運命の双生 Ⅳ


 三月八日、肌寒い日曜明け。

 異様に柴田は上機嫌で、出張で姿が見えない村上を抜いた所長室へ居並ぶ直樹と鮫島を前に気色悪いほどやに下がった笑みを浮かべていた。

「朝一番から私と副担当の両名に何か御用ですか」

 登庁と同時に呼び出しを受けた直樹は自分だけならともかく、鮫島までがここに並んでいる事に不審を感じ取った。九階のメンバーは現在特殊な状況下に置かれているため処遇会議への出席も無く、偶に待機室で代務の相馬と部下の二人を含めスケジュール確認をするだけで、後はさしたる議題もない。何せ正担当は死刑存置、副担当は廃止、寡黙な代務の信念は知らないが中間であろうし、阿佐田と川瀬も似たような主張に違いない。

 故に存廃正反対の二人が所長の前で並立していたのは妙に思えた。

 柴田は無言で鮫島に視線を移した。

 釣られるように直樹が副担当へ目を遣ればまなじりが吊り上がり、口端が小刻みに震えているのが分かる。一足早めに入室していた鮫島は耳をつんざくような大声を上げており、直樹のノックも倍の力で叩かねば聞こえなかった位で、今も張り裂けそうな怒気が部屋中に漂っていた。

「とにかくだな、鮫島君、今度は東君が相方だ。少しは楽に移動出来るだろう。段取りはいつもの様に頼むよ。伝達事項は以上だ」

 鮫島は柴田から差し出された封書を引ったくるように手にすると、直樹に「分かりませんか。もう用は済んだ、共に出て行けという意味です」と言い捨て、さっさと所長室を退いた。

 何の説明もなく訳が判らない直樹は一応柴田へ敬礼を済ませ、急いでその後を追った。

「おい、鮫島君、一体何があったんだ」

 エレベーターの扉を蹴り付ける副担当に直樹は益々喫驚した。

 すると先程の封書が見てみろと突き出された。直樹は受け取りの手を伸ばし、住人の上告棄却決定書か、と訊いた。

「ふん、そんな程度の物だったら何通でも受け取っていますよ。草柳弁護士からの通知です」

 鼻で息を抜いた鮫島は開いたエレベーターに乗り込み九階のボタンを押した。

 封に記されているのは石動礼二の宛名だが、何故か筆致に重圧が感じられた。

「胴元が死んだ」

 鮫島がぽつりと漏らした。

「何?」

「胴元が、ヨナさん唯一人の証人が心臓発作で急死したんです。そして高検の異議申し立てが通りそうなんです。未だあれから一月しか経っていないのに」

 鮫島の嘆きに直樹は表情を強張らせた。異議が通るとは再審開始決定が取り消されるという同義に他ならない。

 鮫島はエレベーター内の横壁をドンと拳で打った。

「胴元の残した証明書の文字がヨナさんのものでないとする鑑定結果がどうやら出たらしいんです。それも鑑定受託者はヨナさんの筆跡鑑定をした者の直門」

「また筆跡か。だが、取り消しには早過ぎる」

「勿論正式決定ではありません。しかし、条件は一気に不利になりました。地裁での調書の信憑性もこのままではどうなるか。それと相手は叩けば埃の出る身、事切れる前に高検の圧力で証言をひるがえしたらしいと」

「で、どうするんだ、鮫島君」

「どうもこうもヨナさんは棄却の都度大暴れに暴れますから三回目には保護房へ入ってもらいました。今度は反動でもっと暴れるでしょう。貴方が呼ばれたのは制圧の手助けです」

