運命の双生 Ⅵ


 三月十五日、月曜日。

 直樹は担当台に立ち、魔の時間が過ぎた安楽な東側、特に九一六房へ目を留めていた。

 房のラジオからはロッド・スチュワートの『セイリング』が流れ、リクエスト葉書が採用された嘉樹はバラードに暢気のんきな声を合わせていた。ラジオネームはピーター、洗礼名のペテロである。

 ヘロデ王によって死刑に処せられようとしていたペテロは御使の手引きで脱獄した。

 何とも因縁めいたクリスチャンネームを選ぶではないか、とジョゼフにも忌々しく鼻を鳴らした直樹は美浜裁判を深く回想していた。

 一九九八年九月一日、留置場より身柄を名古屋拘置所へ移送された嘉樹が、奇行を演じ、大いに荒れた初審から十一月二十二日までには定期的に三回の公判が実施されている。

 年を越し、二月二十六日には七回目の法廷が開かれていたのだが、ここで不測の事態が発生した。初公判の乱闘騒ぎを知った証人、則ち放火現場で嘉樹を目撃し、「てめえも殺すぞ」と脅されたA婦人が、暴力団に怯え出廷を拒否してきたのである。

 困った検事は証人の安全を保証する「遮蔽しゃへい方式」で進行するよう提案した。

 こうして婦人はやっと要請に応じ、被告や傍聴人との間に衝立を立てられてから後、検察質問に対し、「間違いなく自分を脅してきたのは頬に傷があるこの男」と証言した。

 科学鑑定も犯行を裏付けていた。名古屋港から引き上げられた防水バッグに残っていた文化包丁の血液は被害者のDNAと一致し、柄に付いていた血の指紋も嘉樹の右手と合致した。また、スーツに染み込んでいた燃焼加速剤の成分は橋爪家を焼いた灯油と同一であった。

 井崎弁護士は遺体に残っていた刺創の不一致を訴えたが検察による豚肉の刺切実験であっさり覆された。衣類に飛び散った返り血の飛沫の形が奇怪だとするのも嘉樹が血糊で足を滑らせ、前のめりで倒れたのが原因と判った。

 焦った井崎は精神鑑定を求めた。残酷な殺し方と、初公判の被害者遺族への冒涜は正常ではないと減刑狙いで主張したのである。

 裁判所は第十一回公判で精神鑑定を決定し、名古屋公立大学精神科教授の黒岩治を鑑定人に指定した。これにより嘉樹は六月三日から十六日まで大学病院へ留置され、様々な検査を受けた。

 その診断が十月三日の第十五回公判で披露された。

 黒岩によれば、嘉樹が胎内にいる時、流産予防に投与された黄体ホルモンの影響で脳に器質的な障害が生じ、それが爆発的な攻撃性を生んだとした。黒岩はその結果をマーヴィン・ズッカーマンが定義する「刺激欲求テストセンセーション・シーキング・スケール」に当て嵌め、活動性の異様な高さを指摘し犯行に関連付けた。

 要するに生来的な脳の異常から来るもので責任能力は無いと断定したのである。

 一方検察側は黒岩に対抗し、二十回目の裁判で検察庁嘱託鑑定医の茅野ちの浩教授を新しい鑑定人として認めさせた。検察と茅野が取った行動は、嘉樹の再検査の他、双子の弟である直樹の脳と精神状態を調べるものであった。茅野は、黄体ホルモンが影響を与えているならば、等素質である一卵性双生児の直樹にも同じ徴候がなければおかしいと読んだ。そして傍系の遺伝負因が疑われた直樹の脳の所見には何一つ異常は見付からず、嘉樹の再検査の結果も黒岩判定とは悉く反対であり、「被告は社会性人格障害ではあるが、犯行当時も現在も精神病、乃至ないし、それに等価の状態には至っておらず責任能力はある」と断じた。

