堕天使の梯子 Ⅳ


「大変申し上げ難いのですが、本日を以て私の役目は終わりました」

 名古屋へ戻って二週間後の日曜、病院に呼び出された直樹は移植外科の会議室で佐和子に頭を下げられた。

「癌細胞が転移したんですね、循環障害で壊死せずに」

 RTCの任務終了通告は移植が消えた以外あり得ない。妙子の疼痛とうつうは増し、腹は太鼓のように膨れていくばかりで腕の肉は極端に痩せ細った。肝臓癌末期の典型である。

 いつの日かこうなるだろうと覚悟していた直樹は息詰まる気振りもなく机上を指差した。

「あれから私は癌について細かく調べました。佐和子さんの前にある資料は多分、転移を調べるRI検査と腫瘍マーカーの検査結果でしょう」

 佐和子は無言で俯き、嗚咽おえつを抑えようとした。

 医療従事者として、表立って患者やその家族に情を移すのは不適格かもしれないが、真宥子から直樹の父親の無惨な亡くなり方を聞いていたし、直樹は心底から母親へ愛情を持って看病していた。だからその姿を見る度この宣告だけは是が非でも先延ばしにしたかった。しかし、その時は無情にもやってきた。

 それでも直樹は淡々と現状を受け止めた。その冷静さが却って佐和子の心を震わせた。

 この移植外科病棟は「希望」と「絶望」が混在している。移植が成功して去っていく者と、間に合わずに去っていく者の両者の差は結局「天運」でしかない。直樹の母親へは元気な退院をと望んでいただけに、遠慮無い運命への虚しさは悲涙となって溢れ出した。

「もういいんです。泣かないで、顔を上げて下さい、佐和子さん」

 堪えきれず涙に濡れたハンカチの向こうでは直樹が微かな笑みを浮かべていた。

「佐和子さんは精一杯尽くしてくれました。一時でも不利な条件をひっくり返し希望を与えてくれました。移植は遂に叶いませんでしたが母も恐らく感謝しています。後はゆっくり養生させてあげたいんです」

「では、ホスピスへ移られるんですか」

 佐和子はハンカチで残った涙を拭い取った。

「はい。ベツレヘム病院の入退院検討委員会から前もって転院の承認を貰っています。ここから先のケアは真宥子さんに委ねます」

 愛しい肉親の死刑宣告を嘆かない人間はいない。癌に罹った事ももちろん、移植が間に合わなかった事に大多数の患者と家族は運命を呪い、神を罵倒する。力の至らなさに再び胸を締め付けられた佐和子は直樹の気丈な笑面の下に痛々しい絶叫を見通していた。

「直樹さん、辛いのはご家族の方も一緒です。私でよろしければ何でも仰って下さい」

「ふふ、真宥子さんと同じ励ましをしてくれるんですね」

「姉さんと?」

「貴女達はやはり双子の姉妹ですよ。親切な所も瓜二つだ。有り難う」

 感謝され佐和子は含羞がんしゅうした。けれど直樹が「お世話になりました」と最後の別れを告げた時は妙子が急死したように感じ、祈りが通じなかった悲しみにもう一度泣いてしまいそうであった。

 それから二日後、妙子はベツレヘム病院へ運ばれ、院長の植松と真宥子の計らいで一番眺めの良い個室が用意された。

 暫くは森本の両親がボランティアと偽り面倒を見る旨を申し出てくれた。

 転院後の、密かに元通りADと修正されたカルテによれば肝癌は骨に及んでいた。当初は未だ苦しさを訴えていたが、数日後には妙子の症状は見違える程良好になっていた。もちろんモルヒネで症状を鎮めているだけなのだが、痛みを取るのがどれだけ大切なのかを改めて実感した。苦悶の顔が穏やかになり、晃子が施した化粧とカツラですっかり若さを取り戻していた。

