堕天使の梯子 Ⅴ

 

「随分大きくなったな」

 定時の業務を終え帰宅した直樹は、マタニティードレスを着てキッチンの椅子に座る妻の腹を眺めた。性別は女と産科から教えて貰ったのが丁度二週間前であった。

「このも七ヶ月だから」

 サヤエンドウの筋を取りながら瑞樹は丸くなった下腹部を愛おしそうに撫でた。

 棚にある電子カレンダーは六月三日を示していた。

悪阻つわりは未だ続いているか」

「そうね、気持ち悪いのは相変わらずだけど一時間毎に小分けして食べてる」

「済まんな、あまり構ってやれなくて」

「気にしないで。私だってお義母さんの看病に行けないもの。それで容態はどうなの」

「見た目は元気だけど、食欲が前より、な」

 余命幾ばくも無いと察した瑞樹は黙った。自分の両親は共に健在だが、直樹の場合二人とも他界してしまうのである。案じた華奢な手は夫の膝に伸びていた。

「元気出して。私がいるじゃない。結樹だってもうすぐよ」

 妻の慰めへ直樹は、ああ、と掌を重ねたが、どこか納得していなかった。直樹には妙子がいつも神々しく映っていた。絶えず挫けそうになった失意の背中を押してくれ、何より産まれた時長男として申請するよう強く主張してくれた。その優しさがどれだけ励みになったか判らない。

 するとその時、胸ポケットの着信音がけたたましく鳴り響いた。

 急いで携帯の画面を確認してみればベツレヘム病院の名が点滅していた。

「はい、東です」

「直樹──さん。私──です」

 電話の相手は真宥子であったが、何故か切れ切れの音声で聞き取りにくい。故障か、もしくは電波の状態が悪いのかと直樹は画面を改めて確かめてみたがアンテナは三本立っており受信に問題がある訳でもなかった。

「もしもし。真宥子さん。どうしたんですか」

 声を大きくして直樹は受話器に話し掛けた。真宥子は間を置いて不明瞭な返事を繰り返した。

「──私、今──先程──急に──ご連絡を」

 耳を澄ますと言葉の端々に鼻を啜る音が混じっている。どうやらむせび泣いているようで、直樹の胸には不安が一度に押し寄せた。

「母に何か? 真宥子さん──真宥子さん。何ですか、はっきり答えて下さい」

 要領を得ない口調に直樹が語気を荒げると、真宥子は忍び声ながらゆっくり返答した。 

「妙子さんに発作が起きて、五分前に息を引き取られたんです」

 突然の訃報に思わず呼吸が止まった。最低死に目には会えると安んじていた直樹は電話を切ると早急に瑞樹とホスピスへ向かった。

 瀬戸までの距離は短かった。

「──直樹さん、瑞樹」

 勢いよく開けた扉の先には、一驚して涙を拭う晃子と、無言で横たわる母の姿が見えた。

 妙子の許へ歩み寄り、顔を覆っていた白布を静かに取り上げれば、そこにはとても死んだとは見受けられない穏やかな笑みがあった。

(死んでしまったのか、本当に──)

 親しい者の最期を初めて目の当たりにした直樹は乱暴に心をえぐり取られた気がした。当たり前に過ごす日常とは程遠い「死」が今は眼前に遺体となって横たわっている。ただその現実を直視するものの、深層では受け止められず、混沌とした感情に支配された直樹は微動だにせず、放心したように立っていた。

「お母さんね、今際の際に少しだけ囁いたの」

 茫然自失する直樹と瑞樹へ晃子は目頭を押さえて最期の様子を伝えた。

「直樹、ありがとうって。親身に看病してくれてありがとうって」

「え、直へお礼を? じゃあ、お義母さんは見当識障害が治ってたの?」

 瑞樹は驚いて訊いたが晃子は目を閉じた。

「いいえ、多分最後辺りに、断片的に思い出しただけ。でも妙子義姉さんは直樹さんと一緒にいたかった。だから黙っていたんでしょうね」 

「母さん!」 

 直樹は妙子に覆い被さり、たけるように号泣した。顧みればここ数日態度がいつもと違っていた。息子に迷惑をかけまいと惚けた振りを続けていたのだろう。最後の最後まで最良の母親であったがもはや甦らず、直樹は喉が潰れるまでずっと泣き続けた。

