堕天使の梯子 Ⅵ


 夏の時間は経過が早い。

 七月二十九日、木立輝く真昼に直樹は嘉樹を所長室に連れてくるよう命令を受けた。

 一週間もせず臓器移植の件で所長面接となったのである。

 意外であった。監獄法施行規則第九条は「所長ハ監獄ノ処置又ハ一身ノ事情ニ付キ申立ヲ為サンコトヲ請フ在監者ニ面会ス可シ」とうたっているが、大抵の訴え先は担当か、よくいって処遇部長までで、面接願いを出しても実際に所長面接がなされる例は滅多にない。

 仮に叶った場合においても篤志面接室で行われるのが通常で、所長室は異例中の異例と言えた。村上も同席していたが、確定者であり、アラードク主宰への敬意なのかもしれない。

 いつもの重厚な椅子に腰を下ろしたまま所長は嘉樹へ楽にしなさいと目の前の本革ソファーへ着座を勧めると、再点火した葉巻を口一杯に含んだ。

「臓器移植に熱心だそうだね」

「私もそろそろの気がしまして、身辺整理です。幕切れぐらい世の役に立ちたくて。私は犯罪者ですが臓器に罪はありませんからね。一つの有効活用です」

 ソファーの背もたれに背中を預けた嘉樹はあっけらかんと答えた。そろそろとは地下行きである。

「感心な心掛けだ。昨日洗礼を受けたのもその一環かね」

「ええ、ペテロの洗礼名を正式に授かりました。これで一通りは済ませたつもりです」

「それで最後はドナーへ立候補か」

 やがて柴田は煙を口一杯に含み、躊躇うように一呼吸置きゆっくり吐き出した。

「いや、何と言うべきか、実に驚くべき事だのだが、私も生涯でこんな事は初めての経験なのだが──」

 もうもうと舞う煙の向こう側には柴田の困惑した表情がうっすら垣間見えた。

「何と矯正局から今回に限り特例として君の臓器移植提供の認可が下りた」

「えッ」と一驚したのは嘉樹でなく、後ろで警備に立っていた直樹であった。

 とても信じられない伝達である。いくら特例であれ認可するにも時間が短すぎるし、そもそも局が単独で法律に抵触する事を認めるなどあり得ない。つまりこれは同時に法務省の認可でもある。法務省は法律に関する事務や人権保護等の行政を司る中央官庁であり、いわば法律の権化でもあり、その省が容易に特例を出す事が異常なのは刑務官の直樹でも直ぐに奇妙だと感じる程であった。

 所長は継ぐように説明した。

「君が申し出ていた通り臓器移植法は監獄法施行規則には適用されない。解釈を変えれば臓器移植に関してだけには違法にならないと局が判断したと私は個人的に考える。それと局は厚労省の臓器移植対策室にも問い合わせたようで、死刑囚の臓器移植は違法では無いとの回答を得たようだ。つまり厚労省からも婉曲に許可が下りたようなものだな」

「そうですか。それは吉報です」

 嘉樹は安堵の息を吐いたが、直樹だけは強張った顔でその理由を思案していた。

(違う、省と局がそんな真っ当な理由で法の解釈を曲げたりしない。これも一つの実検だ)

 死刑囚には心情の安定が何より肝要なのは今更言うまでもない。矯正局はまたしても刑事施設法案通過のためのデータ収集をしているのである。そうでなくては省庁も簡単に特例など認めないだろう。

「では、脳死移植の件も」

 と嘉樹は勢い付いて前のめりになって訊いたが、柴田は葉巻を左右に振って否んだ。

「いや、それはままならない。弟の、いや、担当の東君からも聞いているだろうが脳死移植での執行は無理だ。死体移植ならば局の認可に従って許可しよう」

「拒まれる理由は監獄法ですか、やはり」

 声色を変えて嘉樹は即座に尋ね返した。死刑囚を脳死にして臓器提供をさせるべき、というのは二十数年前、既にとある識者により提唱され、発案自体目新しいものでは無いが死刑囚自らがこうして頑強に言い立てる真意が解せなかった。

