第四章 紅蓮の教誨師

紅蓮の教誨師 Ⅰ


 実に不快な気分であった。

 生肝が絶たれたばかりでなく、C型肝炎の告知が酷く直樹の気を腐らせていた。

 HCVにおける無症候性キャリアは厄介で、いつ即発するか判らないウイルスの爆弾を抱えている。それでいて痛みや苦しさの自覚症状が一切ない。

 肝臓は沈黙の臓器であり、悪化してから進行を止めるには遅過ぎる嫌いがある。

 瑞樹は健康を考慮し集中的な通院を勧めたが、直樹はそんな気になれなかった。

 上司の方も差し迫った移植に関しては渋々了承したものの、肝炎の症状が落ち着いていると知るや任務を続けるよう告げてきた。施設とすれば人手不足の中、発症していない病気のため長期休職を与えるのは難しいらしい。

 ところが瑞樹にはその決定が不満で、行刑に対する理解が反転してしまった。勝手に異動させておいてウイルスが不活性なら構わないとの態度にぐずぐず不平を言い募っていた。

 日によっては「もうこんな仕事辞めて」とまで当たり散らすようになった。

 この齢で辞職など全く考えていなかったが、仕事のストレスは鬱積うっせきする一方で何度も衝突した。心配も度を超すと煩わしくなってくる。加えて嘉樹の件が絡まり、口喧嘩は激しさを増すばかりで、夜の営みも半ば無理矢理になっていた。

 そして死刑執行命令が下される季節も深まり、十一月も九日を迎えていた。

 この日は日曜で運入も出廷も休みと決まっており、転房にはうってつけであった。

 行刑施設では脱走や自殺防止などを考慮して定期的に房の入れ替えが実施される。また、週に一、二度設備の破損や、日記代わりに付けているノート類をチェックする捜検がある。

 定期転房はともかくプライバシーの無い捜検は評判が悪く、収容者からは非難囂々ごうごうで、九階の例会でも毎週懲りずに廃止要求をされていた。

 けれども直樹は保安上の理由を許に悉く撥ね付けた。

 九月のアーベントから要望が通過したのはたった三つ。休日明け新聞の閲覧延長と、仮就寝時間内の認書にんしょの承認、そして拭身しきしんの自由化(半裸体での拭身も含む)だけである。

 名拘では手紙や文書を書く行為を認書というが、午後五時から九時までの仮就寝には行ってはいけない決まりがある。裁判の準備だけでも時間の掛かる住人にとって就寝前の四時間は貴重であった。読書は可で認書は不可とするのは何の法的根拠もないと指摘を受けた直樹は嘉樹の主張を退けたが、会議を見学に来ていた村上の独断で妥結されてしまった。

 後は、拭身、つまり汗すら指定時間外に拭いてはいけないルールもある。我慢できなければその都度報知器で担当を呼ばねばならず違反すれば懲罰になる。

 だが、夏場は拭いてもきりがなく、報知器で呼ばれる方も面倒臭かったのが通過の理由であった。

 この階だけに許されている冷房は、先にも述べたが、昭和五十八年の拘置所改築以来一度も稼働させておらず、老朽化しているせいか呆れる程故障する。昼食後の総転房が終了した今も十一月だというのに、異常気象も関わって妙に蒸し暑く、入れ替わった房内で誰もが上半身裸になり玉の汗を拭き取っていた。

 衣替えで銀線付きのネイビーブルーの冬服へ袖を通していた直樹は、制服と同系色のネクタイを少し緩め各房を巡視していた。

 そして九二〇〇の称呼番号がついた第二八室の視察孔の前で足を止めた。

 嘉樹の背中一面に彫られた洋画の刺青が薄明かりの中で鮮やかに浮かんでいた。

Satanサタン inイン hisヒズ originalオリジナル gloryグローリー

 直樹はその絵が目に映ると不意に呟いた。

 収容者には墨を入れた者が多く、時々奇抜な柄に出会う。特に目を引くのが西洋物で、その一つが今目の当たりにしている、ウィリアム・ブレイク作『昔の栄光に浴する悪魔(サタン・イン・ヒズ・オリジナル・グローリー)』であった。

