贖罪 Ⅱ
間もなく後片付けが終了すると、間宮の執行にかなりの時間を要したため、少しの休憩も置かず後半の支度がなされた。別室で待機していたジョゼフが教誨室へ招かれ、用度課長によって、箱を回転させるだけの安易な造りの祭壇は既にキリスト式へ模様替えされていた。
百合の花が活けてある二つの花瓶の間にはイエスの磔刑が彫られた大振りの十字架とマリア像が配置され、燭台には細長い蝋燭が灯っていた。
ジョゼフは白く透いた
祭服やストラの色はミサによって決められている。緑は日常の色であり、白は喜びの色で大きな祝いの時に、紫は悲しみの色で死者のミサに使ったり、また待降節や復活祭の準備時期に着る。そして赤はイエスの受難や殉教者の記念日などに使用される。
ネクタイを締めた直樹は暫くすると所長に呼ばれた。ボタン兼任は了解らしく、再度の連行を言い付かった。
「今度は竹之内を呼び出してほしい。既に執行を告げてあるそうじゃないか」
直樹は臍を曲げている柴田と素知らぬ顔の村上を瞥見した。どうやら昨晩村上は独断専行で言い渡しを行ったようであった。
「先程村上君経由で伝言を言付かった。君と藤倉先生に房へ迎えに来て欲しいとな」
柴田は懐から一枚の便箋を差し出した。確かに紙上には嘉樹の筆跡で、「執行前に対談がありますから、正担当とジョゼフ神父を九一七房へ上げて下さい」と書いてあった。
柴田はロレックスのガラス面を叩いた。
「何の申し出かは知らんが手短に頼むぞ。時間が押している。間宮みたいに暴れやしないだろうが、これ以上遅滞無きよう一応小幡君を同行させたまえ」
「畏まりました」
直樹は素早くジョゼフと小幡の三人でエレベーターに乗り込んだ。
“I don’t expect you’re chosen to be a hangman”
突然ジョゼフは直樹を英語で非難した。まさか兄弟の貴方が執行官になっているとは、との陰鬱な面相に、直樹は外したサングラスをポケットに入れながらラテン語で答えた。
“
神父は「えっ」と驚きを表した。直樹は続け様に呟いた。
“
「何だ、直樹、何を喋っている」
気色ばんだ小幡に直樹は「何でもありません」とそれきり口を噤んだ。
旧約聖書偽典ヨベル書ではエサウはヤコブと戦いヤコブに殺されている。直樹が自ら執行官を志願したと知ったジョゼフは相容れない二人の深遠な因縁に胸で十字を切った。
九一七房に着くと、嘉樹は黒のズボンと白いワイシャツ姿で既に身の回りの物を一つに纏め、部屋の中央で静かに正座して待ち受けていた。そして小幡を見て言った。
「ここのものは一切廃棄してもらって構わない。ロザリオは刑場まで持っていくが聖書とマリア像は神父にお返しする。領置金は竹之内の親父さんに返還してくれ。書面は面倒だ。遺言もない。小幡さん、部長に伝えておいてくれ」
警備隊長は黙諾した。次に嘉樹は直樹へ顔を向けた。
「これから神父と二十分程信仰に関しての告白がある。二人とも外してほしい」
「こんな土壇場になって何だ。保安上許可出来ない」
直樹は警戒の念を剥き出しにした。以前嘉樹が断言していた「法治国家の慢心を粉砕する」とは何者かを人質に取り、拘置所を抜け出し刑の時効を得る手口に違いない。
意地でも二人きりになるのを阻止しようとする直樹の心中を嘉樹は即座に見抜いた。
「この期に及んで逃げるつもりはない。言い尽くせば連行されよう」
「いいや、もう煮え湯は飲まされんぞ。二度と置き去りにされてたまるか」
嘉樹はその怒りに黙った。それでも神父との対話を諦めず今度は小幡に頼んだ。
執拗な懇願が続き、小幡はやがて折れた。
「直樹、少しだけなら構わんだろう。所長も容認しているし、
そうです、とここで口を挟んだのはジョゼフであった。
「私に危害を加えるつもりならこんな警戒時より個人教誨の方がやりやすかったはずです。ペテロに脱走の意思などありませんよ。懺悔ならば聴きましょう。もし私に何かあっても気にせず任務を遂行してください。私は教誨師に選ばれた時から命は神に預けています」