 柴田は眼光鋭い嘉樹にたじろぎながらも奇妙な顔で尋ね返した。

「罪滅ぼしにしろ何故脳死なんだね。心停止下移植でもいくつかの臓器は取れるぞ」

「それは言うまでもなく心肺も肝臓も使えるからですよ。どうせ灰になるなら一人でも多くの人間に貰ってもらう方が私も満足します。考えてみて下さい、所長。ダスト・ゾー・アート、アンド・アントゥ・ダスト・シャルト・ゾー・リターン、『なんじは塵なれば塵に帰るべきなり』。創世記三章十九節にあるように、人はいつか消え果てるんです。私は若い内に命を閉じますが代わりに新鮮な臓器が残ります。徒死むだじにでみすみす使える宝を焼いてしまうのは如何なものでしょうか」

「うむ、それは素晴らしい。君の博愛精神にも感服する。が、絞首は脳死移植には不向きだ。確かに執行後暫くは心拍がある。といってもその状態を故意に作り出すなど許されない。なぜならば明らかに殺人となるからだ」

 嘉樹は唖然とした。そして次に噴き出した。死刑はもとより殺人ではないかと村上も失笑した。

 矛盾に気付いた所長はむせせるような大きな咳払いをした。

「言い損なった。私は刑法二百二条の『同意殺人』には手を貸さん。ともあれ脳死のための処置は違法により認められんが心停止下臓器移植は認めよう。家族が了承すれば拘置所は検査技師を派遣させる。以上で終わりだ」

 苦々しく所長は掌を振って退室させた。直樹は廊下で待機していた川瀬と共に未だ納得しかねる嘉樹を九階へ連れ、帰房を済ませた後は巡回しながら移植の申し出を黙考していた。

 一般に人が死んでしまえば残るのは思い出だけである。それに比べ、移植された健康な臓器は確実に他人の内部で生き続ける。ドナーカードやリビング・ウィルを持っている者はいつも死に対し真摯に向き合う。殊にドナーカードは家族の同意が必要とされ、事前に話し合いが持たれる。そこには様々な意見の衝突が生まれ、カードの破棄も珍しくない。皆には内緒で携帯していて、万一事故に遭った場合家族は選択を迫られ、コーディネーターは決して強制しないが心理的に負担がのし掛かる。

 ドナーの意志を尊重するか、或いは拒絶するか、事故の悲しみ以上に困惑が取り巻く。家族の死生観が問われる重い瞬間である。

(──こいつは子供の内臓も喰らっていたな)

 ふっと間宮の房の前で立ち止まった直樹は安らかに眠っている男に遣り切れない想いがした。妙子のように待ち望んでも得られなかった臓器が一方では無駄に喰われた。

 急に腹立たしくなった足は無意識に房扉を蹴飛ばしており、びくりと飛び起きた間宮であったが、直樹は然あらぬ態で他の房へ回った。


 それから三日後、嘉樹からカード付きの書面を受け取った竹之内幸三は逸って面会に訪れた。予想した通り養親は頭から移植に猛反対で、というより死刑への覚悟が許せないようであった。嘉樹はならばと縁切りを頼んだ。幸三はまたも拒否した。

 端から全てを見通していた嘉樹はここで起死回生の一打を放った。「私は組の資金の流れと裏の人脈を全て把握しています。臓器提供に反対なさるならば、いかなる場合においてもそれは自動的に公表されるよう算段します、例え私の死後であってもです」と脅したのである。

 拘置所は警察とも密な繋がりがある。暴露を危惧した幸三はやむなく署名欄へサインした。死刑は秘密裡に行われるが移植コーディネーターは了承の為家族へ連絡を取らねばならない。則ち一報が入った時が執行された合図となる。幸三は最後に、

「移植なんてせえへんのが一番ええぞ」

 と力無く言い残し拘置所を去った。

 そして家族の同意を取り付けてから四日後の八月六日、検査センターと名私大病院から移植専門家が技師を伴い来所する旨が伝えられた。

 直樹は医務課長を通しセンターの責任者である上田滋利を医務室まで案内するよう命じられた。

 当日午前十一時、正面玄関で医師達の到着を待ち受けていると、一台のオデッセイが警備の誘導で敷地に進入してくるのが見え、間もなく白衣の人影が三つ姿を現した。

 ところがその中央を歩いてきた小柄な女性を確認するや直樹は驚愕した。

「佐和子さん!」

「あら、私をご存知なんですか」

 サングラスを掛けた風変わりな刑務官に挨拶しようとした佐和子は刮目かつもくして見上げ、残りの二人も興味深そうに目を瞬かせた。直樹は辺りに人気のないのを見計らうと眼鏡を外した。