 茅野判定に不満を持った弁護人は再鑑定に最後の切り札たる人物を出してきた。

 それこそ和幸の父であり、鑑定人の力量を裁判所に認められていた名古屋総合大学終身名誉教授、麻生勇作であった。心神喪失は無理でも心神耗弱で無期に持っていこうとしたのである。

 ところが、予期せぬ方向から横槍が入った。

 黒岩の欠点を補う勇作の鑑定は傍聴に訪れていた一般人でも思わず責任能力は無いと判断を狂わせてしまう程見事に展開された。しかし、検事は「被告と鑑定人は実は柔道の師範と弟子」と書かれた匿名の手紙を唐突に突き付け、死刑廃止論者の勇作がその事実を申告もせず、検査結果を有利に導いたと言い出した。これにはさすが井崎も寝耳に水で、「それは脈絡無い偏見だ」と反撃したが、十二月十六日の第二十五回公判では、協議によって決められた求刑に従い名古屋地裁菱田実裁判長は死刑を宣告した。

 嘉樹はこれ以上は茶番だと引き下がったが、弁護人が精神的な理由を挙げ無理矢理控訴し、翌年の四月十五日には第一回控訴審が開始され、九月一日の第三回控訴審では「極刑を望みます」との被害者回答が読み上げられた。

 それから二ヶ月後、遠山六児名古屋高裁裁判長は一審を支持し、死刑を言い渡した。

 以上が美浜裁判の概略である。

 だが、直樹にはどうしても解せない疑問が残っていた。

 嘉樹が父親を殺害した真の動機、これだけが絶えず胸に引っ掛かっている。

 嘉樹は銀行員嫌いのためと証言しているがグリーンライムとて名古屋一八銀行と正常に取り引きしているし、単に現場を目撃されたから口を封じたというのも信じがたい。

 あれ程幼い頃より嘉樹を庇ってきた父を、最後まで養子縁組を後悔していた俊昭を、いくら組のためとはいえ簡単に殺すだろうか。拉致なり監禁なり咄嗟でも思い付いたはずである。

 直樹は理由を何度も長考しながら一日中嘉樹の房を睨んでいても糸口すら得られず、月曜会議が終わった後でも九一六房を眺め、矢庭に聖書の記述を思い返した。

 ヤコブが双子の兄エサウの怒りから免れるためハランへ逃避行する途中、ルズの荒野で夜に見た、天まで伸びる梯子を天使が登ったり降りたりしている啓示的な夢、それが「ヤコブの梯子ジェイコブズ・ラダー」と呼ばれているものである。

 兄が弟に仕えるとの神の預言通り、成長したヤコブは兄エサウの長子権を奪おうと画策した。

 初めは猟の帰り、空腹でヤコブの許を訪れ、食を乞うエサウに弟は「レンズ豆のスープ一杯と長子権の交換」を申し出た。飢えて倒れそうになっていたエサウは簡単に条件を呑んだ。

 第一段階は成功であった。

 しかし、これは飽くまでも二人だけの密約に過ぎず、そんなのは記憶にないと惚けられれば効力はない。「踵を掴む者」、「騙す者」の両義を名に持つヤコブは安心出来なかった。

 長子の権利が財産分与に深く関わっていた時代、先に産まれた子は財産の三分の二を譲り受ける取り決めがなされていた。仮に分配される羊が百二十頭いれば、長男のエサウには八十頭、次男のヤコブには四十頭しかもらえない計算になる。倍の格差は大きい。

 ここで双子故の心理が働いた。ほんの少しの差で生まれてきたのに長子も次子もあるものか。俺が成り代わってやろう、と。また、母のリベカは、気性が荒く他宗教の妻を娶ったエサウを嫌い、代わりに知恵あるヤコブに家を継いでもらいたいと願っていた。反対に父イサクはヤコブより実直なエサウが好きだった。そのため、高齢になって視力も衰えたイサクは兄を祝福しようと決めた。

