運命の双生 Ⅴ


「直、ちょっと待って。相談があるの」

 三月十四日、日曜、午前十時。名私大病院へ出向こうとヴァレンティノの革靴を履き、立ち上がった間際、エプロンを外した瑞樹にスーツの右裾を掴まれた。

「悪いが帰ってからな。今は早くお袋に会いたいんだ。放してくれ」

 妙子は日に日に苦しさを増しているようで、その上、ドナーは依然出現せず特別な治療も無いまま気が気でなかった。子供を身籠もっている妻も大切だが、緊急を要するのは母である。直樹は残りの手でノブを握った。

「お願い、聞いて。そのお義母さんの件なの。治療に関してとても重要な事柄なのよ」

 力尽くで引き止めた細腕と、惑乱している素振りに直樹は突然不安が過ぎり、「何だ」と訊いた。

「とにかくリビングへ来て。見せたいものがあるから」

 誘導されるまま直樹はソファーへ座った。

 見ると瑞樹はテレビ台の引出を開け、A四サイズの古ぼけた茶封筒を取り出していた。

「私三日前に実家へ帰ったでしょう。その時にお義母さんの衣装箪笥いしょうだんすから出てきたの」

 確かに妻は出産に必要な品を揃えるため一度渥美に帰省していた。直樹は、序でに東の家へ立ち寄り、妙子の記憶回復の手助けをする写真を探す事も頼んでいた。

「古いアルバムに紛れてたそれを見付けた時は目を疑ったわ。こうやって直へ知らせていいのか今の今まで悩んだの。でもそれはお義母さんの意志だから」

 消印が掠れた母宛の郵便物を手渡された直樹は瑞樹が何度も強調する「それ」を慎重に開けた。

 中には一枚のコピーが入っていただけだが、タイトルに目を注ぐや忽ち色を失った。

 書面は妙子のサインと捺印がなされた「尊厳死の宣誓書リビング・ウィル」であり、作成日は十五年前になっていた。

「念のため東海尊厳死協会へ当たってみたの。そうしたら『東妙子さんは終身会員で登録がなされてます』って返答されたわ」

 宣誓書は延命治療放棄を定義する。

 瑞樹は苦悩で顔を覆う夫へ躊躇いながら言い添えた。

「お義母さんはこれ以上我慢したくないんじゃないかしら」

「移植を諦めてホスピスへ入れろというのか。お袋は余命宣告された訳でもないし絶望的でもない。こんな紙切れ一枚に拘束されてたまるか」

 直樹は用紙を破ろうとしたが瑞樹は慌てて取り上げた。

「止めて。これはお義母さんの書類なのよ。息子だからってどうこう出来るものじゃないわ。直はお義母さんの気持ちを無視してこのまま苦しめたいの。それが本当に親孝行なの」

「じゃあ早死にさせるのが親孝行か。俺はそんな法的に無効な誓約書など認めんぞ」

「確かに未だ癌細胞は転移していない。でもお義母さんは重度の肝硬変とアルツハイマーを患っているのよ。昨日病院へ電話を入れたら、佐和子さんは暫く答えに詰まっていたけどリビング・ウィルがあったなら、いずれホスピス転院も選択肢に入れましょうって言ったのよ」

「佐和子さんにって、どうしてお前は勝手な事を」

「あのね、私だって好きでホスピスを勧めてるんじゃない。でも現実的にお義母さんが手術を受けられる? 移植されたとしてもアルツハイマーは治らないし、お義父さんの記憶すら無くなってしまうかもしれない。そんな別人になったお義母さんに直は堪えられるの」