「直樹さん!」

 佐和子は飛び上がらんばかりに仰天した。直樹が公務員とは聞いていたが、こんな近くの施設で刑務官を務めているとは思いも寄らなかった。

「あの時はお忙しい中、母の葬儀にご参列頂きありがとうございました」

 平静な口調に戻した直樹はサングラスを掛け直すと丁寧にお辞儀をした。

 佐和子も「謹んでお母様のご冥福をお祈りいたします」と頭を下げた。

「しかしまさか私達を案内して下さる方が直樹さんとは予想外でした」

「それは私の台詞です。まさか佐和子さんがお見えとは思ってもみませんでした。それで、責任者の上田先生はどちらのお方ですか」

 直樹は佐和子の背後に立つ白衣の二人を見比べた。共に中肉中背で、右手の男性は癖毛が目立つ茶髪で赤縁の眼鏡をかけており、左手の男性は丸刈りの頭に太い眉が頻りにピクピクと動いていた。しかし、両者とも三十代中程の年齢でセンターの責任者にしては重みがないようにも感じた。

 佐和子は、それが、と申し訳なさそうに開口した。

「実は上田は一昨日から体調を崩しまして急遽きゅうきょ私に白羽の矢が立ったのです。ですから今日の責任者は私になります。あ、プロジェクトの検査技師を紹介しますね。私の右側が金城保、左が盛岡哲多です」

「御来所に感謝致します。案内役を申し遣っております主任矯正処遇官の東直樹と申します。ドナーを希望する者は医務室に控えさせていますのでどうぞこちらへ」

 今更変名を使っても仕方ないので直樹は敬礼をすると本名で自己紹介し、検査用具一式を持つ二名と佐和子の先頭に立って歩き出した。

「ところで直樹さん、どうしてサングラスなんて掛けてらっしゃるんですか」

「──その質問は、今はご遠慮下さい。仔細は後にお判りになりますから」

 正面を向いたまま口を濁した直樹に佐和子は異質な気を感じた。いつもの柔和な素振りなどまるでなく、秘し隠す公務のせいかとも思い合わせたが、それは訊けない物々しさが漂っていた。

「だけど、直樹さんに案内されてよかったです。さっき先生方とも話していたんですが、私こういう形で移植に関わるのは初めてで昨晩はあまり眠れなかったんです」

「死刑囚が怖いですか」

 直樹は歩みを止め三人に振り返った。金城と盛岡は首を下に振った。

「ならば心配はご無用です。三人を切りさいなんで一人を絞殺した殺人鬼といえども私の他に屈強な警備隊員が直ぐ側で皆様の警護を務めますから」

 直樹は緊張を解そうとしたのだが検査技師は却って恐ろしさを増してしまった。

 しかし、佐和子だけは明らかに別の憂えを濃くしていた。

「私は死刑囚だからどうとかじゃなく、こうして生きている内に臓器提供の確約を頂くのが心苦しいんです。これが果たして善意と呼べるでしょうか」

 心優しい、佐和子らしい苦慮であった。直樹は物々しく言い足した。

「今回の提供は拘置所の無理強いでなく紛れもなく本人の意志です。第一、確約ならばドナーカードを持つ全員に当たります。奴に限ったケースではありません」

「奴?」

「今から目になさる死刑確定者、竹之内嘉樹です。それより佐和子さん、検査技師の先生方も、これから医務室で見聞きする一切は他言無用にお願い致します。この件はいわば行刑の機密です。外部には決して口外なさらぬようご留意頂きたいのですが」

 硬い口調で念押しされた佐和子は真顔で言い返した。

「私達は医療従事者です。守秘義務は公務員だけの法律ではありません。それは臓器移植法第十三条にも明記されています。ドナーにとってもレシピエントとっても秘密や情報は絶対に明かされません。なぜならお互いの人生に関わるからです」

「お分かり頂いていれば結構です」

 事務的に了解事項を確認した直樹は正面に向き直り二階へと向かった。

「東です。技師の先生方がお着きになりました」

 ノックで開かれた医務室の中には既に警棒を携えた警備隊長の小幡と腹心の田春が、背中向きに座している嘉樹の前に厳と立っていた。田春は行刑の柔道大会で何度も優勝経験がある大柄の猛者である。