気になっているのは責任ではなく理解不能な行動であった。告白も今更であるし、仮に
「分かった。但し猶予は十五分、いや十分だ。異存は無いな」
制限付きの承認に嘉樹は「充分だ」とジョゼフを房内へ導き、扉を閉めた。
地下の上官らへ電話で状況を伝えた後、直樹達は用心のため出来るだけ房扉近くで待機していたが二人の声は低過ぎて、時折神父の狼狽えた様な呻きが微かに洩れただけでそれ以上は聞き取れなかった。
そうして約束の時間が過ぎようとする頃、房からジョゼフが足を踏み出した。
「もう済んだな?」
直樹は神父の肩越しに房内へ声を掛けた。嘉樹は頭を下げたが、その
「ジョゼフ神父、
「誰にも、何も語らない。告白とは神との取り決めでしょう」
「──ええ、そうですね」
嘉樹と再度向き合ったジョゼフは一度大きく息を吐くともう何にも触れなかった。
「時間だ。行くぞ」
腕時計で遅れを示した直樹は出房を促した。すると嘉樹は直樹を指差した。
「後はお前に話がある」
「俺に?」
「一分も掛からん。神父と小幡さんは外で待っていて下さい」
勝手に指示を出され、差し向かいで兄弟二人きりになった房の空気は今までの中で最高に殺伐としていた。直樹は苛立って急かした。
「何だ。さっさと言え」
「お前は無いのか」
嘉樹は直樹の目前に寄ると瞳を凝らした。貫くような鋭い眼差しであった。
「何故黙っている。直、お前からは何も話が無いのか」
「今更何を話せというんだ。用が無ければもう行くぞ」
合夏帽の
「な、何しやがる、この野郎」
突然の攻撃を食らい、背中を壁に打って倒れた直樹は防御の両腕を上げ、怒り心頭に見上げた。ところが嘉樹は拳を降ろし、「戯け」と小さく言い下しただけで二発目は無かった。
「どうした、直樹、大丈夫か」
駆け付けた小幡が片膝で立つ直樹に訊いた。
「何でもありません。足を滑らせただけです」
切れた口元の血を拭うと、直樹は落ちた制帽を拾い上げ、嘉樹に手錠を掛け廊下へ出した。
全てを察していた階は先程と違い不気味に静まり返っていた。主宰が処刑されると知り、衝撃以上に悲しみが大きいのだろう、あちこちから啜り泣きが聞こえた。
嘉樹はエレベーターへ歩を進めたが、思い付いたように九一三房の前で立ち止まった。
「教授、先程のはロバート・ブレアの詩ですか。良いですね。冥土の土産に私にも一つお願い出来ませんか」
「もちろんですとも。貴方には数え切れない程親切にして頂いた。先日の、あのバッハの生演奏を神父様に頼むよう教えて下さったのも貴方です。本当にありがとう」
小フーガト短調は嘉樹からの間接依頼であった。
直樹は隣に立つジョゼフを一見した。悲しげに微笑んでいた。
「しかし、嘉さんに朗読だけで数々のご恩を返せないのが返す返すも残念です」
「私にはそれが一番の
「そうですね、折角ですから
坂巻は畳に正座すると房扉に向かい粛として朗唱し始めた。
「月影のヒースの原、淋しい川原、羊が草を
向こうの四つ辻のすぐ近くでそのむかし 絞首台がよく鳴り響いた。
むかしあのあたりで、うかつな羊飼いが 羊たちを遊ばせていた、月あかりのもとで。
そうして、ほの白く光る羊たちの中に 死者は高々と宙に立った。
いま絞首刑はシュローズベリの監獄でやる。汽笛がわびしく鳴り、
汽車は夜通しレールの上でうめき、あした死ぬ男たちの耳をうつ。
今夜シュローズベリの監獄で眠る者も、ことによると眠れない者も、
外に眠るたいていの若者より もっとりっぱな連中なのだ、順境だったなら。
処刑人が結ぶ首吊りの縄に向かって 明快に朝の時計は鳴り、
縄で窒息などするよりもましな事に用いよと 神様が作られた首を呼び込むだろう。
命の絆はいきなり切れ、二つの踵が死んで宙に立つだろう。
大地を踏みしめる若者に劣らない まっすぐな奴を支えていた踵だ。
ここで僕は一晩寝ずにいて 朝日の輝くのを見よう、
彼は朝八時を打つ音は聞こえても、九時を聞くことはないのだから。
