第六章 堕天使の梯子

堕天使の梯子 Ⅰ


 瑞樹は、ソファーで背中を丸め座り込むばかりの夫の憔悴振りに心を痛めていた。

 クラウド・ナイン担当へ指名された時でもこんなに鬱ぎ込んではいなかったのに、木曜日から気力の衰えが酷く目立った。

 全てが泥沼の様相を深め、直樹にはもはや何がなんだか判らなくなっていた。

 瑞樹は隣に座って静かに提案した。

「ねえ、直、今週の土曜か日曜、一緒に堀切へ帰って恋路の灯台辺りまでゆっくり散歩しない?」

「──恋路ヶ浜か」

 憂え顔が耳慣れた響きにふっと上がった。

「うん。少しでも街の淀んだ空気を入れ換えよう。椰子の実が流れてくる、真っ白く澄み切った浜辺で」

(渥美の大海原、そうだ、もうどれくらい訪れてないんだろう)

 懐かしの地名を思い出した途端、直樹の脳裏に白々とした海岸線と一杯の青空が染み込んできた。あの生暖かい沖津風おきつかぜと、壊れた感情を包み込んでくれる大海へ戻りたいと思った。泣きたい程無性にそう思った。

 そしてそう思ったら、寄り掛かる妻の肩と共に柔らかい歌が耳に入ってきた。

「名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ。故郷ふるさとの岸を離れて なれはそも波に幾月」

 子守歌に似た瑞樹の声に力が抜けた直樹は「明後日行こう」と呟き、そのまま微睡まどろみへ入った。

 それから二日後の日曜、二人は渥美半島をレジェンドで走行していた。

 二五九号線を渡っていくと右手に三河湾が群青の拡がりを見せる。

 折悪しく泣き出しそうな空模様だが、開けた車窓からは爽やかな潮風が流れ込み、直樹は磯臭い海気を鼻から一杯に吸った。

 瑞樹も助手席の窓を下げ深呼吸した。

「やっぱり渥美は暖かいね」

「名古屋が寒過ぎるんだよ。色々とな」

「大学でいた東京もそうだったけど、私達に雪は合わないね。早くこっちに帰ってきたいな。いつ頃決まりそう?」

 瑞樹は保美ほびの交差点を左折する時転勤の月日を遠回しに尋ねた。直樹は直ぐに返答しなかったが「多分」と前置きして窓を閉めた。

「奴が処刑されてからだろう。それが俺が正担当でいる理由だからな」

 瑞樹は朗らかな口を噤んだ。

 矯正局は直樹を使い処遇改善の実験をしている。実験が終了すれば恐らく誰かが執行されるに違いないが時期は不明であり、また死刑候補に該当するのが嘉樹とは限らず、少なくとも兄が九階にいれば弟が現任から外される事はない。そう考えると渥美に早く戻れるのは好ましくなく、名古屋に滞在している間だけでも嘉樹は生きているのである。

 そうして夫婦共に沈黙してから五分もしない内にレジェンドは東の家に到着した。

「やい、総領の嬢ちゃんだに。やっとかめだのん」

 車から降りるや、瑞樹は睦まじい面々に呼び止められた。車庫の横陰にはシルバーカーの持ち手を杖替わりにして三人の老婆が固まりをなしていた。

「小久保のお菊さん。あら、高瀬の竹さんに、渡会のお蘭さんまで。お久し振りです」

 キャベツとメロンとスイカ栽培で富を成した大農の森本家は広大な畑と土地を所有し、現代はアジアや南アメリカ産品種改良野菜の有機栽培で名を上げ、皆からは総領と尊ばれていた。

「あ、ほっちのは直だかん、嘉だかん。年取ると区別つかんでかん」

 菊は運転席の横で隠れるように立っていた直樹を指差した。

「菊ちゃ。ほな事あらすか。嘉は親の首絞めてどこぞかんぞの刑務所で吊るくされるげな。ええ頃加減な事っとったらあかん、のん(ねえ)、竹ちゃ」

「まあはい、おまんたぁ(お前たち)は横着かったのん。二人揃って瓜とか苺をようけ盗みよって往生こいたぞん。なんだんまぁ、双子なんにこまい(幼い)時はばんたび(いつも)直が嘉の後からっとった。ほんでも嘉は好かたらん極道になってしもて、直は官海のお人だに。えらいさかしまだのん」

 帰省早々煩わしい集団に捕まってしまったがタイミング良く助け船が入った。渡会の娘がいつまでも帰らない三人を呼びにやってきたのである。

 直樹は解放された息を吐き、新緑を抱く和名山を背にした家を見上げ二階へ上がった。

 そこには三面がガラス張りの採光の良い二十畳のフローリングが広がり、我にも無く大の字になった。

「はあ、八ヶ月ぶりのねぐらだ。心地いいな」

 官舎の狭いアパートとは比べものにならない開放感に直樹は思う存分背伸びをした。

 瑞樹は寂しそうにリビングの出窓を全開した。

「そっか、直は全然帰ってなかったもんね」

「ああ。しかし、改めて見ると本当に広いな、この家」と、サッシから流れてくる風も満喫し、やっと人心地付いた直樹は軽々跳ね起きると、そのまま一人で三階の寝室へ向かった。

 直樹達の部屋は日当たり良い南が選ばれており、彼方に伊良湖沖が見渡せる。

 この家は二人の結婚を機に俊昭の手で大幅にリフォームがなされた。裏庭倉庫がある一階はガレージ、二階はリビングとキッチン、三階は両親と自分達の寝室、母の和室、それに俊昭専用部屋が作られていた。

