贖罪 Ⅲ


 着替えを済ませても官舎へ帰る気にはなれなかった。

 こんな中途半端な時間に戻ると瑞樹に怪しまれるのは想像が付く。それに何故か自分が

 自分で無くなった感覚が漂い、夢遊病者さながら漫然と拘置所の周辺を彷徨さまよい歩いた。

 近くの明和高校からは生徒の陽気なはしゃぎ声が耳に入り、混雑する道路と、道行く気忙しいサラリーマン達で、まるで先程の執行が映画の一コマであった錯覚に陥る。

(俺達は何なんだ)

 国民の代理で死刑に臨んだにも拘わらず、刑務官の痛苦は人々の無関心と、足早に去りゆくだけの時に押し流され、曖昧に掻き消される。言わば万民の幸福を保証するため法という枠組みに押し付けられた死罰の請負人に過ぎない。

 その実状を思い知ると現実が無機質に感じられ、平穏に行き交う笑顔が偽善を纏った如何いかがわしい仮面に映った。

(何がそんなに可笑しいんだ、何がそんなに楽しいんだ)

 すると、背後から「殺すぞ、てめえ」との罵声が上がった。

 ぎょっと見返ると大学生が携帯で笑って話をしていただけであった。緊張が抜けた直樹はガードレールへ腰を下ろし、神経が過敏になっている自分へ言い聞かせた。

「執行は終わった。奴はもういないんだ。いないんだ──いないんだ」

 呪文のように繰り返し、ゆるりと立ち上がった直樹はフラワーショップへ立ち寄ると東大手駅に通じる薄暗い急階段を降り、四十分程無言で地下鉄に揺られていた。

 そうして金城埠頭へやって来た直樹はサングラスを外し、陽光が反射する海面へ花束を投げた。

「父さん、母さん、済んだよ。全部ケリを付けてきた」

 生暖かい潮気が哀惜に潤んだ目を刺激した。結局俊昭は発見されぬまま嘉樹は処刑され、母も昇天し、現在東の血を引く者は直樹ただ一人になってしまった。

 扼死、病死、刑死、全て異なった冥府への敢えない岐路を辿ったが、そこには何の幸せもなかった。

 人は知らぬ間に産まれ、やがて灰となる。命には単に子孫を残す為の生物的営みでなく隠された深意があると多くの書物は語る。だが三人は真理を追い求めぬまま逝った。また、死を立て続けに看取った自分も何のために生を受けたのか輪郭さえはっきりしておらず、いつまでも孵化ふかしない雛のように、日常という緩い殻に漠然とくるまれ、そこから一歩も抜け出せないでいる。

 直樹は波間に漂う花束を熟視しながら曇った眉間に指を当てて呟いた。

「あなたも必ずいつか死ぬ存在である事を忘れないように」

 それから直樹は目的もなく何時間も名古屋市街をぶらついた。

 普段は厭わしくて仕方ない街の雑踏や騒音が却って安らいだ。

 俺は今しがた二人も執行してきたばかりだ、と、触れ歩いたらどんな眼で眺められるだろう。

 親殺しの大罪人を処分するという悲願を遂げたとはいえ、直樹は死で償う刑罰がよく判らなくなっていた。少なくとも綺麗な殺し方ではない。殺し屋の片棒を担ぐつもりはないと鮫島は宣言していたが、自分は志願し自ずから引き金を引いた。

「後悔しているのか、俺は」

 まさか、と否定した直樹は広小路通りから東桜を足任せに所在なく紛れ歩いた。未だ帰り辛く、少しずつ夕刻が近付いてくる茜空を見上げ、とにかく時間さえ過ぎてくれればいいと願った。

 そして不意に首を上げると、ぼやけた視界にバーの新しい看板が過ぎった。

SEVENTHセブンス HEAVENヘブン

 ビルの三階に貼り付いた横文字の屋号を読み上げた直樹は導かれるように足を向けた。

「いらっしゃいませえ!」

 店の木製扉を引き開けるなりカウンターから元気な声が響いた。

 見ると引っ詰め髪の若い娘が『カノン』のリズムに乗ってタンブラーを拭いている。

 直樹は威勢の良さに気圧されたが、客のいない様子に安心して格子模様のコルク床を踏み通り、長い木目が映えるカウンター席へ腰を下ろした。

 木蔦きづたが壁の所々に植えられた店内を見渡せば、天然木の香気が漂い、まるで格式高いロッジに座っているようで、統一感の取れたヨーロッパ調のインテリアにも趣味の良さが感じられた。