 イギリスの詩人で同時に画家・銅版画作家でもあったブレイクが描いたその悪魔は、タイトルだけを耳にすると大抵の人々は黒い翼を持った地獄の長や、牙を剥き出しにした無気味な怪物を連想するが、このモチーフはそういったグロテスクの類ではない。

 ロンドンのテートブリテンに展示されているA3大の水彩画には、トランペットや巻物を象徴する小さな精霊達が周りを飛び交う中、複数の多色な翼を大きく拡げて威風堂々と舞い立つ煌びやかな大天使が描かれている。右手には宝珠を、左手にはしゃくを持ち、恍惚の澄まし顔で威光を放つ薄衣の天使、それがブレイクの意図する「堕」天使ルシフェル、後のサタンである。

 ルシフェルは元をただせば天軍九隊で最高峰に君臨し、「あけぼのの明星」または「光を掲げる者」の別名を持つ神に最も近い存在であった。しかし、神に反逆を目論んだため四階級下のりき天使ミカエルらに地獄へ堕とされ魔王となった。以降龍に姿を換え、地上へ姿を現し人々を堕落させるのだが、再度神の力で燃え盛る火と硫黄の池で苦しめられるのは聖書の黙示録に詳しい。

 嘉樹は高校を中退すると間もなく愛知県で悪名高い暴走族「琉死不得婁ルシフェル」の幹部になり、やがて総長に見込まれ次代の座を譲られた。初代総長が堕天使の名を付けたのが始まりで、長はサタンの刺青を体の何処かに刻み込むのが慣わしとなり、三代目に就任した嘉樹はブレイクの絵を背中一杯に彫り込まれた。

 琉死不得婁は嘉樹が頭になると近隣の族を瞬く間に吸収し、勢力は中部三県にまで拡大し、堕天使を知らない不良は誰一人いなかった。

 反面、東の家では迷惑以外なんでもなかった。

 父は銀行の出世頭であり、母は少年課からの苦情に随時怯えていた。けても直樹は一番の被害者であった。似た容貌から間違えられ抗争中の族に襲われるのはしばしばで、それどころか、極道から組事務所へ誘われたりもした。

 そんな事情も絡み、直樹の耳には嫌でも暴走族の勢力図が入ってきた。そしてどの暴力団がどのチームを傘下にしているか必然詳しくなり、皮肉にも現在組織に精通する土壌となった。

 話は少し逸れるが、刑務官採用試験には実は年齢や身長以外一つ陰の条件が設けられている。それは本人と親兄弟近親者に非行歴がない事である。特に刑務官は警察同様公安職のため、暴力団に代表されるような反社会的組織に属する者が身内にいる限り採用されることはまずありえない。

 しかし直樹が刑務官になったのは嘉樹が竹之内家に養子縁組する前であり、嘉樹は暴走行為の補導歴はあっても非行歴は無かった。そのためか身元調査で不採用になる事もなく、難なく刑務官試験に合格した。対して嘉樹は走り屋から極道者へ、竹之内の苗字でヤクザの王道を進んでおり、墜ちた見本のような人生を歩んだ。

 公務員と極道という両極端な道を別れた二人は平行線のまま交わる事もなく、嘉樹が正式に指定暴力団の養子になっても、直樹について矯正局から刑務官の業務を続ける事に疑問視されても辞職に至らなかったのは、嘉樹の縁組みが東家にとって縁切り同然であったからに他ならない。即ち直樹と嘉樹は戸籍上兄弟でも全くの他人と見なされたのである。

 また直樹は高校柔道東海大会の覇者であり、刑務官が出入りする道場へ足繁く稽古に訪れていたので覚えがよかったし、学業の成績も優秀の上、実直で礼儀正しい姿勢が採用の高評価となっていた。

