紅蓮の教誨師 Ⅱ

「大分生き詰まっているようだね」

 夕刻の定時業務が終了してから、村上は報告へやってきた直樹を案じた。

 正担当に就いてから二ヶ月弱なのに頬がうっすら痩けてきている。体力的に無理が祟っているのは勿論、直樹の場合、母親の病状が芳しくないのと、親殺しの元兄が指呼の間に収監されている状況が重荷になっているようで部長室に座るなり机の端を掴み、一気にまくし立てた。

「誰も彼も身勝手な行動が多く二進にっち三進さっちもいきません。局はどこまでこの至れり尽くせりの特別処遇を拡大するつもりなのですか。期間か個数を絞って頂かないと増長する一方です。特に教誨への関心が薄れています。今の状態で無理矢理地下に引っ張っていくご意向なら、私は一向に構いませんが」

いるのは勘弁願いたいな。執行は静穏が原則だ。君は私にどうしろと言うのかね」

「問題は竹之内です。半ば強制で宗派の違う住職を勧めるのですが、説法の内容が幼稚だとほんの二、三分で叩き出してしまうのです。ですから部長の方でどなたか波長の合いそうな先生を推薦して頂けませんか」

「鮫島君はどんな対応をしているんだ」

「彼は教誨にも積極的ではありません。担当の器でないように思われます」

「ほう、人選をやり直せというのか。では君にクラウド・ナインを完全に制御する自信はあるかね。処遇の面では成程要求が多いかもしれない。けれど暴動や極端な反抗は起きていない。皆が大人しく獄に繋がっているのはひとえに鮫島君の力に依るものだ。最近の君は少し自惚れてやしないか」

 穏和な村上にしては厳しい叱責であった。直樹は机から腕を離して口を噤んだ。

「住人が犯した罪はどれも重い。事態をかんがみれば執拗に罰したいのが民意だ。しかし、我々の厳正中立な立場を忘れてはならない。任務に私的感情を混ぜたり、自分の信念を押し付けたりするのは間違っている。君がリテンで鮫島君がアボなのも構わん。互いに対立はあるだろう。大体副担当は一般未決と同じように扱っているだけだ。君とて通常は理解ある刑務官じゃないか。なぜゼロ番だけ特別に締め付けねばならんのだね」

「それは──」

 確かに九階へ行ってから自分が何となく変化してきたのは自覚していた。ただ、反省も謝罪も無い嘉樹を目前にするとどうしても沸き上がる激昂を制する事は出来ない。

 被害者は時間と共に憎しみや怨嗟の情を薄れさせるというが飽くまでも人による。

「とにかく東君、君は冷静に状況をわきまえて処遇してもらいたい。それで教誨の件に戻るが、竹之内君にはキリスト教は勧めたのか」

 村上は身分帳簿にある嘉樹の動静経過表を細見しながら訊いた。

 直樹は押し問答の状況を思い出し、憎々しく答えた。

「無駄でした。愛だの奇跡だの世迷い言をぬかす神父や牧師はなお嫌いだと突っ撥ねています。『毒食らわば皿まで』のことわざを『仔羊を盗んで絞首刑にされるよりは親羊を盗んで絞首刑にされる方がましだ』との西諺せいげんにわざわざ皮肉で言い換える程ですから」

 イエス・キリストは神の仔羊とたとえられる。キリストもその親である神も信じていないという強調であった。村上は思わず笑った。

「ふはは、これは上手く九階の現状と引喩いんゆを合わせたものだ」

「笑い事ではございません、部長」

「あ、いや、すまんな。だが、その口振りでは藤倉神父とは未だ会っておらぬようだ。よし、一度連絡を付けてみよう」

「いえ、ですからそちらの方面は不向きだと」

 キリスト教は多神教の日本には浸透しにくいのか信者数も少ない。一般未決でも教誨希望者の多くが仏教である。直樹は意見を繰り返そうとしたが、村上は、「ご苦労さん」と部屋から追い出し、棚を漁り始めた。

 直樹は退庁に着替えを済ますと通用口から外食のため、焦れる足で正門へ向かった。

 一体何時になればこの暗澹あんたんたる気持ちが晴れ渡ってくれるのかと、色眼鏡越しに映るどんより曇った空を振り仰ぎ、捨てられていた紙コップを蹴り上げた。すると風に乗ったコップは勢いよく転がり、とあるキャンペーンを繰り広げている団体の前で止まった。

 一瞬で直樹の目の色が変わった。

「署名お願いします。死刑反対の署名をお願い致しまーす」

 昨年九月に大拘おおさかで一人吊られた抗議であろう、サインを乞う老若男女六人の背には「死刑を無くす救援団体 雑草の会」の緑色ののぼりが立っており、執行された死刑囚の苗字が頻りに上がっていた。

