紅蓮の教誨師 Ⅲ


 十一月二十五日、勤労感謝の振替え休日が明けた火曜日。

 住人達は魔の時間が過ぎると急に陽気になり、溜まった新聞を読み漁ったり、房に流れるポップスに口を合わせたりしていた。

 ラジオ聴取は午前十時、午後三時の各四十分。夕刻は午後五時から九時までの四時間が当てられ、特に最近は皆音楽番組に熱中していた。

 それは直樹が肝移植の件で出席出来なかった月曜会議に「葉書でのラジオリクエスト」要求が通過した為で、相馬も存外だらしない、と代務を恨めしく思ったが認可されてしまった既得権を撤回するのは困難であり、リクエスト葉書には「発信地である拘置所の住所を書き入れない」、「本名は認めず匿名ラジオネームを使用する事」、「リクエスト曲以外の文字や画は記入しない」、「九階正担当が裁許した曲に限る」との限定条件がついていたので渋々ながら了承せざるを得なかった。

 死刑囚にとっては前記の制限があってもパーソナリティーが読み上げるラジオネームで自分の出した葉書かどうかが判断出来る。直樹は、たかがラジオ番組で曲が流されるだけだろうにと、名前が挙がった時の住人の、まるで宝くじに一等当選したような喜び勇む様相を却って怪しんだ。

「それは先生が檻で分断された拘置所に勤めていても一般社会の空気を吸えるからですよ。みんな外部との接触に飢えています。明日しれぬ身の自分が生きている証を耳で感じているんです」

 坂巻が直樹にリクエスト葉書の代筆を頼みながら言いなした。

 直樹はとても理解出来ず、扉に葉書を押し当てペンを持って愚痴を吐いた。

「だが石動の求める『監獄ロック』は認められない。嫌味も甚だしい」

「ヨナさんは呆れていましたよ。正担当は正に人造人間だと」

「ふん、何とでも好きに呼ぶがいいさ。で、坂巻の要望する曲は何だ」

「『小フーガト短調』を」

「お、バッハか。パイプオルガンの名曲だな」

 リクエスト曲を裏面に書き付けた直樹は、中学の授業で初めて聴いた懐かしいフレーズを思い出していた。

「そうです。若い頃、真空管ラジオで初めてあの楽器を知りました。その時流れた曲が小フーガト短調だったんです。あんな透き通った音色は他に知りません」

「しかし、このリクエストコーナーは主に歌謡曲か、演歌しか取り上げていないはずだが」

 直樹は葉書を回転させ、ラジオ局の宛名を確認した。それでも坂巻は「お願いします」と首を下げた。クラシックも所内放送プログラムに組み込まれているが、坂巻は今まで二回しか全体を通して聴く機会に恵まれなかったらしい。

 直樹はもう一度裏面に戻って訊いた。

「ところでお前のラジオネームはどうするんだ、坂巻」

「ではこれで」

 坂巻は空中にアルファベットのPを描いた。直樹は嘲笑った。

「それはProfessorプロフッサー(教授)の頭文字か、Yellowイエロー Phosphorusフォスフォラス(黄燐)の元素記号のどっちだ」

 共にPの一文字であるが、特に猫いらずに入っていた原子番号15のP(燐)は坂巻が起こした毒殺事件への風刺である。

「やれやれ、先生に未だ疑われているとは。このままでは再審の裁判官にも通じませんね」

「落ち込まなくていい。俺はここの住人を殆ど正犯だと確信している。お前だけじゃない」

柔らかい手袋の下には鋼鉄の手があるThe iron hand in the velvet grove

 と、博覧強記の坂巻は直樹の質の悪い冗談を英語で笑い飛ばした。

「裁判官も詮ずる所、単なる人間。第一印象は重要なんでしょうね。私も整った顔だったら判決も違っていたかもしれません。首を括られたのは醜女しこめばかり。ハンサムは痴漢にされない、とくれば」

「おい、その譬えは辛辣に過ぎるぞ。竹之内か、与太を吹き込んだのは」

 直樹は視察孔の金網を指で弾いた。

 坂巻は一冊の厚い推理小説の点字本を掲げた。

「ねえ、先生。不審に勘繰る警察も検察も先ず容姿で判別するじゃありませんか。先入観が冤罪の始まりですよ。コナン・ドイルはこの『四つの署名』の中でホームズを介してこう警告しています。『最も重要なことは個人の特質によって、事件の正しい判断をあやまらないようにすることだね。感情のうえの好悪というものは、明快なる推理とは相容れない。僕の見たうちで最も心をひかれた美人というのは、保険金ほしさに三人の子供を毒殺して、死刑になった女だった。それから男でいちばんいやなやつだと思ったのは、ロンドンの貧民のため二十五万ポンドちかくも使った慈善家だった』と」

