堕天使の梯子 Ⅱ


 二時間後、直樹と瑞樹は森本の家を後にして自分達も安産の祈願に常高寺へ出向く事となった。四年前、俊昭の三回忌を営んだ浄土真宗の菩提寺である。

 千社札が隙間無く貼り付けられた朱塗りの楼門から本堂へ導く磴道とうどう周りには、白い玉砂利が敷き詰められ、厳つい庭石を所々に配置した境内には夫婦樫めおとがしと呼ばれる、県の天然記念物に指定された、幹下部より二叉に分かれた巨大なアラ樫があり、その常緑樹の枝が空を一杯に覆っている。

 樹高が二十メートルを越える樹齢四百年の太幹には神樹を顕す注連縄しめなわが巻いてあり、見上げると生い茂った葉の間から少しずつ晴れ間が覗いていた。

 仏閣の境内なのに神式に飾られた「夫婦樫の御神木」はいつからか安産の守り樹と伝えられ、願いが叶ったらよだれ掛けを根本に供える風習が定められていた。

 俊昭の墓参を済ませた直樹は色鮮やかな布を避けて幹に手を添えた。

「これは良縁を取り持つ御神木だったけど、安産の言い伝えまでは無かったんだがな」

「そうね、私達が団栗を拾い集めていた時はそんな謂れは聞かなかったわ。渥美の誰かが言い出したのが赤羽根とか田原に広がったみたい」

「伝説なんて適当なもんだ。そもそもこの夫婦樫に御利益なんてあるのか」

 苔むした堅い樹皮を掌で叩くと、風に揺らいで葉音が僅かに鳴った。

「あのねえ、非科学的だって全てを疑わないの。信ずる者は救われる、でしょ」

 瑞樹は呆れた目を細めた。すると直樹はぼそりと口を動かした。

「──信じて裏切られるのが一番応えるんだよ」

「え、何」

 瑞樹は夫の呟きに尋ねた。しかし直樹は、

「何でもない」

 と口を濁しただけで、何故か再び幹を疎ましそうに叩いていた。

「でも、嘉は色んな木に登ってたね。校庭の銀杏から四辻の杉の木まで。掴まる枝も、節榑ふしくれも無い所でもよく手足の力だけでスイスイ登れたものだわ」

「猿と馬鹿は高い所が好きだっていうからな。ヤクザのくせに堅木かたぎに登るのは皮肉なもんだ」

 嘲ら笑いで木漏れ日を見上げる夫に瑞樹は辛辣な嫌味を窘めた。

「また、そんな憎まれ口を」

「ふん、復讐のために親父を殺した奴に罵倒以外の何がある。奴はお袋も殺したかった。そして脱獄し次は俺を殺しに来るそうだ。苦し紛れの戯れ言だろうがまともじゃない」

「ふふふ、じゃあその候補に私は含まれていないのね」

「あのな、笑ってる場合か。脱獄は無理でも奴を見張る俺の身になってみろ。捜検も余計な手間が掛かるし、出房時の検身ボディーチェックも三人掛かりで格子窓の確認も奴の房だけ検査検査だ。面倒が増えただけで洒落にならん」

 いくら不可能な脱獄であろうが公然と宣言された以上、より警備を強化しなければいけないし、隙を見せれば嘉樹に襲撃されるおそれもある。刑務官には勤務上「保安の原則」という従うべき十八の項目が決められており、その中の一つに収容者に対する姿勢を定めた「適正戒護位置の原則」がある。それは逃走や襲撃に備える刑務官の立ち位置や身構えの事であり、直接向かい合った場合大抵正面を外し半身に立つ。とはいえ、柔道の技に長けた直樹はいつも全ての収容者に対してそれを行う訳でもなく、危険だと察した場合に限っていた。正しく嘉樹の場合、柔道の有段者で腕力もあり、周りに小幡などの警備隊の協力を仰いでいるとはいえ絶えず硬い構えを崩さず、房を解錠しなければならなかった。

 当然その分、気も張り疲れもする。内情を深く知らないとはいえ立場を軽んじている妻に直樹は小腹を立てた。

 軽口に過ぎた瑞樹は唇をすぼめて「ごめん」と謝した。

 謝られて憤りの肩を一息に下げた直樹は足下に落ちていた青葉を拾いつつ小声で囁いた。

“Die he or Justice must; unless for him some other able,and as willing,pay the rigid satisfaction,death for death. And some are fall’n,to disobedience fall’n,and so from Heav’n to deepest Hell”

