紅蓮の教誨師 Ⅳ


 病床にある妙子の容態は年を越しても芳しくなかった。増えていくスパゲッティー管に反し体重だけは落ちてゆき、削げた顎はストローを噛むのでさえ苦痛のようであった。

 見舞いに訪れていた直樹は救急車の到着する音に敏感になり、脳死患者の出現を心の何処かで期待している自分がどうしようもなく最低に感じた。

 順番も含め移植は非公開である。優先順位の点数は高く付けられているだろうが、肝移植の待機患者は皆妙子と同様に長く苦しんでいる。心臓と肝臓は脳死段階からの移植でなければ定着率が悪い。生きた臓器の摘出に対する医学的見地と、心停止・呼吸停止・瞳孔散大の散大、いわゆる死の三徴候で成仏したと見なす了見の対立が移植の溝を未だ深くしている。

「難題だな、直樹。普段から誰もが死を穢れたものとして心のすみへ追い遣っているし、自分だけは不死身だと錯覚している。だから意識が薄い。ドナーに関心がない最大の真相だ」

 あまかけで、やたがらすの大吟醸を舐めるように飲みながら和幸は臓器移植の問題点について文句を募る直樹の相手をした。

「無関心以上に問題はある。もし自分の子供が難病に罹って、脳死移植しか残されてなかったら反対派は見捨てるのか。自分の主義主張を押し通すために子の人生を閉ざすのか」

 行き場のない積怒を移植反対派に向けているのは八つ当たりだが、それしか発散の仕方がなかった。和幸は直樹の中で脳死移植反対の声と死刑反対の声が混濁していると推察していた。共に「生きている命を最期まで粗末にするな」との相似点はあるが互いの見地は全く異なっている。

 直樹は嘉樹の死を願いながら脳死患者を期待している。その懊悩おうのうが心を食い荒らしていると診断した和幸は安定剤を処方したが、直樹は仕事に差し支えるとして受け取らなかった。

「そんなに辛いならお袋さんを他の所へ紹介しようか」

「ん、どこかに良い病院があるのか」

 期待の視線を受けつつ和幸は静かにぐい呑みを置いた。

「瀬戸の鳥原に『ベツレヘム病院』がある」

「聞かない名だな」

「小規模だからな。キリスト教系法人が運営している」

「移植の名医でもいるのか」

「そうじゃない。ベツレヘム病院は末期癌者専門療養施設、つまりホスピスだ」

「ほ、ホスピス?」

 一瞬直樹は耳を疑った。

「お袋は末期じゃないんだぞ。何でホスピスに入れなければならないんだ」

「俺はHCCとPBCの病状を知っている。事後の処置も検討せねばならんだろう」

「止めろ。希望がない言い方は止めてくれ」

「いいから聞け。疼痛とうつうに喘いでいるのはお前じゃない。痛みを軽減させるのも一つの方法じゃないか。このまま苦しめては可哀相だ」

「お前はお袋を安楽死させろというのか」

 直樹は興奮して持っていた割り箸を片手でへし折った。しかし、和幸は平静に銚子を空け、日本酒と予備の箸を女将に注文した。

「直樹、お前はホスピスを誤って解釈してるよ。とにかく一度見学してみたらどうだ。ベツレヘム病院の植松院長は父さんの親友だ。麻生の名前を出せばいつでも案内してもらえるぞ」

「断る! ホスピスなんぞは闘病に敗れた患者の逃げ場だ。俺は絶対行かんぞ」

「それが佐和子さんの勧めでもか」

 旋毛つむじを曲げた顔が急に驚きに向き直った。

「佐和子さんの?」

「ホスピスは今日明日にでも入院出来る施設じゃない。今から予約を申し込んでおいた方が堅実と推考した彼女なりの慈悲心だ。直接お前に告げるのは業務上はばかったんだろう。最後までドナー確保は諦めないとも付け加えてたからな」

 直樹は目を閉じ、両拳を悔しそうに握った。

 移植コーディネーターがホスピスを考慮するのは病状悪化を暗に認めているようなものであり、仮に癌が良くなってもアルツハイマーが待ち受けている。早ければ再来年辺りから死の兆しは現れるだろう。