 直樹はそんな自分とは正反対になった、見下げたならず者の元兄へは憎悪の心火を抱くだけで、何の惻隠の情も湧かなかった。

「C型肝炎なんだってな、お前」

 死刑囚が足音に敏感なのは判っている。悪魔の背を向けたまま声を出した嘉樹へ直樹は口を歪めた。

「副担当か、一々内情を漏らすのは」

「ケルさんは心配しているだけだ。病院嫌いのお前が何故血液検査を受けたのかは知らんが感染しているなら治療に専念したらどうだ」

「刺青で肝炎の疑いのあるお前が何を」

 軽蔑した眼差しで直樹はふんと笑い捨てた。すると嘉樹は向き直り、腹筋の突き出た鳩尾を叩いた。

「俺は正常だぜ。シャブもやってないからBにもCにも罹っていない」

「嘘つけ。それだけの彫り物で影響がないはずないだろう」

「ところが、会長の命令でドッグに入っていた。深酒の割に肝も腎も健康そのものだと医者が呆れていたくらいだ。Cは質が悪い。瑞樹を悲しませたくなかったら一刻も早く治せ」

「大きなお世話だ。お前は自分の今後だけを念頭に置け」

「俺は再審も恩赦も請求していない。処遇改善以外思案はない」

「そういう意味じゃない。そろそろ教誨の先生を真剣に選んだらどうだと言っているんだ」

 教誨、即ち収容者に対する宗教教誨は社会復帰に役立たせるメンタルケアだが、死刑囚への教誨は心情を安定させるためだけに行われる。

 教誨師(篤志宗教家)から授業や家庭でさえ教わらなかった「生の意義」を優しく諭されると八つ当たり的な怒りが徐々に慚愧ざんきの念へと変わり、荒ぶった感情はいだ海面のようになる。

 人間が孤独に耐えられる時間はそんなに長くない。

 長期拘禁は確実に神経を狂わせる。教誨はその点を見極め施され、そして因果を含められ落ち着いてくれば執行の時宜じぎ、つまり「殺し頃」が迫ってくる。

 死ぬだけの死刑囚に良心を目覚めさせるのはそもそも矛盾なのかもしれない。それでも局は自ら死を受容した確証を欲し、行刑の形式的な満足、或いはスムーズな処刑のため特別処遇の拡大をした。名拘ではアーベントまで開かれているが直樹にはそのもの自体が心情安定の妨げになっていると感じていた。

 お互いの接触を持たないようにしつつ、諦めの境地で地下へ先導する、これが理想なのである。

 なのに住人は法律を談じて益々助かろうと足掻いている。事実、初会議より後、教誨師との面接が激減した。危機感を抱いた直樹は村上にアーベントの廃止を求めたものの、クラウド・ナインは局の研究対象とされている為、提案は即座に撥ね付けられた。

 教誨は飽くまでも本人の希望による。だから強制も出来ず、弱みとなっていた。

「そうすれば残された手段は一つしかないだろう」

 直樹は嘉樹の房から離れながら呟きを吐いた。

 則ち、一刻も早く死んでもらう他ない。

 母が待機患者となった日以来直樹は早期執行計画の遂行を強く決めていた。

 当局が心情の安定を認める基準は、よく眠っている、食欲がある、運動をよくする、日中に読書や請願作業をしている事が挙げられる。そして信書や面会の内容で精神状態を判断する。

 もちろん宗教教誨を求めた回数が重要な要素となるのは言及するまでもない。

 執行候補となる基準をほぼクリアしていた嘉樹には教誨願箋の少なさこそがネックとなっていた。

 元々死刑囚処遇決定に会議のスタイルを持ち込み、皆を牽引しているのは嘉樹である。

 心酔するカリスマがいなくなれば全てが崩壊する。現に四代目に代替わりした「琉死不得婁」は忽ち内部分裂し、新興チームに潰された。

 直樹は執行を早めるよう秘案を練り始め、その取っ掛かりが専属教誨師を付けさせる事であった。

如是我聞にょぜがもん一時物いちじぶつ在舎衛国祇樹給孤独園ざいしゃえこくぎじゅきっこどくおん与大比丘衆よだいびくしゅう千二百五十人倶せんにひゃくごじゅうにんく──」