 ダークブラウンの丸テーブルへは洋酒樽を模した椅子が整然と並べられ、カウンター越しにはアンティークランプの橙の光が棚に並んだボトルを柔らかく照らしている。また、月齢表示が内蔵された背高い振り子時計も異国情緒に合っていた。

「何をお作りしましょうか、先ずはお飲み物から伺います!」

 そんな清閑な雰囲気にそぐわず高音の喉で娘は、セミロングの茶髪を揺らしながら注文を取りにきた。

 直樹は眉を顰めながら耳を押さえた。

「あッ、いけない。居酒屋の癖が抜けてないってママに怒られちゃう。ごめんなさい」

 幼さが残る丸顔の彼女は照れ臭そうに舌を出し、胸に翼のワンポイントが刺繍してあるブラウスの袖を降ろしつつ、幾分上品に声を落とした。

「では、改めて。お飲み物は何に致しましょうか」

「野菜ジュース」

「はい?」

「あ、いや。そうだな、ウオッカを。ストレートで」

「いきなりキツイお酒いかれるんですね」

「今日だけは酔いたいんだ。この店で一番強いのを頼むよ。グラスも大きめで」

 直樹は陰鬱としていたが、彼女は陽気に冷蔵庫から取り出した五十六度のクレプカヤを中型タンブラーに注いだ。直樹はその透明な液体を一気に口内へ流し込み、カウンターに置いた。

「お代わり」

「ちょっとちょっと、上司に怒られた? もしや女の子に振られたとか」

 常人なら即座に悶える強烈な蒸留酒である。平気な素振りと異様な飲みっぷりに呆れた彼女はつまみのミックスナッツを直樹に渡して二杯目を作った。

 直樹はカウンターに頬杖を突き、クルミをガリッと噛み砕くと息を重く吐き出した。

「そんな世俗的なものじゃない、ほっといてくれないか」

「駄目よ、お酒は楽しく飲まないと。何、その死神に憑かれたみたいな暗さは」

「──死神か。ふふふ、確かにそうだ」

 言い得て妙な譬えに直樹は籠もった声で自嘲し、二杯目のウオッカを勢いよく空けた。

「今度は自棄? 本当に笑ったらどう。幸運は楽しい門を潜ってくるって言うでしょ。ほら、スマイルスマイル」

 静かに飲みたいというよりただ酒にストレスの捌け口を求めているようにしか見えない直樹へ琴子はわざと大袈裟な笑顔を作った。しかしその当人はうんざりした視線を逸らした。

