堕天使の梯子 Ⅶ
「東先生、見て下さい。ぼちぼち危ないですねえ」
盆が過ぎた二十日になって石動が朝刊を読みながら巡回していた直樹に気安く喋り掛けた。『総理辞任。解散秒読み』と掌で叩かれた総選挙関連記事に直樹は応じた。
「中泉首相も反対勢力に食われたから、もしかすると自民も政権交代の危機かもな。ヨナさんはどの党に予想を立てている?」
赴任してから一年、直樹はすっかり馴染みの担当になっていた。
だが、馴染みといっても飽くまで死刑存置を唱える行刑代表者の慣れである。
住人は冷血漢の直樹を憎んではいたが、仕事は手を抜かず、違反や反抗さえしなければ気の利く足まめな担当であった。それに坂巻と石動の二人の冤罪死刑囚には特別に緩和した処遇を取り、法律相談や雑事に至るまで助力を惜しまなかった。
石動を渾名で親しく呼び、腹蔵無く歓談するようになったのもこの頃である。
「俺が気に掛けているのはそんな浅はかな権力闘争じゃありません」
石動は打ち解けた顔を横に振った。
「じゃあ何だ」
「我々ですよ。この舎房のXデーが近付いて来たんです」
直樹は勘付いた。死刑執行である。
「何故そう言い切れる」
「強いて言えば住人の勘ですかね。ところで月刊岳人は届いていましたか」
石動は新聞を放り投げて扉に寄った。
「ああ、後で一階を覗いてみよう。けれどヨナさんは本当に山好きだな。ここから出所したら思う存分登ればいい。刑事補償金も少しは足しになるだろう」
「ははん、駄目駄目、刑事補償なんて
「──そうかもしれないな」
直樹は世間の実状を思い返した。冤罪は完全な濡れ衣、無罪は有罪が立証出来なければ釈放されるがうやむやな灰色となる。つまり無罪で解き放たれても百パーセント犯人でない証がなければ人々は疑惑の目を向け続ける。自由の身となりながらも肩身の狭い人生を送らねばならない。
「ま、ここを抜け出すのが何より先決です。そうしたら久し振りに石川の
「ほう、医王ならうちの親父みたいに
「いや、俺は大抵国見平の方からです。桔梗ガ原の方からは一度しか行ってません。先生の親父さんはそっちから登ったんですか」
「そうなんだ。
石動は遺品の節に黙り込んだ。直樹の父俊昭は嘉樹に殺されている。嘉樹には散々世話になったが、直樹も今や頼り甲斐ある陣営にいる。重罪を犯した正犯の住人が罰せられるのは仕方ないにしろ嘉樹だけは別格であった。だが正担当はその兄を刑場へ追い遣ろうといきり立っている。
加害者と被害者、正反対の双子から板挟みとなった石動はそれ以上会話を続けられなかった。
それから夜八時、丁度代務と交替して控え室で休息していた直樹の許へ珍しく村上がやってきた。
肝炎以外の気落ちが心配なのだろう。連続する不運に同情した村上は腰掛けて言った。
「今更だがね、お母上の病は誠に残念だった。移植も難しいものだ」
仏教において人生の苦しみとされる「八苦」の中に「
「部長」
敬礼を解いた直樹は緑茶を勧めながらこの時とばかり僧侶の資格を持つ村上へ尋ねた。
「人間は絶対的な天命に、不可抗力に支配されているんでしょうか、それとも努力すれば忍従を強いられるだけの定めを打破出来るものなんでしょうか」
「宿命論かね」
「はい。母が鬼籍に入ってから悩みが多くなりました。世の成功者は偶然良き運命に導かれただけで、精神力の手柄と自慢げに誇っていますが、果たして万人に当て嵌まるでしょうか。どれだけ足掻いても逃れられない宿命に何度も弄ばれると憎らしくさえなります」
直樹は自分が暗闇の海原で延々と漂流する椰子の実になった気がしていた。
村上は深く座り直し、茶を啜った。
「誰でもそうやって
「翼?」
「そうだ。飛び方のヒントは経典や教義の形で既に与えられている。けれど多くの人間は空すら知らない。現世利益に
「では冤罪で拘禁されている教授やヨナさんはどうです。天が例え真実を知っていても過ぎ去った人生が甦るでしょうか。看過しているだけの薄情な神仏にはとても頼れません」