 そうして翌日には常高寺で通夜が営まれ、翌々日には葬儀が執り行われた。霧雨が降り続く告別式には急遽駆け付けた佐和子が真宥子の横で啜り泣いていた。

 荼毘の煙が消えても直樹にはもはや一粒の涙も出なかった。だが、小さな木箱に収まり、寺へ戻る母を片腕に抱えた途端、その軽さで虚無感が一気に広がった。

 あの慈顔には二度と会えない、頭を撫でてくれたあの温もりある掌にはもう触れられない。

 直樹は境内の途中に鎮座する二叉樫の前で立ち止まり、傘を下げて葉の生い茂る天辺を睨んだ。

(こいつは神宿る樹なんかじゃない。不幸の源だ。人命を枯らす死の象徴メメント・モリだ)

 細かい雨粒が頬を濡らす度に憎しみの血が煮えたぎった。父を絞め殺し、母を病死させた元凶がこの樫の片割れなのである。

 奥歯を堅く噛みしめながら直樹は復讐の決意に震えた。

「赦さない。貴様だけは絶対に」


「どうした、四日も休むとは夏風邪でも引いたか」

 火曜日、昼に登庁した直樹を見付けた嘉樹が軽口で囃し立ててきた。

 担当台を左顧さこすると鮫島は頭を横にぶんぶん振った。どうやら関係者の誰もが内情を知らせていないようで直樹は拳を握り、そのまま嘉樹の許へ向かった。

 今回は場合が場合である。前より酷い事態になるかもしれないと、再度の乱闘を案じた副担当は急いでその後を追った。

 だが、不思議に直樹の歩みはとても緩やかであった。

「九二〇〇番、差し入れだ。入るぞ」

 直樹はわざわざ了承を求めて房扉を開けた。

 嘉樹はクレパス片手にテーブルへ座り、神父の勧めで始めた天使画をノートに描いていた。

 ジョゼフは個人教誨の際スケッチブックを持ってきて、絵解きで聖書の解説をするのだが、ある時、彼の代わりに嘉樹が鉛筆を執った所、玄人はだしの素描に感嘆し、これから聖画を描いてはどうかと提案したのが切っ掛けであった。それから直接村上に頼んでノートの絵画使用の特別許可を得たジョゼフは次の訪問時に作画資料を持ち込み、主題に選んだのが天使図であった。

 また画の隅には必ず聖書からの引用文が英語で書き添えられていた。

 但し、嘉樹の描く天使は全て背中に彫られたルシフェルである。一見すると翼の白い熾天使だが、いつも虚ろな視線を空に向け、悪魔の一族らしき数本の醜い腕に足首を掴まれている。

 堕ちても尚一人天の座を目指す地獄の支配者、「曙の明星」。

 今仕上がった堕天使図に付されたのもイザヤ書からの聖句であった。

“Judgement is far from us,neither doth justice overtake us;we wait for light,but behold obscurity;for brightness,but we walk in darkness”

(公正は私たちから遠く離れてしまい、義は私達に追いつかない。私達は光を待ち望むが、見よ、闇があり、輝きを待ち望むが、私達は堪えざる暗闇の中を歩み続けた)

 直樹は文章を一読するや冷酷な目で嘉樹を立たせた。次いで棚のマリア像を取り上げるとそれを握り締め、嘉樹の胸にどんと押し当てた。

「差し入れとは俺からの報告だ。祈れ」

「──祈る?」

「祈れ、セイボに向かって冥福を祈れ」

 怒りを無理に抑えた声と冥福の一言で嘉樹は何が起きたのかを察した。セイボとは聖母でなく「生母」であり、欠勤は喪に服するための特別休暇であった。

「そうか、ったのか」

 下唇を噛みしめ、直樹は嘉樹を睨んだ。以前の荒々しさは無かったが、謝罪なく逝ったとしか口にしなかった。東の家を追い立てられたとはいえ自分を産んだ母親であろう。父を殺され病気になったのは誰のせいだろう。

 切歯扼腕せっしやくわんした直樹は顔を伏せ、嘉樹の胸板を何度も叩いていた。

 いつの間にか畳に雫が垂れていた。

「貴様のせいだ。貴様の、せいだ。全て貴様の。これで何人殺した、人殺しめ、人殺しめ」

 鮫島は扉の外で控えていたが、力尽くで殴っていないので何の手出しもしなかった。

 配偶者を殺され尋常な神経でいられる妻はおらず、それも犯人は息子である。悶絶するような耐え難いストレスであったに違いない。いくら死廃の人間でも立ち入っていけない領域はある。