「悪いけど今日はとてもそんな気になれないんだ。若くて明るい君と違って」

「あら、世間知らずの脳天気って言いたげ。私は大沢琴子。お客さんは?」

 気を遣ったのに逆に嫌味を吐かれた琴子は腰に手を当て睨んだ。直樹は、まるで取り調べだなと、傾けたグラスをテーブルに置いた。

「東」

「東、何」

「直樹」

「じゃあ直樹さん。人生経験が足りないこの小娘に大人の辛い悩みってのを打ち明けてみせてよ。どんな内証事でも聞いてあげるから」

 琴子は挑むかの如く三杯目を差し出した。直樹はそれも軽々飲み干すと目を伏せた。

「無理だ。君は二十はたちくらいだろう。とても受け止められないよ」

「あ、これでも社長さんの愚痴とか毎晩付き合ってるんですからね。短大生でもそれなりの耳年増になっているわよ」

 露骨に子供扱いされた琴子は丸い顔を余計膨らせた。

「じゃあ、琴子ちゃんはクラウド・ナインって知っているかい。英語で『天にも昇る気持ち』っていうんだけど」

「ふうん、何かうちのお店の名前と似てる。ママが付けたんだけど『天使が住む最上の天国』なんだって。でも、そのナントカ、ナインが一体何」

「天国へ登る梯子は墜ちるために立て掛けてあるのさ。解るかい」

「全然解らない」

「そうだ、別に解らなくていい。この世では無知が唯一の希望なんだから」

 一層解釈不能な謎掛けに琴子は降参して、黙って空いたグラスへ次の杯を注いだ。

 その琴子に突如店の奥から呼び掛けてきた人物がいた。

「琴ちゃん、いる。まいったわよ、もう」

「あれ、こんなに早くどうしたの、ママ」

 意外そうに琴子は、減り張りある声へ首を向けた。

 直樹の視線もその先を追った。

 カウンター奥には暖簾代わりに白樺模様が描かれたタペストリーが垂れており、そこから三十代半ばの細身の女性がアップに巻いていた艶やかな金髪を解きながら気色ばんだ顔をみせた。目の覚めるような深紅のローブ・デコルテの裾を叩いた彼女は、彫りの深い顔立ちと太めの眉が印象的な美人であった。

「パーティーはもう終わったの、ママ。今日は若手政治家の懇親会じゃなかったっけ」

 ケリーのバッグを脇のテーブルへ無造作に投げ置いた女主人は文句を続けた。

「それがね、先方のご要望だからわざわざ出向いていったのに、あの面々ときたら偉そうに人をコンパニオン同然に扱うから途中で帰って──あら、いらっしゃいませ」

 彼女はここでカウンターに座していた客に気付き恥ずかしそうに会釈した。直樹も口に当てていたグラスを離した。すると女主人は突然雷に打たれたように立ち竦んだ。

「どうかしたの」

 明確な動揺に琴子は案じ顔をした。

 彼女は直樹を穴が空くほど目視して微笑みを浮かべた。

「何でもないわ。こちらのお客様が前の主人と余りにもそっくりだったから吃驚しただけ」

「残念でした。それはヨシキさんでしょ。近いけどこの人は直樹さん」

 図らずも琴子は直樹を紹介したのだが、逆に不意打ちのようであった。

 女主人は呆気に取られたまま琴子を押し退け正面に立った。

「あの、不躾ぶしつけで誠に失礼ですが、よろしければお客様の御苗字を教えて頂けませんか」

「東さんよ、祥子ママ、この人は東直樹さん」

 琴子は後ろから跳ねて喚いた。苗字を知った祥子は歓喜と悔しさを交ぜた顔で反応を期待した。

 一方、直樹も空のグラスを向け、確認に尋ね返した。

「貴女はもしかして三輪祥子さんですか」


「あの人は今日も元気にしているでしょうか」

 祥子はサモトラケのニケ像のレプリカが置いてある一番奥の予約席で直樹と向かい合い、クルボアジェXOの栓を開けながら率直に尋ねた。

 ボトルキープに嵌めてあった金鈴が玲瓏れいろうたる音を響かせたが、単に静けさを増しただけで、直樹は首のない天使の翼を眺める振りをして口を閉ざした。

 直樹が名拘服務だけでなく、九階正担当との事情まで知らねばこの問いは出てこない。

 祥子は高級コニャックを自分のグラスに注ぎながら無言の訳を察した。

「蛇の道は蛇、私は嘗て扶桑會にいた女です。拘置所の内偵なんて簡単」

「ハトは相馬公一ですね」

 背凭れの高い籐椅子に深く背中を預けた直樹は問い質した。

 鮫島は住人の味方だが秘密を漏らす男でない。夜勤班の二人とて、ごろつきや暴力団に籠絡されるタイプではないし、首席や統括の幹部達は危ない橋など決して渡らない。つまり消去法で残るのは代務しかいない。思えば異常なほど無口であったのは余計なお喋りが正体を暴いてしまうと危ぶんでいたに違いなかった。