 医務課からは保険助手の伊瀬が立ち会っていた。全員に正体を知られている直樹はサングラスを外し、佐和子ら三人に椅子を勧め、嘉樹に命令した。

「九二〇〇番、起立して入口へ向け」

 黒いTシャツに黒いスウェットパンツを穿いた嘉樹は丸椅子から立ち上がり、体を回転させて穏やかに挨拶をした。

「竹之内嘉樹です。本日はようこそお出で下さいました」

 と嘉樹から笑顔で手を差し伸べられた佐和子を始め、検査技師一同は見覚えのある容姿にはっと息を飲んだ。

 ここで透かさず直樹の叱責が飛んだ。

「手を下ろせ、九二〇〇番。勝手に動くな」

 嘉樹は首を捩じ向け、額に皺を寄せた。

「何で止めるんだ。礼儀だろう」

「貴様から先生方に触るな。もし少しでも触れたら移植どころか検査も即刻中止にするぞ」

 嘉樹は舌打ちして手を下ろそうとしたが、佐和子が握手を強行した。

「初めまして。私、名私大から参りました移植コーディネーターの吉住佐和子と申します。本日は前もって検査以外にも何かお尋ねの事柄があると伺っております」

「はい、折角ご足労頂くならば一つ専門の方に内々のご相談をと思いまして。しかし、お見えになる先生がこんなにお美しい方とは、嬉しい誤算です」

 面と向かって褒められ、佐和子は思わず頬を赤らめた。

 苛立った直樹は「本題を」と握手を分断させた。

「でも、その」と寸分違わぬ二人を比較し、戸惑う佐和子に嘉樹は内実を教えた。

「似てるでしょう。一卵性なんですよ。養子で苗字は違いますが私が兄で、舎房担当のこいつが弟」

「黙れ、九二〇〇番、私語は慎め」

 直樹は叱声を更に上げた。嘉樹は、今更規則で縛るなと切り返した。

 この時になって佐和子はサングラスの理由と、執拗なまでに迫った守秘義務に納得がいった。双子の兄が死刑確定者で弟が担当刑務官とは対極に過ぎた構図で、世間が知ればこれほど感興をそそるゴシップもないだろう。

 佐和子は金城と盛岡に向かい睨み据える目で釘を刺した。

 両者とも意を察し黙って頷いた。

「それで、竹之内さん、内々のご相談とは何でしょうか」

 勧められた椅子に腰を下ろして佐和子は質問した。嘉樹は脳死移植を一旦諦めていたが可能性を再び尋ねてきた。何か法的な抜け道はありませんか、と問いを投げられた佐和子は突拍子もない懇願に困ったが暫し考慮してから答えた。

「遺憾ながらその申し出はお受け出来ません。何故なら移植法は法律附則第十一条一項で監獄法とも繋がっているからです。どれだけ脳死を望まれても国法は決して認めません。監獄法施行規則の条項が特例と認められたのは私達も正直驚いておりますが、いくらこの移植が極秘裏に行われるとしても私達医療に携わる者が法を犯すわけには参りません」

 それを耳にして嘉樹はがっくり肩を落とした。と、ここで金城技師が場を和ませるため眼鏡の赤フレームを上下させて冗談を発した。

「でも人為的な脳死というなら医学的に作り出すのは無理じゃないね。薬剤とか電気的な方法なら臓器も損傷が少なくてすむし」

「ふざけないで!」

 佐和子は怒りの目を剥いて隣の金城へ向いた。

「私達は命を救うための医療チームなのよ。それじゃあ単なる人殺しと変わらないでしょ」

「さ、佐和ちゃん──」

 金城と盛岡は青ざめて死刑囚を一瞥した。二人の恐れから佐和子は程無く場違いな失言に気付き、慌てて嘉樹へ謝罪した。嘉樹は「構いませんよ、殺人犯なのは事実ですから」と微笑んだ。

 佐和子はその穏和な顔付きへ、何とは無しに不審の念を抱いた。

「竹之内さんはどうしてそこまで脳死を願うのですか」

「私はキリスト教に帰依しましたから」と、嘉樹は直ぐ説き明かして詳しい理由を述べた。

「単に死ぬのではなく死後も豊かな実を結ぶ一粒の麦になりたいからです。私はかつて一度に四人をあやめました。死刑一人と被害者四人では採算が合いません。脳死でしたら少なくとも五、六人の人生を助けられる計算になります。死に逝く者にとって脳死移植は何よりも優る贖罪ではないでしょうか」