 鮫島は二人の黒白こくびゃくを分けた「父殺し」に改めて切なさを感じた。


 そうして四十九日の法要が済む頃になると、房内から嘉樹は突如変わった事を言い始めた。

「直、お前に折り入って頼みがあるんだが」

「何だ」

 直樹は抑揚の無い単調な声で訊き返した。

 妙子という支えを失ってから直樹は一変した。

 坂巻や石動の冤罪死刑囚は別として、他の確証ある囚人へは極端な程冷淡に処遇するようになったのである。クラウド・ナインの雰囲気に感化され、どこか馴れ合いになっていた気持ちを切り替え、人殺しはやはり死んでもらうのが世の為と元の意固地な存置論者に戻ってしまった。

 鮫島はその変化を激しくなじったが、「改悟の情も無い死刑囚に人権は要らん」と取り付く島も無く余計態度を硬化させ、序でに例会も所長に訴え月一に減らしてしまった。これは村上が良い顔をしなかったが、これ以上甘やかすのは得策でないと判断した柴田は当局を通じて了解を得た。

 局もそれなりのデータが集まっていたせいか、「会議を終了させても構わない」とまで通達してきた。アーベントの減少は住人にとって衝撃的なニュースであったが、直樹は「反対するなら既得権を一切白紙に戻す」と和室へ独断で呼んだ警備隊十人を引き入れ強引に納得させた。

 鮫島は直樹の唐突な強硬手段に困惑する住人への援護に出たかったが矯正局示達では手も足も出なかった。

 味方にすれば頼り甲斐がある。しかし、敵に回せばこれほど恐ろしい人間はいなかった。今までの正担当は死刑囚に圧倒され、どこかで根負けし、任を降りたものだが、親を殺された憎しみが重圧を全て撥ね除けていた。

 嘉樹が直樹に依頼を持ち掛けたのはそんな七月も終盤に差し掛かった頃である。

 会議の件には全く口を出さず、神妙にしていたアラードクの主宰に不自然な心持ちを抱いたけれども、相変わらずルシフェルの描画だけには余念がなかった。

 そんな折の願い事はとても奇矯であった。

「どこかでドナーカードを貰ってきてくれないか」

「──ドナーカード? 何に使うんだ」

 直樹は慳貪けんどんに訊き返した。

 黒色クレパスを手にした嘉樹は呆れて答えた。

「お前な、あのカードの意味くらい知っているだろう。何でもいいから一枚貰ってくれ。神父に求めてもいいんだがチェックを通し二度手間になるからな」

 死刑囚の中には減刑を狙い献体などを申し出る者がいるが、公判にも再審にも影響しない。それどころか逆に殊更めいた命乞いとして裁判官の心証を悪くするおそれもある。もしくは教誨の効果で償いの心が多少なりとも芽生えたのかとも考えたが、堕天使ばかりを描いている人間に高邁な精神は似合わないと馬鹿馬鹿しい推考を否定した。第一、嘉樹は再審を請求していない。

 興味本位で求めているのだろうと直樹は移植外科病棟の配布箱から余分に抜いていた一枚の黄色いカードを財布から取り出すと、食器孔越しに滑らせた。

「ほう、直、お前常時携帯しているのか」

「俺の場合肝炎があるから簡単に丸は付けられないがな。用件は以上だな」

「ああ、ちょっと待て。肝心なのはこれからだ」

 早々に立ち去ろうとすると声高に呼び止められた。

「この欄にお前の名前を記入してくれ」

 嘉樹の指はドナーカードの裏面下部を差していた。

「はあ?」と直樹は目を丸くした。『家族署名欄』にサインを求められたからである。

「戯けか。お前は死刑確定者だぞ。ドナーになどなれる訳ないだろう」

 好奇心のみでカードを欲しがったかと思えば嘉樹は真面目に臓器提供を申し出るつもりでいた。

 死刑囚が臓器提供を、という提言は端から監獄法施行規則(明治四十一年発令・平成十九年廃止)によって阻まれている事実を普通の国民はあまり知らない。

 監獄法施行規則・第百七十九条「受刑者ノ死体ハ死亡後二十四時間ヲ経テ交付ヲ請フ者ナキ場合ニ限リ解剖ノ為メ法務大臣ニ於テ指定シタル病院、学校又ハ公務所ニ之ヲ送付スルコトヲ得」とあるのは死刑囚が献体を申し出た場合の法律である。