「直樹さん、それより嘉樹は元気ですか」

 ブランデーを一口含み、祥子は最初の質問に戻った。

「元気でした」

 七杯目のウオッカを空け、直樹は躊躇わず即答した。

?」

 過去形の言い回しに祥子は意味が分からず聞き直した。

「ハトがいるなら遅かれ早かれ耳に届くでしょうが、この際真実をお教え致しましょう。竹之内嘉樹は本日午後零時二十五分に絶命しました」

 直樹は極秘事項を暴露した。そして未だゼツメイという語意に苦しむ祥子へ言い換えた。

「処刑されたんです」

「そんな──」

「あの舎房で上訴も再審請求もしない死刑確定者は往々にしてその運命を辿ります。これは法律で定められた条項であり、貴女の元ご主人とて例外ではありません」

「他人事のようにお話しなさるのね」

 モザイク模様が際立つギヤマン細工のラウンドテーブルにグラスを置くと涙を堪え祥子は直樹を責めた。

 直樹は平然と二本目の瓶に残ったクレプカヤを飲み尽くした。

「竹之内は他人ですよ。あの男が私の父親に何をしたかご存知でしょう」

 直樹は琴子に三本目のウオッカを頼んだ。饒舌じょうぜつになっているのは酔っているためかもしれないが感覚がまるで無かった。祥子は悲しげな眼差しを伏せた。

「でも、嘉樹は直樹さんとの昔をいつも楽しげに懐かしんでいました。子供時代、鰻釣りに行って池に落ちたとか、おんぞ祭の時に態とお母さんにはさみを持たせて追い掛け回されたとか、ミカンきのミカンを食べ過ぎて手が黄色くなったとか。偶にマンションに戻ると直樹さんの話題が多くて時々嫉妬したくらい」

 ふん、と直樹の鼻が侮蔑に鳴った。祥子は受け流して続けた。

「貴方が刑務官で頑張っていると聞いた時は『直らしい』って褒めてました。あいつは本当は俺の兄貴だから堅い職業がよく似合うって」

「兄貴?」

 直樹は琴子から新しいクレプカヤを受け取ると顔を見合わせた。

「ええ。実は俺が弟なんだって。でもお互い気まずくなって、言いそびれたままになってしまったって口癖のように悔やんでいました。『俺はそんな順番なんかどうでもいい。あいつとは同じ時に産まれた双子なんだから、同じ血を持つもう一人の俺なんだから』って」

 兄と認められていた直樹は戸惑った目で見返した。

 祥子は重ねて言い通した。

「私は一人っ子なので双子の気持ちは分かりません。でも嘉樹は直樹さんを片方の翼だと譬えていました。片翼で鳥は飛べない。両翼があってこそはじめて羽ばたけるんだ。そうして共に大空へ向かって飛べるんだ、と」

 直樹は暫くその意味を黙考していたが、やがて裏切り者の戯言だと瞼を閉じ首を振った。

「あのカウンターテーブル、樫なんですよ」

 完全に不信感を抱いている気色に祥子は話を変えた。

「常高寺にそびえる、巨大な二叉のアラ樫の樹。天国に一番近い大木だなんて絶えず吹聴していました。『わたしはあなたと共にいる。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない』、これは嘉樹がよくその樫の木を語る時に一緒に話していた聖書の一節です。神仏に無頓着なあの人が部下の誰かから教わって気に入っていた箇所らしいんですけど、その祝福の契約が何となく気に掛かり他の樫を探して特注で造ってもらったんです」

(また、あの広葉樹か)

 不可思議な因縁を感じた直樹は茶褐色のテーブルに目を移した。

 そんな折、遠目に掛け時計の針が八時を指しているのが見えた。

 ではそろそろおいとまを、と帰り支度に立ち上がった矢先、祥子は、もう少しだけ伺いたい事が、と袖を引いた。

 強引に引き留められた上、嘉樹の事など聞くのも話すのも嫌であったが、直樹は取り縋る横顔に負け、仕方なく再び椅子へ座り、祥子の質問に耳を傾けた。

「あの人は、私に対して何か言い残していたでしょうか。亡くなる前に」

「いいえ。以前養母の竹之内絹代へ『克彦を後継として認めるように』とか、養父へ『静岡の海岸に散骨を』とかいう以外特に何も遺言はありませんでした。遺書もです」

「ミズキという女にもですか」

 予想外の名前が出た。祥子はせきを切ったように言い立てた。

「嘉樹は、三代目補佐の妻に相応しい生活をさせてくれました。離婚する際にも会長に頼んでこんな良いお店を持たせてくれました。でも本当は結婚していても愛されていないのに気付いたんです。ミズキという名は嘉樹の寝言で頻繁に出て来ました。そりゃあ、外に女の一人や二人こしらえていてもおかしくないんでしょうけど、私は身代わりで抱かれているみたいで辛かった」