 瑞樹は口早に言い立てた。

 主張は全て尤もであったが、生存願望が直樹の胸を締め付け、強く握った拳がギリギリ音を立てた。

「死んでは何もかもお終いなんだ、生きてくれなければ無意味なんだ。とにかく生きていなければ」

「直──」

「少し、一人にさせてくれ」

 目がいそうな直樹はよろめく足取りで、ふらりと官舎を出た。

 とても名私大へ行く気になれなかった。佐和子と顔を合わせれば終焉の確信を得てしまうようで怖しく、無意識に乗り込んだレジェンドは瀬戸へ向かっていた。

「あれ、直樹さん。どうなされたんです。お仕事の途中ですか」

 一月半振りに会う真宥子は髪を栗色に変えていた。スーツ姿に驚かれながらも歓迎された直樹はほっと安心した。

 ボランティア・コーディネーターも兼任している真宥子は職員からスタッフのスケジュール調整についての質問を如才なくこなしながら直樹を応接室へ連れて行った。

「すみません、真宥子さん。お忙しいのに突然お邪魔してしまって」

「いいんですよ。今日はどの様なご用件でしょう」

 直樹は暫し迷っていたが妙子の容態やリビング・ウィルの事を隠さずに全て話した。

「そう、ご本人が尊厳死を望んでいらっしゃるんですか」

 真宥子は淡々とポットからジャスミンティーを注いだ。思い起こせばここはホスピスである。尊厳死には一番詳しいだろうし、耳慣れているのは当然であった。

「それで直樹さんは今後どうなされるおつもりですか。宣誓書には不治の病で死期が迫っている場合、延命措置を断念し、モルヒネの使用を望む項目がありますが、そうなった時このまま佐和子の病院で闘病を続けるか、或いはお母様の御意志を尊重して緩和療法を取られるか」

「──どうしていいか判らないんです。私の父は六年前に亡くなっています。だから母には少しでも長く生きて欲しいんです」

「お父様は事故か御病気で?」

「いいえ、殺されて海へ捨てられたのです。遺体は今も揚がっていません」

 余りにも衝撃的な告白に真宥子はスティックシュガーを皿に零した。

「父は非業の死を遂げました。だから残った母には意志に反しても生き延びてほしいんです。例え違法行為であっても生き続けさせてほしいんです」

 心のままを流露した直樹に真宥子はこれが偽りない本音だと痛感した。

 明言してしまえば、身内の人間がリビング・ウィルを守らなくても法律では罰せられない。直樹がどうして母親の看病を必死に行うのかを理解した真宥子は、ホスピス・コーディネーターとしては失格かもしれないが、転院に力を入れる意気を薄らげてしまった。

 脳死判定の基準となる脳幹死は大脳機能が主に壊れる植物状態とは異なり呼吸が停止する。医師は人工呼吸器レスピレーターで血液の循環を図り二週間ほど延命をもたらすのだが、その間にも様々な臓器に虚血が起こり、特に脳はどろどろと自己融解を始める。

 その惨状は「人工呼吸器脳レスピレーター・ブレイン」と呼ばれ、脳幹死の凄まじさを表している。

 不可逆的な死は誰にも止められない。ホスピスに転院する患者は末期中の末期で、治す術も無い反面生への執着は強い。だが、それは本人より寧ろ周囲が過剰な期待を掛ける。

 心静かに残りの人生を楽しませてあげては如何ですか、と真宥子はホスピスに怯える家族へ穏やかに提言する。安らかに亡くなる顔は美しい。真宥子は自分も死ぬ時はこんな風に死んでいきたいと願っている。だから尊厳死協会へ登録し、脳死移植に丸を付けたドナーカードも携帯しているが、「趣旨の異なるどっちを優先するの」といつも妹にからかわれる。

「尊厳死」と「脳死移植」の違いは真宥子と佐和子の立場をそれぞれ象徴していた。

 命を天に召す者、命を命で繋ぐ者、その役割は真逆でありつつも佐和子が救えなかった生を次に受け継ぐのが真宥子であるのは紛れもない事実であった。

 真宥子は悲しみに暮れる直樹に「もし」と問い掛けた。

「もし、癌が転移しても、やはりお母様を治療なさいますか」

「いえ、そうなったら生存の確率はゼロに近いと聞いています。生きていて欲しいとは願いますが、自分の我が儘な感情の為に苦しめたくありません。その際はここへお世話になれますか」

 いつでもどうぞ、と真宥子は満足して微笑んだ。

「辛いのはご家族の方も一緒です。私などでよろしければ何でもご相談下さい」

 ホスピス業務として患者家族の精神的なケアやカウンセリングも行っている真宥子ではあるが、直樹の場合、複雑な家庭事情もあり業務以上に労りの思いが強くなった。

「今日は本当に有り難うございました。お陰で少し楽になった気がします」

 玄関までわざわざ見送りに来てくれた真宥子へ直樹は礼を述べた。

 ここで真宥子は小さな唄を口にした。

「なやむものよ、とく立ちて、めぐみの座にきたれや、天のちからにいやしえぬ、かなしみは地にあらじ」

「?」

 疑問を表情に浮かべた直樹に真宥子は説いた。

「これはアイルランドの詩人で歌手でもあったトマス・ムーア作の賛美歌です。『悩める者よ、早く立って慈しみの場所に来なさい。神の力で癒されない悲しみはこの世界にはないのだから』。私はこの『試練』の歌が一番好きなんです。ですから直樹さんも頑張って下さい」

