試練 Ⅵ


 実に爽快な気分であった。

 久し振りに夫婦らしい一夜を過ごしたし、所長と部長からは手術の日時が決まり次第三ヶ月休職の了解を取り付けた。元々重病人の家族を抱える直樹を局の都合とはいえ強引に転勤させた両者にも多少の引け目があったのだろう。

 ただ、局長だけは最後の最後まで渋っていたようでなかなか認めなかった。

 病院でのドナー評価検査は採血から始まり、超音波検査、MRI、そして局所麻酔をかけた腹部へ細い針を刺し、肝組織を採取する肝生検バイオプシーがある。このため一日の検査入院を余儀なくされたが移植とはそれほどデリケートに手順を踏まねばならない。

 しかし、直樹はこれはドナー肝の状態をチェックする形式的なもので早々と手術を受けるのだと考えていた。

 何と言っても人一倍肝臓には自信があった。酒煙草とは無縁だし、少々腸に潰瘍が出来たくらいなら食餌療法で治してしまった。だから問診票の輸血経験や薬害性肝臓疾患などの既往症欄に丸を付ける必要もなかった。

 九月三十日、今日この日に検査結果の発表と手術の日取りが決められる。

 直樹は例の第三会議室で佐和子を待っていた。

「相変わらず遅いな」

 腕時計の針は約束から一時間進んでいたが、主任の業務は多忙である。直樹は悠然と歩いて室内を見渡した。すると前の時には気付かなかったが、南の壁に一枚の長い額が飾ってあるのが見え、そこには「万事塞翁ばんじさいおうが馬」と太い毛筆で描かれてあった。

「福必ずしも福ならず、わざわい必ずしも禍ならず、か」

 直樹は中国の故事を感慨深げに眺めていた。

 そうして五分が経過し、やっと佐和子が現れた。

 ところが遅れてきた割に焦っている風でもなく、いつもの陽気さは何処かに身を潜め、顔には暗い影が射していた。

「ごめんなさい、直樹さん」

 佐和子は椅子に座るなり資料を机へ静かに置き、手を組んで俯いた。

 直樹は心臓の鼓動が早くなるのを感じた。明らかに遅れてきた事とは著しく異なった謝罪であった。

「何故謝るんですか」

「移植が急遽きゅうきょ取り止めになったんです。だから──」

「もしや癌が転移したんですか」

 詰まる語尾から重大な事案が判った。原発性肝癌が外に広がれば移植は不可だと予め告げられている。現段階で移植が断られるのは他に思い当たらない。

 しかし、佐和子は無言で頭を横に振った。

「じゃあ、一体何ですか。佐和子さん」

 煮え切らない態度に苛立った直樹は名前を呼んで詳説を求めた。

 佐和子は顔を上げた。

「別に移植自体が無くなった訳でも、妙子さんに変調が起きたのでもありません。問題は直樹さん以外の御縁者にドナーが見付からないという点です」

「仰る意味が分かりません。どうして私の他にドナーが要るんですか」

「お掛け下さい」

 佐和子は混乱する直樹に椅子を勧め、目の前の書類から一枚の用紙を抜き取った。

「これは直樹さんの生化学・血液学検査結果です。肝臓の項目に移植の申請が却下された理由が記されています。どうぞご覧下さい」

 直樹は奪い取るようにして用紙を凝視した。GOT、GTPの肝数値は正常であるにも拘わらず、HCV抗体の「+」印が特に動悸を増した。

「C型肝炎です」

 佐和子は息荒くなった直樹と見合った。一瞬にしてやり場のない憂いと怒りが理解出来た。

 名私大の生体肝移植ドナーになるには概ね次の七条件を通過しなければならない。

 先ずドナーの年齢が二十歳を超えている事。二つ目はレシピエントとドナーの関係が血縁で二親等内である事(または夫婦である事)。三つ目が、お互いの血液型が一致、もしくは適合する事。四つ目は肝臓のサイズがあう事。五つ目は自分の意志で提供を希望する事。六つ目は心身共に健康である事。そして最後の七つ目が「ウイルス性肝炎に罹っていない」事である。