「はあ、気乗りしない嫌な役だな」

「毎回恨まれる私はもっと嫌ですよ。溜息をつきたいのはこっちです」

 エレベーターは刺々しい空気に包まれた。

 八階から九階へランプが変わろうとしている。やがて二人は苛立ちを諦めに変え、どちらからともなく封書を渡す時間と連れ出す方法を打ち合わせ始めた。

「石動、邪魔していいか」

 十時二十五分、直樹は三回目の定期転房で変わった九〇七房の視察孔から声を掛けた。

「お、何ですか、先生」

 ラジオのヒットソング特集に厳つい体を揺らしていた石動は陽気顔で向いた。

 直樹は川瀬を後ろに従わせ、房扉を開けると一枚の紙を差し出した。

 マンデー・アーベントの回覧である。

「会議の進行方法で九二〇〇番が直接話をしたいそうだ。今から出られるか」

「とかなんとか上手く地下へ誘導するつもりじゃないでしょうね」

「再審開始の決定は執行を停止される。刑訴法第──」

「四百四十八条に載っている」

「知っているならからかうな。あまり浮かれ調子に軽口を叩くと本当に連れて行くぞ」

 直樹は有頂天になっている石動を廊下へ出した。石動は壁に向かい、施錠されるまで待った。

「歩け」と直樹は石動の背後から指図し、北へ進ませた。

 九〇八房、九〇九房。鼻歌を口ずさみながら石動は嘉樹の一六房に近付こうとした。

 が、その瞬間、九一〇房が突然勢いよく開いた。そして中から獣のような速さで鮫島が飛び出した。かと思えば後ろの直樹が背中を突き飛ばし石動を房へ押し込めた。

 ガシャンとの施錠音が薄暗い室内へ響いても石動は自分が何をされたのか理解出来なかった。

「ヨナさん、手荒な真似をして済まない」

 川瀬を下がらせ、視察孔から鮫島が謝罪した。石動は房扉に顔を押し付けこの仕打ちを問い詰めたが、直樹は黙って封筒を手渡した。最初混乱していた石動であったが開封して目を通すと、漸く保護房に閉じ込められた事情を悟り、名古屋中に響きそうな大声を張り上げた。

「畜生、騙しやがったな。このクソッタレ刑務官が」

 直樹と鮫島は半狂乱の雄叫びに耳を塞いだ。

「履き違えるな。これは俺達の責任じゃない」

「うるせえうるせえ、てめえらも法務省の人間だろうが。開始決定とまで期待させるだけさせておいて、取り消される恐れがあるとは一体どういう事だ」

「それは聞かない方がいい」

 鮫島は優しく宥めたが激する石動は余計癇癪を荒げた。

「馬鹿野郎、俺の命が係ってるんだぞ。聞かないで済むか、クソッタレめ!」

 大音声に堪りかねた直樹は扉に寄った。

「分かった、分かった。そこまで知りたいのなら教えてやろう。その代わり一度落ち着いて静かにしろ。みんな怖がっている」

「え、東さん、未だヨナさんにはまずいでしょう」

「いや、これに限っては明確にさせておいた方がいい。仮に何ヶ月先に決定が取り消されてもその方が最高裁への特別抗告に力が入る。そうだな、石動」

 直樹は中の顔が縦に動くのを確かめるとありのままを説き明かした。

「──ふざけやがって、そんなに文字が偉えのかよ」

 全て聞き終えると石動は当たり散らして樹脂壁を蹴った。

「結局俺を死刑にしてえだけじゃねえか。真犯人を捕まえられなかったから他の奴を人身御供にすりゃあ世間は黙るって思ってやがるんだ。一度検察の誰かがここに入って恐怖を味わってみろ。冤罪の苦しみを知りもしねえでよく異議申し立てなんてクソッタレた手続きが出来るな」

 吐き捨てる非難一つ一つが真実に感じられた。あたかも無罪判決が裁判所自体の敗北とでもあるかのように有罪宣告は乱れ飛ぶ。現職検察官の中には誤判は死刑だけに当該しないと法を擁護する者もいるが、同じ人災でも冤罪は正確な初動捜査とデュープロセスさえ踏んでいれば未然に防げるのである。

 嘗て名古屋地検の検事であった鮫島は石動の胸を突く罵りに目を閉じた。

 直樹は「安定したら房へ戻そう」と副担当の肩を叩き、他の者の監視に回った。

 住人にとって開始の否定は決して他人事ではない。意気消沈や怒りが階全体に波及し、一荒れの懸念もある。しかしそんな警戒の中、「先生、東先生」との微かな小声がどこかから聞こえた。首をぐるりと捻って見れば、いつの間にか坂巻の房の報知器が出ており、本人が扉をコツコツ叩いていた。

 直樹は視察孔越しに、この老囚が再審開始は取り消されると推察した光景を思い浮かべた。

「伊達に年を経ていないな」

 と、石動の件に直接触れなかった直樹へ、坂巻も受け流して訊いた。

「今日、外は青空ですか」

「──あ、ああ。晴天でなくやや曇りだが、何故だ」

 直樹はきょとんとした。視界の利かない坂巻が雷雨や台風以外で天候を尋ねるのは珍しかった。嵐や大風は雨音や風声で聴覚を駆使し荒天を感じられるが、空の色は意味を成さない。例えそれが澄み渡った碧天であっても、燃えるような夕景であってもその色の変化が坂巻の網膜を彩る事はないのである。

