第七章 贖罪

贖罪 Ⅰ


 二〇〇四年九月十六日、木曜日。午前九時過ぎ。

 窓を開ければ心地良く澄んだ微風が流れ込む秋空の下、厳重を極めた薄暗い地下室で手筈を整えていた死刑執行官一同は、物音一つさせず間宮を待ち構えていた。

 誰もがまんじりともせず朝を迎えたが、切迫した空気に咳一つ出ない。

 死刑囚の末期に接点を持つ人間は限られている。連行する警備隊、立会室で待ち受ける所長、処遇部長、総務部長、首席、立会検事、検察事務官、教誨師、そしてカーテンの陰に隠れている医官と刑務官である。

 中でも所長は即時言い渡しをする一番の役目であった。

 一昔前までは死刑囚本人に予め執行日を告げていたが、現在では当日、房かもしくは刑場で宣告する。それから刑場で遺書を書かせ、最後の教誨を授け、執行する。

 執行官の人選も似て非なるが、やむなく拝命せざるを得ない。現代日本国の法律で人の命を絶つ役目として公に認められているのは刑務官のみである。断るに断れない威圧感を押し付けられ、逆命するなら昇格断念か長期冷遇の覚悟を持たねばならず、故に選ばれた者は悲壮な決意を抱き、己の中で国家からの厳令という大義を鼓舞して望む。

 必然、否応なしに「悪を裁く正義の鉄槌だ」と反芻はんすうせずにはいられない。

「遅いな、何をやっとるんだ」

 既に膳立ては整っている。しかし未だ主役が到着していない。

 立会室で待機している、死刑執行の指揮権を有する名古屋高検検事と検察事務官の貧乏揺すりを横目にして柴田は苛立ちを極限まで抑えていた。

 地下室は密閉されているが立会室は防音になっているため音声は聞こえない。しかし、焦りに踏みならす所長の靴音が準備を終えていた刑務官一同にも聞こえてくるようであった。儀典に従いネクタイを着用した直樹もスケジュールの遅れに白手袋の下に埋まったハミルトンで時間を確かめた。

 長針は数字の3を指していた。

「予行演習を行ったのではないのですか。十五分も経っていますが」

 大きく開いた吊り目の総務部付き検事、漆原傑は時計を見ながら極端なおちょぼ口で呟いた。

「は、申し訳ございません。今暫くお待ちを」

 柴田は額の汗をハンカチで押さえながら答えた。

 死刑執行に立ち会う検事は刑が確定した裁判所に対応した検察から派遣される。間宮も嘉樹も確定は名古屋高裁であるから高検検事がこうして出向いてきたのだが、何せ態度が横柄で、隣に黙って控える、執行始末書を作成する事務官も不遜な印象は拭えない。

 執行現場は初めてで、立ち会いなどクジで負けて仕方なく来ていると零された漆原の愚痴に、威儀を正し出迎えていた立会一同は眉を寄せ、このカマキリ検事が、と心の中で反抗していた。しかしそれだけではない。検事は本来執行終了まで閉じられているカーテンを開け立会室からも全てを眺められるようにしておくよう指示していたのである。執行がどのような手順で行われるか興味で観察したいとの注文であった。

 執行現場は見世物ではないと刑務官達は内心怒りが湧き上がった。

「しかし、本当に遅いですね。一度連絡を付けさせましょうか」

 時間を再確認した村上がボタン室の壁掛け電話機へ向かおうとした。

 その時である。

 地獄の門がゆっくり軋む音を立てた。

 すわ、来たかと全員に緊張が走ったが、案に違い現れたのは相馬一人であった。

「おい、間宮はどうした」

 検察が作成し当日手渡された「死刑執行指揮書」を準備した柴田は拍子抜けした。

 すると相馬はしどろもどろに連行の難しさを訴えた。どうやら異変を勘付かれたらしく、柴田から馬鹿者とか、不甲斐ない奴だとの大叱責が飛んだ。

「喜多野君、ちょっと来てくれんか。所長がお呼びだ」

 堤の手招きに直樹は立会室に向かい、柴田と、自分の腕時計ばかりに目を遣る検事の前で敬礼した。

【四四〇〇番を連れてきてくれ】

 柴田は、淡いイエローレンズを掛けた直樹へ殴り書きしたメモを渡した。

【正か副の担当はどうしたんだと狼藉を働いているらしい。よって連行手順をM2に変更する。危うければEに切り替える。事前に示し合わせた通りだ。判っているな】

 MとはManeuverマヌーヴァー(策略工作)、EとはEnforcementエンフォースメント(強制執行)の頭文字で柴田が造った連行案の符丁であった。

 元来名拘の正担当は執行に関与しない了解がある。他の拘置所や刑務所のように首席が呼びに行く手もあるが、死刑囚舎房に姿を見せない首席が突然現れれば余計警戒するのは間違いない。しかも、今回の九階は限定人事で、連行役は満足に揃っていなかった。又、直樹が参加する事で柴田は急遽警備隊幹部と案を練り直した。M1、つまり第一案は相馬が、第二案は直樹が、そしてE案は警備隊による強制連行である。