 祝福は家督の譲渡であり、長子の正式な認定でもあった。

 祝福を授ける前に狩ってきた肉で料理をしてほしいと父から依頼されたエサウは喜び勇み早速言い付け通り狩りに出掛けた。その一部始終を覗いていたリベカは急いでヤコブへ報告し、兄不在の隙に自分の潰した子ヤギを料理してエサウの真似をし、祝福を受けるよう命じた。

 ところが、ヤコブはエサウのように毛深くないから直ぐ発覚し、逆に父を怒らせてしまうのではないかと恐れ、躊躇った。

 ならば、とリベカは一計を案じた。母はエサウの衣をヤコブに着せ、腕や首筋に子ヤギの皮を巻き付けたのである。そして料理を持たせ、疑う父をまんまと欺き、祝福を受ける事に成功した。

 祝福は神との契約で二度目は施されない。猟から戻り、姑息な手段を知ったエサウは「父が死んだら必ずヤコブを殺してやる」と怒りに燃えた。

 エサウの決意を知った母は、ハランの伯父の所へ嫁探しにいく名目でヤコブを逃亡させた。

 ヤコブは一人旅の途中、天に伸びる梯子の夢を見て、神ヤーウェから繁栄を誓われた。それが「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」との有名なヤコブに対する神の約束、祝福の契約である。

 その後ヤコブは伯父ラバンの娘などを含め三人の妻をめとり、それぞれに子供が出来、羊も増えた事もあって、長年奉公を尽くした伯父と決別し、遂に故郷へ帰る決心をした。

 そこで待ち受けているのは自分が騙した兄である。ヤコブは故郷に近付く度、惨殺される恐怖に陥った。まして使いの者によるとエサウは四百人を引き連れこちらへ向かって来ているという。

 後悔に駆られたヤコブは多大な財産を使者に持たせた。そしてエサウと遠くから対面するなり七回も平身低頭した。エサウはヤコブに走り寄り力強く抱き締めた。「兄弟よ、私は沢山持っている」、つまりこんな財産など要らないと赦されたヤコブはエサウと共に泣いた。

 これが創世記の双子物語であるが、直樹は自分が赦しを願う弟だとは到底考えられなかった。

「頭を下げてもらうのはこっちだ」

 と、直樹は規定に反して勝手に一人で九一六房を解錠した。

 机上を見れば嘉樹は創世記のページを開いていた。

 かっと熱いものが込み上げてきた。

「エサウはスープで長子権を売った。その軽率さを全く反省していない所か、ヤコブとの約束を反故ほごにして相続の力を持つ父親に依存していた。汚い奴だ。アベル殺しのカインにも劣る」

 話はヤコブとエサウより遡るが、アダムとイヴの子供であり兄弟でもあったカインとアベルは神への捧げものが原因で兄弟殺しへと発展している。カインは収穫した作物を、アベルは初子の子羊を神に捧げた。しかし、自分の捧げものが「正しい心で捧げられなかった」と神に喜ばれなかった兄のカインは怒って弟のアベルを殺してしまった。

 嫉妬や憎悪に駆られた衝動的な殺人である。

「何が言いたいんだ」

 ゆるりと嘉樹は立ち上がり直樹と向き合った。

「いずれ執行されるお前に訊いておく。何故、父さんを手に掛けた。どうして唯一の味方になってくれていた父さんの恩をあんな仇で返すような真似をした。殺す必要などなかっただろう」

 握った拳を震わせながら直樹は嘉樹の顔を見据えた。

 嘉樹は感情が爆発しそうな弟に暫く茫然としていたが、やがて太々しい笑みを浮かべた。

「復讐だ、直。お前への復讐だ」

「何?」

「知らんとは言わせんぞ。お前は俺を罠に掛け何もかもを独り占めした。両親や家、そして瑞樹まで。俺の周りから大切なものばかりを掠め取った。だからお前が俺から盗んだ一番の人間を消してやったんだ。親父をった後はマニラ辺りにトンズラしようと謀ってたが、まさか捕まっちまうとはな。しかし、可笑しかったぜ、首を絞められたあの情けない顔はよ。序でにババアも絞め殺してやりたかったんだが、惚けて病んじまったそうじゃないか。良い面の皮だぜ」