 確かに警察や検察に犯人だと決め付けられたら逃げ道は無い。しかし、概ね裁判官は法に忠実で、見掛けで量定するのは飽くまでも冗言である。また、死刑に当たる裁判は合議制で行われるため余程の事情がないと冤罪は発生しない。

 直樹は見下すように片目を細くした。

「裁判官が重視しているのは反省の深さだ。量刑を左右するのはその態度による。更正が望めるなら死刑は見送られるだろう」

改悛かいしゅんの情ですか。私には関係ありません。単なる役人である裁判官に犯してもいない罪で頭を下げるつもりはありませんね。謝りもしないと遺族や世間から反発を食らおうが真実は一つです。何度でもお伝えします。私は無実です」

 まるで見えない坂巻に睨み付けられた気がした。

 直樹は無言で気迫を送り返したが、その緊迫した空気を破ったのが鮫島であった。「教誨師の藤倉が来所したから村上が呼んでいる」と言う。

 直樹は葉書を出しておく事を坂巻に言い残すと、サングラスを掛け階下へ向かった。

 村上は直樹が要求した通り、教誨師名簿から嘉樹用の司祭を手配していた。

 キリスト教教誨師は旧教カトリック新教プロテスタントを含め何人も出会っていたが藤倉姓は耳新しかった。村上の了見ではなかなかの手練れらしい。ベテランならば説教上手か、或いはすっかり聞き手に回るタイプかもしれない。

 あれこれ思案して会議室へ入ると、直ぐさま村上から机の前に立つ線の細い、四十代の男を紹介された。

「藤倉先生、彼が九階正担当の東直樹主任代理です。東君、こちらが藤倉ジョゼフ神父だ」

「ジョゼフ?」

 黙礼を解いた直樹はサングラスを取った。

 頭から日本人だと想像していたのが大いに外れた。直樹と変らない長身に濃紺のスーツをまとい、首には金色の十字架とマフラー状の白い頸垂帯ストラを下げ、左手には二冊の厚い聖書を携え、肩甲骨まで垂れた黒髪を先端で束ねた碧眼へきがんの司祭、それが藤倉ジョゼフであった。

「初めまして。貴方が直樹さんですね」

 ジョゼフは白い掌で握手を求めた。直樹は青い瞳に誘導されるまま右手を差し出した。

「藤倉先生はハーフですか」

「いいえ、元々はジョゼフ・バウマンという生粋のイスラエル人です」

「では、ユダヤの方なのですか」

「いえ、ユダヤの母親から産まれましたが私はイスラエル人です。今は帰化して日本人ですが」

 イスラエルでユダヤ家系に産まれたのにユダヤ人でないとする主張が分からない。

 混乱を増す直樹にジョゼフは黙って微笑んだ。

「東君、藤倉先生はとてもお忙しい。早く九階へお供するように」

 本来教誨は監獄法に従う日曜に行われ、今日は嘉樹との顔合わせに過ぎない。村上は無理を言って多忙な神父に掛け合った手前、身上に興味を持つ直樹に構わずクラウド・ナインへ急き立てた。

 直樹はエレベーターの中でも背後の神父を盗み見ていた。ベテランと呼ぶには痩せた体格で、ランボオの詩集が似合いそうな儚い感じを受ける。

 そのジョゼフが不意に話し掛けてきた。

「唐突ですが、直樹さんは、ご自身が亡くなる時の、命の終わりを考えた事がありますか」

「は、あ、いえ、特には」

「死への考察は転じて生への喜びに繋がります。大事ですよ。私の母国は現在もテロにみまわれています。戦争のない日本では死は身近なものではありません。羨ましくもあり、悲しくもあります」 

「悲しい? 何故ですか」

 直樹は何心無く訊いた。

 ジョセフは軽笑して答えた。

「平和な国は総じて信仰心が薄く、皆、神へ祈る動機は自己利益に関するものばかりです。純粋に神そのものを畏れ敬うのは、死に押し迫られた病人と死刑囚舎房の住人だけです」

 当を得た明快な真理であった。早速ベテランの片鱗を覗かせるジョゼフにエレベーターのランプを凝視しながら直樹は、「神の仔羊」という教義の皮肉を混ぜ、意地悪い挑発を試みた。

「さて、ここの死刑囚はどうでしょう。そもそもクラウド・ナインは宗教教誨を求めていません。堕落した黒い羊(厄介者)の巣窟です。藤倉先生でもご苦労なさるんじゃありませんか」