「それは浅薄な人間の計り知る事ではないだろう。あの二人に限らず、どんな悪人とて生まれてきた訳はあるし、曇天に隠れた月のように奥底に仏性を備えている。ただ、浮世の闇に漂う煩悩の雲があまりに厚く月が消えたようにしか見えない。人は誰でも生き仏だよ。それを単に意趣返しの為だとか邪魔だからと排除するのは思い上がりに他ならない。神仏は、年数を重ねただけのキャリアや、法知識と現場経験が豊富というだけで、もしくは死刑囚の態度が厚かましいという皮相的な感情だけで死刑存置を
死刑廃止論者らしい教導であったが直樹はとても賛同出来なかった。
「そういえば、部長、ヨナさんが解散総選挙に伴い執行があると予測していますが」
「うむ、中泉総理に代わる二大巨頭にはそれぞれ派閥がある。林原法相は中泉さんのお気に入りだったし、まして不祥事が重なったため自民が勝っても留任は有り得ない。となれば去り際纏めて執行命令書に署名押印するかもしれんな」
「部長はここでの執行はあると」
「上層部による決定は我々末端の者には分からん」
「あると仮定すれば住人の誰が選ばれるのでしょうか」
「予想し難い点ばかり訊くな、君は」
「あ、いえ、申し訳ありません」
直樹は妙に急いている自分に気付いた。村上は湯呑みを静かに置いた。
「執行は確定順に回ってはこないから断言するのは難しい。最初に入った者が一番遅いなんてのはざらだ。時として時局で選ぶ場合もある。まあ、一種の見せしめだな。但し、公開されないから効果も少ないがね」
死刑執行は密かに行われるため被害者の応報感情はいくらか治まっても一般人には関心が少ない。現在は新聞に小さく載るか、テロップが流れる程度で、記憶からすっかり消えかかっていた事件に「ああ、あの人死刑にされたの」との低い感懐しか抱かない。
通り雨のように忘却される執行が犯罪抑止に繋がるかね、と暗に伝えてきた村上に直樹は拳を握った。
「それでも被害者にとっては不可欠な
存置を主張する眼差しには根深い怨念が渦巻いていた。
村上は憂えた笑みを浮かべた。
「絞首刑の残酷さを知らない君は、いつか死刑が正義でないと体認するだろう」
直樹はその力無い微笑みを別の人物で見た気がしたが何故か思い出せなかった。
「ああ、私だ──これから来所? おいおい、こんな
暑苦しい蝉時雨から
気忙しそうに帰り支度を始めた所長へ総務から内線で連絡が入った。
柴田は我にも無く電話に不満をぶつけた。今晩は五年振りに同窓会がある。それも主幹事を任されていた手前遅れては嫌味になると焦りは一秒ずつ増していた。
ところが、受話器越しに「三の丸秘書官」の名称を口にされた途端頭が真っ白になった。
一ヶ月前に矯正局から九月死刑執行を仄めかされており、執行日が間近に控えていた事は覚悟していたが、まさか今から書類を携えた高検秘書官に訪問されるとは予期していなかった。
名古屋高等検察庁は白壁から車で数分の三の丸にある。
程なく秘書官はやって来るだろう。
柴田は取り急ぎ副幹事へ欠席の旨を伝えた。酒宴の楽しみなど瞬く間に消え去り、脈が速くなるのを抑えつつ、再び鳴った内線に掌は思わず受話器を鷲掴みにしていた。
「私だ──そうか、もうお見えになったか。では丁重にご案内してくれ」
施設長の椅子は名誉の表象とはいえ、この時ばかりは逆に忌まわしさだけが身に応える。
だが、この地位に就いているならば司法の下した命には厳と従わねばならない。避けられる事なら絶対に避けたい任務ではある。しかし逃げる事も否む事も決して適わない。
「所長、
総務部長のノックが聞こえると、柴田は平常心を保った
城内と名乗る男は紺スーツに
喉仏がごくりと鳴った。中身が何であるかは疾うに知っているが、開けるには度胸が要る。
柴田は怖ず怖ずと結び目を緩めた。そして深い桐箱の中に収まっていた用紙の束を取り出すと反射的に瞼を閉じた。
行刑の機密書類、即ち死刑執行命令を記した「様式第6号規定第11条 死刑判決確定通知書(甲)」と「判決謄本」の魔の