 そして最大の変化は食欲が戻った事であった。

 妙子は直樹がホスピスのファミリーキッチンで作ったじぶ煮を瞬く間に平らげてしまった。

 直樹はその光景を嬉しそうに、また寂しそうに眺めていた。元気を取り戻してくれれば尚生きていて欲しいと願うものの、それは消滅前の僅かな閃光である。佐和子から「持って三ヶ月」と大凡の余命を伝えられていた直樹は、僅かな月日だが出来る限りの望みを叶えてあげようと思い、休みの度に妙子の好物を作ったり、昔話に付き合ったりしていた。

「長い間待ち望んだ子供がやっと授かったんですね」

 ある日突然妙子は膨れた腹をさすっていた。見当識障害で子を宿している幻想になっているらしく、直樹は時代を想定し辻褄を合わせた。

「五年も掛かったから私も心配したよ」

「ごめんなさい。でも、常高寺の夫婦樫は本当に御霊験あらたかで、一度願解がんほどき(願いが叶ったお礼参り)に行かないといけませんね」

「うん、夫婦樫って何の事だい」

「あら嫌だ。ほら、晃子さんから教えて頂いた西洋の験担げんかつぎですよ。子供が授からない聖者の夫婦が樫の樹の下でお祈りしたら懐妊した物語。ついこの前知り合った神父さんから教わったんですって」

「──もしかして『アブラハムのマムレ樫』かな」

 創世記の中に似た記述がある。随分変更されているが恐らく間違いない。

 妙子は、そうですよと肯定して言い足した。

「その歳で呆けるには早過ぎます。あなたも晃子さんから聖書を一部頂いたではありませんか」

 直樹は苦笑した。そして一つの謎が解けた。あの安産伝説は妙子と義母が意識せず作り出したのである。その後尤もらしく渥美半島に伝播していったのだろう。それにしても排卵誘発剤の投与で妊娠したのを御神木の御利益だと確信してしたのは信仰に篤い母らしかった。

 そうして月日はいつしか五月の初旬になり、桜の青葉が出揃う季節に直樹は病室の窓を開け涼風を入れた。ベッドの母を見ると空の両手を揺り籠のように揺らしていた。

 嘉樹と直樹の二人が産まれたのである。目を細める妙子に直樹は話し掛けた。

「可愛い双子だ」

「そうでしょう。私とあなたの子ですもの。あ、そうそう、この子達の名前をさっき思い付いたの。私が命名してはいけないかしら」

「構わないよ、何て名を?」

「先に産まれたこの子が直樹、後で産まれたこっちが嘉樹。あの二叉樫にお願いして授かった申し子ですもの。二人とも御神木みたいに『真っ直ぐ育ってくれますように』、『良い子でありますように』って付けたのよ」

 直樹は些か面食らった。まさか自分達の由来があの常高寺のアラ樫だとは知らなかった。いや、聞いていたのかもしれないがすっかり忘れていた。

「ね、あなた。嘉樹をどう思います」

 繰り返し記憶の順序が前後する妙子に直樹はそれと無く尋ねた。

「どうって何が」

「例の傷害事件ですよ。五人の子と喧嘩した」

 高校の後日談だなと直樹は即座に察した。

「私にはどうも情報が真実に聞こえないんですよ。人様にあれだけの大怪我を負わせておいて、『あれは直樹のための喧嘩だった』なんてまともに受け取れますか。直樹を大勢で叩き潰そうとしていた上級生を先に倒した、リンチから助けたかったなんて言葉はにわかに信じ難くて。そりゃあ、二人の関係がおかしいのは私達の教育が間違っていたのかもしれませんが、嘉樹が直樹をねえ。あなたは嘉樹が直樹と仲直りしたかったんじゃないか、なんて仰いますけど」