 柴田は警備隊長も呼んだ。

「小幡君、君達は手抜かり無いようEで備えておいてくれ。だが、いいか、可能な限り穏便に頼むぞ」

 今日は代務が出勤のため鮫島は休日となっていた。故に怪しまれる理由は万に一つも無いが死刑囚の危急を感じ取る第六感が動揺を見抜いたのだろう。

 大体誰でも大人しく連行される訳ではないし、そもそも心情安定基準が漠然としている。

 法務省は拘置所からの報告だけを一方的に待っているのでなく、いつも「次の執行候補を挙げろ」と突いてくる。拘置所は仕方なくゼロ番区から選出しなければならないが、安心立命の境地に到達させるには時が掛かるし、死刑囚は感情の起伏が激しいため前日に落ち着いた素振りを示しても翌日には狂乱して暴れ回る。まして執行となれば心騒がぬはずがない。

 直樹はBへ誘う手段として、教誨師の本山住職へいつもファッションカタログを用意させ、ブランド好きの間宮を食い付かせた。これで一応教誨を受けた体裁は整ったが、法談には全く耳を貸さず俗世の垢は溜まったままであったので真義の心情安定からは程遠かった。

 直樹と小幡は共にエレベーターに乗り込み、精鋭である二人の警備隊も同行した。

「こういうのが一番厄介だ。手負いの獣と同じで一筋縄ではいかん」

 小幡は上がっていく数字のランプを睨み付けた。直樹もサングラスと手袋とネクタイを外しながら九階へ近付く光を眺めた。

 時間は異様に長く感じられたがやがて扉は開いた。

 警備隊が別のエレベーターの陰へ身を隠すと直樹は、相馬の代わりに担当台についていた阿佐田を伴い間宮の房へ向かった。

 第二案がすんなり成功するに越した事はないが無理ならば制圧が必要になる。力尽くで連行するのは誰でも心情的に避けたく、それは全て自分の双肩に掛かっていた。直樹は腹に力を込めつつも少し閉口した顔で九三一房を解錠した。

「おい、間宮。俺は他の仕事で忙しいんだ。わざわざ呼び付けるな。聞いたぞ、所長面接だ。早く出房しろ」

「嘘つくな、僕は面接願いなど出してないぞ」

 間宮は房の突き当たりで体を震わせていた。両手にはいつでも投げ付けられるよう筆記用具が握られており、下手に出ると拙いと直感した直樹は態と冷厳に命令した。

「以前処遇改善をアーベントでなく直接所長に求めていただろう。処遇会議で挙がったお前の要求を所長が取り上げた。だから面談があるそうだ。九階は忙しい。さっさと来い」

「いやいや、そんなまやかしなんかで騙されない。今まで何度も願箋を出したけど梨のつぶてだった。お迎えだ、処刑なんだ。それで呼びに来たんだ。僕は世界を支配する主神サトゥルヌスだ、貴様ら人間如きに殺されてたまるか!」

 反抗の声は叫びに変わった。住人は一斉に窓から覗いて騒ぎ始めた。

 焦った直樹は何か間宮の欲動に触れ、嬉々として出房させる手立てはないかと必死に解決策を模索した。そうすると突然一考が脳裏に浮かんだ。

 直樹は訳ありげに辺りを見渡し、囁いた。

「黙って聞け。確かに所長面接は口実だ。いいか、ヨナさん達の手前公表出来ないが、お前にとって大切な内示がある」

「──内示?」

 人はひそひそ声になると耳を引かれる癖がある。決死に身構えていた間宮は興奮を静めた。直樹の人差し指は床を差していた。

「下で検事がお前を待っている。何故だか判るか。わざわざ拘置所に出張ってだぞ。とても不愉快そうな顔をしていた。柴田所長も面白くなさそうだった。どうだ、これで他の住人に聞かせたくない訳が分かっただろう」