「直樹さんの肝臓はC型肝炎ウイルスH C Vに感染しています。RNA検査でも陽性が認められました。その結果ドナーからの除外が倫理委員会で決定したんです」

 何という運命だろう、と佐和子はがくの格言に目を遣った。

 だが、直樹は半信半疑で検査用紙を振った。

「いや、よく考えれば可笑しいですよ。これは機械のエラーじゃないんですか。俺が肝炎なんかに罹るはずがない。見て下さい。俺の体は至って丈夫で健康そのものです。なのに炎症が起きているなんて誰が信じますか。そうだ、もう一度検査をやり直して下さい。誤診だとも──」

「直樹さん、お認めになりたくないのは無理ありません。でもC型肝炎の大半は無症候性キャリアなんです。HCVは感染から数十年経過して突然猛威をふるい、肝硬変や肝臓癌を引き起こすんです。感染ルートでさえはっきりしておらず、輸血を始め、他に刺青、ピアス、鍼灸院の使い捨てでない鍼、注射の回し打ちなど、どなたでも疑いはあるんです」

「ならば佐和子さん、C型肝炎は治るんですか」

「ウイルスのタイプと量にもよりますが治療を続けて頂ければかなり改善されます」

「では教えて下さい。俺の肝炎はどれくらいで治るんですか」

「それは、大変返答に困る質問ですね。発症したHCVの場合抗ウイルス薬であるインターフェロンを使用しますが、際立って肝機能に異常が見当たらないキャリアにはインターフェロンは効きにくいと言われています。新たに試みている治療法ですら期限を予測するのは困難です」

「でも、良くなった肝臓を移植するのは大丈夫ですよね」

 今までの質問の流れで佐和子はやはりという顔をした。直樹は自分の治療した肝臓を移植しようと望んでいるらしかったが佐和子は直ぐ否んだ。

「仮にウイルスが取り除かれRNA検査で陰性となっても、そのドナー肝は当院では使用されません。HCVと断定された時点で無理なのです。教授や移植医が会議で不可を出したのはそこに理由があるんです」

「打つ手は無しか」と直樹はひたいを叩いた。期待が大きかっただけに反動は失意に変った。

「せめて直樹さんと同じ血液型のご兄弟がおみえでしたらね。妙子さんの年齢で条件を満たすドナーは自ずとお子さんに絞られますから──うん、どうかなさいましたか」

 佐和子は直樹が茫然と自分の顔を見続けているのに疑問を持った。

 直樹は伏し目がちに尋ね返した。

「血縁二親等は絶対的な条件なんですよね」

「必ずしもではありませんが当院の内規です。他に、三親等血族まで条件を拡大している病院もあります。そのため予診票に、前もって一親等余分に血液型を書き込んで頂きましたが該当者は貴方を除き誰一人お見えになりません。もしや洩れている方にお心当たりでも?」

「いえ、ただ訊いておきたかっただけです」

 曖昧に濁した直樹であったが、やがて一つの事例を思い起こした。

「そういえば新聞に血液型不適合の、生体肝移植成功の記事が載っていました。O型とB型の」

 義母の晃子は妙子の従姉妹でB型であった。直樹は最後の光明を見出したが、予知していたのか冷静に佐和子はファイルケースから中日新聞のコピーを呈示した。

「それは正に今から申し述べようとしていた案件です。記事の移植は親子間で一親等です。晃子さんは血族ではありますが従姉妹は四親等に当たります。当院でも親族拡大は議題となりました。A型の輝樹さんも同様に。血液型不適合肝移植には『門脈注入療法』という最終手段もありますが、現在のお母様の病状を考慮するとそのリスクは余りにも高過ぎます。拒絶反応で術後危篤に陥ってしまう懸念も否定出来ません。よって委員会は妙子さんに関し、全員一致で血液型不適合ドナーの適用を認めませんでした」

 事実上の最後通告であった。

 うなだれた直樹は次いで佐和子にこう勧められた。

「近い将来、血液型の適合一致や親族制限が移植条件から除外されるかもしれませんが、現段階では未定です。ですから私共が貴方に差し上げられる提案は残り一つになりました。よろしければ妙子さんを脳死肝移植の待機患者としてネットワークに登録申請しておいてはいかがでしょうか。移植外科病棟は満員で優先順位はずっと後になりますけれど、延命措置や海外での移植より幾らか希望はあると思います」