「──」

 意想外の過去に直樹は黙ったが、直ぐ嘉樹の言い訳じみた弁解に憎々しくなった。

「嘉樹はもう必要ない。あの子は疫病神だ。養子にでも出した方が為になる。そもそも直樹の方が先に産まれたんだから、東の家は長男の直樹が継ぐべきだ」

 この世からもいなくなるべきとも連続して口にしようとしたがその言葉は胸の内に収めた。

 妙子は唖然と見上げた。

「あなた変わったわ。まるで別人みたい」


 それから時は更に経ち、五月二十三日になった。

 ホスピスにすっかり慣れた直樹は院長室で病院長の植松新太郎と和幸の記憶に関する研究を簡単に語り合っていた。そしてそれは必然アルツハイマーの話題へ変わった。

 脱いだ白衣をソファーに掛けた病院長の植松は濃く薫るモカを啜った。

「しかし、失見当の妙子さんは思考が曖昧な点において幸せなのかもしれませんね」

「何故ですか」

 今の母を幸せと言及された直樹は不可解にダージリンのカップを下ろした。

 見るからに甘党らしく恰幅の良い植松はもう二本スティックシュガーをコーヒーに足した。

「一般的にホスピスは完全に生を諦めてから入る所と思い込まれています。ところがそうではないんです。誰でも死ぬのは怖い。癌と宣告された時は先ず否認します。そして怒りが来ます。次いで抑鬱症よくうつしょうになって最後に死の受容に入るのです」

「そんなプロセスが」

「ええ、患者さんによっては自分が死の淵に立たされている現状に納得出来ずスタッフに怒りをぶつけてくるケースもあります。不眠になったり、虚ろになったり、死欲に悩んだり、感情の起伏は日に日に変わりますが、我々は自然に受け容れてあげねばなりません。そうした経過で心落ち着き、死までの時間を有用に使えるのです」

「成程、母は思い煩いが無い分精神的に楽ですね。幸せとはそうかもしれません」

 直樹は紅茶に浮いていたレモンを皿に除けた。植松は理解の早さに感心して続けた。

「否認から死への受容は日常では起こりえませんからね。その過程を知っているのはホスピスと、嘗てペルーの大使公邸占拠事件で人質になられた方くらいでしょう。ただ、真の恐怖は後者の方が大きいでしょうね。ホスピスは自然死ですが人質の場合は射殺なのですから。いつ殺されるかと怯えて過ごす日々は癌患者の比でない。私なら発狂してしまうかもしれません」

「いつ、殺されるか──」

 直樹の頭にはまたしても真宥子の時と同じくクラウド・ナインの舎房が浮かんだ。

 ホスピスの死が祝福されるのに対し、九階は呪われている。両方の死に関わるジョゼフも、諭しの行程は共通だが結果はまるで違う。

「メメント・モリ」

 無意識に直樹は呟いていた。その単語に植松が反応した。

「そういえば貴方は藤倉神父とお知り合いでしたね。いや、あの方は本当に素晴らしい。当院の常勤になって頂ければ嬉しいのですが、どうしても首を縦に振って頂けない」

「先生はミカエルだけにはなれませんから」

「は?」

「あ、いや、神父はそんなに人気があるのですか」

「もう引っ張り凧です。ご本人は『神のイメージは西洋人の方が分かり易いんでしょう』と謙遜されるだけですが、あの方は患者さんの人生をじっくり聞き入れ説教なされるので福音の一節一節が琴線に触れるのです。ですから皆さんは得心して死に臨まれます」

「──そうでしょうか。私には今一つ響きません。人は生きてこそ人ではありませんか。死んでしまえば何も残らない。空しい死に対し果たして万人が納得するでしょうか」

「その価値観は各個人の生き方によりますね」

 植松はサイフォンからもう一杯のコーヒーを注いだ。

「何が幸福か、基準が人によって千差万別なように死への思念も違います。或る患者さんは子孫に財産を残して逝かれますし、また或る方は病院へ献体するようご希望なされます。自分が生きてきた証が一つでもあれば人間は安心して死を迎え入れるのではないでしょうか。個人的見解ですが、私はそう感じずにはいられません」