(そうだ、人間のために、能力ちからも意欲もある誰か他の者が死に対する死をもって、厳しい償いの責を果たそうとしない限り、人間は死なねばならぬ、さもなければ正義が死なねばならぬのだ。或る者が堕ちたが、彼らは不従順の罪に堕ち、天国から地獄の底へ堕ちたのだ)

「パラダイス・ロスト?」

 洋書の一部を回顧した瑞樹は、直樹の手から零れ落ちていく樫の葉を物寂しく見遣り、直樹の運転する車に乗るとやがて堀切海岸から恋路ヶ浜へ向かった。

 恋路の浜辺には悲恋物語がある。

 都から一組の高貴な男女が渥美に逃れてきた。しかし、この村にも人目があり、そのため男は弁財ヶ浜に、女は恋路ヶ浜に別れ住んだ。恋ゆえの逃避行であったが、結局渥美でも結ばれなかった二人はお互い名前を呼びながら病に息絶えたという。

 恋路ヶ浜へ着いて間も無く直樹と瑞樹は引き潮の砂浜に降り立つと、遠くに浮かぶ神島を共に眺めた。

 伊良湖岬と神島の間はタンカーなどの大型船舶が行き交っているとはいえ、潮流の速い伊良湖水道という航海の難所である。それは同時に名古屋港が面する伊勢湾の出入口でもあった。海底の流れはどうなっているかは定かでないが俊昭はもはや太平洋に押し流されてしまったのかもしれない。

「何でこうなっちゃったんだろうね」

 父の在りし日を追慕していた直樹の横に瑞樹は寄った。

「幼い時は三人とも背は同じで、仲が良くて、三本の樹の誰が欠けても物足りなかったのに」

 渥美の海風を浴びていると何故か昔日がありありと甦ってくる。

 父親から堂々たる体躯を受け継いだ直樹は、背の低かった少年時代に時を巻き戻していた。あれは忘れもしない十歳の夏であった。

「お前達、よく聞け。今から父ちゃんが恋路の海岸へ連れて行ってやろう」

 一九七七年七月十七日、紅色のサルスベリが咲き匂う玄関脇で、俊昭は裏の畑から戻ってきたばかりの息子達へ勿体ぶって腕を組んだ。

「は、恋路ヶ浜なんか別に自転車ケッタで行けるじゃん。今日月曜だで。俺んとう(俺達)は工事で学校休みになったけど、父ちゃん銀行らあが。ぐずぐずしとると遅刻して御目玉食うで、なあ、嘉」

 直樹は嘉樹とお揃いの靴を脱ぎ捨て、軒下に下げてあった金魚模様の風鈴を叩いた。

「違う違う。恋路は恋路でも渥美の恋路じゃない。父ちゃんの田舎から北へ行った能登半島の内浦って町に同じ名前の恋路浜があってな、今晩そこで切子の火祭がある」

「キリコ?」

行灯あんどんのどでかい奴だ。夜、海の中で担いでな。それに、父ちゃん今日明日休みを貰ったから泊まりがけでみんなで行かんか。明日も記念日で休校だろ。宿も実はもう予約してあるんだ」

 父から外泊と聞き、直ぐさま嘉樹が顔を輝かせた。

「ほんなら瑞樹も連れてったらあかんかな。やないとあいつ後で文句こきよるで」

「そりゃいい。なら嘉樹、お前今から輝さんに了解貰ってこい。一泊だし、泳げるから水着とか、祭の浴衣とかも忘れんよう瑞ちゃんにちゃんと伝えるんだぞ」

「ガッテン」

 嘉樹は扉を開け放つなり猛烈な速度で玄関から駆けていった。

 慌てて直樹も後を追おうとしたが、「お前は泊まりの用意をしなさい」と民宿に追加の電話を入れる俊昭に制止されてしまった。

 一人残された直樹は小さくなる嘉樹の背中を悔しそうに見続けた。

 父の故郷である石川の辰口町へは何度も訪れていたが、能登半島へ出向くのは初めてであった。

 石川県珠洲すず内浦うちうら町、名の通り能登半島の内浦地形にあり、到着したのは午後四時を過ぎていた。それでも夏は日が長く、松の茂った小さな弁天島付近で祭事が行われるのは夜遅くからだと教わった三人は着替えを済ますと、遠浅の海水浴場で心行くまで泳ぎまくった。