「貴様!」

 直樹は悪念を吐いた襟首を掴むと房壁にその背中を力任せに叩き付けた。

「よくも父さんを殺しやがったな。貴様のせいでうちは滅茶苦茶になったんだぞ。なのに自分の大罪を反省もしないで、こんな所でのうのうと生きやがって」

 腹から絞り出す激語に驚駭きようがいした鮫島と、丁度交替にやってきた阿佐田が止めに入った。

 直樹は廊下に引き出されながらも大声で叫び続けた。

「貴様だけは赦さん。俺がこの手で、絶対に俺が刑場の踏み板から突き落としてやる」

「おお、やれるもんならやってみろ。その前に俺はここから逃げてやる。三十年逃げ切って、今度はお前の息の根を止めてやる。首を洗って待ってろ」

 放胆にも脱走の意志と刑の時効の悪計を聞いた刑務官一同は狼狽ろうばいを隠さなかったが、隙を窺い再び嘉樹へ拳を向けようとする怪力の直樹を房から引き離すので精一杯であった。


「またとんだ不始末をしてくれたね。困るよ、感情のまま向こう見ずに口走しっては!」

 翌日直樹は巨大な鼻の穴を痙攣させる柴田に大叱責を受けた。

 昨晩の揉め事を録画モニターで見せ付けられた所長は膨れ面で葉巻の煙を吐き出した。

「いくら被害者遺族でも君は刑務官だ。一人で房扉を解錠して中へ押し入ったのもそもそも重大な違反だが、それ以上に君が取った軽挙妄動は九階正担当にあるまじきタブー中のタブーなんだよ。無思慮な発言のせいで住人の心情は死刑執行に怯えすっかり乱されてしまった」

「申し訳ございません」

 頭の冷えた直樹はさすがに弁解もせず深々と頭を下げた。

 名古屋拘置所死刑確定者処遇の第二十九条には「死刑確定者の心情の安定を確保するため、その処遇にあたる職員は、言動等に十分配慮しなければならない」と記述されているが直樹はそれを堂々と破ってしまったのである。所長が激怒したのも当然であった。

「申し訳ございませんでは済まされんよ。君が担当から外れている間、彼らの原始反応や拘禁反応は知っているかね。石動は房の壁を叩きまくり、間宮も奇声を発し泣きじゃくる。君の前では大人しく振る舞っている者達も陰では正常な精神ではないのだ。その君があんな醜態を晒すから昨晩の九階はもう狂人の巣窟みたいになった。全部君の責任だよ。これからどうするね」

「何とか住人と密接なコミュニケーションを取って落ち着かせます」

 直樹は謝罪の頭を下げたまま視線だけをやや上げて自分の善後策を述べた。

「となると処遇も更に甘くせねばなるまい。歯止めが利かなくなると厄介だぞ。無茶な要求をこれ以上通してもらっては困るんだ。いいね」

「以後厳重に注意致します」

 再度低頭し、反省の色を浮かべる部下に柴田は葉巻の固まった灰を灰皿に落とした。

「うむ、局の特別人事ゆえ今回だけは不問に付するが、住人が死刑囚であるのは肝に銘じなさい。今更言うまでもないが彼らの健康管理も頼んだぞ。東拘みたいに病死させたら我々の信用に関わるからな。分かったらもう行きなさい」