 直樹は真宥子らしい温かい激励に別れを告げベツレヘム病院を後にした。

「癒されない悲しみはこの世界にはない、か」

 信号が変わるのを待ちながら直樹は耳に残った一節を呟き、ハンドルを指で叩いた。

 自分の悲しみや悔しさは嘉樹が執行されるまで癒されない、それは明らかである。

 執行の季節は秋・冬が相場と定まり、正担当も二年で交代するのが習わしになっているようだから何とか夏まで決着を付けなければまた先送りにされるかもしれない。名拘へ突然転勤になり死刑囚舎房へ配置されたのは驚愕したが、これは嘉樹を地下へ送り込む千載一遇の好機であった。

 叶うならば執行のボタンを押したいが多分無理だろう。だから教誨等記録簿には受けた教誨の内容を具に記録し、他の提出書類には「読書と運動量が増えた」とか「食事も睡眠も充分に取っている」と心情安定を仄めかす記入を欠かさなかった。

「それにしても、あれは一体」

 賛美歌から直樹は嘉樹が口にした「梯子」の単語を想起していた。

 実は、東兄弟には誰にも話していない、梯子に関して苦い過去があった。

 奴はあの梯子を当て擦ったのだろうか、と直樹は憎げに再考したものの、嘉樹は聖書を開きながら「天使が舞い降りてくる」と霊的な表現をした。

 教義に絡む事ならば尚以て謎が増す。

 ヘッドレストに考え疲れた頭がどんと乗った。

「そうだ、バイブルの内容ならいっそジョゼフ先生に訊いてみるか」

 名案に閃いた直樹は青信号の点灯と共にインマヌエル教会へ素早くハンドルを切っていた。

「おや、これは非常に歓待すべき方がお見えだ」

 濃緑色の祭服をまとい一人祭壇へ祈りを捧げていたジョゼフは、教会の扉に立つ直樹に驚嘆の声を上げた。無神論で現実主義、そして死刑存置論者なのは任務の態度から感じられる。その本人が自ら教会へ出向いたのであるから神父の驚きは半分皮肉であった。

「一度、日曜のミサというものを見学しようと思いましてね」

 直樹は肩を竦め、前列の会衆席に座り背板に寄り掛かった。

「あれは正午までです。ご覧のように信者の方も奉仕の方も皆さんお帰りになられました」

 教会堂を見渡すと以前のように暗く漂う闇はなく、一面には柔らかい陽光が溢れていた。

 天井に彫刻された清雅な花弁やステンドグラスも日射しを浴びて荘厳にきらめき、扉から説教壇の前まで敷かれた長い絨毯は特に緋色を際立たせていた。

「ところで、直樹さん、何か私にお尋ねでも」

 隣に着座した神父は来訪の底意を汲み取った。

「ジョゼフ先生は梯子と聞いて何を連想しますか」

「梯子、ですか」

 出し抜けの質問にジョゼフは戸惑い顔を見せたが、思い付いたまま幾つか例を挙げた。

「そうですね、梯子車、梯子持ち、縄梯子。後は、朝倉の梯子獅子くらいでしょうか」

「えッ、牟山むさん神社の秋祭に行かれたんですか。厳格なカトリック神父である貴方が」

 知多朝倉の梯子獅子というのは獅子頭を被った者らが三十一段の木梯子を登り、高さ九メートルに設えられた三本の細い櫓の上で舞いを奉納するのだが、地面にはマットこそ敷いてあれ命綱は付けていない。足を踏み外せば真っ逆さまに落下する、手に汗握る命がけの無形文化財である。

 それでもキリスト教神父が宗教の違う神社へ出向くのは奇妙に思えた。

 ジョセフは笑って直樹の不可解な問いに答えた。

「もちろん祭服では行きませんよ。朝倉の信者さんが一度見物にと案内して下さったんです。直樹さんは?」

「私は幼い時分、父に連れて行かれました。高所恐怖症の克服にあの梯子を登らされたんです。父は登山が好きで私も共に誘うのですが、何せ私は高い所が苦手で、何とか慣れさせようと苦肉の策だったんでしょう」

「それで最終的に上まで登れたんですか」

「いえ、七段目で足が竦み、父の作戦は失敗でした。先生は、高所は平気ですか」

Gloriaグロリア inイン excelsisエクセルシス Deoデオ、このラテン語はご存知ですか。ルカによる福音書二章十四節にあるのですが」

 と、ジョセフは突然聖書の話へ変えてきた。

 直樹は軽く頷いた。

「『いと高き所では神に栄光があるように』ですね、確か」

「ほう、これは驚きましたね。信仰の無い方の知識とは思えません」

「クリスマスにテレビで流れてた賛美歌で聞いた事があるだけです。邦題は『あら野のはてに』でしたかね。それに海外の小説では結構ラテン語表記は見かけますので」

 苦笑した首を傾げた直樹に成程と納得したジョセフは続けた。

Gloryグローリー toトゥ Godゴッド inイン the highestハイエスト、いと高き所では神に栄光があるように。即ち神は天界にお住みになりますから高さは苦になりませんよ」