 嘉樹の死を願いつつ巡回を続けていると九〇四房より微かな御経が聞こえてきた。

 坂巻は壁に掛った阿弥陀来迎図に合掌し、畏まった正座姿でいた。

 直樹が静観して間もなく読経は途切れ、手を合わせたまま本人から声がした。

「あらゆる人生は南無阿弥陀仏。生きとし生ける者は悉く仏性を持つ。東先生も私もまた等しく悩める衆生しゅじょうです。ご一緒にいかがですか。苛立ちも治まりますよ」

 坂巻の靴音を聞き分ける能力は階随一で、心境を見抜かれる事も珍しくなかった。

「前から訊いておきたかったんだが、そういう暗々くらぐらとした状況は恐くないのか」

 直樹は不可解混じりの好奇心で坂巻に問うた。

 監獄法第四十四条に「妊婦、産婦、老衰者、及ビ不具者ハ之ヲ病者ニ準スルコトヲ得」とある。本来隻眼の坂巻は視覚障害者として二階の病舎で療養するべきであったのに、眼科医の意見で認められなかった。残っていた片眼が急激に痛んだ時は何とかもう一度診察を受けられたが、進行した急性視神経炎には施しようが無く永遠に視覚を無くしてしまった。

 当時の所長は失明という重い病状を知りながらも死刑囚舎房から出さない判断を下した。

 常闇の舎房に光は必要ない、そんな局の見解が窺える事例が坂巻であった。

「暗々とした状況とはどちらの意味ですか」

 執行待ちという毒舌を暗に交え坂巻は合掌を解いた。

 直樹は苦笑いを噛み殺し扉を指で叩いた。

「もちろん目の方だ」

 そうすると坂巻は扉に首を向けて詩の一部を暗誦した。

「人生の道半ばにも達せずして、この暗き世界で我がめいを失い、隠匿するはその罪万死に値すといわれる我が一才能を内に蔵したまま無に帰せしむるのではないか」

「ミルトンか」

 旧約聖書の『創世記』を基にした叙事詩『失楽園パラダイス・ロスト』の著者でもあるイギリスの作家ジョン・ミルトンは清教徒革命の際、クロムウェルのラテン語秘書官となったが、緑内障のためやがて失明した。その心中を読んだのが『我が失明について想う』という上記の詩であるが、それを酔狂に引用した坂巻が何故教授と呼ばれているのか直樹はこの時理解した。

 明晰な薬学研究者という経歴を加味しても、失った視力を補う恐るべき記憶力が、読み耽っていた文学作品を逐一覚えていたのである。

「生まれついての盲目はともかく」と坂巻は前置きして続けた。

「晴眼者は情報の八割を視力で処理しています。途中から光や色が無くなればどんな人間とて平静でいられましょうか。全盲になり命を絶つのはその恐怖と心細さ故です」

「だろうな」

「しかし、私の場合死刑囚舎房で盲人になりました。あまりショックはありませんでしたね。フランスの小説家、アルベール・カミュはこう明弁しています。『絶望が純粋なのは、たった一つの場合である。それは死刑の宣告を受けた場合である』と」