「恩赦だ。無期になったんだね、二笠宮の結婚で僕にだけ大赦が適用されたんだね」

「シッ、静かにしろ。拘置所から出られるんだ。皆を刺激せず普段通りに出房しろ」

 口に立てられた指に間宮は目を輝かせ従順に靴を履いた。

 直樹は身体検査を行い房扉を閉めた。

「こら、よそ見せず前を向いて歩け」

 関心有りげに覗く住人を優越感で見下す間宮に直樹は後ろから注意した。

 思い込みを誘う陳腐な罠ながら間宮が単細胞ゆえ救われた。何とか収まりが付きそうな状況に直樹は安堵したが、よくぞこんな安っぽい手に引っ掛かったものだとも呆れていた。

 ところがここで予期せぬハプニングが発生した。

 エレベーターから盗み見しようと一人の警備隊員がよろめいて間宮の正面に姿を現してしまったのである。

「何で警備隊がいるの」

 直樹は間宮に素早く振り返られ、隊員を睨む表情を不覚にも見抜かれてしまった。

 間宮は直ぐその顔付きを悟り大暴れを始めた。

「やっぱり死刑じゃないか。畜生、騙しやがって」

 絶体絶命に追い詰められた人間の筋力は柔道有段者でも簡単に組み伏せられず、押し飛ばされた直樹は堪り兼ね、警備隊を大呼した。

 間宮は負けじと雄叫びに似た鬼気迫る濁声で咆哮ほうこうした。

 その途端、第三案に則り廊下に大音量で音楽が流れた。

 それは拘置所の流すクラシックCDで、バッハの「トッカータとフーガニ短調」であった。

(こんな時に何て選曲の悪さだ)

 喧嘩腰の相手を煽るメロディーに直樹は放送係の神経を疑った。

 予期した通り曲に力を与えられた間宮は反抗の腕をぶんぶん振り、捕獲に向かった警備隊の一人は伸ばした手を払われ、一人はあわや殴られそうになった。

 小幡は無言でこちらに視線を送ってきた。直樹はその目配せの意味を量り、体勢を低くし間宮の脇を走り抜けると背後を取り退路を絶った。間宮は直樹の機敏な動きに目を誘われたが、小幡はその陽動の隙を見逃さず正面から果敢に飛び掛かり渾身の力で足を払った。勢いよく倒れた体に残りの二人が馬乗りとなり、手錠を後ろに掛け、捕縄と防声具を嵌めた。

 結局最後は多勢に無勢となり、芋虫状態となった間宮を四人は強引に担ぎ上げた。

 そして正にその時、東の房から音楽に混ざって朗々とした調子が直樹達の耳に届いた。

「ああ、死よ、 

 俗事に惰眠を貪る者にとって、そなたの召し出しはなんと衝撃的なことか。

 彼はこの世の快楽の長い歳月を数えつつ、来世のためにする用意を怠っていたの だ。 

 その怖ろしい瞬間に取り乱した魂は土の棲み家の壁に向かって喚き散らし、

 広い通りを走り、助けを求めて泣きじゃくるが、その声も空しい!

 魂はこの世に残したものを、何と物欲しげに眺めている事か、もはやそれともお別れだ!」

「止めろ、坂巻、静かにしろッ」

 苛立った小幡は声高に注意したが教授はより高い口調で続きを詠んだ。

「ほんの瞬間、ほんの僅かな間だけ、

 魂の汚れを洗い流すために立ち止まり、魂を導いてくれるだろう! 悲しい光景さまかな。

 その瞳には血涙が溢れ、呻き声を上げる毎に魂は恐怖で膨れ上がる!

 だが敵は目的を遂げる。手抜かりのない殺戮者のように、人生の小径を歩むとき、

 こっそりと魂の後を追い、その路を決して見失うことなく、のしかかってくる。

 やがてついにその魂は最後の瀬戸際に来て、たちまち永遠の破滅へと追いやられるのだ」

「いい加減にしろ、坂巻。懲罰に掛けられたいのか」

 小幡は一層の大音声で怒鳴った。だが、怒りに誘発された何者かが喚声をあげた。

「黙れ、人殺し」

 それは忽ち連鎖反応を起こし「人殺し」の大合唱になった。直樹は住人一同にドアを蹴飛ばされた苦い過去にぞっと粟立ち、サングラスを掛け小幡に時計を示した。

「こうなっては収拾がつきません。構わずエレベーターに乗せましょう」

「クソッ、どいつもこいつも好き放題言いやがって。俺達だってこんなの好きでやってんじゃねえぞ」

 E案は何から何まで強引に行われた。

 教誨室の祭壇前に降ろされた間宮は少しも大人しくならず、それどころか部屋に立ち込める線香の煙で凶暴性を倍加し、今にも所長に襲い掛からんばかりの勢いで暴れまくった。

 こうなったら捕縄を外すのでさえままならないし、点検簿の確認や遺書、遺留金の処分方法、別れの儀式なども無意味であった。

「死刑執行指揮書 次の者に対し、別紙判決謄本のとおり死刑の判決が確定したから、平成十六年九月十六日執行されたい。氏名・間宮邦広 一九七六年八月十七日生まれ 二十八歳──」