この友人に安らかな眠りを祈ってあげよう、
百年前、月あかりに羊を遊ばせた あの知らない若者と共に」
「有り難うございました」
嘉樹は聞き惚れていた瞼を上げ礼を述べた。
「でも医学的に可能であれば私の角膜は、教授、貴方に差し上げたかった。無実で出所し、浦島太郎になってでも今の世の中をもう一度見てもらいたかった」
嘉樹の残念そうな声に坂巻は笑った。
「ははは、このごま塩頭に玉手箱は不要。眼でしたらキリストに直々明けてもらいますから御心配無く」
「ふふふ、教授らしい」
「それより嘉さん。いつの日にかあの世で私と一杯酌み交わしましょう。地獄で裁かれる真犯人を肴に」
直樹は罪悪感で胸が痛んだ。
嘉樹はその提案を笑い飛ばした。
「私は
そうすると教授は、
「
と付言した。その一節はキリストと共に十字架に掛けられ、改心した罪人へキリスト自身が語った台詞であった。嘉樹は嬉しそうに「アーメン」と唱えて坂巻の房を離れた。
「嘉さん!」
今度は九〇五房から呼び名が飛んだ。石動の前で踏み止まった背中を直樹は突いた。
「もう時間がない。前進しろ」
急き立てられたが嘉樹は悠然と話し掛けた。
「ヨナさん、筆跡で冤罪投獄されたドレフュスは後に釈放され、レジオンドヌール勲章まで受賞して最後に再審無罪を勝ち取ってます。ヨナさんも諦めず信じていればきっと奇跡は起こるはずです。再審開始決定は未だ取り消されていない。頑張って下さい」
「ありがとう、嘉さん」
「じゃあ、いつかまた」
「あ、待って下さい」
石動は歩き出そうとする嘉樹に声を絞り出した。
「神は、真の神は真実を解き明かし濡れ衣を晴らしてくれるんでしょうか」
無信仰の石動が神の名を発した。怪訝に直樹は視察孔へしがみつく目を注視した。
嘉樹は手錠の両手を振り、歩きながら答えた。
「『賢い者の律法は命の源であり、それは人を死の罠から遠ざける』。司法のプライドで傾いたままの天秤を直すようあの世で頼んでおきますよ。では皆さん、お達者で」
嘉樹はクラウド・ナイン全体に届くよう大きく留別を投げた。
ひたすら嘆くばかりで誰も返事をしない住人の中を通り、直樹はサングラスを掛け、地下へ直行するエレベーターのボタンを押した。
後半の執行は粛々と進行していった。刑場の扉を無抵抗で素直に潜った嘉樹は廊下で待っていた所長と対面した。
「今日でお別れだね」
威風堂々と立つ嘉樹に柴田は手にしていた執行指揮書をポケットに収めて目を細めた。そして所長なりの配慮なのか、いつもは隠れている執行官数人も姿を現していた。
「色々とご面倒をお掛けしましたが漸く終わります。まあ、九階の今後に後顧の憂いがありますが何とかやってくれるでしょう」
手錠と腰縄を外された嘉樹は自由になった両手を振った。
「君は徹底してクラウド・ナインの住人なんだな」
と、溜息を吐いたのは村上であった。嘉樹は片笑みを浮かべた。
「あそこは居馴染んでしまいましたから第二の故郷ですよ。離れるのは少し淋しい気もします」
「いいえ、今度は本当の故郷へ帰るのですよ」
教誨室の前でジョゼフが手を差し伸べた。
「さあ、どうぞ中へ。召命の真理を差し上げましょう」
そうして嘉樹は十字架が安置してある祭壇へやってきてソファーに座った。
直樹はその時ジョゼフのストラがいつの間にか紫から赤に変わっていたのに気付いた。血に染まった罪の子を意識したのだろうか、自然とクリムゾン神父の一挙一動に注目する形となった。
ジョゼフはラテン語でなく英語の聖書を手にしつつ、目を閉じ暗誦した。
“Be merciful unto me,O God,be merciful unto me; for my soul trusteth in thee: yea,in the shadow of thy wings will I make my refuge,until these calamities be overpast.