「脳死、ですか」

 生体肝移植は生きている自分から臓器を分け与えるため取り立てて暗い感情も湧かなかったが、脳死待ちとなると話は違う。有り体に言えば母のためにドナーカードを持っている善意の人間の死を願う。どんな形であれ生きていて欲しいのは本音だが、果たしてそこまですがっていいのかと直樹は躊躇ちゅうちょと葛藤に襲われた。

「止めておきますか」

 佐和子は選択の惑いが一段落するまで待ってから訊いた。

「いえ──それでお願いします」

 直樹は結局諦めきれず提案を呑んで帰路についた。


 あれほど眩しく輝いていた青空が今ではくすんで見え、立ち上る晩夏の香りと感じていたのは日射に熱せられたコールタールだと気付く。

 こんな僅か数時間で極端に浮き沈みする日もなかった。

国家公務員試験第Ⅰ種合格者キャリアでもない俺がまさか保菌者キャリアだったとはな」

 自嘲して官舎の玄関を開けると何故か案じ顔で固まった瑞樹が待っていた。

「おかえり。C型肝炎だってね」

 直樹はぎょっとした。

「驚かなくていいわ。佐和子さんからさっき連絡があったの。貴方に伝え忘れていた事、そして念のため私の実父の血液型をもう一度確認してきた」

「お義父さんは二親等の弟だもんな。で、何を言い漏らしていたって」

 どっと疲れた直樹はリビングのソファーへ下向きに倒れ込んだ。

「性交渉ではHCVは感染しないからご心配なさらずに、って」

 瑞樹は夫の背中を撫でた。

「は、じゃあ母児感染の危険はないな。災いや病気は東家だけでもう充分だ」

「私は東の人間じゃないの?」

「たあけ。おみゃあは俺の家族にちげえせん」

 仰々しい名古屋弁に瑞樹はくすりと笑った。

「だったら嘉も同じだね」

 突然直樹は沈黙し、眉間を摘んだ。

「聞いてる、直?」

「──俺はお前が時々解らなくなる。どうしてこんな時に奴の名前が出るんだ」

「だって直が移植出来ないなら、後は嘉しかいないんだよ。双子は血液型だけじゃなくDNAも同じじゃない」

「あいつは竹之内の後継となった身なんだ。もう東の家系じゃない」

「違うわ。嘉は今でも東の人間よ。そりゃあ養子に行って結婚もしてるから東からは除籍されているし親権は養親に移ったけど、実親との関係は断絶してないのよ。養子縁組は扶養権も相続権も併存する。そのくらい私だって大学の講義で習ったわ」

「奴は親父を殺したんだぞ。欠格事由で相続権なんて認められていないだろうが」

「嘉は相続を目当てに殺害したんじゃないでしょう。大体、社長で裕福な嘉が私達の小さな世襲財産分与に興味があった? それよりも私が言いたいのは、嘉はお義母さんからみて今も一親等の血族だって現実よ」

「お前はまさか佐和子さんに竹之内との関わりを伝えたのか、守秘義務に違反して」

 直樹はゆっくり起き上がると厳しい眼差しを向けた。

 瑞樹はボソリと呟いた。

「──言ってない」

「当たり前だ。第一、確定者の身柄は刑法と刑訴法、監獄法が握っているからな」

「でも直は特命で動いてる。嘉が移植に承諾すれば何とかなるんじゃないの。後は矯正局に掛け合えば」

「奴は国が保管している。前例のない申請は認可されない」

「だったら直が破ればいいじゃない。職員家族の命が掛っているのを無碍むげに断る道理はないわ」

「俺のドナー手術さえ渋った局だぞ。そんな温情があると思うか」

 家族間移植の可能性が消失して気落ちしているのに嘉樹の事など聞きたくもなかった。直樹は部屋を出ようとしたが瑞樹は意外な事実を口にした。

「何でもやってみなければ分からない。折角和幸君達が医の正義を曲げてまで移植の道を開いてくれたのに、どうして自分から閉ざそうとするの」

「医の正義?」

「カルテ類の改竄かいざんよ。佐和子さん、和幸君、そして名私大の脳血管医の三人が共同でお義母さんのデータを優位に書き換えてくれたのよ。その秘密を貴方は知らなかったでしょう」