(くそっ、よりによってこんな時に──)

 直樹は一般人の仕事帰りを装い、無関心の態度で彼らの前を通り抜けようとした。今、署名を求められたら何を口にしてしまうか判らない。

 だが、よくよく不幸は次なる不幸を招く。

「主任代理、お疲れ様でした」

 と、正門前で威勢よく直樹に向かい敬礼した制服がいた。

 鮫島である。

「貴方、もしかして職員の方?」

 会の中で身綺麗な、年の頃は七十才程の一番年配の女性が直樹に尋ねた。ベージュのジャケット袖に巻いてあるグリーンの腕章には「雑草の会・会長」の文字が見えた。

 直樹は鮫島を恨めしそうに睨んだ。

 笑っていた。この状況に気付いて態と声を掛けたのである。拘置所職員を死刑執行の主犯格に仕立てている雑草の会にとって現場人の名が記載されるのは勝利に等しく、案の定、刑務官と察した彼ら一同は雪崩を打ちサインを迫ってきた。

 直樹は怒鳴り散らしたい衝動を抑え走って逃げた。歩道橋を駆け上がり、官舎を素通りして、拘置所南にある市政資料館前の名城公園へ辿り着いた。

 四囲を桜や杉で植樹されている簡素な広場にはベンチが十数脚整然と並べ置いてあるだけだが、直樹は、ここまではさすが追ってこないだろうと一旦腰を下ろした。

 しかし、その読みは甘くも外れた。

「あの、先程の方ですね。差し障りなければ少しお時間よろしいでしょうか」

 暫くして息が整ってきたかと思えば背中から唐突に声がした。ぎょっと見返ると、さっきの老婆が署名用紙を手に、肩に掛かった総白髪を深呼吸で上下に揺らしていた。

「しつこいですね。私が逃げたのは署名なんてしたくなかったからですよ。判りませんか!」

 とうとう抑制の利かなくなった直樹は立ち上がって本音をぶちまけた。

「大体あなた方の中で被害者はいますか。執行を廃止するのは凶悪犯に手を貸すだけで私は絶対容認しない。気紛れや薄っぺらいヒューマニズムのためであれば尚更です。それに私みたいな者を説得したいなら殺された側のサインくらい貰ってきてはどうですか」

 いくら上品さを漂わせた相手であっても怒りは止められない。直樹はどうせ暇を持て余し、人格者を気取っている類だろうと軽んじていた。

 ところが老婦人は少しも気後れせず姿勢を正した。

「私はその殺された側です」

「──えっ?」

「私は殺人現場で唯一生き残った被害者本人です。お若い貴方はご存知ないかもしれませんが、今から四十数年前陰惨な大量殺戮が福井県の永平寺町で起きました。父母や兄姉、その子供までもが瞬く間に惨殺されました。辛うじて私だけがこうして生きております」

「貴女は、もしや朝倉瑤子さん? 野呂末吉と付き合いのあった」

 意表を衝かれた直樹は何度も口を開閉した。

 我とは無しに瑤子は微笑した。

「私の名前が出てくるなら事件にお詳しいようですね。それならば話が早いです」

「どうして貴女が死廃運動などを」

 朝倉一族皆殺し現場はあまりの凄惨さ故に警官が吐いてしまった程で、瑤子自身も野呂に腹部を撃たれ一時は死の淵を彷徨さまよっていた。そして療養後、唯一の生存者として裁判に臨んだ瑤子は、「死者相応の苦しみを与えて下さい」との怨言を発した。これは極刑の要望だと誰もが推量した。

 だが、瑤子はそれ以来貝のように口を閉ざし、二度と事件には言及しなかった。

「私が死刑反対を唱えているのは皆さん怪しまれます。もちろん動機でなく、頭のネジが外れたと仰る方もみえます。あれだけの惨劇を許せるとは気が触れたに違いない、と」

 ベンチへ静かに腰掛けた瑤子の隣で、戸惑いを押さえつつ直樹も座り直した。

「無理ないでしょう。正直私も似たような心境ですから」

「偽善者と白眼視されるのも珍しくありません。大衆はいつも死刑が廃止されないよう沈黙する被害者像を求めています。『遺家族の前で署名運動が出来るか』と通行人に罵声を浴びせられたり、『暇なら仕事をしろ』と鼻であしらわれたりするのは日常です。嫌がらせや脅迫も受けます。それでも私達は運動を欠かしません。大抵の会員は忙しい仕事の合間を縫って駆け付けてくれます」