 促されるまま所長室を退いた直樹は情動を抑制出来なかった自分に閉口した。

 正担当として最大のミスが、漸く築かれつつあった信頼を一気に崩壊させてしまった。

 予想通り九階は押し並べて蔑みの眼差しを向け、必要最小限の会話以外誰も口を開かなかった。

「アラブの聖者曰く、『力強いとは相手を倒す事でなく、怒って当然という時に心を自制する力を持っている事である』。今の先生には必要な諫言かんげんでしょう」

「教授」

 直樹は視察孔に顔を寄せた坂巻へ目を遣った。

 坂巻は呆れ果てた声で苦言を呈した。

「衝突は不可避だと予測してましたが、骨肉の争いに無関係な者を巻き込んではいけません。私怨の持ち込みはここでは厳禁ですよ」

 潜んだ舎房には坂巻以外誰の肉声も聞こえず、ラジオのパーソナリティーが発する名古屋弁混じりの歯切れ良いトークだけが、違和感を広げながら薄暗い廊下に反響していた。

「皆は怒っているのか」

 直樹は房扉に寄って坂巻に小声で尋ねると、坂巻は否定した。

「いいえ、むしろ警戒しているんですよ。貴方がリテンなのは全員知っていますが、より確信しましたからね。まあ、当分敵視されても仕方ありません」

「どうすれば解けるかな」

「それは誠意を持って処遇するしかないでしょうね。時間は掛かりますが」

「やはりそうだな。助言、有り難う」

 坂巻の答えは自分の考えと一致していたので直樹は少し安心して謝意を表した。

「ふふふ」

 唐突に坂巻は籠もるような笑いをした。見ると視察孔からは心底可笑しそうな笑みが覗いていた。直樹は怪訝な顔で訊き足した。

「何だ、教授、何か変だったか」

「いえ、まさか正担当の先生から感謝される日が来ようとは。こんな珍事は拘置されてから初めてです。囚われの身には何とも嬉しいですね。久しぶりに人間として扱われた気がしますよ」

 直樹は急に黙ってしまった。そしてそのまま担当台へ戻り、静まった死刑囚舎房を見渡し、刑務官という職業について改めて思いを馳せた。


 翌日の水曜日、午後十一時過ぎ、九階の廊下に巡回の芝生を踏む音が微かに響いていた。

 この階にはタイムレコーダーが起動していないので、ゆっくり住人の観察が出来た。

 小堀、小林、吾妻、ミラー窓に収まっている熟睡顔は揃って人殺しである。

 夜勤に当たっていた直樹はジョゼフの発した「魂は善と悪の融合」の深意を熟考していた。悪は人を磨く為にあると神父は説く。それは果たして真実だろうか。健全な社会は健全な法律で支配されるのが常で、どれだけ被告が身を切られるような辛い過去を持っていても殺された者には関わりなく、同害報復タリオは当然だと大多数に支持されている。

 万一欧州のように死刑が廃止されるとなれば必ず愉快犯や模倣犯が殺人を犯すに違いない。そして世論は続発する凶悪事件に死刑復活を叫び、議員は慌てふためく。日本人はとかく因果応報や勧善懲悪といった詩的正義を好み、まして人権意識が薄く、法務省も刑施法通過を狙っているのだから死刑には肯定的で、司法権力に逆らわない民族的意識エトスが死廃論者の大きな壁となっている。