「おおい、他に必要なものは無いか」
仕事を終えて直ぐ、近所の薬局へ買い出しに向かおうとしていた直樹は爪先を玄関で叩き鳴らしながら、十八日前後が出産予定日になっていた瑞樹へ訊いた。
「あ、ティッシュが切れそうだから多目に買っておいて。多分沢山使うだろうし」
瑞樹は奥の部屋から答えた。
「分かった。クリネックスをプラス、と」
特売のチラシに丸を書き足した直樹はもはや習慣となったサングラスを掛けて外へ出た。
「未だ秋の気配はしないな。
暑さが断続的に続いているせいで、名城公園の木々には落葉や紅葉の兆候すら見られないが、斜日を彩る僅かな鰯雲だけが季節の移り変わりをうっすら示していた。
直樹は「結樹、結樹」と娘の名を口ずさみ、公園とウィル愛知の間を跳ねるように歩いていた。待望の我が子である。産まれた訳ではないので明確な自覚こそ無いものの幸福感で一杯であった。
「ガキんちょなんて我が
と、絶えず迷惑そうに返答していた部下でさえ誕生日やクリスマスには密かに浮かれていた。
直樹は表面には出さずともとても羨ましかった。ベビーカーを押して散歩する夫婦を見るに付け瑞樹も寂しそうな顔を作っており、その憂いを覗く直樹も辛かったが、子宝を授かった今はこれまでの侘びしさを全て吹き飛ばしていた。
家族三人の団欒に思いを馳せ、直樹はガードレールを軽々と飛び越し、後ろを向いた。
その瞬間であった。公園に植えられた三本杉の間から見馴れた人影が目に付いた。
倒卵形の髪を五分刈りにしている為、容易に何者か見分けられた。
六階にいた時昵懇になった部下の北川純也である。ベンチに座り、どこか感傷に浸っている横顔であったが構わず声を掛けた。
「よう、旦那の方は暫く振りだな」
「き、喜多野主任代理」
北川はびくっと体を揺らせた。
「そんな素っ頓狂な声出すなよ。で、名拘一帰宅族のお前がこんな所で時間潰しとは珍しいな。聡子さんと初喧嘩でもしたか」
北川夫妻の馴れ初めと
盲腸入院を機縁に結ばれた看護師が聡子で、三十路に入ったばかりの二人は拘置所から程近いアパートを借りて住んでいるのだが、聡子と瑞樹は夫同士を通じて何度かアパートと官舎を行き来する仲になっていた。
特に聡子は身重になった瑞樹を案じ、それとなく訪ねてくれていた。
刑務官も看護師も共に過酷な業務であるが、気楽な性格が合致していた夫妻は決して喧嘩をしなかった。そんな陽気な北川が今日に限り陰鬱な空気の中で酷く
「夫婦喧嘩の方がどれだけましか。辞表を出すタイミングを計っているんです」
「おい何だ、そんなに深刻なミスをしたのか」
北川は刑務官歴十年を超え、収容者に慕われている模範的職員である。重大な失敗をするとは考えられないが辞表とは余程の事件に違いなく、直樹は何とか力になれないかと繰り返し迫った。
だが、重く打ち沈んだ顔は訳を明かすのを頑なに拒んだ。それ所か、膝は小刻みに震え出し、顔色も徐々に悪くなっているように見えた。只事でない事態が起きているのは一目瞭然で、直樹は余計諦め切れず、粘り強い説得は二十分に及んだ。
「私が悩んでいるのは所の極秘事項です。絶対口外しないと約束してくれますか」
あの手この手の問い掛けにとうとう根負けした北川は膝頭をぎっと握り直樹を見上げた。
直樹は首を下げた。
「勿論だ。誰にも漏らしやしない」
「奥様にもですよ」
北川は
「実は明後日の十六日、
「──何番と、何番か、分かるか」
石動の予感は的中した。直樹は声を詰まらせながら訊いた。意表を衝く内報に心臓は飛び出しそうな勢いで高鳴り始め、北川の口に意識は集中した。
「四四〇〇番と九二〇〇番だと聞きました。明日十七時に特例としてリハーサルが行われるそうです」
間宮邦広と竹之内嘉樹である。
直樹は早鐘のように一段と忙しくなった呼吸を喉元で押さえ付けた。対して北川は短い髪を掻き
「三年前、ここに転勤になった時女房に一つだけ約束させられました。死刑執行だけは何が何でも関わらないでほしいって。もし嘘をついたり約束を違えれば貴方とは別れると」