「だから一度も面会に訪れなかったんですね」

「はい。愛人が心配顔で拘置所周りを彷徨うろついていると思うととても。嘉樹に罪はありませんし、その女と嘉樹が面会出来ない規則があるのも知っていましたが、私が偶然でも女と鉢合わせしたらどうにかなってしまいそうで怖かったんです」

「竹之内は貴女に女の素性は教えなかったんですか」

「一度だけ尋ねました。でも『椰子の樹の一人』なんて意味不明にはぐらかすだけ。裏で詮索しても、最後の最後まで正体は分からずじまいでした。それが唯一の心残り──」

 祥子は意気消沈してグラスを振った。

「瑞樹は私の女房です」

 えっ、と祥子は焦って直樹を直視した。直樹は真っ直ぐ見返した。

「瑞樹は幼馴染みで、貴女と出会うまで竹之内が付き合っていた女です。今は一応私の妻になっています」

 暫しの沈黙が流れた。直樹も祥子も踏み込んではいけない領域を超えてしまった気がした。

「今度こそ失礼します。お幾らでしたか」

 気詰まりな雰囲気に堪えられず、直樹は財布を取り出し立ち上がった。

「いいえ、今日は結構です。その代わり、またお出でになって」

 祥子は札を取り出そうとする直樹の右手を覆った。途端しっとり潤った感触が伝わった。亡き嘉樹を思い出したのか、もしくは重ね見ているのだろう。名残惜しく手を振る祥子へ作り笑いを浮かべつつ、直樹はもう二度とここには来るまいと店の階段を下った。

 さすがに二十時を超えれば街灯を越した暮れ果てた夜空に、微かながら星が紛れている。

 直樹は気が進まぬまま重い足取りでアパートへ歩いていき、帰り道にあったコンビニへ立ち寄ると、レジ横に設置にしてあった透明な募金箱に死刑執行手当の紙幣全額を突っ込んだ。

 店員は額の多さに目を皿のようにして見ていたが、直樹は何も買わず直ぐ店を出た。

 どこでもいいからあんな薄汚れた金とはさっさと縁を切りたかった。


 官舎に戻ったのは三十分後であった。普段なら十分足らずの距離であるが、長く掛かったのは強力なウオッカのせいだろう。直樹はゆっくり入口を開け帰宅の声を掛けた。

(あれ、いないのか)

 じゃくとする気配にふと妙な違和感が過ぎった。いつもは明るく灯っている玄関や奥のキッチンライトも全て消えており、一瞬停電かと考えたが、玄関のスイッチを押せば点いたし、リビングからはうっすら青い常夜灯の光が漏れている。ひょっとしたら疲れて眠っているのかもしれないと、足音を立てず寝室を覗いたが姿は無かった。