「けれど宇宙飛行士は大気圏外へ出ても神を見出せなかった」

 硬い顔で直樹は異論を唱えた。無宗教者独特の切り返しである。ジョゼフは思わず頬を緩ませ掌を自分の胸に当てた。

「高さというのはあくまでも比喩です。実は神の国は天空にある訳ではありません。人の魂に、内住ないじゅう御霊みたまにあるのですよ」

「ならば殺人の意味は何です。それは神が神を殺すのと少しも変わらないじゃないですか」

「嘉樹さんの事を仰っているのですね」

「──一般論です。奴は関係ありません」

 直樹は顔を背け、手の甲を掻いた。

 では専門家として答えましょうと、神父は胸元に揺れる木製の十字架を手にして瞼を下げた。

「聖書の天地創造の件で『神は光と闇を分け、光を昼と名づけ、闇を夜とされた』とあります。神は光を見て善しとされたその瞬間正しく夜が悪になりました」

 ジョセフが硬く十字架を握りしめると、それを留めている金鎖が小さくチャラリと鳴った。

「カトリックの教義からすればこれから私が申し述べる事は些か異端です。人間には神と悪魔が宿っています。元来この世は一つの『混沌とした力』でした。それが光と闇に二分されてしまった。一つが二つに、あたかも大天使長と堕天使の双子のように」

 目を開くとジョゼフは意味ありげに直樹へ視線を合わせた。

「ヨハネの黙示録で竜と化したルシフェルは神に打ちのめされたり懲らしめられたりしますが決して滅ぼされてはいないのです。何故だかお分かりになりますか?」

「いえ、何故ですか」

「ルシフェルは曙の天使でしたが、光に逆らい闇の魔王へ取って代わった。天使と悪魔は同じコインの裏表なのです。人間は光と闇が融合したもの、またはその境界線を有するもの、正に混沌の具現です。白と黒は単体では存在しないのです。苦しみは時として心を打ち砕きますが強くもします。それは各人の魂の質に掛かっています。悪はその幼い魂を向上させるためにあります。我欲に打ち勝ってこそ善が磨かれる。そのための邪神なのです。ルシフェルの魔風に吹かれ甘言に引きずられれば誰もが罪を犯しますが、誘惑に勝利した者は聖ミカエルに迎えられるのです。故に善悪を併有する我々にとってルシフェルは単なる闇の帝王ではありません。神は天使を愛するのと同時に、そのような悪魔の所行をも大きく包み込んでおられます。全ては人間の成長のために」

「であっても犯罪を許してはいけないんじゃありませんか」

 悪を肯定された直樹は憤った声で反駁はんばくした。

 ジョセフは逆に穏やかな声で返した。

「法律はそのために作られていますから罰則を与えるのは仕方無い事です。矯正も間違った道を正しく導く一つの手段でしょう。しかし死刑は別、何の救いもありません。何故なら神の仔羊である主が、迷える羊、つまり人類のあらゆる罪を負い、身代わりの死をお受けになったためです。『悲しみに沈める御母みははは涙に暮れて、御子みこが掛かりたまえる十字架の許にたたずみたまいぬ』──。この『スターバト・マーテル』の賛歌はご存知ですか。ゴルゴダ丘で磔刑を見届け、嘆き悲しんだマリア様も同じお気持ちであられるでしょう」

 とんでもない、と更に躍起になって否定しようとする直樹にジョセフは、「マタイによる福音書の中で」と阻んで続けた。

「『自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』と書かれています。つまり神が無償で人を愛するように、例えどのような人間であっても、その者達もまた愛という関係で繋がっているのです。それが『アガペー』、即ち無限の愛であり、聖書の中で最も貴ばれる律法です」

「いいえ、キリスト教の許しは日本には不適当です。厳罰を持って臨まねば世の中は腐敗の一途を辿るだけです。民の声は神の声ウォークス・ポプリー・ウォークス・デイーというなら大衆支持の死刑制度は廃止されるべきではありません」