 強引に前室に連れて行かれた間宮へ柴田は執行指揮書を口早に読み上げたものの興奮する間宮には何も聞こえていなかった。埒が明かず業を煮やした所長は手早く引導を渡した。

「執行!」

 一言で全員所定の位置に散らばり、連行の警備隊は側で待機していた地下一階執行補助の三人へ間宮を引き渡した。

 小幡が敏捷に目を覆えば、佐竹が後ろ手に掛けてある手錠をきつめに掛け直した。続いて全てのカーテンがほぼ同時に開かれ、立会室の所長や検事らは空中の絞縄をじっと見た。

 膝紐は捕縄により省略され、医務課長の鳴瀬は汗の滲む手でストップウオッチを掴んだ。

 教誨室から移動した、袈裟を着た本山は間宮に向かって正信偈しょうしんげを一心不乱に唱え始めた。

帰命無量寿如来きみょうむりょうじゅにょらい 南無不可思議光なむふかしぎこう 法蔵菩薩因位時ほうぞうぼさついんにじ 在世自在王仏所ざいせじざいおうぶつしょ 覩見諸仏浄土因とけんしょぶつじょうどいん 国土人天之善悪こくどにんでんしぜんまく 建立無上殊勝願こんりゅうむじょうしゅしょう がん 超発希有大弘誓ちょうほつけうだいぐせい 五劫思惟之摂受ごこうしゆいししょうじゅ──」

 激しさを増す誦経ずきょうが刑場に異様な緊迫を強いた。

 これで冥土へ送る第一段階は終わったが、今度は間宮が故意に正面から倒れた。慌てて佐竹が防声具を外すと、息苦しさから解放された間宮は目隠しの顔を回し、阿鼻叫喚した。

「このままで済むと思うな。あんたらの顔はしっかり焼き付けたからね。一家眷属、いいや、末代まで一人残らずたたり殺してやる。神をも恐れぬ人間共め、よく覚えておけ」

 ジタバタと暴れ回る間宮に憤然と眉を顰めた検事に気付いた柴田は速やかに定位置へ立たせるよう三人に命じた。それでも間宮は往生際悪く首を左右に振り、ぎゃあぎゃあ声高に喚きながら縄から逃れようとしていた。

 一方、手袋をはめ直した直樹は係の人間と並んでじっと執行ボタンに指を掛けていた。

 健康な人間が処刑されるのだから抵抗するなというのが土台無理である。とはいえ間宮は幼い命を肉ごと食い、その少女達遺族へ反省の欠片すら遂に漏らさなかった。憎しみを抱いた直樹はシニンのボタンへ代わろうとしたが、突然交代すれば皆に怪しまれるため昨日決まった所に結局従った。

 と、そんな最中、側面から酒の異臭が漂ってきた。

 直樹は左を向いた。隣は生真面目者と評判の伊南村宏武である。臭いの元は即時にその隣の五十嵐英彦だと判った。飲酒を証明するように横顔がほんのり赤い。

 朝の職員点検の後、勢いを付けるためにどこかで隠れて飲んだのだろう。直樹は呆れ返ったが今はとにかく堤の動きに見遣った。所長が立会室へ戻ったのを確認した途端、腕がさっと上がり、グリーンランプが点灯した。間髪容れず五人は揃ってボタンを押した。すると、騒々しい声が率然と消え、抜ける空気音と共にトスッという無音に近い落下音が刑場に響き、刑場がグラッと揺れた。

 主任務を終えた直樹達は、胸部聴診のため駆け下りてくる医官の邪魔にならないよう後から二階へ足を進め、薄暗がりに吊り下がった間宮を目の当たりにした。

 地下のひんやりした冷気にも拘わらず固唾を飲んで見守る全員の額からは汗がどっと噴き出した。

 引き絞られたナイロンロープはキリキリと激しく回転し、地下二階執行補助に掴みそこねられた間宮は弓なりになった全身を柔らかいバネのようにくねらせていた。この時点で、間宮の内頸動脈と椎骨動脈は閉塞し、脳は無酸素状態になり意識は瞬時に無くなっているが、生命は極限状態に陥っても本能で最期まで生き続けようとする。伸びきった首の上にある脳は心臓へ酸素を送り込もうと残りの力で肺呼吸を促し、そのため胸だけが風船のように膨らんでは萎みまた膨らむ。折れた舌骨の影響でだらりと舌は垂れ、口と鼻からは血と泡が滴り、股間は失禁と脱糞のためベッタリ染みていた。