 佐和子は第三者の目線に立つ嘉樹の心境に一層驚いた。

 死刑執行という重圧で本来なら心が潰されてしまう所を嘉樹はその後の命の分配の事まで思索していたのである。それも脳死移植という自己犠牲を希望して。

 正直、日本での移植というのはマイナスイメージがつきまとう。死後の心停止下移植であっても体を切り刻まれるというのは遺族にとっては残酷に感じるようで、無傷のまま昇天させたいとの真意がある。特に脳死の場合、いくら意識が戻らないとはいえ呼吸をしている以上、命を絶ち切ってしまうのは間接的に殺人に荷担するのではないかとの罪悪感を抱く。それに脳死移植に賛成してしまったら万が一でも助かるのに、移植を優先されて治療を放棄されるのではないかとの恐れもある。

 生きたいと願うのは生物の生存本能に起因している。臓器移植を考えるのは死について考えるのと同じ意味を持ち、大抵の人間は死について考えない。逆に普段から間違いなく死に直面しているのは死刑確定者である。己の欲望だけを満足させようと足掻く死刑囚とは真逆に嘉樹は折角ならば死と交換に生きた証を望んでいる。

 臓器移植は不法の臓器売買でなければ、移植された相手から謝礼を貰う訳でもないし、相手の名前すら教わらない究極の無料奉仕ボランティアである。

 地面に植えられた一粒の麦はより多くの実を結ぶ。そしてその実もより多くの作物となって世の中を豊かにしていく。移植はそれと等しく、助かった命はその命を次の世代へと繋げていく。

 佐和子はニコリと笑ってから残念そうに軽く頭を下げた。

「移植の意義をそこまで高めて頂くのは欣快きんかいに存じますが、ご期待にう事は叶いません」

「ううん、これほど新鮮で死ぬ時間まで決まっているドナーはいないんですがねえ」

 専門家に拒否されては致し方なく、嘉樹は仕様事なしに諦めた。しかしハッと思い付いて佐和子に訊き足した。

「ああ、じゃあ、死体からも皮膚は取れるんですね」

「え、ええ。ご遺族の承諾さえ頂ければ勿論」

「背中以外ですよ」

「はい。腹部や胸部、脚部の皮膚も組織移植の対象になりますから。血管や心臓弁、骨もそうです。スキンバンクや骨バンクもありますし。でも何故ですか」

「実はこれがあるんですよ」と嘉樹は一気にシャツを脱ぎ背部を見せた。

 佐和子は目の前に現れたブレイクの天使画に忽ち心を奪われた。

「──綺麗」

「お気に召して頂けましたか」

 嘉樹は愉快げに服を着直した。佐和子は熱を帯びた目で尋ねた。

「今のは何の天使ですか。ラファエルですか、ガブリエルですか」

 すると横から直樹が辟易した顔で割って入ってきた。

「こんな奴のが! とんでもない。堕天使ルシフェルですよ。大胆にも神に成り代わろうと謀って地獄へ堕とされた、浅ましくも憎き魔王です」

 正しくこの画が嘉樹の真の姿だといわんばかりのすげない切り出しであった。それでも佐和子は感じたままを口にした。

「いえ、私にはそう思えません。一見寂しそうですけれど心安らぐ気がします」

「騙されてはいけません。油断させておいて魂を抜き取るのが悪魔の常套手段なんです」

「ふん、直、お前は自分がミカエルとでも言いたげだな」

「静かにしろ、九二〇〇番。一々抗弁するな」

「ちっ、称呼番号ばかりで呼びやがる。法務省のお役人さんは怖い怖い」

 嘉樹はべえっと舌を出した。

 佐和子はそのおどけた素振りを眺め、これが本当に死刑を待つ態度なのだろうかと訝しがった。

 そうしてから移植に関する一連の検査が済み、対象臓器は死刑執行という特別な状況と死後の摘出所要時間をかんがみて腎臓、眼球(角膜)、骨、皮膚と決まった。

「竹之内さんから腎臓二つを無事に取り出して移植するには時間的にかなり厳しいですけど、名私大移植チームの名誉にかけても必ず成功させます。万全の体制を整えて」

 と佐和子は笑って約束したが内心は心苦しかった。

 死刑執行は心停止から五分待ってその後に病院へ搬送されるのだが、どれだけ用意周到に進んでも、手術の時間を足してトータルで三十分近く掛かってしまう。そのタイムロスでは両腎が活かされるにはかなり難しいし、仮に手間取ってWITが六十分を超えてしまうと片腎でも生着の確率は低くなってしまう。