 信じられない暴きに直樹は振り向いた。

「何故不可逆のアルツハイマーのお義母さんに移植の許可が下りたのか、私は色々推考してこの結論に達した。だから、直が病院へ行っている昼間和幸君に電話したの。彼、最初は認めなかったけど最後には全部話してくれたわ。佐和子さんの提案で、『失見当はアルツハイマーでなく肝性脳症に由来する』と、検査結果を誤ったように装ってコンピューターのデータを書き直せば手術は容易になるだろうって。肝硬変から生じる肝性脳症ならむしろ移植が最善の治療として薦められるとも言ってた」

「──」

「考えられる? 直は少しでも延命すればいいって思うかもしれないけど、医学的にみたって普通じゃないのよ。和幸君は貴方との友情の為に、佐和子さんは一人間として、ADだから移植を諦めるのは忍びないって脳血管の医師に懇願して病院を欺いてくれたのよ。一歩間違えば皆全てを失いかねない。そんな際どい橋を渡ってくれた三人を直は無視するの。黙ってないで何とか言ったらどうなの。ここで貴方が嘉に頼まなかったら貴方がお義母さんを見殺しにするのと同じなのよ。死刑囚だからじゃない、直はただ単に嘉に頭を下げるのが嫌だから逃げてるだけじゃない」

「うるさいッ。黙れ」

 直樹は足を踏み鳴らした。

「子供の頃からお袋は奴を憎んでいた。奴が事件を起こす度心労が重なり病に倒れた。それに奴は実母より竹之内の養母に馴れ付いた。そんな薄情な奴からお袋が移植を望むか。自分の夫を殺した息子から肝臓を貰いたいと願うか」

 すると瑞樹も負けじと言い返した。

「ええ、願うわよ。願い抜くのが母親ってものじゃない。本当に嘉に償って欲しいなら被害者家族のお義母さんを助けた方が一層優れてる。生き続けてこそ罪は償えるのよ」

「それがお前の本心か」

「そうよ。お義母さんも私の味方だわ。お腹を痛めて産んだ我が子に誰が極刑を望むの。きっとお義母さんは水に流している。被害者の自己満足だけの刑罰なんて何も生み出さない」

「そうじゃない。社会秩序を維持するには死刑は必要だ。死に怯え犯罪を抑制する。だから治安は保たれる」

「だったら毎月のように残虐な殺人事件が起きるのは何故。死刑に抑制効果があるなんて何の証明にもならない。一時的な記憶喪失ブラックアウトで、それとも瞬間的な激情で自制心を無くした時絞首刑が思い浮かぶ? 自殺の代わりに死刑で殺して欲しいから敢えて殺人を犯すケースもあるくらいよ。大体死刑に怯える人間なんて最初から軽犯罪すら犯す度胸もない。死刑存置なんて自分の恐怖を隠すための理論武装に過ぎないじゃない」

「俺を臆病者扱いしても死刑は廃止されんよ」

 人は最高の怒りを通り越すと極端に冷静になる。直樹は表情無く立言した。

「何より奴もお袋を嫌っていた。生体肝移植はドナー本人の意志によるとの絶対条件がある。仮に死刑囚でなくても奴は断っているだろうよ。産みの母を蔑ろにする非情な男だ」

「嘉は無慈悲な人じゃない。温かい心の持ち主よ」

「そりゃあ、昔恋仲だったお前からは贔屓目に映るさ」

「そんな言い方は止めて。貴方は嘉の弟じゃないの」

「俺は弟じゃない」

「どうしてそこまで拒絶するのよ。貴方達が一卵性双生児なのは一生変わらない事実なのに」

「だからこそ俺は弟じゃないと言っているんだ」

「え?」

「とにかく俺は奴からの移植肝は望まないし、知らせるつもりもない。奴は死刑を待つだけの、別世界の人間だ。だからもう二度と奴に頼ろうなんて戯れ言は止めろ」

 直樹の心底には救い難い憎しみの糸が絡み合っている。

 結局話し合いは物別れに終わり、瑞樹はもう反論しなかった。


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