Do ye indeed speak righteousness,O congregation? do ye judge uprightly,O ye sons of men? Yea,in heart ye work wickegness;ye weigh the violence of your hands in the earth.
I shall not die,but live,and declare the works of the LORD.The LORD hath chastened me sore:but he hath not given me over unto death.Open to me the gates of righteousness:I will go into them ,and I will praise the LORD:This gate of the LORD,into which the righteous shall enter.
If thou forbear to deliver them that are drawn unto death,and those that are already to be slain;If thou sayest,Behold, we knew it not;doth not he that pondereth the heart consider it? And he that keepeth thy soul,doth not he know it? And shall not he render to every man according to his works?
If thou draw out thy soul to the hungry, and satisfy the afflicted soul; then shall thy light rise in obscurity,and thy darkness be as the noonday:And the LORD shall guide thee continually,and satisfy thy soul in drought,and make fat thy bones:and thou shalt be like a watered garden,and like a spring of water,whose waters fail not.And they that shall be of thee shall build the old waste places:thou shalt raise up the foundations of many generations;and thou shalt be called,The repairer of the breach,The restorer of paths to dwell in”
(私に恵みを示してください。神よ、私に恵みを示してください。私の魂はあなたのもとに避難したからです。私は逆境が過ぎ去るまで、あなたの翼の陰に避難します。
あなた方は沈黙していて義について本当に語れるのか。人の子らよ、あなた方は廉直に裁けるのか。それどころか、あなた方は心に従って地上で公然の不義を行い、その手の暴虐のために道を備える。
私は死なない。却って生き続けるであろう。ヤハの
死へ連れ去られる者達を救い出せ。よろめきながら、屠り場に行く者達を、ああ、あなたが彼らを引き止めるように。あなたが『ご覧ください、私達はそのことを知りませんでした』と言っても、心を見定めておられる方がそれを見分けられないだろうか。またあなたの魂を見張っておられる方がそれを知り、地の人にその働きに従って報われないだろうか。
飢えた者にあなた自身の魂の願望を叶えてやり、苦しんでいる魂を満足させるならあなたの光もまた、闇の中にあっても必ず
(随分変わった説教だ)
直樹は最期にはむしろ不向きで難解な節に首を傾げた。しかし、ジョゼフの与えた祈りにより嘉樹は心なしか満ち足りた感じを受けた。それから神父は祭壇にあった金色のカップから取り出した
間を置かず村上が饗応の供物を差し出した。
「ほら、ご所望の品だよ、竹之内君」
それはチョコパイと酢こんぶであった。直樹ははっとその駄菓子を見遣った。
嘉樹は直樹を一瞥し、先ずパイを三口で食べ切り、続いてこんぶを二枚口にした。
「うーん、これは結構甘いし酸っぱいな。子供の頃はもっと美味いと思ったんですが」