 ところが直樹の皮肉にも全く動じず、神父は笑顔で話を継いだ。

「ジョゼフと呼んで下さい。少し主意は逸れますが直樹さんは、ルカの十五章に出てくる『放蕩ほうとう息子の帰還』をご存知ですか」

「──あ、私は文学に登場する以外キリスト教については詳しく知りません」

「それは、例えばどれくらいの知識ですか」

 ジョゼフは黒革の聖書を一冊拳銃さながら直樹の背中に押し当てた。

 逆襲のからかいに直樹は妙な苦笑いを覚えた。

「そうですね、十二人の弟子である使徒しとの名と、先生のお名前もイエスの父親とイコール、という程度です。ジョゼフはむしろ随筆家のアディソンや風景画家のウィリアム・ターナーの方が親近感が湧きます」

「後は教会を弾圧したソ連のスターリン?」と、ジョゼフはブラックユーモアを交え聖書を離すと、放蕩息子のエピソードを簡潔に解説した。

「二人の息子を持つ父親が均等に資産を分配したのですが、弟は家を出て、そのお金を浪費してしまいました。家を継いだ兄は父の面倒をこつこつ見ていたのですが、やがて弟が無一文で帰ってきたのです。それを父親は喜んで歓待しました。兄は激怒し父に詰め寄ったのですが、父親はこう言いました。『子よ、貴方は何時も私と一緒にいるし、また私のものは全部貴方のものだ。しかし、この貴方の弟は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見付かったのだから、喜び祝うのは当たり前である』と」

「随分寛大な親ですね。太々しい弟は反省している振りをしてまた遊興に耽るんじゃないでしょうか」

「いいえ、この父親は即ち神です。どんな悪人でも罪を悔いればお赦しになる。禁断エデンの木の実は人肉だったと言い張る間宮さんや、神は死んだと哲学者ニーチェの言葉を乱用する石動さんも神の子。嘉樹さんとて同じです」

「いえ、竹之内はサタンですよ。背中にブレイクのルシフェルが彫られています」

 直樹は仏頂面で刺青の図柄を教えた。だが、ジョゼフは、一度拝見したいものです、と神父らしからぬ興味を示した。

 そうしている内にエレベーターは九階に到着した。

 死刑囚の個人教誨は殆どが五畳の小さな教誨室においてマンツーマンで月一回程度行われるが、クラウド・ナインでは各房へ教誨師が何度出向いても構わない了解があった。

「九二〇〇番、司祭様がお越しだ」

 房内での教誨を望んだ神父を後ろに待たせ、房扉を鮫島に解錠させた直樹は、壁に寄り掛かり文庫本を気楽に読んでいる嘉樹へ注意した。

「おい、先生がいらっしゃっているのにその態度は何だ。こっちへ向き膝を正せ」

「俺は一度会ってくれという部長の顔を立てたまでだ。思い違いするな」

「何!」

 直樹は憤って房に踏み込もうとしたがジョゼフが前に割り入り、屈んで言った。

「竹之内さん、私は貴方の味方です」

「そいつはどうかな。俺は反キリストアンチクライストだぜ」

 反キリスト、つまり「悪魔」だとにべもなく嘉樹は放言した。このままでは神父も必ず叩き出されるだろう。直樹はやはり駄目かと諦めかけたがジョゼフは次に信じられない台詞を発した。

「早合点してはいけません。私は貴方を地下の刑場へ導くためにやってきたのです」

 これには直樹ばかりか嘉樹も呆気に取られて首を向けた。神父は続けた。

「身分帳を拝見すると貴方の本心は死を求めている。しかし、わだかまったまま執行に臨みたくない。差し詰め悲憤です。違いますか」

「ほう、これは面白い事をぬかす神父さんだな」

 嘉樹は扉へ向き不敵に胡座をかいた。

「それで、俺をどうするつもりだ。軽々には説き伏せられんぜ」

「ご存知かどうか分かりませんが、死刑執行を早めるために教誨師は死刑囚舎房に遣わされます。私はいわば死を司る天使。ルシフェルの宿命を背負った貴方と同類です。どうです、説教を受けませんか。きっと楽に昇天出来ますよ」

「あんた教誨師てんぷらのくせに馬鹿正直だし、度胸据わってるな。俺は扶桑會会長補佐だった男だ。たまを狙われたのも一度や二度じゃない」

「危険を晒した過去なら私も同様です」

 ジョゼフは背中を向けストラを外すと束ねた髪を持ち上げた。

 うなじには雷状に走る真っ赤にただれたきずあとが隠されていた。

「これは私が子供の時、ゲリラの郵便爆弾で切り裂かれた痕です。大量出血で私は息を引き取りました。けれど奇跡的に生き返った。私は一度死の闇へ落ちた者です。貴方の教誨師には最適だと自認しますが」 