 第百八十一条の埋葬許可についても「死亡後二十四時間ヲ経テ死体ノ交付ヲ請フ者ナキトキハ第百七十九条ノ場合ヲ除ク外之ヲ監獄ノ墓地ニ仮葬ス可シ」と記載されている。

 つまり献体であれ、遺族への遺体返還であれ執行後二十四時間経過しないと拘置所からは出られないのである。ちなみに二十四時間後というのは蘇生の可能性を鑑みての文言で、平成における日本の執行方法で息を吹き返した死刑囚は一人もいないのでこれは飽くまでも形式となっていた。それに昭和二十三年に施行された「墓地、埋葬等に関する法律」の第三条にも死後二十四時間経過しなければ埋葬してはならないとの記述がある。つまり死刑囚の遺体が直ぐさま外へ出る可能性がないのはこの監獄法施行規則と墓埋法の二法の慣例によって阻止されていた。

「違う。それは単に献体の話だ。臓器移植は監獄法には当てはまらない!」

 嘉樹は声高に反論した。直樹はそれを押さえ込む声で逆襲した。

「献体も臓器移植も理屈は変わらん。法律は法律だ。それに可能性があるとしてもお前のドナーカードに俺は関係無い。願うなら竹之内の一族に願え」

「いいや、俺は妻とは離婚した。近い内に竹之内家からも離縁してもらうつもりだ。そうなると法律上の身寄りはお前だけになる。臓器移植は家族の同意が必要だ。だからお前の署名が要る」

 途端直樹はグッと言葉を詰まらせた。嘉樹は親族の定義を知っていた。

「頼む。お前の名がなければカードの効力はなくなってしまう」

「俺が、いや、仮に竹之内の者が署名しなくても有効性はある。無記名でも遺族の承諾さえあれば望みは通る。それに遺族が無いとなれば自署だけで構わない。但し、それは仮定だ。大体幸三はお前を手放さんだろう」

「ならばこそお前がサインしてくれ。親父さんや姐さんでは反対されるのは目に見えている」

「無理だ。俺は今『遺族』と補足したはずだ。臓器移植法運用ガイドラインには『配偶者・子・父母・孫・祖父及び同居の親族』、もしくは『喪主又は祭祀主宰者となるべき者』との原則がある。俺は関係ない。どうしてもと望むなら手紙でも面会でもいいから竹之内幸三に話を付けろ。どのみちその前に施行規則で臓器移植などはねられるがな」

 理路整然と突き放し、直樹は房を離れようとした。

 ところが出し抜けの独言に足が止まった。

「駄目だ。親父さんでは脳死移植に賛成してくれない」

 直樹は憮然として扉へ戻った。

移植だと。どんな発想をすればそんな結論に辿り着くんだ。いいか、仮に施行規則を通過したとしてもお前が望む臓器移植は執行後だ。監獄法第七十二条は知っているだろう。絶対無理だ」

「それはお前が臆断しているに過ぎない。一度所長に面接させてくれ」

「無駄だ。やはりお前は法律の何たるかを解っちゃいない」

「いいから会わせろ。そのくらい造作ないだろう」

 嘉樹は同じ要求を執拗に迫った。

 過去に例を見ない粘りに堪えかねた直樹は最後に届けは出しておくと約束して担当台へ戻った。

(あいつは何を考えているんだ)

 直樹は苛立ってもう一枚のドナーカードを財布から取り出して裏の内容を睨むように眺めた。

 死体臓器移植のドナーは二種類に分類される。脳死下臓器提供と心停止下臓器提供である。万が一死刑囚の臓器提供を考えるなら飽くまでも「心停止後」の腎臓・眼球(角膜)に限られている。監獄法七十二条には「死刑ヲ執行スルトキハ絞首ノ後死相ヲ検シ仍ホ五分時ヲ経ルニ非サレハ絞縄ヲ解クコトヲ得ス」と記され、脳死移植は心臓が鼓動している状態が命であるも、検死の後更に五分間待たなければ首に掛かったロープは外されない。また、前項の七十一条には執行場所は監獄の刑場内と指定されている。つまり死刑囚には心停止下臓器提供しか有り得ない。

 献体にしても九十年代後半までは死刑囚の献体は行われていたが、近年では生前に登録を済まさねばならないために死刑囚からの献体は受け付けていないのが現状であり、臓器移植にしても心停止後の臓器移植とはいえ死後に使用できる臓器には大凡の制限がある。

 脳死移植は脳の機能が停止した状態での移植であり、脳以外の臓器は変質していない。対して心停止下臓器移植は心臓が停止してからの移植となる理由で臓器の鮮度が格段に落ち始める。角膜の摘出は死後六時間までと比較的その劣化に強いが腎臓はそうはいかない。