「うん?」

 考え中の直樹は野呂の房の前で何気なく立ち止まった。

 しかしそれは止まったというよりむしろただならぬ違和感がその歩みを止めさせたと言っていい。ひっそり漂う静夜に野呂は泥のように深く眠っていた。

 但し、いびきが平生のものとは異なり、鼓膜を強く刺激する高音域に聞こえた。

「おい、野呂」と上段の視察孔を開け、声を掛けても返答がない。

 一瞬にして嫌な予感に包まれた直樹は担当台の阿佐田を呼ぶと房扉を解錠し、大口で呼吸する老人の体を揺すったり足をつねったりしてみた。

「くそっ、駄目だ、ぴくりともしない。野呂、起きろ。野呂」

 何度も呼び掛けたがやはり反応はなかった。直樹は大急ぎで医務課へ連絡を取った。岡崎支所にいた時同じ徴候で倒れた未決が頭に思い浮かんだ。脳出血である。

「ほい、医務室」

 ぶっきらぼうに応じたのは保険助手の伊瀬であった。

 行刑施設の医師は先ず夜勤に就いていないため保険助手が代理を務めている。伊瀬は容態を報されると眠気混じりの欠伸をした。

「野呂なら例によって詐病だ。放っておけばいい。そのうち静かになる」

「いや、抓ってみても無反応なんです。とにかく診察だけでも来てもらえませんか」

「あのなあ、鮫島みたいな物言いをするな。そもそもあんたは医官じゃないだろ」

 伊瀬は見下すように吐き出した。が、直樹は凛と言い返した。

「医務であれ貴方も私と同位の刑務官です。詐病なら詐病の判定をして下さい。上役から職務怠慢と考課表に記されるのは不本意ではありませんか」

 何なら処遇部長に言い付けるぞとの脅しである。

 名拘のナンバー2に報告されては堪らない伊瀬は舌打ちをし薬箱を手に提げた。

「それで未だ鼾は治まっていないのか、東」

 九階のエレベーターを降りた伊瀬は面倒臭そうに九三〇房へ進んだ。

「ええ、意識障害からは快復していません」

「トウシロは黙ってろ」

 専門医じみた口を制した伊瀬は野呂の房に入った。

 直樹はほっと安堵の息を漏らした。毎次の診断が等閑なおざりでも医務であれば最低脳出血の判断はつくだろうし、病院移送の手続きも程なく取れるに違いない。

 ところが、そんな直樹の配意とは裏腹に保険助手は薬箱を入口に投げ置くと、脈や血圧を調べる所か、信じられない行動に出た。丸めた布団に寄り掛けられた人事不省の老体へ馬乗りになるや突如平手打ちを食らわせたのである。

「野呂よ、俺様に厄介を掛けさせるんじゃないよ。狸寝入りは分かってんだぞ。とっとと起きろ。起きないと保護房へ叩き込むぞ」

 直樹は慄然りつぜんとしていたが、直ぐ我に返って手荒い腕を押さえた。

「止めろ、血迷ったか」

「手を放せ。死刑囚なんぞいつも詐病ばかりだ。この爺さんも変わらん」

 腕を振り払うと伊瀬は狂気の顔で野呂の顔面を強打し続けた。

 無茶な言動にも限界がある直樹は伊瀬の後襟を掴むと廊下へ放り投げ、大声で怒鳴り付けた。

「馬鹿野郎、頭痛持ちで偶に二百を超える高血圧の野呂をどう診た。眼瞼がんけんを開けてみろ。共同偏視は脳内出血の特徴だ。野呂には婚約を待つ女性がいる。このまま死亡したら裁判で訴えられるぞ。被告席に座る事になってもいいのか」

「被告!」

 訴訟の可能性を示唆された伊瀬は突然顔を青くし、舌をもつれさせた。

「ど、ど、どうしたら、いいんだ、東、さん」

 名拘では専門技術要する頭部手術などとても無理なため外部の病院へ送らねばならない。直樹は冷静に救急車を求めた。それでも伊瀬は自分の一存では決められないと狼狽えた。

「ならば伊瀬さん、鳴瀬課長の所在は判りますか。電話は繋がらない?」

「課長なら朝から名青大へ行ってる。でも、連絡しても移送権限が課長にあるかどうかまでは」

 名古屋拘置所の医務課長は名古屋青廟大学病院から二年毎に交代で派遣され任務に就く仕組みになっている。鳴瀬駿は未だ三十五歳にも満たない若い内科医で、他にも薬剤師がいるが当然夜勤は無く、医務課は空っぽの状態であった。

「では処遇部長に采配を仰ぎましょう」

 伊瀬を横目に直樹は幹部官舎へ報せを入れ、野呂に出来る限りの救急処置を施しながら到着を待った。すると村上は十分もしない内に私服のまま上がってきた。

 直樹から今までの経緯を手短に説明された村上はずっと黙念していたが、間もなく途方もない答えを出した。

「東君の見立ては正しいだろうから名刑へ移送しよう」

「名刑ですって」

 直樹は二の句が継げなかった。目と鼻の先には妙子も入院している名私大病院がある。それに三好に在する名古屋刑務所は二十四キロも離れている上、緻密なオペは行っていない。