「生きてきた証──」

「反対に、自分が犯した罪に悶えている患者さんには神父は告解を勧め、苦しい想いを聞き届けてから魂の浄化をなさるのです」

「告解?」

「主にカトリック司祭によって秘密を守られる告白です。ホスピスの場合は罪過を悔い改めてから死に臨むのです。告白により穢れは取り払われ、安堵して旅立たれます。誠、信仰の力というのは時に医学を凌いでしまうのではないかと錯覚してしまう時があります。信仰を始めた途端随分と延命なされた方もみえますし、告解して、モルヒネでも効かなかった痛みが嘘のように取れた実例もありますし」

 そうすると植松はここで何かを顧念したのか、手を一度ぽんと叩いた。

「そうそう、以前知り合いの院長から一風変わった噂を聞かされました。宗教的な告解でなく犯行の自白なのですが、確か、去年の忘年会の席で聞いた話で、近年、御年配の患者さんが三重のホスピスで罪を打ち明けたらしいんです。『事件の犯人は私だった』と刑事さんを枕元に呼んで全貌を自供し、調べてみたら本当だったと。しかし、ご本人が直ぐ亡くなられたためか、公表はされないまま捨て置かれたそうです」

「──三重の?」

「何でも牛乳がどうとか、ネズミ用の薬がどうとか。ま、何の事件やら」

 植松は腕と足を組んで半笑いしたが、逆に直樹は一気に血の気を失い、身を乗り出した。

「そ、その亡くなった患者とは亀山の、若羽町の老人ですか」

「え? さ、さあ。この手の話はメンタルケアの一環で取り沙汰されているだけでしょうし、何分私も酔って半分聞き流していましたので記憶は定かではありません。しかし何故場所をお尋ねに?」

 何でもありませんと直樹は平静を装ったが、内心は途轍もない衝撃がぶつかり合っていた。植松は忘れているらしいが、告白した老人は恐らく亀山事件の真犯人である。

 それにしても何故警察は公表しなかったのか。時効を迎え起訴が無理だから敢えて惚けているのであろうか。

 報告は当然三重県警から警察庁へ報告されている。なのに警察機構は何一つ動いておらず、体面を保つため事件を揉み消した他推測出来ない。ならば法務省へも伝達されていて、これにより坂巻は獄死で処分させられるのは確実であった。

 端無くも黒い霧の真相を知った直樹は共犯者に仕立て上げられた重苦しい心境で院長室を退出した。

「教授、犯行に何の関与もしていないのか、本当に」

 淡青色の長袖合夏制服を着た直樹は翌日の午睡時間、坂巻の房へ立ち寄ると婉曲に尋ねた。

 伝聞で確証がないため「無実だったのか」とは問えなかったが、紛れもなく冤罪なのは分かっていた。それでも現職刑務官の、それも下級役人である自分が本省を相手取り告発するなど考えも付かず、仮に真偽を確かめるべく探偵擬きをして三重中のホスピスに質問した所でこちらには捜査権もなく追い返されてしまうだろうし、第一施設にも守秘義務がある。噂とはいえ出処が告白だと公表するのはベツレヘム病院だけでなく全国のホスピスにも迷惑を掛ける。

 苦悶と葛藤の末、直樹は口を噤む事を選んだ。

 坂巻はなぞっていた点字本を伏せると「勿論何も。無実ですよ」と顔を向け、

「でもぼちぼち言い飽きました。私の耳には虚しくこだまするだけです」

 と寂しげに漏らした。

 直樹は寂寞とした気持ちに包まれた。事実を藪の中に葬られ、犯してもいない罪のために四十年以上拘置され、何千何万の無実の訴えが粉微塵に砕かれたのである。坂巻はその中でいつ執行されるか判らない底知れぬ不安と恐怖に命懸けで抗い続けた。

「東先生だから白状しますけどね、実の所、もうどうでもいいんです。まさしく聖書の詩編六章七節にあるように『私の目は煩いのために弱り、私に敵意を示す全ての者たちのために老い衰えた』です。ほとほと人生に疲れました。落ちれば同じ谷川の水。私は蜉蝣かげろうのように呆気なく死にたいんですよ。人は順風でいる時は永遠を望みますが、逆風にある時は無への回帰を望むんです。例え今更釈放された所でどうなります。こんな老いさらばえ、目の不自由な爺などやがて爪弾きにされるがオチ」