「違う! 例えば癌の宣告も似たようなものだ」

 直樹は自分の境遇を重ね合わせ猛烈に反論した。

 対して坂巻は完全に直樹に対峙する姿勢をこちらへ向けた。

「いいえ、滅相もない。病死と刑死では雲泥の差があります。死刑に抗癌剤は何一つありません。この世で死が百パーセント確定なのは愚かな生命刑だけです」

「だが、少なくとも癌患者は殺人を犯して病気になった訳ではない」

「東先生、何度も繰り返しますが私は人殺しなどしていません。無実です」

「では何のために祈っていた」

「無論、事件で亡くなられた方々への追善供養です」

「そら、語るに落ちたな。その償いこそお前が加害者の証じゃないか」

 と、失笑する直樹に坂巻は両手を天井へ差し向けて言明した。

「いいえ、私が祈っていたのは誤った判決で浮かばれずにいる被害者の魂にです。犯してもいない罪の意識からではありません。あの牛乳に猫いらずを混ぜたのは薬に詳しい私にしか無理だと検察は言い張っていますが、見当違いの僻事ひがごとです。あの若羽町自治会の何件かの家では私が捕まる少し前まで牛乳入りの猫いらずで野良犬や野良猫の駆除をしていたと聞いています」

「だからと言ってお前が盛り殺していない証拠にはならない」

 挙げた両手を少し下ろした坂巻は次いで掌を直樹に向けて反論を阻んだ。

「私もそれだけで再審を請求しているのではありません。重要なのは私が調合したミルクと生薬ペーストの配合が吐瀉物としゃぶつからの検体と異なっている点です。既にご存知でしょうが、私は滋養強壮乳のペーストを購入して頂いた方全員へ、配合内容を記した一覧表をお渡ししていました。しかし、事件以降私は表から一つの漢方薬が抜け落ちているのに気付いたんです。でも、毒が混入されていたペーストにはその成分が検出されなかった」

「知ってる。つまりは──」

 そのままゆっくり掌を正座の腿に置いた坂巻は大きく頷いた。

「はい。つまりは私の目を盗み何者かが毒物ペーストにすり替えた。これが妥当な推論です。私は近隣の自治会でも強壮ミルクの実演販売をしていました。もし配合表が誰かの手に渡り、リストの内容に照らして猫いらずを混入したとしても事件が起きれば販売者の罪責になります」

「町民の、別の誰かの計画的犯行だと?」

 直樹はダイレクトに問い掛けた。坂巻は片唇を上げ、複雑な笑みを浮かべた。

「亡くなられた被害者の過去を弁護士に調べて頂くと、大半が遺産や対人関係で揉めていました。犯行の動機は私が毒突かれたからなどではありませんよ。恐らくもっと奥深く醜いものです。しかし、検察は検出されなかった含有成分についても微量なため鑑定出来なかったというんです。そんな馬鹿な論証はありません。私が配合したサルノコシカケは全体量の一割を占めるんです。だけれども、検察は自宅に残っていた私の調合ミルクを事も有ろうか紛失してしまいました」

「当時の吐瀉物の記録は参考にならないというのか」

「ええ、毒ばかりに気を取られ他の成分分析をまともにやっていなかったんですから。事件そのものは時効になっていますので、私は今更真犯人を吊し上げようとは願いません。ただ、情況証拠だけで死刑と言い渡された私の無実を証明してほしいだけなのです──と、先生に上申しても仕方ありませんね」

 坂巻は再び向きを変え、祈りを再開した。

 直樹は舎房の廊下を見渡した。この中で本当の冤罪を訴え再審請求している者はもう一人いる。

 歩みは自然と石動の房へ向いていた。

「日曜なのに精が出るな」

 坂巻の房から二つ隣の視察孔へ直樹は声を掛けた。

「こちとら提出日が迫ってるんでね。教授みたいに祈りの時間なんかないよ」

 再審請求の資料造りに勤しむ石動はぶっきらぼうに返した。

 死刑囚にとって不利益変更の禁止を含む再審は唯一の命綱であり、裁判所に認められれば減刑や無罪放免の道は開ける。と言っても大抵は棄却される。裁判所も上告を棄却しているのだから、それまでには様々な証拠や証言を吟味し、その上で判決を下しているので簡単に再審請求は通らない。裁判所が刑事訴訟法で再審を認める理由は次の七項目である。