「ははは、君らの時代でも珍味への憧れは強かったろう。舌が肥えたか、味覚が変わっただけだ。幼き頃のものが最上だったなんてのは一種の幻想だよ」
「ならばこれを口直しにどうかね。村上君の依頼で用度課長が探してきたゴロワーズ・レジェールだ」
柴田はスーツの内ポケットからライトブルーの煙草を渡した。嘉樹はそこから一本抜き取ると柴田のマッチで着火し、深々と味わい、感慨無量な面持ちで煙を吐き出した。
「はあ、やはり大人の菓子は煙草に限る」
先程の反動もあるのか、これには直樹と神父を除く全員が爆笑した。
そうして嘉樹は根本までじっくり吸い切り、フィルターを携帯用灰皿に押し入れ、柴田へ向いた。
「所長、暑いんで服を脱いでもよろしいですかね」
「ああ、構わんよ」
これだけ穏便に応じてくれた礼として快く柴田は了解した。
嘉樹は立ち上がり、前室へ入ると上着を脱ぎ背中の堕天使を露わにした。次いでロザリオを右掌に巻き付けると皆を見渡し徐に切り出した。
「さて、移植患者も待っていますし、そろそろ始めましょうか。角膜は夏場の場合死後六時間持ちますが、腎臓は一時間がタイムリミットなのでさっさと終わらせましょう」
賑々しく笑んでいた刑吏の顔がきっと引き締まった。間宮の処刑で狼狽していた若者も二度目となるとさすがに腹を括り、柴田の無言の合図で一斉に所定の位置についた。
ジョセフは執行室の隅で掌を組み、「主の祈り」をゆっくり繰り返し呟き続けていた。
「天におられるわたしたちの父よ、み名が
み国が来ますように。みこころが天に行われるとおり
地にも行われますように。わたしたちの日ごとの糧を
今日もお与えください。わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。国と力と栄光は、永遠にあなたのものです──」
現場は大詰めを迎えた。
これでとうとう積年の遺恨に決着が付く。ボタン室へ急いだ直樹の血流は速まった。そして先程の位置を伊南村へ譲り、躊躇いなくアトロポスのボタンの前に陣取った。二つ並んだ左が本命である。
準備が整った直樹は堤を見た。
「えっ」
驚いた。そこには首席でなく処遇部長が立っていた。
村上は直樹がボタンを選択し直したのを確認し、冷然たる眼差しで見下していた。
それでも直樹は視線を逸らさなかった。第三者にとやかく責められる筋合いではないし、双子に産まれてから幾度となく繰り広げられた確執にやっと終止符を打てるのである。何より嘉樹は貴い生命を四つも消し去り、遺族の人生を崩壊させている。それは万死に値する。
手を血で汚さない清潔なはずの絞首刑の実態が別物と知ったが、嘉樹だけは絶対に自分の手で葬りたいとする気持ちが村上の侮蔑より遥かに勝っていた。
程なく村上は咎めを諦め、眼を刑壇場へ転じた。中では目隠しと手錠を掛けられた嘉樹が踏み板の上に立っていた。
意を決した部長の左手がすっと挙がった。
ランプの緑色が瞳に映った直樹は壁を突き抜く勢いでボタンを押した。
ミカエルの振り下ろした剣はルシフェルの右脇腹を
直樹は嘉樹が奈落の底へ落ちるのを待った。
ところが空気音一つせず、俄に執行室が騒然となった。
「村上君」と、所長の尖り声が微かに聞こえた。村上は直樹を鋭く見つめ、もう一度左手を挙げた。皆はこの時になって初めて何が起きたのかを知った。
踏み板が落ちなかったのである。四人は慌てて再びランプの点いた黒ボタンを押した。
だが、落下しなかった。本物のボタンを直樹は躍起になって六回も七回も押したが反応しなかった。設備点検は用度課長が念入りにチェックしていて間宮の執行時は正常に動いたのだから接触不良とは考えられない。
ボタン室はより慌ただしくなった。実は停電や機械が作動しない場合を想定し、ボタン室の床には、踏み板と一直線上に繋がった小さな箱に覆われた手動レバー(非常ハンドル)が備え付けられている。ボタンで踏み板が外れなければ従来の慣行に従い、レバーを手前へ倒し、落下させるよう予行練習でも数度訓練があった。
レバーを引くのはリハーサルで縛られ役として協力していた別所久司が担っていた。
別所はボタンが誤作動を起こしていると知らされるや、訓練通り早速安全弁を外し、レバーに手を掛け手前へ力を入れた。にも拘わらず仕掛けは一向に作動しなかった。別所は顔を真っ赤にして息んだがびくともしない。
手錠担当の佐竹は青ざめた。死刑執行はどんな天変地異が起きようとも決められた期日に敢行せねばならない鉄則がある。レバーが動作しなければ残る手段はたった一つ、自分と警備隊長の二人で布を使い首を直に絞めるしかない。
気を揉んだ佐竹も加わり三人でレバーを前後に揺らしたが