「晴れならば先生に時ならぬお願いがあるのですが」

「坂巻が俺にか、それこそ一雨来るぞ。で、何だ」

「今日は戸外運動日でしたが報知器で知らせていませんでした。でも、急に舎房以外の空気を吸いたくなりまして。運動場へ出られませんか」

「今から運動場へ?」

 九階では毎日午前と午後に各一回ずつスピーカーから流れる音楽に従い数分行われる室内運動以外、ストレッチや腕立て、腹筋など軽い運動なら担当の許しを得れば十分程度房内で行えられるよう特別に認められている。だから無理に屋外へ出る必要はないのだが坂巻は再度願った。

「まあ、坂巻一人くらい無理に入れてやれない事もないだろうが風が身に沁みるぞ」

「その外気に当たりたいんです。こんな日は寒風が心地良いでしょうからね」

 運動場は基本運動をしないならば出房が認められない。まして目の見えない坂巻が運動場へ出向いてもやる事などほとんど無いのは自明の理である。それでも外の空気に当たるのは坂巻の数少ない特別処遇として所から認可されていた。

「では確認後に出よう。あっと、鮫島君は石動に呼ばれているのか」

 直樹はいつも手引き役の副担当が多忙なのに気付くと、屋上へ連絡を取り坂巻を出房させた。運動場への連行は元来解錠施錠を行う役と、監視役の二名の刑務官が必要とされているが、坂巻は全盲のため、一人の刑務官で良いとの判断をされていた。

 それゆえ直樹一人が坂巻を屋上まで連れて行く事が出来たのである。

 しかし、運動場に辿り着いてもそこを「運動場」と呼ぶのが妥当かは疑わしい。

 名拘の運動場は立地上、金網と格子天窓に包囲された屋上しか残っていない為、特に個人運動場の場合、何室か区分けしてあるとはいえ幅は二メートル程、奥行きも十歩程度で狭く、両隣とはコンクリートパネルで間仕切りがなされている。そのため、収容者の誰もが鳥小屋と揶揄するのは自然の成り行きなのだろう。特に死刑囚は雑居の歓談可能な広めのスペースとは異なり、必ず他の未決と接触しないよう隔離された個人運動場を使う決まりがある。そして運動場の上には看守の巡回路が張り巡らされていて、常に刑務官が頭上から不審な行動が無いかを常時窺っている。

 直樹は運動場の中央監視所に立つ刑務官へ一礼し、坂巻を預けてから九階へ戻ろうとした。その際、

「東先生、お手数ですが、空いていれば一番奥まで連れて行って頂けませんかね」

 坂巻は何故だか直樹に頼んできた。運動場の見張りは警備隊の仕事である。越権に困った直樹は隊員を一瞥した。すると、立会刑務官は九階関係者と知ってか、手振りで黙許した。

 直樹は中央通路を更に歩き、突き当たりの部屋の扉を開け、自分も後から入室した。

 坂巻は頼りない小さな歩幅で奥へと歩いて行き、外側に錆びた金網が張り付く強化ガラス窓に手を触れ、南に顔を向けた。僅かな隙間ではあるがその透明な窓からは遠景が見渡せ、天井の網からは冷たい空気が吹き込んできた。

「どこかで雲雀ひばりさえずっていますね、先生」

「まさか。未だ早春だ」

 直樹は横に並び、耳を澄ませた。だが、壁隣で唸っている縄跳び音と、車の騒音以外何一つ届かない。どれだけ聴覚に優れていても聞き違いだろうと断じた。それでも坂巻は、

「空耳ではありません。きっとどこかで鳴いています。曇天であっても天高く、真っ直ぐ舞い上がって」 

 と、金網を人差し指で弾きながら更に口を動かした。

「肌寒い十一月のこと、一吹の突風が野や山を落葉させるころ、

 私はある日の夕べ、エア川の堤をぶらついていると、一人の老人の姿に気がつい た。

 その歩みは労苦で疲れはて顔は老齢で皺ができ、しかも髪の毛は白かった。

『そこのお若いの、どちらへいらっしゃる?』

 その老賢者が私に声を掛ける。

『あなたの足を急がせるのは富を求める心かね、それとも若者の快楽の嵐かね?