 やがて夕食時間が過ぎ、辺りが暗くなった頃、浜辺には祭に引かれ群衆が集まり出した。

 キリコ、則ち「切子灯籠」は長方形の背高い行灯の上に屋根を付け、これに担ぎ棒を取り付けた能登独特の大型風流灯籠である。笛太鼓、かねの囃子と共に若者がキリコを肩に町を勢いよく練り歩く。巨大な物では高さ十二メートル、重さが二トンにもなるが、地域によって多種多様で二十人程度で済む中型もあるし、子供用小型もある。

 恋路の火祭に用いられるのは幕と提灯で飾られた五メートルの中型キリコである。

 海岸から浅瀬で繋がっている弁天島の鳥居前に備えた大松明が赤々と燃え上がり、出御しゅつぎょした担ぎ手が二基を持ち上げ海へ浸かっていく所から祭の見せ場が始まる。油物と呼ばれる仕掛け花火、そして海中を乱舞するキリコの橙光が漆黒の海面へ幻想的に映り、十時にもなると、打ち上げ花火と竹竿の火輪によって祭も一層勇壮に、そして艶やかになる。

 直樹は魂を奪われたようにぼうっと見取れていた。

 キリコ表面に毛筆で書かれた三文字の浮き字は子供には難解であったが、それが熱気を損ねる事はなかった。また、キリコ下部に巡らせた高欄から耳に飛び込んでくる太鼓は、激しくはないが聞けば聞くほど原始の興奮を呼び起こす鼓動となった。

「でも、何だか悲しい結末ね。添い遂げられないのは渥美の恋路と似てるわ」

 直樹の背後でキリコ祭の由来を父から教わった妙子は団扇を持っていた手を合わせ、海辺へ「安らかに」と祈った。

 木郎の助三郎と多田の鍋乃が人目を忍び、海岸で夜の逢瀬を重ねていたのだが、その仲を妬んだ源次が、出会いの目印に焚いていた篝火の場所を変えてしまったため助三郎は滑落して死んでしまった。悲しみに暮れた鍋乃も後を追って身を投げてしまい、恋路の火祭は二人の霊を慰めるために催されている。

「うん、まあ、それは慰霊祭の一般的な言い伝えで、地元ではまた別の物語があるらしい」

 俊昭はポロシャツのポケットからライターを取り出すとセブンスターに火を付けた。

「鍋乃に横恋慕した源次が助三郎と鍋乃の二人を斬り殺した。そして、罪の意識に苛まされた彼は海岸に観音堂を建て、冥福を祈り続けた。私はこちらの方が真実に感じる。篝火の伝説は漁り火から連想されたとしてもおかしくないからね」

「のん、父ちゃん、ヨコレンボって何だん」

 直樹は俊昭のベルトを引っ張った。突然素朴な質問を突き付けられた俊昭は煙草を銜えたまま返事につかえたが、簡易に説いた。

「付き合っている男と女のどっちかを別の人間が好きになる。ははっ、難しいか。そうだな、例えば父ちゃんと母ちゃんが結婚しているのに、他の男が母ちゃんを好きになる事かな」

「ほんなら、その男は母ちゃんも殺すん? 好きなんに変ら。何でだん」

「本当に愛しているからだよ」

「愛しとると殺すん、大人って」

「あなた、そんな事を小学生に説明しても解りませんよ」

 と、妙子は微苦笑した。俊昭は直樹の頭に手を乗せて口を綻ばせた。

「いや、知恵というか、この子の利発さにはつい乗せられてしまうんだよ。テストが優秀な嘉樹とは違う頭の良さがある」

「そうね。嘉樹は性急な所があるけど、直樹は落ち着いていて年上っぽいわ」

「へへっ、俺、嘉より上だん」

 直樹は「年上」と聞いた途端無邪気に嬉しがった。

「だけど、私はこの子と山へ行けないのが残念だ。おっと、直樹、そろそろ祭も終わる。宿に戻るよう嘉樹と──後は瑞ちゃんにも伝えてくれ」

 はい、と元気よく返事したものの、直樹はこの時父の途切れた言葉で異変に気付いた。もっと前で観ようと人混みを割っていった嘉樹は覚えているが瑞樹も知らず内にいなくなっていた。

 急に心許なくなった直樹は夜陰に紛れる二人を懸命に探した。

「おった、瑞樹。先に見っけ」

 五分ほど探し回って漸く笹葉と半月をあしらった浴衣を最前列に見付けた。そして遠くから真火に照らされた瑞樹の赤い横顔に暫し見惚れていたが、直ぐ父の言い付けを思い返し、背後から回って名前を呼ぼうとした。