 瑤子は目を落とした。

「会員が死刑の廃止と終身刑の導入を望む動機は様々です。宗教的なものであったり、法律的根拠であったり、国際世論のためであったり、アムネスティ(アムネスティインターナショナル・国際的な人権擁護団体)に関わっているためであったり、統一されないまま会は運営されています。何故なら各々の主張が被害者感情に凝り固まった死刑存置の欠点を正す強みとなるからです。慰み半分で参加している方など誰一人としておりません。会の皆様は確固たる信念のもとに活動しておられます。けれど、私は他の方とは違う視点で死刑を無くして欲しい、いえ、末吉さんの執行を止めて欲しいと願っているのです」

 謎めいた語りに直樹は眼鏡を外し瑤子を黙視した。

 瑤子も訳を訊きたがっている瞳をじっと見た。

「私は現在、拘置所にいる末吉さんへ入籍交渉をしています。夫婦としての」

「結婚を?」

「そうです。けれど拘置所は肉親以外の面会は許可しないと会わせてくれません。手紙も一切受け取ってもらえません」

「それは仕方ありません。接見交通は規則なのです。中でも死刑囚は特別な存在ですから面会や信書に制限があるのはご理解下さい。しかし、失礼ですが、どうして今になってそんな手続きを?」

「私は独身ですが、別にあの人に操立てしたり、やり直したい気持ちは全く無いのです。恋愛感情など疾うに消え失せておりますから無論同情でもありません」

 急激に口調が変わり、気高い礼貌れいぼうは夜叉と化した。

「私は簡単に死刑などで殺されて欲しくないのです。私の人生を地獄に陥れた末吉さんに同じ苦しみを生きたまま味わってもらいたいのです。血反吐を吐いてでも、もっと苦しみ続けてほしいのです。なぶり殺し状態で苦悶させ続ける事こそ亡くなった一族への弔いとなるのです。事情がどうであれ末吉さんの犯した罪を私は生涯許しません、絶対に!」

 怒りに燃えながらも凍るような報復の目であった。

 直樹は瑤子に自分の顔が映った気がした。

「では求婚に何の意図があるんですか」

「末吉さんは聞く所、心神喪失になっているというではありませんか。あの人は犯行当時から精神異常だったんです。でも裁判所は死刑を宣告した。上訴も出来なかった。そして再審も」

 直樹はぎくりとした。この時になって漸く瑶子の目的を呑み込んだのである。

「朝倉さん、貴女はまさか野呂の代わりに再審請求をしようとしているんですか。死刑執行を少しでも長引かせるために」

 刑事訴訟法第四百三十九条には「再審請求の権利を有する者」が四通り記載されている。検察官、有罪の言渡を受けた者、その法定代理人及び保佐人、そして有罪を受けた者が死亡し、又は心神喪失にある場合には、その配偶者、直系の親族及び兄弟姉妹とある。

「それしか私には出来ません」

「無茶です。精神鑑定は覆りません。減刑に値する新たな証拠でも見付けない限り裁判所は再審を通さない。第一、野呂は頭痛を訴えているものの食欲もあるし、虚脱状態で多少の拘禁反応には罹っていますが喪失の常況にあるとは言えないからです」

「──ひょっとして貴方は末吉さんにお会いしているのですか」

 瑤子の質問に直樹は慌てて口を覆った。

 瑤子は直樹の腕を強く掴んだ。

「末吉さんは今どうしているのですか。容態は? 拘禁反応と仰いましたね。であれば精神的な障害に冒されているのでしょう。教えて下さい。どんな些細な事柄でも構いません」

 直樹は震える手を丁寧に放した。

「つい口を滑らせてしまいましたが私は守秘義務のある国家公務員です。これ以上応対すると誤解を招きかねませんので失礼させて頂きます。それと親族申告書に記入されていない貴女が面会を求めても徒労に終わります。まして再審の魂胆がある以上、拘置所は余計認めません」

「では裁判で戦わせてもらいます。死刑囚との獄中結婚の前例はありますし、婚姻の平等は民主主義の原則ですから」

 どうぞご随意に、と直樹は公園を離れた。

 辺りは薄闇に包まれ、日中の暑さが消え、通り過ぎる風がひやりと頬を撫でた。すっかり食欲の無くなった直樹は行く当てなく東区の周辺をぶらついていた。

「終身刑で一生苦しめ、か」

 瑤子との遣り取りを顧みた直樹は、足下に舞ってきた、紅葉しきらずに落ちた二枚の紅葉もみじを拾い左右一枚ずつ摘んだ。そして右手の葉をくしゃりと握り潰し、もう片方を街灯へ透かした。