「何故三好なんですか。私には解せません。名刑の医務はいわば診療所です」

「管内の行刑施設だからだよ。CTやMRIこそないが、検査から始めてくれるだろう」

「こんな一刻を争う緊急事態にお役所的な指導に従っている場合ではないでしょう」

 直樹は淡々と述べる村上の人格ががらりと入れ替わったように不自然な感じを受けた。

「ここは法務省の本属、歴とした役所だよ」

「そんな揚げ足取りはどうでもいいんです。野呂を見捨てるおつもりですか。このままではマスコミからバッシングを受けます。去年東拘でも老人の死刑囚が一人病死しています。あの時と同じ過ちを繰り返すと行刑の信頼が揺らぎます」

 時間が経てば経つほど脳出血は手遅れとなる。それなのに村上は動じもせず逆に時間を稼ごうとしているのか冷罵すら重ねた。

「助からなければ所詮それまでの命だったという事だ。本省へは心臓発作が死因と報告すれば済む。外部の人間は死亡帳に立ち入らないから、大阪へ運んでもいい。そうだ、あそこの医療刑務所なら病院の指定を受けているぞ」

「村上部長、私は貴方とは思想的に反対の立場を取っていますが、住人を敵に回すような心無い方だとは存じませんでした」

 と、直樹から失望した眼差しを投げられても村上は落ち着き払っていた。

「私はクラウド・ナインの味方だ。君がどう思おうと、今でもな」

 急病人を見殺しにしようと画しておきながら味方とは矛盾に満ちている。

 直樹は遂に怒声を上げた。

「誠に味方と仰るならば外医がいい治療をすべきです。野呂を急いで名私大へ病院移送して下さい。監獄法四十三条にもありますし、クラウド・ナインの健康管理は柴田所長直々の御命令です。それでも強硬に名刑へ送りますか」

 頑として譲らない直樹を村上は小さな眼球で見返し、最後に長息を吐いた。

「分かった。そこまで言い張るのなら君の指定する所へ連れて行こう。但し、救急車は要らぬ勘繰りが入るから私のワゴンで連れて行く。伊瀬君、先方へ連絡しておいてくれ。阿佐田君と一緒に担架も頼む」

 伊瀬と阿佐田は命じられるままエレベーターで降りていった。

 直樹は野呂を屈んで観察する村上を見つめ、矯正の生き仏は邪鬼にもなれるのかと大いに落胆した。

「──東君、今ここで敢えて問うが、君は東条英機を知っているかね」

 背中を向けたまま村上は、この状況にそぐわない人名を唐突に尋ねてきた。

 近代史では常識の名である。第二次近衛内閣の陸相で、昭和十六年には自らの内閣を組織した。そして開戦し、十九年には戦局悪化の責任を取り辞任した。

 直樹は現時点でその東条がどうしたのかと不愉快に黙ったが、村上の顧みた険しい面持ちに奇妙な感覚を抱いた。

「君は連合国総司令部GHQと同等の過失を犯した。覚悟しておきなさい」


「何とも早く発見してくれたなあ。でかした、でかした」

 翌日の昼過ぎ、午後から登庁した直樹はご満悦の柴田から握手を求められた。

 野呂はやはり重度の脳内出血を引き起こしていた。そのため緊急手術が行われ、先程成功の一報が付き添いの刑務官からもたらされた。所長の賛辞は己の立場や出世を案じてのものであったが、直樹は住人を不安に陥れた償いが出来たと思うと嬉しくて堪らなかった。