 一階から走り降りてきた鳴瀬と、急遽選任された同僚の椋木重道が、笹沢と高橋の両刑務官によって何とか動きを止められた間宮の具合を窺っていた。

 全てのいましめが解かれ痙攣が収まってくると、椋木は眼球が半分飛び出た身体の脈を取った。鳴瀬は胸に聴診器を当てストップウオッチを凝視し続けた。心停止まで十分から十五分掛かる。立ち会っている者からすると気の遠くなる時間である。

 堤は勤続十年が経ったばかりの比較的若い刑務官を執行官に選んだ。それは死刑に慣れさせようとする腹積もりであったが失敗に近かった。全員蒼白になり、満足な息継ぎすら忘れていた。

 中でも五十嵐は酷く、吊り下がる生身を直視した瞬間、コンクリート床でなく内科医の背中に反吐をぶちまけてしまった。

「うええ、何するんや」

 椋木は片腕で慌ただしく白衣を脱ぎ捨てた。皆吐きたくなる気持ちを必死に耐え忍び、むしろ五十嵐の嘔吐は同情を誘った。地下には洗面設備がないので用意していた用具で間宮の糞尿と共に床を掃き清めるしかないのだが、今は執行を完全に終わらせるのが先決であった。

 散らばった汚物と、立ち込める悪臭の中で一同は無言のまま絶命を待った。

 そして九時五十五分、とうとう絶脈と心停止を確認した鳴瀬は監獄法に従い五分後にロープを外すよう命じた。それから階段を上がり、ガラス部屋で執行の一部始終を見届けていた検事と所長に知らせた。

「報告致します。第一回の執行無事終了致しました。時刻は、執行、午前九時四十分、心臓停止、九時五十五分十秒。所要時間十五分十秒であります」

「見苦しい死に様だ。とても不快だね」

 ガラス部屋は防音で刑場の肉声は何も聞こえないが、喚き散らしていた様子は傍目にも分かる。事務官が鳴瀬の復命を執行始末書に書き込んでいる中、労も労わず漆原はハンカチで口元を隠した。

 一瞬柴田は顔を引き攣らせたが、直ぐ追従笑いを作った。

「この次は後腐あとくされ無い綺麗な処刑になりますのでご容赦下さい」

(何をぬかしてやがる、米搗こめつきバッタめ)

 こんな場面に綺麗も汚いもない。鳴瀬は怒りが込み上げてきた。

 二年の任期が終われば国家公務員からの地位も外れ、大学へ戻れるばかりの鳴瀬は、名古屋拘置所へ派遣されたが処刑に関わるとは想像していなかった。だが所長命令では拒否する訳にもいかず、勇気を奮って執行に臨んでいるのに検事は自分の手も汚さず億劫な面持ちで傍観しているだけなのである。

 地下に降りれば椋木による検死が終わり、既に湯灌ゆかんが始まっていた。

 そして簡素な枕経が済むと納棺され、間宮はそのまま隣接する遺体安置所へ運ばれた。

 死刑とは終わってしまえばあっという間だが、記憶は何年経っても風化しない。

 執行に関わった刑務官は皆生気を抜かれた顔で黙々と清掃に励んでいる。

「鳴瀬課長」

 鳴瀬は不意の声に目を向けた。直樹である。鳴瀬はもちろん素性を知っているが、ここでは偽名で通さねばならなかった。

「何だね、喜多野君」

「実は少々トラブルが起きまして、後で診察して頂けませんか」

「誰か怪我でもしたのか」

「そうではありません。診て頂きたいのは五十嵐です。執行のショックで錯乱状態になったようで、たった今医務室へ連れて行かれました」

「そうか、偶にだが同じ症例があるらしいんだよ。課の者に連絡して安定剤を服用させておこう。しかし、五十嵐君の抜けた穴をどうするか。警備から補充するんだろうね」

「いえ、その件ならば私が承ります。ボタンなど少し手を伸ばせば一人で二つ同時に押せますから」

「あ、いや。それでは君に倍の精神的負担が掛かってしまう」

「私は負担になど決して思いません。その旨を所長か処遇部長に具申して頂けませんか」

 鳴瀬は強い否定の裏を悟った。次は憎さも憎し竹之内の番である。

「──分かった。別段反対もないだろうが、本当にいいんだね」

 直樹は恭しく頭を下げたが、鳴瀬はその俯いた面付きが空恐ろしく感じた。


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