 一、原判決の証拠となった証拠書類又は証拠物が確定判決により偽造又は変造であったことが証明されたとき。

 二、原判決の証拠となった証言、鑑定、通訳又は翻訳が確定判決により虚偽であったことが証明されたとき。

 三、有罪の言渡を受けた者を誣告ぶこく(虚偽の事実を言い立て他人を罪に陥れようとすること)した罪が確定判決により証明されたとき。但し、誣告により有罪の言渡を受けたときに限る。

 四、原判決の証拠となった裁判が確定裁判により変更されたとき。

 五、特許権、実用新案権、意匠権又は商標権を害した罪により有罪の言渡をした事件について、その権利の無効の審理が確定したとき、又は無効の判決があったとき。

 六、有罪の言渡を受けた者に対して無罪若しくは免訴を言い渡し、刑の言渡を受けた者に対して刑の免除を言い渡し、又は原判決において認めた罪より軽い罪を認めるべき明らかな証拠をあらたに発見したとき。

 七、原判決に関与した裁判官、原判決の証拠となった証拠書類の作成に関与した裁判官又は原判決の証拠となった書面を作成し若しくは供述をした検察官、検察事務官若しくは司法警察職員が被告事件について職務に関する罪を犯したことが確定判決により証明されたとき。但し、原判決をする前に裁判官、検察官、検察事務官又は司法警察職員に対して公訴の提起があった場合には、原判決をした裁判所がその事実を知らなかったときに限る。

 石動は裁判で警察に対し証拠の偽造を訴えていたが、推測に過ぎないと退けられ原判決には影響しなかった。再審が通るためには「石動有した車のトランクルームに弘文ちゃんの毛髪を故意に置いた」とされる警察官が自らの行為を裁判で証言しない以上請求事由に認められない。だから第二号の「鑑定の虚偽」で請求を出した。しかし、平成のドレフュス事件と騒がれ、学者や研究者の間で大変な論争を繰り広げながらも筆跡鑑定は覆らないままである。ならば次はと第六号に該当する新証拠の発見に努めている。

 それが野球賭博の胴元の居場所を突き止め、金の出所と現場不在証明を明らかにする事であった。

 ただ何度も弁護人を変更し胴元の所在を追跡させているものの未だ朗報は届いていない。

 直樹は裁判記録を洗い直す石動の邪魔にならないよう踵を返そうとした。

 と、その折、房内に新しいポスターが貼ってあるのに気付いた。

 それは心情安定のため特別に慰藉いしゃされた写真であったが直樹には見覚えがある、とても鮮明な山岳風景であった。

「立山連峰、か」

「お、よく知ってるな」

 石動は意外さに筆記を中断した。直樹は昔をしのんだ。

「親父が山の虜だったんだ。故郷が石動の通っていた工業高校と同じ石川でな、能美の辰口生まれだ。雄岳にも登っていた」

「俺は叔父貴が趣味でね、何度も一緒に付き添った。その時一番印象に残っていたのが立山だったんでこうやって貼っている。なら東さんも山男かい」

 余程山が好きなのだろう、石動は嬉しそうに頬を緩ませた。

「いや、俺は山は苦手だ。高い所に立つとくらんでしまうからな」

「おやおや、高所恐怖症とはお気の毒に」

 おおよそ高所が得意な者は得意げに恐怖症を憫笑する。

 気色ばんだ直樹は直ぐに逆捩じを食らわせた。

「知覚神経の過敏反応は別に恥じゃない。高所を嫌うのは墜ちれば死ぬ本能に則った手堅い知性の顕れだ。それに人が高き場所を目指そうとすると天罰が下ると言うだろう」

「そりゃあ、バベルの塔かい」

「ほう、無信心で教誨を毛嫌いしている者の台詞に聞こえんな」

 徹底した無宗教で頑なに宗教教誨を拒み続けている気質から付いた渾名が「ヨナ」、これは皮肉にも聖書の預言者である。とはいえヨナは神の命令から逃げて、挙げ句民を救った神に文句を吐いた独特な人物である事を、石動と同様に無信仰の直樹も村上から簡単に教わっていた。