 反面、柴田の横に立つ村上は昨晩同様、顰め面で直樹をひたすら黙視していた。

「これで前の失敗は帳消し、いや、比べられん位だ。金一封でも出さんといかんか」

 柴田は矯正局からの叱責を免れたせいか、恵比寿顔のまま直樹の腕を叩いた。

「いえ、私の事より、一度外部の医師を招いて住人達の検査をお願い出来ませんか。僭越ですが彼らの中には十二指腸潰瘍で苦しんでいる者もおります。医務課の投薬は効果薄で、二度と野呂のようなミスを出さないためにも健康管理に力を入れて頂くのが最善かと」

「確かにその通りだ。今度鳴瀬君を交え検討しよう。それにしても君は行刑の信頼を守る良い担当になった。九階は本所の中で君が最も適任だ」

「過分にお褒め頂き有り難うございます。では持ち場へ参ります」

 直樹は敬礼を作るとエレベーターに意気揚々と乗り込んだ。

「いい気なものだ。まるで英雄気取りだな」

 いきなり発せられた声に直樹はぎょっとした。いつの間にか背後に村上がいた。

「私は常時『盾の両面を見ろ』とくどいくらい教えてきたはずだ。なのに君はその半面しか見ていない。ノロさんが何故今になって新聞を読み始めたのかさえ理解していないだろう」

「私の目が節穴だと仰るんですか。使命を正当に遂行したのがそんなにお気に障りましたか」

 昨晩から何だと直樹はそっぽを向いた。野呂の頭痛が無くなり、第一、直接の上司である村上が手放しで賞賛してもいいのに、逆に咎めるとは随分に返ったなと哀れんだ。

 それより、割れんばかりの拍手で迎えられる自分を想像すると九階に着くのが楽しみで、直樹は充実感に胸を膨らませエレベーターのランプに目を据えた。

 そしてクラウド・ナインへ到着するや真っ先に坂巻の房へ向かった。普段から野呂の体調を一番気遣っていたのは坂巻である。

 予想に違わず視察孔から早口が聞こえた。

「先生、ノロさんはどうなりましたか」

「ああ、野呂なら無事一命を取り留めた。今は集中治療室でぐっすり眠っている。術後は一旦名刑に移管されるだろうが元気にまた戻ってくる。もう何も心配しなくていいぞ」

 階全体に届くよう直樹は清々しく大声を放った。丁度エルバ島を脱出し皇帝の座へ返り咲いたナポレオンと等しく盛大に歓迎される様を思い描き、喜悦に浸った。

 ところが期待に反し、いつまで経っても舎房からは喝采どころか物音一つ響かない。

 肩透かしを食い、何故だと困惑する直樹へ坂巻は扉から滑り落ちて呟いた。

「何てむごたらしい」

「──何?」

「貴方は残酷だ! どうして本当に助けたりしたんですか。振りだけで良かったのに」

 するとその途端檻房の全扉が一斉に蹴りの悲鳴を上げた。直樹は大反響に耳を塞いだが銅鑼どらと化した鉄の喚きは収まらず、九一六房から飛んだ非難が騒音に一層拍車を掛けた。

「直、てめえはどこまで大間抜けなんだ。どうしてそのままノロさんをぽっくり逝かせてやらなかった。本人が望んでいたにしろ、そこまでして爺さんの皺首に執行のロープを掛けてえのか」

 掌を耳から離した直樹は愕然とし、背中の部長へ振り返った。

 村上の硬い顔付きに直樹はこの時初めて「過失」と罵られた真意を察した。

 東条英機は東京裁判の前にピストル自殺を図ったが、GHQがA級戦犯として処刑するため最高の治療で強引に蘇生させ、絞首台へ送った。慈悲有る者ならあのまま死なせてやるべきであったと批判する者もいた。

 野呂が突然新聞に興味を示したのは、そうすれば精神が安定したと見なされ執行が早まると嘉樹に教えられた為なのであろう。死にたいと常に厭離えんりの情を募らせていた老人を、善かれと無理矢理蘇らせたのは単なる独善でしかなかったと思い知った直樹は身の置き所が無くなり、延々と鳴り止まぬ反抗の蹴りにいつまでも立ち尽くすしかなかった。



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