 たぶん気苦労と災いに後押しされて、あなたは既に歩みを始めたのだね。

 とどのつまり、人の惨めさを私と一緒に悲しむことになるのだよ』

 果てしなく、遠く広く、彼方の荒野にかかる太陽、

 不遜な地主の誇りを支えるために、何百人の若者が労苦に汗する。

 彼方に、冬の太陽が四十倍のさらに倍の数ほど行き戻りつつする姿を私は目にしてきた、

 その度ごとにその証を加える。人の運命さだめはただ嘆くこと。

 快楽の安らかな膝元に憩う運命の寵児ちょうじの数は少ない。

 だが思ってはならない、富めるもの、偉大なるもの、

 すべて等しく真に祝福されたる者であると、

 あらゆる国のすべて惨めで孤独な人々は、疲れ切った人生を送り教訓を学ぶ、

 人の運命はただ嘆くこと」

「ロバート・バーンズ?」

 直樹は憂愁を帯びた十八世紀のスコットランド詩人を思い出した。

 坂巻は首をやや上に向け、直樹に訊いた。

「先生、空を飛んでいる無垢な雲雀がもし突然翼をがれたらどうなるでしょう」

「大抵真っ逆さまに墜ちるだろうな」

「イカロスみたいにですか」

「──あれは蝋で接着した羽毛の翼だから、太陽に近付けば溶けて壊れる」

 予見していたとはいえ石動再審否定はやはりショックであったに違いない。同房相哀れむというべきなのか、共に冤罪を主張し続けてきただけに坂巻は石動の絶望が手に取るように分かるのだろう。直樹は議論を深めた。

「公権力は少数が闊歩かっぽする残酷な体制だ、行政でも司法でも変わりない」

「そうです。その権力者が、こうして鳥小屋に閉じ込め私達の気力の羽を一枚ずつ抜いていくのですよ。盗人のようにこっそり抜き取り、やがて完全に飛べなくしてしまうんです」

 死刑囚舎房は生殺しの処遇であるとの皮肉である。

 直樹は躍起になって虚無に笑む老人の横顔へ言い返した。

「坂巻も再審請求を継続しているじゃないか」

「それは後援会の後押しで仕方なくです。年老いた私にとって再審は所詮形骸化した手続き。私の翼にはもう一枚の羽も残っていません。光と色を失い丸裸にされた後は地獄の闇へ墜落を待つだけです。天国から地獄へ真っ逆さまに足からバンと落ちていくんです。分かりますか」

 ゾミッと背筋に冷たいものが走った。年老いた首にロープが掛かり、急落し、勢いよくぶらさがって左右に揺れるのを想像した直樹は唐突に後ろ暗い顔で正当な言い訳を探した。

「刑務官は、刑務官というのは──」

「いいんですよ、先生。別に責めているんじゃありません。人の運命はただ嘆くこと。正義と真実が分断された苛烈な世にも盲目なゆえ慣れてしまいました。今日は外に出られただけで満足なんです」

 すると丁度曇り空の裂け目から一筋の明るい光がすっと差し込み、それが運動場をスポットライトのように照らし出した。

 坂巻は上を向けた掌を少し挙げて朴直な声で語った。

「こうして耳を傾けると景色は見えずとも車のエンジン音、人の微かな笑い声、学生が奏でる楽器の音、機械の動き、あらゆる物が耳の奥に響くんです。掌には冷風、排ガスの悪臭でさえ生命の息吹として胸に迫ります。ああ、地上ではみんな無事に生きているんだと。こんな高い空で馬齢を重ね、地下に一歩ずつ近付いている確定者の私がですよ。ニーチェ曰く『人生は常に頂上に近づくほど困難が増してくる。寒さは厳しくなり責任は重くなる』というのに」

(──もしや、この老人は本当に犯人じゃないんじゃないか?)