「クリムゾンが置いてったんだよ」

 石動は棚から一冊のバイブルを取り出した。

深紅色クリムゾン?」

「藤倉っていうお節介な神父だ。教授の所にも点字の聖書を置いてってるぜ。俺は神仏なんて信じない。そんなのがいれば無実で捕まらないし、大体この世に不幸があるはずもない。そんな居もしない幻想に寄り掛かる奴は精神的に脆いだけだ。この本は暇潰し。小説として読めばそこそこ面白いからな」

 信仰は何も救わない。直樹は両親の災いを回顧するとつくづく実感した。神が存在するならば声高に詰るだろう。俺が一体何をしたというのか。何故俺ばかりに逆境を与えるのか。

 嘉樹への怒りが再燃した直樹は何とか自制心を保ちながら再び巡回を始め、やがて野呂の房で立ち止まった。

 野呂は安気にいびきをかいて熟睡していた。

 この閉鎖的な老人とは着任以降一言も話していなかった。精神を病んでいるらしく初めは色々配慮していたが詐病の疑いが濃厚になってきた。好きな物は残らず食べているし、それに眼中にないかのように直樹へは口をきかないけれど、鮫島には蚊の鳴くような声で喋っている。

 死刑は心神喪失の状態にある時は停止される条項があるものの、矯正局の判断で強硬に執行をなしたケースは枚挙にいとまが無い。ところがエニグマ事件で拘置所の内実が次々と露顕し、当局は殊更慎重になった。恐らく野呂は拘禁反応を装い、執行を免れようと企んでいるのだろう。

 非道な殺戮者のくせに往生際が悪いと直樹は忌まわしく思い、別室へ歩を進めた。

「やあ、直さん。いつにも増してご機嫌斜めだねえ。苛立ってばかりいると早く老けるよ」

「医学的根拠も無い出任せは止めろ。頭に血を上らせているのは一体誰だ」

 九二〇室の視察孔から間宮は野菜ジュースを飲みながら責任転嫁だと屈託無く笑った。自分が犯した罪など寸毫も気に掛けず淡々と飯を食い贅沢品のカタログを眺めては余暇に耽っている。

「ジュースの代わりに石榴ざくろを差し入れてやろうか」

 直樹は間宮のれた神経を探るため軽く当て擦った。

「あー、駄目駄目、あんなのは言い伝えと違って人肉の味なんてしないよ。比較にもならない」

 好奇心に触発された間宮は扉にもたれると目論見通りカニバリズムについて語り始めた。

「一度ね、女子大生の乳房を焼いてみたけど脂肪が多くてあまり口に合わなかった。やっぱり幼い大殿筋だいでんきんに限るね。子供の尻は赤身ながら喉の奥でとろけるんだよ。上腕二頭筋もいい。少しレアにしてかぶりつくと柔らかさが引き立つんだ。咬筋もナイフがスッと通って食べ易かった。醤油漬けで食べると抜群だね。後は腓腹筋ひふくきんのこんがり焼いたのも捨てがたいな。内臓なら肝臓のソテーがいけたね。心臓は若干固くて苦手だったけど胃はまあまあ食べられた」

「──美味いから、味覚だけのために喰ったのか」

 生々しい陶酔に直樹は吐き気を催しつつ核心部分を突いた。

「うーん、味云々もあるけど、僕があの子達を食べたのはちゃんとした理由があるよ。弁護士からは判決に影響を与えるからと証言させてもらえなかった」

「それは、何だ」

「じゃあ、反対に訊くけど何故人を食べてはいけないの。もし僕を満足させるなら直さんだけには真相を教えてあげる。但し人道に反する、倫理に背くなんてありきたりな返答で失望させないでよ」