「せめてお前達に子供でもいてくれたら救いになるだろうに」

 この世には原因不明な不妊もある。腕利きの産婦人科を二人に紹介したのも和幸であった。

「もう半分諦めてるよ。体の相性が悪いんだな、多分」

 直樹は柴漬けと焼きお握りを一緒に齧ったが、焦げた白味噌が妙に塩辛く感じた。

「瑞ちゃんにはクロミッドとかセロフェンは効き目がないのか。HMG製剤の注射とかも」

「いや、排卵誘発剤なら俺が医師に止めてもらっている」

 和幸はこの告白に驚愕して眼を拡げた。

「何故だ、どうして使っていない」

「少しでも双胎や多胎を招く薬は投与してほしくない」

「いやいや、その場合減数手術って手があるだろう、あまり勧めないが」

 減数手術、即ち多胎減数中絶手術は多胎妊娠の初期において一方の胎児を注射によって中絶させる手術を指す。しかし直樹は「あれは三つ子以上だし、何より倫理的に嫌だ」と苦々しく頭を振った。

「じゃあ人工授精は?」

「六回やったけど効果は無かったな。それと二人とも体外受精までは考えてない」

 無表情に手に付いた味噌を直樹は舐めた。

 和幸は新に届いた日本酒をぐい飲みに注ぐと悲哀を交ぜた薄笑いを浮かべて尋ねた。

「しかし双子がそんなに疎ましいか」

「ああ、虫酸が走るね。一卵性は母胎の中から栄養の奪い合いをしている。何でも取り合いさ。憎しみ合うだけで何の価値もない」

「なあ、直樹、一つ訊いていいか。前々からの疑問だが、お前が嘉樹を憎むのは判る。だが、嘉樹はお前を憎んでいるのか。それともお前の方に何か憎まれる覚えがあるのか、ん?」

 意外な質問であった。突き詰めて考えればどうして憎まれているのか問わなかった。一つ屋根の下で生まれ育った者には数え切れない名状し難い恨みや確執がある。

 困惑した直樹は歯切れ悪く返答した。

「知らん。単に俺の顔が嫌いなんだろう」

「同じ容貌をしているくせに何て言い種だ。まあいい、それよりもベツレヘム病院は一度見ておけよ。そこで佐和子さんのお姉さんも働いているというからな」

「姉か、そういえば」

 咄嗟に直樹は佐和子が姉から臓器を分けて貰った会話を思い起した。

 和幸は銚子を傾けながら嬉しそうににやけた。

「でも、佐和子さんて良いよなあ。清楚で物腰柔らかくありながら強さと知性美があふれていて。美雪がいなけりゃとっくに口説いていたよ。直樹も同感だろ」

「はー、俺はやっぱり酒は飲まんよ」

「そんなに呆れるな。佐和子さんが魅力的なのは認めろ」

「まあな。医学知識も深いし、皆から慕われているのは優しさに負う所が大きいんだろう。コーディネーターは心理学者と共通するかもしれないぞ。和幸だってこの前新患から依存され過ぎて対処に難儀していたじゃないか」

「あれは手こずった。ストーカーで訴える訳にはいかないし、治療して何とか事なきを得たがな」

「心というのは厄介だな」

「そうだ、この世で一番難解なものさ。また決して解明出来ない」

 和幸は銚子に残った酒をぐい飲みに振って微苦笑した。

「人は誰でも仮面を被る。そしていつか素顔を忘れてしまう。仮面が剥がれた時、どちらが本当の自分なのか混乱する。心の拠り所を外面に囚われた者の宿命だ。かといって底無しの内面を探れば探る程自分の存在が判らなくなる。その混沌を診なければならない精神科医なんて因果な商売だよ」

「お前が愚痴なんて珍しい」

 直樹は少し笑った。対して和幸は直樹が割った箸を徐に三片卓上へ並べ始めた。

社会的絆ソーシャルボンドから離れた、愛情の欠如した現代人は哀れだ。常軌を逸すれば三つの道しか選ばない。一つは精神を病む。二つ目は宗教に走る。後一つは──」

「──後一つは、何だ」

 わざと間をおいて言い終わらない内容を訊くと和幸は黙って直樹を見返し、箸袋を細かく畳んで箸の上部に巻き付け、銚子の孔へ垂直に落下させた。

 すると結び目の両端は銚子口でカタンと引っ掛かり、箸は暗中の空洞でブラブラと揺らいでいた。



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