「そうか、聡子さんはアボか」
「ええ、病人と接する職業柄、人間を殺すのが堪え切れないと訴えるんです。私もBに選ばれる刑務官なんて一割弱程度だと聞いていましたから安易に了承したんです。それが却って裏目に出ました。全く何故なんでしょう、昔からロトの四等だってろくに当たらないのにまたこんな貧乏くじだけ──」
「辞めても再就職の当てはあるのか」
国家公務員法第九十八条第一項には「職員は、その職務を遂行するについて、法令に従い、且つ、上司の職務上の命令に忠実に従わなければならない」とある。
明治四十二年に制定された「看守及ヒ女監取締職務規程」には「看守ハ上官ノ指揮ヲ承ケ死刑ノ執行ニ従事スヘシ」という一文があったがそれは後に消去された。しかしながら後の平成十八年に発令される事となる「刑務官の職務執行に関する訓令」の第五条では「刑務官は,正当な事由なく,職務上の危険及び責任を回避してはならない」と命令遵守を
まして刑務官の職に就いた時、上官の命令には遵守するという宣誓をしている。即ちその上官の命に逆うのは懲戒処分を受け、出世の断念か、悪ければ懲戒免職を示していた。
北川は失意に首を落とした。
「そんなものありません。でも女房と離婚するくらいなら、人を殺して愛想を尽かされるなら辞めた方がいいんです。主任代理、私はね矯正のため刑務官になったんです。今日、首席は死刑に関与してこそ一人前だなんて
矯正のための刑務官。
遙か昔の懐かしい響きがした。高校の廊下に貼られていた募集広告のキャッチコピーが似た文句で、颯爽と敬礼するスマートな刑務官が写るポスターには死刑の匂いなど微塵も感じられなかった。
直樹は嘉樹の堕落のせいで社会正義に燃えていた。だから治安を守る警察官とも違う、悪人を説諭し、人生を建て直す刑務官の道を迷わず選択した。
だが唯一死刑には矯正は無い。ただ殺すだけである。直樹も嘉樹の件が無かったら苦しんだかもしれないが、これは己が蒔いた種であり、刈り取るのは自分の役目であった。
直樹は去就に迷う北川へ切り出した。
「代わってやろうか、その任務」
「──え?」
「明日の朝所長に掛け合って俺とお前を交代させてやるよ。あの人には色々精神的な貸しがあるから了解してくれるはずだ。それと、機密を漏らしたお前に何の罰則もないよう頼んでもやる」
「いえ、しかし主任代理には身重の奥様さんがいらっしゃいますから」
北川も選定基準免除条件は知っていた。
直樹はその言葉を敢えて聞き流し、力説した。
「どちらにせよお前の抜けた穴は他の者で埋められる。仮に選び直された人間がお前同様執行を避けたがっていたらどうする。もう一枚辞表を増やすか」
うっ、と北川は反論に詰まった。確かに自分の返答一つで同僚に負担が掛かるのは間違いない。けれど、執行官が妊婦の夫になる事にも未だ踏ん切りが付かない。
直樹は躊躇う北川の肩を叩き、納得を更に急き立てた。
「俺は神仏や迷信など信じていない。瑞樹やお前の奥さんに黙ってくれさえすれば丸く収まる。北川も拘置本所でなく、刑場のない刑務所か支所へ転勤になれば二度と執行に怯えずに済む。悪い提案じゃないだろう」
「それは勿体ない申し入れです。でも、本当によろしいんですか」
「その代わり後になっても他言しないでくれ、特に瑞樹には。それが条件だ」
「当然です。ああ、助かった」
肩の荷が一度に降りた北川は大きく胸を撫で下ろした。そして唐突にからからと笑い出した。忽ち不可解な表情になった直樹へ北川は謝りを入れてから心情を語った。
「いえね、今になって九階住人の気持ちが腑に落ちたんです。今度は誰が執行官の指名を受けるか、秋冬の季節が近付く度毎日びくびくしなけりゃならない。檻の中と外、生死の違いはありますが同じですね。死刑制度が続く以上刑務官も遣り切れません」
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