 直樹は不安を掻き立てられ、リビングへ向かった。

 妻の背中はそこにあった。但し電気も付けず、ソファーに座り、音の消されたニュース番組をぼんやり観ていた。

「おい、暗がりじゃ目に悪いぞ」

 未だ引っ掛かりはあったが瑞樹の存在に安心して直樹は電灯の紐に手を伸ばした。

「嘉、処刑されたんだってね」

 瑞樹の呟きにぎくりと直樹の腕は固まった。

「さっき速報のテロップが流れてた。執行された八人の中に嘉の名前があった」

 振り返った頬には涙痕がテレビの光で反射していた。腕を降ろした直樹は目を転じた。

「──そうか」

「そうか、ってそれだけ?」

 瞼を腫らした瑞樹は立ち上がり直樹の前へ歩み寄った。

「それだけで、あなたからは何の言葉も無いの」

 矢庭に瑞樹と嘉樹の姿が重なった。執行前の独房で「お前からは何の話もないのか」と詰め寄られた光景が甦り、二人から同時に責められた感覚に襲われた。

「謝れとでも言うのか、あの堕天使野郎にこの俺が」

 業を煮やした直樹は懐抱していた本心をさらけ出した。

「俺は被害者遺族なんだぞ。なのにどいもこいつも奴ばかり頼りやがって、あの親殺しの味方ばかりしやがって。くたばって清々してらあ」

「本気で言っているの。あなたは嘉のたった一人の弟じゃない」

 瑞樹は哀悼の一言を望んでいた。だが、直樹は生きている時より憎悪が増した顔で声を荒げた。

「俺は弟じゃない、俺はあんな奴の弟でもなければ兄貴でもない!」

「お酒臭い」

 唐突に瑞樹は鼻を鳴らした。面には出ていないがアルコール臭が漂った。それも一杯二杯の臭気ではない。健康に悪いといって滅多に飲酒をしない夫がこんなに深酒をするなど異様であり、そのため何とはなしに嫌な予感が胸裏に膨れ上がった。

「直、お酒飲んだの。何でいつもは飲まないお酒なんか飲んでるの、おかしいわ」

「どうでもいいだろう、そんな事」

 視線を斜め下に滑らせ、直樹は手の甲を三度掻いた。

 瑞樹はその仕草に一瞬で悟った。

「──まさか、嘉の執行に関わったの」

 顔色を変え瑞樹は直樹の両腕を掴んだ。

 その口は閉じたまま何も応答しなかったが、躊躇いを湛えた硬い表情がその証となっていた。

「どうしてなの。正担当は執行に関与しないって前に話してたじゃない。どうしてなの。ねえ、ねえったら」

 依然黙ったままの直樹を瑞樹は咎めるように大きく揺すった。以前の確認時には嘘を吐いていたのではない。何らかの理由で執行官になったのであろうが、それを隠していた事実を瑞樹は非難した。

 直樹は妻の腕を掴み、静かに放させた。

 瑞樹の背後のテレビでは臨時ニュースが流れ、執行された名前の一覧が大きくクローズアップされた。竹之内嘉樹の名前が一際目立っているように感じた直樹は死んでもなお嘉樹の存在が憎らしかった。公表されて世間は、悪は消えたと胸をなで下ろすであろうが、それとは裏腹に怨嗟の念が自分の心の中に気色悪い程色滞っていた。

 直樹はその訳の分からない苦悩を払おうと逃げ口上を弄した。

「これは正当業務行為で、俺は国家公務員だ。定法を守り責務を果たす」

「正当業務? 仕事だからって人を殺していいの。上官の命令だから、公権力の命令だからって人を殺して公務員の職責だって堂々と胸を張れるの」

 瑞樹は嘉樹を誅した制度も含めて直樹の非情な態度を責め続けた。

 直樹は負けじと冷徹に言い返した。

「ゴミや屑は掃き出されなければならない。俺はその清掃員に選ばれた。ただ、それだけだ」

「ゴミって──」

「それより瑞樹、お前、結婚してからも奴と密通していただろう」

「はあ?」

「隠しても無駄だ。お前、俺が仕事で出掛けているのをいい事にあいつとホテルにでもしけ込んでいたんだろう」

 直樹は嘉樹の寝言の件を思い出していた。祥子と嘉樹は仮面夫婦であった。瑞樹と不倫していても何の不思議も無い。藪から棒に何を馬鹿な事と、瑞樹は呆れたまま対したが直樹は感情を制御出来ず、堰を切ったように溜まっていた疑惑を残らず吐き出した。

「お前は昔から奴が好きだった。本当は俺なんかよりあいつと結婚したかった。だが、行き掛かり上仕方なく俺を選んだ。顔が似てるから俺と重ねていたんだろう。俺には分かる。そのお腹の娘だって果たして俺の子かどうか分かったもんじゃない」