 献腎(死体)移植においての腎臓を取り出すタイムリミットは最長で六十分である。また、ドナーから取り出した腎臓を冷却するまでの時間を温阻血おんそけつ時間(WIT:warm ischemic time)と言うのだが、そのWITは生着せいちゃく(移植臓器が体内に定着し、正常に機能を始める状態)成功の成否を分けるため短いに越したことはなく、三十分以内とされるのが現在の理想とされている。ちなみに混同しやすいのであるが、WITの後、臓器保存液などで冷却して運搬するまでの時間を総阻血時間(TIT)といい、腎臓では二十四時間が限度とされている。

「主任代理、藤倉先生がお見えになりました」

 鮫島は以前の固い役職名で呼び掛けた。

 無表情に副担当を黙視した直樹はエレベーター前に立つジョゼフを迎えに行った。

 何時になく坂巻が個人教誨の願箋を提出し、それを受けての来所であったが、神父は長方形の黒いビニール製キャリングケースを提げていた。

 縦は三十センチ、横は一メートル程あり、余程重いのか細い右腕が小刻みに揺れていた。

「直樹さん、少しは落ち着かれましたか」

 ケースを左手に持ち替えたジョゼフに直樹は一礼した。妙子が逝去して程なく、信徒でもないのにインマヌエル教会で追悼ミサを行ってくれたのである。

「その節はお世話になりました。ところで先生、そのケースは」

「これは私の七つ道具の一つです。後で分かりますよ。坂巻さんは?」

「教授なら先生のご希望に従って和室へ連れて行かれましたが」

「結構です。ではあまりお待たせしては申し訳ありませんので直ちに──」

 ふっとここで言葉を切ったジョゼフは俄に立ち止まり、クーラーの轟音に混じって廊下に流れるラジオ放送へ耳を傾けた。

「成程、改めて聴いてみるとリクエスト曲が主にポップなのは本当ですね」

「現代リスナーの好みでしょうから。後はラップか、よくて演歌でしょうね」

「そういう事情なら坂巻さんには存分に堪能して頂きましょうか」

 ジョゼフは黒ケースを再度右手に持ち直しながら破顔した。直樹はその笑みが解せなかったが、ともかく和室へ招き入れた。

「やあ、坂巻さん。大変お待たせしました」

 ジョセフは入室して中の坂巻に声をかけた。

「これは神父様、お忙しい中、わざわざお越し頂き有り難うございます」

 正座して待っていた坂巻は丁寧な挨拶で頭を下げた。

「いいえ、ご要望とあらばいつでも参上しますよ。さて、直ぐ準備に取り掛かりますから暫くお待ち下さい。あっと、直樹さん、少々お手伝い頂けませんか」

「は、あ、はい」

 上がり口で警備に立っていた直樹は唐突に呼び掛けられたが、机にケースを置き、折り畳み椅子を広げるジョゼフの前に言われるままやって来た。神父は直樹に赤白のケーブルを手渡した。