 生乾きの葉脈は水分を取り入れる事なく既に使命を終えていた。

「お前はこれでも未だ存在する意義があるのか」

 直樹は返答ない無機物をもう一度握り潰し手を払った。

 と、同時にポケットの携帯が振動した。

 出れば和幸である。話があるから直ぐホスピタルまで来いという。酷く低いトーンで「とにかく来い」の一点張りを繰り返していた。直樹は瑞樹に連絡のメールを打ち、レジェンドで国道一号線に乗った。

「直樹、お前、嘉樹の房の正担当になっているそうじゃないか」

 院長室を潜るなり激声が上がった。

 誰から訊いたと返すのは愚問であった。

「わざわざ呼ばれてみればその件か。これは局の問題だ。和幸には関係無いだろ」

 直樹はソファーに勢いよく座ると尖る顔を向けた。

「いいや、今回の肝移植に俺は関わっている。お前が嘉樹に肝臓を提供してくれるよう頼むのは簡単じゃないか。それをお前は憎しの感情だけで断っているそうだな」

「あのな、奴は民法だけじゃなく──」

「刑法にも刑事訴訟法にも監獄法にも死刑囚を外に出してはならない項目はない。むしろ監獄法第四十三条は病院移送の可能性を示唆している」

 和幸は六法を机の上に放り投げた。直樹はその法規集を手に取り頭上にかざした。

「和幸、いいか。これには『精神病、伝染病其他ノ疾病ニ罹リ監獄ニ在テ適当ノ治療ヲ施スコト能ハスト認ムル病者ハ情状ニ因リ仮ニ之ヲ病院ニ移送スルコトヲ得』とある。つまり疾病に罹った者という前提条件で成立しているのが四十三条だ。奴は病者じゃない。全くの健康体だ」

「ならばドナーには最適だ。お前達二人は指紋こそ異なれ後は同一の塩基配列で構成されている。それに条項は解釈次第でどうとでも取れる。監獄での治療に合わないなら外部への診察も出来る。行刑は所長の裁量で殆どが決定すると言っていたじゃないか。お前が上に掛け合えば内々に嘉樹を外へ連れ出し、移植手術も受けさせられる」

 だが、無関心に直樹は六法を背後の棚へ置くと、今度は医師法を取り出しぱらぱら捲った。

「聞いてるのか、直樹」

 和幸は青筋を立てて机を叩いた。

 直樹はつれなく答えた。

「俺と奴の遺伝子は良識と悪徳に二分して同一じゃない。大体お袋を毛嫌いしていた奴はドナーなど認めんよ」

「ああ、瑞ちゃんもそう打ち明けてたよ。確かめる所か伝えるつもりもないってな。だが、本当にいいのか。嘉樹はお袋さんの苦しみを軽くするたった一つの希望なんだぞ。お袋さんのためなら何でもすると誓ったのは嘘か」

「その決意は奴を除いてだ。あの肝臓は人を殺して汚れきっている。そんなものは要らん」

「あのな、少しは冷静になれ。そもそもお前にお袋さんの命を奪う権利があるのか。こんな風に言いたくないが、お前の行為は未必の故意による保護責任者遺棄致死罪と何ら変わりないんだぞ」

「──言うに事欠いて俺を不作為犯扱いするのか、真正身分犯に近いお前が」

 間接的な罵りに反応した直樹は手に拡げた医師法のページを示した。

 和幸は一瞬にして硬直した。そこには医師が不正を行った場合免許を取り消す旨が記載してある四条と七条が載っていたためである。

 直樹は反論の隙を与えず責め続けた。

「もう詰問は止めろ。俺はカルテの書き換えで佐和子さんをコーディネーターの業務から引きずり降ろしたくない。お前だってここの評判を落とすのは不本意だろう」

「刑法にもならない条項で俺を脅しているのか。第一、誰の為にやったんだ!」

「恩義は感じている。それでも世間に改竄の事実が知れ渡れば良い結果にならない。しかし、お前がこの件から手を引いてくれるなら俺も口を噤もう。悪い取り引きじゃない」

「最悪だ。こんな矛盾した取り引きはないぜ」

 苦渋に満ちた顔で和幸は髪を掻いた。

 直樹の脅す悪説は佐和子にまで及ぶ。佐和子はドナーにもレシピエントにもなくてはならない万能のコーディネーターであり、処分を受ければどれだけの命が失われるか分からない。自分の患者でもあった妙子を救いたい気持ちと、佐和子の職務を秤に掛けるのは忍びないが答えは既に出ていた。

 和幸は最後に憎々しく直樹へ言い腐した。

「お袋さんを助ける唯一の好機を放棄したお前を親父さんは草葉の陰からどう悲しんでいるかな。きっといつか後悔するだろうよ」



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