「──血戦の地獄から甦った神の使いか。逆説的だな」

 暫し黙考していた嘉樹は自分の頬の傷に触れると、ふふふと笑い、小膝を打った。

「気に入った。よし、あんたにならこの身を預けてやろう。ヤクザと神父、かなり妙な取り合わせだが、また一興だろう」

「安心しました。私は救世主インマヌエル教会の司祭、藤倉ジョゼフです。今後ともよろしくお願い致します、嘉樹さん」

 ストラを掛け直すと神父は嘉樹の差し出した手を笑顔で握った。

 張り詰めた緊張から急に和んだ雰囲気へ直樹は呆れていた。あれだけ宗教に対し嫌忌していた男が教誨をこんな短時間ですんなり受け容れたのも面食らったが、それ以上に喫驚したのはジョゼフの駆け引きにある。滅茶苦茶な遣り方だが虚を突いた見事な誘導であった。

 そしてこの時になって直樹はやっと名拘の囚人たらしと呼ばれる異名を思い起こした。

 血腥ちなまぐさ紅蓮ぐれんの神父、死刑囚特別教誨師「クリムゾン」ジョゼフ・藤倉。

 結局この日二人は僅かに談話しただけであったが既に旧知のようになっていた。嘉樹は教誨の願箋提出を確約し、ジョゼフも出来る限りここへやってくる内約を取り決めていた。

「今度はお土産でも持参しましょう。もうすぐクリスマスですから赤ワインなど如何です」

 施錠された扉越しにジョゼフは提案した。

 嘉樹は「いいですね」と受け取った聖書を振った。

 直樹は慌てて制した。

「だ、駄目です。酒・煙草の持ち込みは監獄法施行規則の九十六条で禁止されています。特食(歳事に出る特別なおやつ等・特別食)でも認められません」

 ジョゼフは、冗談ですよと白い歯を覗かせ、嘉樹はにたにた笑った。

「こいつは昔から直ぐ肩肘を怒らす奴でしてね。弟のくせに頭でっかちで余裕がないんですよ」

「黙れ、九二〇〇番。俺は弟じゃない。何時までも兄貴面するな」

「さて、直樹さん、帰りましょうか」

 細身の割に力は強い神父は、鮫島から鍵を受け取り、解錠しようとする直樹の前に立ちはだかり、エレベーターホールまで無理矢理連れて行くと開いていたエレベーターへ押し込めた。

「何故止めるんです、先生」

「差し入れや緊急ならともかくそれ以外で房へ入るのは禁止されているのではありませんか。確かに貴方達の確執は伺っています。でも嘉樹さんが私の教誨を受ける以上制裁は許しません。死刑囚は心情の安定が第一、それを乱す行為は職務放棄と変りません。聞けば、怒りは水に書け、との戒めが仏教にはあるそうですね。何時までも岩に怒りを彫り込んでいては疲れますよ」

「無理です。私は刑務官ですが、同時に遺家族なのです」

「では彼が処刑されれば溜飲が下がり、その感情は全て収まりますか。胸のつかえが取れ切ってもう二度と嘉樹さんへの憤りは湧き上がりませんか」

 唐突に深部を問い詰められた直樹は言い淀んだ。

「それは──いくらか残るとは、思いますが」

「よろしいですか。死刑囚舎房に収まった時点で住人は世間から抹殺されたのと同じなのです。わば彼らは既に死んでいる。貴方は嘉樹さんの存在を憎んでいるのではなく、感情を押し殺せない自分自身にひるんでいるだけなのです」

 弱者と婉曲に指摘された直樹はジョゼフを無言で睨んだ。

 その視線を遮るようにして神父はダニエル書のページを開いて見せた。

「直樹さんはこの十二章八節にある大天使長ミカエルの名をお聞きになられた事はありますか」

「ミルトンの『失楽園』に登場する天使軍団の司令官でしょう。ルシフェルと戦った」

 それがどうしたという直樹の目付きにジョセフは更に尋ねた。

「では、正義の御使セントミカエルと堕天使ルシフェルが双子の兄弟なのはご存知でしたか」

「え!」

教義ドグマには無い近年の俗説ですがね。色の白黒を除けば二人は同一の容姿をしています。直樹さんはそれに気後れしているんですよ」

「何を。私はルシフェルなどに怖じけてはいません」

 エレベーターが一階に着くと、直樹は嘉樹の憎体を思い出しサングラスを掛けた。

 ジョゼフは同情を宿した眼差しで向いた。

「闇より出でし者のみ真に光を崇め得る。貴方が恐懼きょうくしているのは聖ミカエルですよ。クラウド・ナインという伏魔殿パンデモニアムに芽吹き始めた小さな灯が眩しいのです」


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