小幡もいよいよこれで始末を付けなければいけないと、脇に置いてあった白布を取った。
その時、突如現れた一人の刑務官がレバーに掛かる腕の群れを振り払った。
「喜多野主任代理!」
三名は強引にハンドルを掴み取ったサングラス刑務官を見上げた。直樹は無我夢中で三人の間へ割り入って、越権行為ではあるが自らがレバーを握った。
「直か」
扉越しに嘉樹は直感で言い当てた。
直樹は何も答えずレバーを握る右腕だけに気を凝らした。
胸中にはミカエルがルシフェルを非難する『失楽園』の文章が流れていた。
「かつては正しくかつ忠実であった幾千幾万の者に叛意を注ぎ込み、今のような背信の
「直よ、お前はあの梯子を登れ。天まで伸びるあの梯子を」
嘉樹は叫んだ。直樹は背中で嘲笑うルシフェルへ向かい、
「黙れ、悪魔め、地獄に堕ちろ!」
と、ハンドルを力任せに叩き倒した。
梯子は古くから絞首刑の道具であり、その下を潜るのは不吉だと忌み嫌われている。しかし、ヤコブの夢でみた梯子は、彼の子孫繁栄を約束した神が掛けた天使の梯子で、災いをもたらす悪魔が登れる梯子ではない。
するとあれ程開放を拒んでいた踏み板が途轍もない勢いで外れ落ち、スローモーションで嘉樹を飲み込んでいった。
刑場の揺れを感じた直樹は押し倒したレバーから立ち上がると執行室へと向かい、四角の穴をゆっくり覗いた。そこには吸い込まれそうな深淵の闇が拡がり、何故か脳裏にヤセの断崖が浮かんだ。
「ガハッ、ゴホッ、ゴホッ」
立ち所に直樹は総毛立ち、訳も分からず苦しくなった喉仏を押さえ異常に咳き込んだ。
肺胞の一つ一つが押し潰される息苦しさと、焼火箸を口に突っ込まれたような痛みがいつまでも咽喉を掴んで放さなかった。
「主任代理、大丈夫ですか」
別所は咳が治まってきた直樹に肩を貸した。
「──執行は」
必死に起き上がった直樹は嗄れ声で訊いた。
「たった今ロープが外されました。これからストレッチャーに移される模様です」
直樹は覚束ない足付きで階段を下りた。担架に乗せられた嘉樹の顔には白布が被せてあり、冷たくなった
「合掌くらいしても罰は当たらんだろう」
村上は硬い口調で弔意を表さない直樹に言い放った。
所長を始め、総務部長や医務課長、そして小幡でさえ軽蔑と哀れみを
こうして安息の儀式が手早く済むと医官は地下一階の扉から、既に臓器摘出チームが待ち受けている地上一階への通路に亡骸を急いで運んでいった。
そうしてから柴田は執行に関与した刑務官全てを一階の前室へ集めた。
死刑執行始末書に押印署名され役割を終えた検事の姿はもう無かった。
「ご苦労様でした。多少の滞りはありましたが、二件の執行は無事済みました。諸君の任務はこれにて終了です」
柴田は用度課長へ、全員に清めの塩を振り掛けさせ、紙コップの身洗い酒を配らせた。
皆は一気に飲み干したが口数は少なかった。柴田は努めて場を明るくしようとしたものの、執行の重荷がとてもそうさせず、特に間宮が放言した断末魔の呪詛を聞いているだけに心は重かった。
静まる部下へ解散を命じるしかない柴田も後味が悪かった。
毎度ながら損な役回りだとつくづく思う。刑務官にとって一番尊厳を損なうのが死刑の執行業務である。制度の是非は別として采配を取った己が一番の悪党に感じるし、幹部は平の執行官と違い明日からも仕事がある。何の気晴らしも出来ない柴田は村上と総務部長の柏木に後を任せ、刑場を、まるでぬかるんだ泥の中を歩くような足取りで鬱々と出ていった。
村上とて嘆きは同じであった。柏木にしても、出世しようが平のままでいようが死刑に関わった者は全て同罪なのである。村上は気が差す一同を見渡し、深々と頭を下げた。
「みんな、辛い苦しみによく堪えてくれた。ありがとう」
端的で深い労いであった。
と、ここで柏木が時を移さず封筒を一人一人に分け始めた。
表には「特殊勤務手当」とのゴム印が押されてあった。人事院規則で定められた、死刑執行の即金、則ち報酬であり、不支給の幹部職員以外の皆は封筒の中身を何気なく覗いた。
手の切れるような福沢諭吉の顔が二つ重なっていた。
作業一回につき二万円が支給されるが、二回の任務に就いても「手当の額は同一人の手当の額は、一日につき二万円を超えることができない」という人事院規則で増やされることはない。
直樹は急に情けなくなった。法務省はあの衝撃的な体験を二万の現金で忘れろというのである。
そしてここになって村上が先日話した「絞首刑が正義でない事を体認する」との予告をやっと痛感した。
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