「馬鹿なこと言わないで。嘉は六年も拘置所にいたのよ。どうやったらその子供が出来るのよ」

「前もって精子を冷凍保存しておけば可能だろうよ。DNAは基本同一だ、鑑定しても誤魔化せる」

「何故そんな無茶な考えを思い付くの。正気じゃないわ」

「ああ、正気でいられるか。悪魔を抹殺したこの手を誰も彼もからけがれと見られてはな」

 勢い余って直樹は握り締めた右拳を挙げた。

 が、同時に瑞樹の表情から血の気が見る間に失せていくのが判った。

「貴方が嘉を殺したのね、貴方のその右手が嘉を」

 直樹は慌てて失言を呑み込もうと口を拳で押さえたが、青ざめて震える瑞樹に真実を取り消せず、ガラガラと突然壊れた音が頭の中で鳴り響いた。

 同時に瑞樹は床に崩れ落ち、即時に腹を押さえて苦しみ始めた。

「おい、瑞樹」

 どうやら予定日より少し早い陣痛が来たようで、苦悶する妻に心配の右手を伸ばしたが、瑞樹はその腕を払い除けて大声で叫んだ。

「触らないで、人殺し」

 直樹は愕然と固まった。身悶えする瑞樹を目の前にして、人殺しの罵りだけが耳に張り付いて離れなかった。と、そんな時、折から瑞樹の容体を覗きに来ていた北川聡子が危急の病態に驚き一一九通報した。それでも直樹は何が起きていたのか見当も付かず、周りの音声さえ満足に届いていなかった。

 救急車のサイレンだけは微かに聞こえていたが、気付いてみれば名私大病院の分娩室前に立っていた。

 診察室で子宮内胎児死亡を告げられたのは間もなくであった。

 最善を尽くしましたけれど、と産科医の辻元は直樹へ病因を語り始めた。

「精密に検査はしておりませんので断定はしかねますが、現段階では胎児そのものの先天的な異常、もしくは胎盤機能不全が起因と推測されます」

「瑞樹は、妻はどうなっていますか」

 直樹は虚ろな目で白衣の裾を掴んだ。

 辻元は直樹の手の甲に手を置いて焦りを静めさせた。

「奥様は死産とお知りになり大変興奮なさっています。鎮静剤を注射しておきましたから三十分もすれば落ち着かれるでしょう。少々お待ち下さい。安定次第お呼び致しますから」

 直樹は診察室を出ると待合室の長椅子に座り込み、顔を両手で覆った。

 瑞樹は嘉樹と自分の関係で絶え間なくストレスを感じていた。辻元医師は死亡原因について母体の異常を挙げていたが瑞樹にはそんな兆候は無く、お腹も大きく悪阻つわりも最後まであった。結局様々な心の重荷が分娩に衝撃を与えたのだろう。

 幾重にも積み重なる死に直樹は、やはりこの世に神仏などあるものか、と膝を拳で打って恨言を何度も繰り返した。

 それから暫くして瑞樹は個室へ移され、看護師が入室を許可し、直樹はナースとすれ違いに病室へ足を踏み入れた。

 半分開いた窓ではブラインドが夜風で微かに揺れていた。瑞樹は起こされたベッドにもたれ掛かり、その動きを放心状態で眺めていた。

「瑞樹──」

 直樹は妻の名を呼んだが瑞樹は一顧もしなかった。その代わりぽつりと唇が動いた。

「貴方は結樹まで殺した」

 これは何の労りも慰めも一切封じ込めてしまった。

 心の組み糸が散り散りに解けた直樹は、そのまま覚束ない足で廊下に出ると、急いで駆け付けてきた妻の両親の脇を霞んだ目で通り抜け、一人官舎へ帰っていった。

 官舎に着いて扉を開けると真っ暗な静寂だけが広がっていた。

 妻のいないアパートがこんなに寂しいとは思わなかった。顧みればあまり構ってやれないでいた。初産で実家にも甘えられたのに、夫である自分の身を案じ留まってくれていた。

「なのに俺はなんて酷い暴言を」

 瑞樹の善悪に対する厳しい性格は幼馴染みの自分が最もよく知っている。不倫を疑っただけでなく、連続殺人犯として罵られたのである。故に今度会って突き付けられるのは間違いなく離婚届だろう。

(俺はどうしてここにいるのだろう、俺とは何者なのだろう)

 相前後して去来する不幸に、直樹は自分が自分でないような離人の感覚が取り巻き、まるで拘禁反応に罹ったように暗い部屋でずっと佇んでいた。


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