 寄る辺もない坂巻は凭れた壁を二回指で叩いた。

「外界に比べここには苦楽を共にしてきたともがらがいます。ふふふ、皆死に逝く仲間ですがね。入っても地獄、出ても地獄。生存自体が既に地獄なんです。ですから私はソクラテスでもいい、クレオパトラでもいい、早く消えてしまいたいんです」

「──最後まで希望を捨ててはいけないな」

 ソクラテスは毒人参ヘムロックで、クレオパトラは毒蛇コブラで自殺した。毒の皮肉を交えながらも生に幻滅する教授を直樹は慰めた。しかし、坂巻は呆れ気味に長く息を伸ばした。

「希望ですって? 死刑囚舎房じゃパンドラの箱をひっくり返したって絶望以外何一つ出てきませんよ」

 これ程的を射た比喩は無い。坂巻は押し黙る直樹に訊いた。

「時に先生はルーズベルトの『四つの自由』をご存知ですか」

「ああ。確か、言論及び表現の、信仰の、欠乏からの、恐怖からの自由だろう」

「さすがです。ではクラウド・ナインにおける四つのFは如何です。私は禁断のFと呼んでいますが、特に確定者にとって口に憚る四Fです」

 隠語に聡い直樹でも初耳であった。坂巻は指を折りながら列挙した。

「それは、解き放たれる自由Freedom、希望ある未来Future、薄幸な宿命Fate

 坂巻は最後にゆっくり四本目の指を曲げた。

「そして、フェアウェルFerewell

 直樹はひっそり静まるリノリウム廊下を一望した。現在の刑場連行では他の舎房を刺激しないよう面会などを装って連れ出すから他の囚人と別れを惜しんでいる時間はないが、逆に空になった独房に住人が送る言葉はまさに「さようならフェアウェル」である。

「ねえ、先生、人生って一体何でしょう。『己自身を悲しみに委ねるのは危険だ。それは勇気と立ち直る希望を奪い去る』と哲学者のフレデリック・アミエルは励ましますが、私は逆に、『悲しみに助言や慰みを言えるのは、自分がその悲しみを感じないからだ』とのシェイクスピアの一節がより真理に感じます。私の父は昔、志摩で漁師をやっていましてね、子供の頃よく一緒に船に乗ったものでした。でも、ある日一人でかいの無い小船で遊んでいたら遙か沖へ流されてしまいまして。もう駄目だって子供心に観念しましたよ。見渡す限り海ばかり、偶々近くを通り掛かった漁船に救助されましたけどね。だから今、当時にさかのぼってこう思索するんですよ。私らの思うに任せない人生もあの小舟と同じ、海図もなければ羅針盤もない。浮き世の八潮路を波任せに漂う、流離艱苦りゅうりかんくの航海なんだと」

 人生は大海に放り出され、漂浪する椰子の実。

 行く当てない小舟の喩えは直樹の苦悩と余りにも酷似していた。

「ある人はGPS付きの大型クルーザーで立派な港に難なく着いた。私らは迷霧の中、手で水を掻いて進む古びたいかだで、必死に島影へ辿り着いてみれば巌だらけの難所だった。辛苦して上陸したらしたで水も食料もない無人島だった。それで心を折らず生きる望みを持てる人間が存在するでしょうか。努力しても報われない、翻弄されるだけの人生って、私の存在理由って一体何でしょうかねえ」

 教授は更に英語で付け足した。

“This world is a ladder for some to go up and some down”

 この世の中は登る者もいれば降る者もいる梯子である。坂巻は自分の惨めな境遇を梯子の譬えでかこった。直樹は罪悪感を抱きながら懸命に訴えた。

「とにかく命のある間は望みがある。環境がどうであれ人は帆を作って航海を続けなければ野垂れ死んでしまう」

「いいえ、それは単に往生際が悪い者の思想ですよ。古代ローマの政治家セネカは言っています。『生きることの最大の障害は、期待を持つということである。それは明日に依存して、今日を失うことである』。果たせるかな、それこそがこのクラウド・ナインの実相です。ですからもういいんです」