 臆面も無く背徳の確信犯であるのを認めながら間宮は試み顔を作った。

 食人行為は法律で規定されているのでもなく、殺人罪か死体損壊罪に問われるだけで行為そのものは罰せられない。

「人が人の肉を食してはいけないとされるのは──」

 恐怖に抗った二分の沈黙を破り直樹は口を開いた。

「今度捕食されるのは自分だ、と社会が混乱するからだ」

「あははは、成程、そういう視点で攻めてきたか。今までの担当は挙って落第だったけど直さんには、そうだね、六十点、及第点をあげるよ」

からい判定だな。過去に満点はいたのか」

「嘉さん」

「また奴か。で?」

「『食欲の湧かない人間としか生活出来なくなる』ってさ。全く我が主宰には脱帽するよ。食人嗜好の気持ちに通じてる正解をすんなり当てるんだもの」

「いや、その答えは可笑しいだろう。たで食う虫も好き好きだ。万人が納得しない」

「僕にとってはベストだよ。何たって嘉さんの回答の中に僕が悠や花梨を食べた深意が隠されているんだから」

 間宮は畳んだ布団の上に飛び乗ると片足を組んだ。

「愛してたから。そう、愛していたから食べたんだよ」

「な、何!」

 予想外の動機に直樹は棒立ちになった。

「驚いてるみたいだね。でも嘘じゃない。あの子達は僕と同体になった。別れも無いし寂しさも募らない。絶えず僕の中にはあの子達の命が入っている。生への本能エロス死への本能タナトスも僕に融合する。僕が彼女達を食べれば食べる程魂は凝縮され、一つの際涯ない宇宙になっていく」

「ならば何故食べる前に陵辱りょうじょくした」

 へそに両手を重ね黙想する間宮を見て、直樹は首筋に冷や汗が流れるのを感じた。

「もちろん女になってもらわないと値打ちが無いからさ。肉体的にも精神的にも生きたまま愛するのが大事なんだ。彼女達は間宮邦広という至高の男により内発するエネルギーに覚醒し、サトゥルヌスという高貴な神体へ取り込まれる事で悠久に汚されない純粋な魂へ昇華したのさ」

(心底から狂ってやがる)

 直樹は嫌悪感に苛まされた口を押さえた。

 快楽殺人ルストモルト反社会性人格障害者サイコパス性嗜好異常パラフィリア小児愛ペドフィリア加虐性愛サディズム

 次々と脳内に用語が過ぎった。どれだけ弁明しようとも誘拐、強姦殺人、死体損壊の大罪である。

 間宮は裁判で「心神喪失」も「心神耗弱」も認められず死刑を宣告された。

 弁護士の指示で間宮は「愛していたから食べた」本心を鑑定人には伝えなかった。裁判長はただでさえ人喰いに対し眉を曇らせているのに、快楽殺人まで加わったら間違いなく極刑となる。しかし、中途半端に精神状態が逆に正常とみなされ責任能力を認められてしまった。

 とはいえ直樹は間宮がクラウド・ナインに囚われている事を正常だと認識していた。

 このような人面獣心の、良識の欠損した人物が措置入院してもやがて世の中へ復帰する。同様の過ちを予防し、次の被害者を出さないためには一つの手段しかない。社会という人体にとって犯罪人という悪性腫瘍を切除するのが何よりも適切であり、その究極が死刑なのである。

「お前も個人教誨を受けたらどうだ。九二〇〇番にも推しておいたが、仏教、キリスト教、何でもいい。悩みがあれば聞いてもらえるぞ」

 精神を落ち着つかせた直樹は、無益と知りつつも一応宗教教誨を勧めた。

 ところが間宮はますます嗜虐しぎゃく的な目を細めて言い放った。

「話に乗ってもいいよ。観音様か、マリア様の尻の肉を持ってきてくれたら、ね」


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