「このジャックをそこへ接続して下さい」

 と、頼まれたコードをスピーカーの端子に差し込めば、椅子に腰を下ろしケースのジッパーを開けるジョゼフの手元が視線上に見えた。

「あ、それは」

 直樹は一驚した。持参した七つ道具とは何とキーボードである。

「村上部長と柴田所長の了解は事前に取ってありますからご安心下さい」

 ジョゼフは掌を上げ懸念を制すると、スピーカーのケーブルをキーボードに繋げ、鍵盤を二、三度叩き音量を調整した。入口に戻った直樹は音調を聴いてはっとした。

 耳に入ってきたのはピアノでもバイオリンでもない、澄んだパイプオルガンの音色であった。

「うん、音の大きさはこのくらいで良いでしょう。では、本日は坂巻さん独りの、一曲だけの演奏会です。よろしいですか」

 ジョゼフは坂巻に開始の合図を送った。

 ところが坂巻は急に、「お待ち下さい」と正座を直樹に向けるなりぬかずいた。

「東先生、ドアを開け放って頂けませんか」

「うん、何故だ」

「ここは防音室です。私一人では勿体ない。折角ですから皆に聴いて欲しい、世の中にはこんな美しい調べがあるんだと胸に刻んでほしいんです」

「──和室の開放は認められていない。悪いがそれは所の規則でな」

 直樹は申し訳なさそうに断った。と、ジョセフが直ぐに干渉してきた。

「いやいや、直樹さん、私が弾くのはクラシックです。まして演奏時間は四分弱、何かあったら私が責めを負いますから、お願いを聞いて差し上げましょう」

「困ります。九階はジョゼフ先生でなく正担当である私の責任です」

「ならば正担当の貴方が許可して下さい」

「しかし」

「東先生、お願いします。お願いします」

 ジョセフの無心に後押しされた坂巻はひたすら土下座を繰り返した。

「これから神父様が弾かれるのはいわば私の遺言、生きていた証の曲です。それを皆に忘れないで欲しいんです。もしこの曲がこの先流れるならば、私をしのんでもらえます。獄に繋がれていただけのつまらない人生でしたが、長年無実を戦い抜いた偏屈爺がいたと励みにしてほしいんです」

 こんな必死に懇願する人間の姿を見るのは生まれて初めてであった。

 神父は無言で首を縦に振り了解を催促した。この罪無い二人から願われては仕様もない直樹はやがて望みを受け容れた。

「仕方ない。ジョセフ先生たっての願いと、教授からそこまで拝み倒されたなら無下むげに断れんな。分かった。責任は俺が持つ。但し、他の階の迷惑にならないよう最小音に絞るが構わないな」

「はい、ありがとうございます」

 教授は嬉しそうに顔を上げた。

 直樹は部屋を出ると鮫島を呼んで次第を明かし、総務から借りてきた二十メートルの延長ケーブルとコードをスピーカーに接続しつつ、左側だけを担当台へ運ばせた。次にジョゼフに鍵盤を叩かせ、ボリュームレベルを少しずつ調整しながら反対の廊下端に立った鮫島の反応を見た。

 ある程度の音量になった所で「聞こえた」との手が挙がった。

 住人は突然響いてきた短音に視察孔から覗き出し、準備を終えた直樹は神父に向いた。

「ジョゼフ先生、用意が整いました。いつでもどうぞ」

「ならば早速始めます。坂巻さん、今度こそよろしいですか。では、Johannヨハン Sebastianセバスチャン BachバッハGゲーMolliモリー Fuugaフーガ Bachバッハ-Werkeヴェルケ-Verzeichnisフェアツァイヒニス 578フンフフンダートズィープツィヒです」

 バッハの『小フーガト短調』。ジョゼフはドイツ語の題名を口にして鍵盤に指を添えた。

 すると即座に透き通った音響が九階全体を包み込んだ。

 天上の名曲と評されるのがよく解る。汚泥を清流が押し流すような、曇り空の間から陽の光が幾筋も注いでくる、そんな輝く妙音であった。監獄には似つかわしくないと思っていたパイプオルガンの楽律は忽ち住人の心を捉え、誰もがラジオのスイッチを切り房扉に耳を寄せた。

 ト短調で始まる、伴奏を持たない緩やかな主題が進行すると、間もなくニ長調の応答が現れる。その応答に伴い主題の尾部が現れ、更に進むと再度主題が初めの調子で出現する。 その時点で最初の主題の尾部と応答の尾部がコーラスの輪唱のようにくっついてくる。

 主題と応答の反復が「追想曲フーガ」である。この曲の場合、対旋律と主旋律の密疎の組み合わせが絶妙で、時折現れるプラルトリラーの震えが耳に心地よい。

 坂巻も、また他の住人も息を潜め、荘厳なメロディーにじっと聴き入っていた。

 四分の演奏はあっという間であった。

「冥土への良い土産となりました。ありがとうございました、神父様」

 余響が消えても感動で静まる舎房の中、満足げに頭を下げる坂巻へジョゼフは優しく語り掛けた。

「これは天来の音楽です。この曲を望んだなら貴方は天国の住人です。絶望も恐れもない本当のクラウド・ナインに貴方はいます。判事は計りかねても神がその意味を解き明かしてくれるでしょう。長き苦しみに耐えた貴方はきっと天国の門を潜る。私はそう確信しています」

 坂巻は驚いて面を上げた。神父は無実を信じていたのである。

「私は行刑に依頼された教誨師ですから規程に反し再審へ手を差し伸べるのは適いません。ですが、天の神はいつもあなたの側で照覧しておられます。それをどうぞお忘れにならぬよう貴重な日々をお過ごし下さい」

 坂巻は憂いを含んだ顔で笑み返した。冤罪と知りながら何も出来ないもどかしさはジョゼフも同じに違いなく、応える笑顔には煩悶が隠れていた。

 亀山事件の真実を伏せ続けるやましさに直樹は二人を覗き見たが、とても正視に堪えなかった。


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