「駄目だ、駄目だ。死刑囚とはいえ諦めてはいけない。真実は絶対日の目を見るはずだ。いや、必ずそうあるべきなんだ」

 脇目も振らず直樹は坂巻を説き伏せようとした。真相を覆い隠す不正義に上書きするような自己弁護にも感じたが、もしかすれば良識を持った再審の裁判官が現れるかもしれない、そして虜囚であるその身が白日のもとにさらされる日が来るかもしれない。中立の立場にある刑務官の自分は何の力添えも出来ないがせめてこの拘置所の中だけでも無実を堅く信じている者がいると知って欲しかった。

 坂巻は暫し黙っていたが、やがて落胆した首を振った。

「先生、貴方はお若い。そしてこの階の本当の闇を未だ知らない。それはあたかも深い深い海溝です。そしてその暗い海淵かいえんには憎しみ、怒り、失望、嘆きなどの様々な負の感情が、ドロドロに濁ったヘドロとなって積み重なっているんですよ、抗えば抗う程その黒い澱は私達を掴んで放しやしないんです」

「教授、それでは貴方の今までの苦労や努力が無駄になる」

 直樹の必死の慰めに、はっ、と短い自虐の笑いを吐き捨て坂巻は首を上に向けた。

「そうです、故に先から私はここで生きている自体が無駄だと申し上げているではないですか。だから早く終わりにしたいと」

「しかし」

「いや、もうこれ以上引っかき回さないで頂けませんか。呪いの汚泥が舞い上がってより暗くなるんですよ。分かりますか? いいや、貴方が檻の外側の人間である以上、この身の上を理解するにはとても困難でしょうね」

「──当たり前だ、俺は犯罪者じゃない」

 結局坂巻の琴線に触れられなかった直樹は口惜しそうにボソリと呟いた。

「私も犯罪者じゃありません」と坂巻も笑止顔で反論した。

「でも何の因果か神の悪戯か、こうして閉じ込められています。貴方と私との世界を隔てるこの血塗られた房扉は恐ろしい程に重いのです」

「それは──」

 直樹は一言も言い返せなかった。死刑囚舎房のドアには収容者の悲哀が詰まっている。特に冤罪を疑われている者の扉は時が経つにつれ、開けようとすると何かの重量で段々動かなくなっていた。

 無言の直樹へ坂巻は「東先生」と呼び掛け、やんわりと言った。

「先程貴方は私を励まして下さいました。それはとても嬉しかったですよ。でも、同様の事を、双子の兄である嘉さんにも伝えられますか」

「何?」

「神はエサウを憎みヤコブを愛した」と、坂巻は点字聖書を手に取った。

「カインとアベルは供え物の違いでいさかいが起き、そのせいで兄は弟を殺した。結果カインはノドの地へと追放されますが、神は供え物の差について何一つ言及していない。心が正しくないからと尤もらしい理由を後にカインへ話していますが、カインとて神に喜んでもらおうと作物を捧げたはず。その気持ちを神は蔑ろにした。エサウにしてもヤコブの奸計かんけいに騙され父の祝福を奪われた。そのヤコブを神は愛した。エサウに何の罪もないのにですよ。弟に仕えるよう預言されていたために、或いは狩りをする野蛮な性向のため卑しめられたのかそれは知りませんが、果たして神とは人間が尊ぶ絶対的な善なのでしょうか」

 坂巻は問い掛けるように述懐したが直樹は何も答えなかった。

「でもね、私はエサウが堪らなく好きなんですよ。神に贔屓されていたヤコブを結局赦してしまう。度量の広さに惹かれているのは私だけじゃないでしょう。きっと舎房の皆も同じです」

 嫌悪を催しつつ直樹は聞いていたが、最後に嫌味を混ぜて返した。

「だが、エサウは父イサクを決して殺したりしない」



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