 しかしその瞬間、直樹は予想外の、信じられない場面に出くわした。

 右陰に隠れていた嘉樹の左手と瑞樹の右手が固く繋がれていたのである。

 どん、どんと緩慢に打ち鳴らされる太鼓の律動が空ろに佇む直樹の心臓を揺さぶり、その直後、どぼりと墨汁を空けられたような黒い感情が徐に胸奥へ染み出してきた。

 ヨコレンボトハコロスコト。アイスルコトハコロスコト。

「──直!」

 弟の気配に気付いた嘉樹は握り合っていた手を慌てて離し、振り向き様に訊いた。

「い、いつ来とっただん」

「さっきからおった。父ちゃんが宿屋に戻るで帰りって呼ばっとる」

 頬を紅潮させた瑞樹は俯いたまま顔を向けなかった。嘉樹も焦って左手の甲を掻いた。

 直樹は余計居た堪れなくなり、伝言だけ済ますと両親の元へ駆けていった。

 そして翌日、一同は能登半島を一周りして帰るスケジュール途中にいた。

 石川は名勝地が多い。ヤセの断崖もその一つで、海際には内浦とは対照的な荒々しい高波で浸食された断崖絶壁が反り返り、崖縁の険阻な遊歩道から下を眺めると三十五メートルの恐怖が襲ってくる。恐る恐る足下の空間を覗いた瑞樹は遙か後方に逃げていた直樹の横に走った。昨晩の密事を気に掛けているのか、それとも心底怖かったのか、腕にぴたりと寄り添ってきた。

「こんなんがおそがい(怖い)んか。瑞樹は弱虫だのん」

 嘉樹は平然と崖端に靴先を合わせ、波飛沫立つ海面に首を下げた。

「嘉は高い所が得意だでええじゃん。のんほい、直、おそがいじゃんね」

「普通はてえげえ(大概)ほうじゃん」

 直樹は瑞樹を庇うように答えた。

「何だん、おまんら、俺だけ戯けみてえに」

 嘉樹は小石を拾うと直樹の足下へべえと舌を出して投げ付けた。

 その様子を見ていた父の俊昭は二人を見比べて笑った。

「双子なのに嘉樹は高所が好きで直樹は恐怖症か。嘉樹は鳥の生まれ変わり、そうだ、山好きなのはきっと犬鷲の生まれ変わりだな」

 すると嘉樹はその表現が心に適ったのか、突端の限界で羽ばたく真似を繰り返した。

 俊昭は調子付く息子に「落ちるなよ」と笑いを止めず駐車場へ向かい、妙子と瑞樹も呆れて後に付いていった。

 しかし、直樹だけは居残り、腕を上げ下げする兄の背中を静かに睨んでいた。

 鳥の生まれ変わり、と俊昭が何気なく口にした一言が直樹の深い暗部を掴み出した。

 嘉樹は父と休みが合えば決まって山登りに伴っていた。乗鞍岳、槍ヶ岳、浅間山、燕岳、霧ヶ峰、大菩薩嶺、富士山、朝日岳、いくつ踏破したのかさえ覚えていないくらい二人は常に一緒であった。高所恐怖症の劣等感もあったが、直樹は俊昭がいつも嘉樹を贔屓にしている気がして絶えずわだかまりを抱いていた。

 能登金剛の周りには行楽客一人見当たらず、両親も瑞樹も車に向かい背を向けている。

「俺には見えん羽根が生えとるら」と、嘉樹は突風を浴びて一層腕を振るわせた。

 ツバサガアレバキエテシマウ。トンデイッテシマウ。

 直樹の頬を強烈に吹き付けた浦風が大鷲の羽風に感じた。それと共に自分が羽をむしられ不様に藻掻き死ぬ蜻蛉とんぼになった気がした。

 トベナクスルコトハアイスルコト。オトスコトハアイスルコト。

 どこからか聞こえる陰の声に何度も後押しされるように嘉樹の背後へ忍び寄った直樹は一メートル後ろで止まると両掌を静かに上げた。だが、その瞬間、嘉樹はハッと殺気を感じ取り突然振り向いた。

 直樹は狼狽えて、伸ばした肘を下ろした。

 嘉樹はゆっくり体を向け、直樹の乱り顔を物悲しそうに見つめた。

 二人の間に静寂が流れた。


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