 佐和子がこれまで移植に関わった経験上、腎摘出までのWITは三十分以内が殆どを占め、移植腎機能発現率も高い。出来れば二十五分以内に阻血時間を抑えたいのが本音である。

 病院内の脳死に近い死体移植(この場合心停止して直ぐの移植の事)であっても時間との戦いになるが、死刑囚の臓器移植に至っては現行法を改正するか、絞首以外の執行に切り替えねば腎移植の成功率は上がらないだろう。ただ嘉樹が触れた「死ぬ時間が決まっている」というのは真実であり、移植医にとっては盤石な準備が出来るためある意味最高のドナーとも取れたが、佐和子にはその点にわだかまりが残っていた。

 人為的な死によるドナーでは本当に正しい善意の移植になりうるのか、と。

 嘉樹はその心内を知らずに佐和子へ丁重に礼を述べてから右手を差し出した。

「もうお会いする機会はありませんが、貴女とお話し出来てよかった」

「お元気で、とは可笑しいですけど」

 佐和子は隠した憂いを悟られないように再び笑顔で握手を交わした。

「嘉樹さんはレシピエントの中で生き続けます。亡くなられても私は貴方とは患者さんを通してずっと会えます。ですから永別ではありません」

「ああ、実に先生は素敵な方だ。もっと前に出会っていれば私の人生も変わっていたかもしれません。脳死の件以上に残念です」

「あら、私、ドナーの方に口説かれたのは初めてです」

 佐和子は顔を輝かせ、次いで直樹へ向き直り、小声で囁いた。

「でも、直樹さん、同じ血液型でカードを提示されているこんな元気なお兄さんがお見えでしたら、肝臓を少しくらい戴けたんじゃないんですか。まあ、家族間であれ提供の無理強いは厳禁ですから今更こんな繰り言を申しても仕方ありませんが」

「──そりゃ一体何の話です」

 聞き耳を立てていた嘉樹が顔を顰め佐和子に訊いた。

 佐和子は戸惑った口調で答えた。

「肝癌で亡くなられたお母様への生体肝移植です。拒否なさったんではないんですか。弟さんの肝臓は適さないからどなたか親族で代わりのドナーを探して──」

「吉住先生、検査が済んだのであれば速やかにお引き取り願います。詳細は後日こちらから御連絡致しますので」

 直樹は立ち話を遮り、名私大の三人を外へ追い出そうとした。

「おい、待て、直。お袋の肝移植とはどういう事だ」

 咄嗟に嘉樹は右手を伸ばした。

「触るな、九二〇〇番」と直樹はその腕を叩き払った。嘉樹は怒って逆肩を掴んだ。

「逃げるんじゃねえ。俺は説明しろと言っているんだ」

「貴様、俺に暴行したな」

 直樹は肩に食い込んだ指を体の回転で外すと控えていた小幡らに、制圧、と声を張り上げた。嘉樹は瞬く間に手足を縛られた。それでも藻掻く嘉樹に直樹は、保護房で頭を冷やすよう吐き捨て、静まる廊下へ出て謝罪した。

「先生方、お見苦しい場面をお見せして大変申し訳ございませんでした」

「ドナー候補に記入さえ無かったのは、お兄さんに初めから隠してなさったのね」

 全てを見抜いた佐和子は眉を逆立てた。直樹はサングラスを掛けた。

「隠していたのではありません。奴は東家の者でないので条件には当てはまらないんです」

「違います。死体移植ならともかく、生体肝移植は民法が適応され、嘉樹さんは自然血族で該当します。ご存知でしょう」

「知っていました。しかし竹之内は国が裁きを下した死刑確定者です。外界へ出るのは再審の判決で青天白日の身となるか、もしくは棺に収まってからしか無理なんです」

 佐和子はサングラス越しにうっすら透ける瞳を厭わしそうに睨み付けた。

「貴方の目は暗闇のように冷たい。堕天使を下劣に見るなら貴方はそれ以下だわ」


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