 死刑存続は国民の六割以上が賛成している。直樹はそれを声高に主張した。

「直樹さん、貴方は死刑執行官に選任された経験がありますか」

 ジョゼフは反抗に燃える直樹を真顔で凝視した。

「え、いや。未だありませんが」

 直樹は予期せぬ反問に惑った。対してジョゼフは、「一度選ばれれば色々と解ります」と力無い笑みを浮かべ、本来の来訪目的である梯子の話題に戻った。

 直樹は、「天使が舞い降りてくる長い梯子」を状況と共に話した。

 直ぐ神父は、ああ、と閃いて明るく応じた。

「嘉樹さんが仰っているのは単なる梯子ではありません。ジェイコブズ・ラダーです」

「ジェイコブズ──?」

「ラダー。日本では『天使の梯子』とか『天使の階段』と呼ばれているものです」

「えっと、雲の切れ目から漏れる帯状の太陽光がそんな名称では」

「ええ、それも間違いではありませんが、今回の言葉は聖書の中の表現です。そのまま『ヤコブの梯子』と訳されます」

「うん、ヤコブとは十二使徒のヤコブジェームズですか、それとも『ヴェニスの商人』や『パラダイス・ロスト』に書かれているヤコブジェイコブ?」

「後者です。ヤコブはイスラエル全十二部族の始祖で、神との組相撲に勝利した後、『神に勝つ人イスラエル』と別名を与えられました。一方、兄はエドム人の祖先に──」

 と、この時何故かジョゼフはふと解説を切り、直樹を繁々見つめた。そして一人、納得がいった顔で手を叩いた。

「そうでしたか。いや、成程、成程。確かに嘉樹さんと直樹さんはあの二人によく似ておられる。エサウとヤコブのお二人に」

「エサウ?」

「それは先程の──いえ、暫くお待ち下さい」

 ジョゼフは急に立ち上がり、説教壇の引出から配布用の聖書を取り出すと直樹に手渡した。

「これを一冊進呈致しますからお読みになって下さい。『創世記』に大変興味深い記述があります。もしかしたら貴方と嘉樹さんの予言書になるかもしれません」

 ジョゼフはこう告げるなり質問しても何も教えてくれなかった。

 間もなく官舎に帰ると直樹は夕飯の支度をする瑞樹の後ろで譲り受けた分厚い本と戦っていた。無神論者が宗教書を一読するのもそもそも苦痛だが、何せ登場人物数が半端でない。まして神と人の関わりが余りにも直接的で、聖なる書と呼ぶには酷く人間臭さを覚えた程であった。

 創世記は天地創造からアダムとイヴのエデンの園の追放、ノアの箱船、アブラハムと妻サラの人生、高齢出産で産まれた息子イサク、イサクとリベカの結婚と長々続く。イサクとリベカの間には四十になっても子供が産まれない。物語の進行には少しも興味がない上、だらだらと綴られる長編にうんざりしてきた直樹は一息つこうと両腕を伸ばした。

 と、その刹那せつな、例の名前が目に飛び込んできた。

「するとヤーウェ(神)は彼女にこう言われた。『二つの国民くにたみがあなたの腹にあり、二つの国民があなたの内から分かれ出る。一方の国民は他方の国民より強く、年上の者が年下の者に仕えるであろう』。ようやく彼女の出産のための日数が満ちたが、見よ、双子がその腹にあった。やがて初めの者が出て来たが、その全身は毛でできた職服のようで赤かった。それで彼らはその名を『毛深いエサウ』と呼んだ。またその後に彼の弟が出て来たが、その手はエサウの踵を掴んでいた。それで彼はその名を『踵を掴む者ヤコブ』と呼んだ」

「エサウとヤコブ」

 ジョゼフは自分達がこの双子に似るだろうと推測した。

 直樹は姿勢を正すと再度食い入るように続きの文字を追った。それから三十分ほど黙読しただろうか、直樹は突然立ち上がり、手にしていた聖書を荒々しくリビングの床に叩き付けた。

「俺が奴に平伏ひれふすだと。天地が逆様になってもそんな事あるものか」

「な、直、どうしたの」

 その顔は激しい怒りで紅潮し、熱い息遣いは血肉に飢える獅子のようであった。怖々と瑞樹は興奮に揺れる夫の背中に軽く触れた。

 直樹はわっと振り向き、妻の上半身を堅く抱き締めた。

「瑞樹、俺は許さない。この憎しみはどうしても消せない。奴は兄弟の信頼を踏みにじったんだ。俺を騙して置き去りにしたあいつだけは絶対に許さない」

「──置き去りって何」

 瑞樹は体を押し離すと不可解に見上げた。

 憎悪に歪んだ夫の唇は苦衷くちゅうに満ちていた。そしてその口はやがて、「いつか話す」とぽつんと呟いたきり、夕食も食べずそのまま寝室へ消えてしまった。



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