分身であった。

「すまん、嘉、すまん!」

 取り返しのつかない悲しみに直樹は幹にしがみついて泣き崩れた。

「主文。被告人を死刑に処す」

 唐突に幹の陰から声がした。慟哭どうこくしていた直樹は堕涙した面を向けた。

「やっぱりここだと思った」

 瑞樹はことづかった手紙を右手に握り締め、それを直樹へ投げ付けた。

「何これ、これでも遺書のつもりなの」

 クシャクシャに皺寄った便箋には「地獄の底へ堕ちるべきは嘉でなく俺だった。さようなら」の一行だけが書かれていた。

 直樹は目をつむった。

「早く死ねば」

「──え?」

 直樹は妻を見上げた。瑞樹は落ちていたロープを手に掴んで直樹の足下へ放り投げた。

「さっさと梯子に登って吊り下がればいいじゃない。そうよ、みんな勝手に死ねばいいんだわ。そうすれば私も後で死ぬから。早く立ちなさいよ。今、判決を下したでしょ。司法と貴方は人を大勢殺した。嘉もお義父さんもお義母さんも、そして私の赤ちゃんも。今度は私まで」

 直樹はゆっくり起き上がり睨む妻の前に歩いた。

「五人も殺せば立派に死刑の量刑に入るでしょう。ほら、あれ程廃止すべきじゃないって主張していた刑罰で貴方自身が死ねるのよ。何してるの、さっさと望み通り死刑台に上りなさいよ。一家皆殺しの罪で私が執行に立ち会ってあげるから。上りなさいよ、さあ、上りなさいよ」

 瑞樹は悔し顔を涙で濡らし何度も何度も直樹の胸板を叩いた。

「貴方が死んで私一人生きていられる訳ないじゃない。誰も彼もみんな死ねばいいんだわ。だから、死になさいよ──ほら、死になさいよ、死になさいよ」

「すまない、瑞樹。赦してくれ」

 直樹は潤んだ声で強く抱き締めた。

 瑞樹もその胸に寄り掛かり、枯れ果てるまで泣いた。

 そして強風が二人の嘆きに呼応するよう、二本の幹の葉をいつまでもザワザワと鳴らし続けていた。


 それから翌日、直樹は報道関係者に囲まれる中を通り抜け、名拘に辞表を提出した。

 名古屋の秋には珍しく、雲一つ無い澄み渡った晴れ空が太陽の光で眩しく輝いていた。

 暗黒を彷徨さまよっていた椰子の実が夜明けを迎えた白浜にやっと漂着した。そんな清々しい気に満ちた直樹は、退職手続きを終えると今や遅しと待ち構えていた記者の群れに向き、決意を固めた顔で一歩一歩静かに歩いていった。

「皆さん、私は逮捕される事を前提に、これより重要な機密を全てお話し致します」


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