 山登りと料理が趣味の父部屋は登山用品やら台所用品が所狭しと占領していた。テント、シュラーフザック、ランタン、ウインドヤッケ、何十足のトレッキングシューズ、シャベル、ハンマー、海外ブランドの包丁セット、シャープナー、寸胴鍋、フライパン等々数え上げればきりがない。

 直樹は嘗て虫干しを兼ねた道具の点検を手伝わされた経緯もあり、一つ一つの品物は記憶していたが、整頓が下手な父はどれも適当に積み上げるだけで仕分けは一切していなかった。

 その乱れはいわば父の思い出である。直樹は俊昭が殺害されてから特に昔を追懐するのが辛く、一度も立ち入らなかったし、また決して誰も入らせなかった。

 うっすら霞む海を遠望していた直樹はふいとダブルベッドを囲んでいる、瑞樹と共通の趣味である膨大な洋書に目を遣った。

『ハムレット』、『スケッチブック』、『アンクルトムズ・キャビン』、『ロングトール・サリー』、『レ・ミゼラブル』、『エンディミオン』、『ファウスト』を始め数百が本棚に並んでいた。

 直樹はその背表紙を順に指で弾いた。

 自分が本の世界に引っ張られたのは妻の影響である。

 別けても才媛の瑞樹は名古屋にいても読書を欠かさず、絶えず単行本や文庫本が周りに積んであった。それに約やかな家計の助けにと翻訳を手すさび程度に行っていた。

 ホームステイや留学経験がある瑞樹にとって法律以上に英文学はお手の物で、出版社から本腰を入れてやってみないかと何度も誘いがあったが主婦に専念したいため断っていた。

「うん──これは」

 指が窪みに止まった先にはミルトンの『失楽園パラダイス・ロスト』が見えた。

 直樹はその洋書を抜き出すと何ページかをぱらぱら捲って拾い読みをした。

「直、これから私実家ざいしょに行くけど一緒に来る?」

「ああ。待っててくれ、今降りる」

 暫し文面に浸っていた直樹は階下の声に素早く本を片付け、部屋を出た。

 瑞樹の生家は東の家から徒歩で直ぐ側の広大な敷地、『ベジファーム・モリモト』の一角に建っていた。直樹は瑞樹から義母の晃子が留守宅をこまめに掃除してくれていると知らされていたので、お礼も兼ね同行した。また出産には手を借りるだろうから是非とも挨拶しておかねばならなかった。

「やあ、直樹君、よく来たね」

 まさきの生垣を巡らせた、落ち着いた佇まいの玄関を潜ると森本輝樹は日に焼けた笑顔で迎えてくれた。

 直樹は軽く頭を下げた。

「お義父さん、母の見舞いにお出で頂きながら、長らくご無沙汰して申し訳ありません」

「いいんだよ、君の忙しさは全部聞いている。せめて今日くらいゆっくりしていきなさい。晃子に昼を用意させておいたから一緒に食べよう」

 森本一家は皆気さくで陽気であった。中でも義母の晃子は念願であった初孫に小躍りし

 て、昼食中絶え間なくベビーグッズの購入先などで華やかに盛り上がっていた。

「直樹君、済まんね。晃子が喧しくて」

 食事が終わり、縁側テーブルで将棋盤を挟み、対局を始めた直樹に対戦相手である輝樹は黒ビールを飲みながら角で桂馬を取った。直樹はすかさず金で飛車を簡単に奪った。

「いえ、お義母さんのお気持ちは私達と同じです。ところで真輝まき君は未だ海外ですか」

「ん、真輝かい。あいつなら渥美での適作を研究しにクレタやらティファナやらに飛び回っとるよ。そのうち金髪の嫁さんでも連れてくるかもしれんな」

「それならそれで面白いと認めるんでしょう、お義父さんは」

 と金で桂馬を取りながら直樹は笑った。「かもしれんね」と義父は角で香車を奪った。

 土地持ちだが全く格式張らない輝樹に直樹は昔から好感を抱いていた。

 直樹にとって輝樹は、妻の父親、則ち岳父がくふだが、字面通りでもあった。

 義父と実父の出会いは山から始まった。若くして萬有銀行石川支店から本店に栄転した俊昭は、知り合いを頼り渥美へ単身で引っ越してきた。

 それが登山で偶然知己となった輝樹である。「愛知で困ったら渥美へ寄れ」と何気なく山頂で口約束を交わした長躯の男が本当に訪ねてくるとは想定していなかった輝樹は、山男の堅い約定の手前家屋敷を探してやらない訳にはいかず、最終的に自分が所有するアパートへ住まわせた。そして二人は住所が近くなったのも相俟あいまって、暇を見付けてはあちこちの山を共に歩き回り、繋がりは兄弟のようになっていた。

 ところが実の兄弟になるとはお互い全く想像していなかった。

 ある日、俊昭は呼吸器の長期療養から退院してきた輝樹の姉である森本妙子に一目惚れし、結婚してしまったのである。これで戸籍上の義兄弟となった俊昭と輝樹は益々親交を深め、俊昭と妙子は現在の家へ移った。それから五年後、輝樹も晃子と結ばれ、二組の夫婦は同年に子供をもうけた。

 その三人こそ直樹・嘉樹の双子と瑞樹であった。

「そういえば直樹君、お父さんは」

 飛車を手に弄びながら輝樹は探索の件を尋ねてきた。

 直樹は未だです、と瞼を下ろした。事件から長い年月が経ち、もはや海中の骨となれば何の見込みもない。せめて好きな山で最期を迎えてやらせたかった、と輝樹は憂色混じりの小さな笑顔を作った。

「丈夫な子供が産まれるよう私らは毎日常高寺に祈っているよ。妙子姉さんがああなった以上君らには子供だけがたった一つの希望だものな」


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