 直樹はまるで高尚な哲学者に似た坂巻の正言で正犯である可能性を大いに疑った。

 人は死を感じて初めて命を強く希求する。特に内観する死刑囚は常に罪と命との葛藤に苦悶し、剥ぎ取られた虚飾から生命への真意を見出し、やがて時を経て諦観する。

 ところが坂巻の内観は犯罪に対してでなく、純粋に万人に対する人生そのものを映し出しており、そこには一点の曇りも見当たらなかった。

 直樹はその老いた肩へそっと手を置いた。

「屋上は特に寒い。風邪を引かない内にそろそろ房へ戻らないか、教授」

「ええ、そうしましょう」

 親しげに異名で呼ばれ身を案じられた坂巻は嬉しそうに相槌あいづちを打った。


 昼食が過ぎ、二時には吾妻と小堀が控訴審へ出廷した。残り十四名が本来静かに過ごす午後なのだが石動の憤りは収まらず時折鉄の扉が鳴っていた。

 堅牢けんろうな保護房扉は人の体当たり位ではびくともしないものの正直うるさかった。

 だが、直樹は全く注意しなかったし、住人も心痛が解せるだけに誰も抗議しなかった。

「おい、直。ヨナさんをあのままにしておくつもりじゃないだろうな」

 直樹は九一六房の前で立ち止まり、分厚い本を読む嘉樹へ憎々しく応えた。

「俺達は好きで保護房へ閉じ込めた訳じゃない。自傷行為や器物破損予防のためだ。革手錠もしていない。侮蔑したような口の利き方は止めろ」

「侮蔑ね。お前は何が何でも四角四面に捉え過ぎだ。四十までにかどが取れないと偏屈なだけの爺さんになっちまうぜ」

 嘉樹は半笑いで嫌味を吐いたが、直樹はその嫌味を嫌味で返した。

「角が取れ過ぎ転がり落ちたお前には安定の重要性は判らない。しっかり地面に足をつけて立つのが男の本懐だ。不安定に飛び回っている人間には大地の偉大さは計り知れないだろうよ」

「はん、大地とは正しく干涸らびた既成概念に囚われている証拠だな。進化した人間は足枷あしかせを外し天空を目指す。上昇志向もなく安住を貪る今のお前にはあの梯子はしごもろくに登れまい」

 途端直樹の片眉が吊り上がった。

「──梯子? 何の梯子だ」

「梯子といえば神の国への架け橋、天使が舞い降りてくる長い梯子さ」

 妙な寓意に直樹は顔を顰めたが、「神の国」だの「天使」だのを口にするようになったのは個人教誨の成果が現れ始めたのだろう。房の棚には白と青に着色された掌大のプラスティック製マリア像が安置され、本を持つ左手には小さな十字架のついたロザリオが握られていた。

 嘉樹はジョゼフ属する中部地区最高位の主教より洗礼を施される事が既に決定しており、儀式に伴う洗礼名も内々に教えられていた。

 十二使徒の筆頭、ペテロである。

 直樹は巡回の際に嘉樹がマリア像へ向かいロザリオの祈りを捧げているのを何度も見掛けた。今も数珠を手にしているから聖書を読んでいるに違いなく、直樹はその現状を克明に記録した。

 教誨を受けていて尚、心情の安定している者が執行対象となる。どの程度までキリストに帰依しているかは別として、死刑候補条件を満たす有利な行為には少しも変わりなかった。

「直、それより、こいつを投函してくれ」

 思い付いたように差し出された封の表には「竹之内祥子様」と記されていた。

 ちなみに祥子は嘉樹の妻であり、面会の記述では離縁が決まっていた。

「何の信書だ、これは」

 嘉樹は興味深げに眺める直樹へけらけら笑った。

「別に開けたきゃ構わんぜ。ま、面白い物ではないけどな」

「是非の判別は書信係の仕事だ。検閲で引っ掛かる内容ならば突っ返すからな」

 返還の可能性を含ませて早々に担当台へ戻った直樹は封筒に折り込まれた二枚の用紙を拡げた。

 中身は離婚届と公正証書であった。特に直樹は離婚届を熟視した。

 三輪姓に復籍する祥子は嘉樹が逮捕されてから一度も拘置所を訪れておらず、最近になるまで手紙の遣り取りすらなかった。それは先月初めて届いたものの、この離婚届在中であり、嘉樹は全く動じもせず六法全書を捲りながら妻に分け与える財産の計算を黙々と始めていた。

 何と冷え切った夫婦だと直樹は疎ましく感じた。

 しかし、行刑施設では離婚届は特異でなく、クラウド・ナインの住人も八割が既に離婚を済ませている。その為、領置金の出所は両親・親族になるが生計が苦しい者は送ってやれない。その割に房での生活が豊かなのはどうやら嘉樹が郵便差入制度に裏工作をして皆に自分の預金を間接的に振り込んでいるらしかった。

 直樹は不正として深く追及しようとしたが、鮫島に事を荒立てるなと制止された。

「けれど孤独なのは孤独なんだろう」

 不意に直樹は野呂の房を注視した。

 現在名拘は瑤子に訴訟を起こされている。純粋な目的でないにしろ、勝訴すれば野呂は瑤子から結婚の申し込みを受ける。新聞記事には墨塗りを施してあるので本人は知らないが、もし突然婚姻届を提出されたら野呂はどんな反応を示すだろうか。

 直樹は結末を幾通りも思い描いたが、元来吉事なのに何故か悪いイメージばかりしか浮かばなかったので、結局考えるのを止めた。


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