試練 Ⅲ
「只今より第五十一回マンデー・アーベントを開催致します」
間宮の房に隣接する十畳間では九名の出席者が胡座をかき、嘉樹の開会宣言に割れんばかりの拍手を送った。
この和室は元々集団教誨やテレビ視聴用であり、嘉樹が中央で寄り掛かっている背高いテーブルの脇には三十五型フラットテレビを初め、大型スピーカーやDVD付ビデオデッキが備え付けられている。
本来ならば和室で騒ぐ者にはいつも「静かにしろ」と口酸っぱくするが、これだけの死刑囚が介していれば団結して暴動を起こす危険もあり、いくら柔道有段者とはいえ徒手空拳で九名に襲われては一溜まりもない。それ故、直樹は事前に警備隊入室監視を副担当へ要請したが、「このアーベントは秘事なので関係者以外入室厳禁です」と一蹴された。
もちろん室外では阿佐田と川瀬、そして数人の警備隊が控えているので脱獄を図る者もいまいが、看守憎しで殺害を企てないとも限らない。嘉樹に声援を送っているのは死刑が確定したか、もしくは死刑の求刑を受けている者ばかりで、心情によっては累加で殺人を犯した方が新たな裁判が開始され、執行の期間が延長される。
にも拘わらず、嘉樹の隣で鮫島は書記を平然とこなしていた。
「では早速要求に入ります。正担当、前へ」
嘉樹から壇上へ上がれと指示された直樹は静まった会場の壁を伝い、机とセットになっている丸椅子へ腰を下ろした。
特別処遇を求める死刑囚にどれだけ応えられるか、拒否するならば相応の正論を示さねばならない。アーベントは権利を勝ち取るための監獄闘争で、いい加減な対応では皆承服しませんよと、交替時間が差し掛かろうとする間際、鮫島は主旨を明かした。
「さて、前列右端の方から順にどうぞ」
壇から離れ、右横壁にもたれた嘉樹は会議用の資料に目を通しながら発言を促した。
では、早速と一八〇〇番の岩本が口火を切った。
「私は日曜祝日の新聞配達を要求致します。休み明け一度に配られるのは読むのに時間が掛るばかりか部屋が手狭になります」
「さあ、正担当、ご自身の回答をお願いします」
提案が出されるや嘉樹はすかさず意見を求めた。直樹は議事録に目を遣り、岩本でなくわざと嘉樹へ向いて淡々と否んだ。
「無理だな。以前の担当も拒んでいる通り、日曜祝日は事務職員が休む。その要望は聞き入れられない」
刑務官は公務員である。国民に奉仕する公僕と記されていてもサービス業ではない。
どの拘置所においても日曜祝日に事務員が休日を取るのは当然の定則であるが、嘉樹は右の耳朶を指で弾いて一笑した。
「おいおい、その制帽の下の耳は飾りか。俺は、自分自身の回答を、とたった今念を押したばかりだぞ。前の記述は参考にするな。保留とかの逃げも許さんぞ」
「──副担当、どうすればいいんだ」
不愉快さを顔一杯に浮かべ直樹は左隣へ囁いた。しかし、鮫島は、「私は書記です」と素っ気く首を鳴らしただけであった。
「東先生、早くしないと家へ帰れんぜ」
嘉樹がにやりと催促すると全員が、そうだそうだ、と厚かましげに笑って腕を振り上げた。
直樹はその猛々しい様相に、嘗ての正担当が頻繁に交代した理由を忽ち理解した。
つまり悪の温床と化しているこの月曜会議こそが正に「担当潰し」の現場なのである。
遣り込めてやろうと一丸となって挑んでくる緊迫した雰囲気に呑まれ、不用意にその場凌ぎの言い逃れをした担当は吊し上げられ、間もなくノイローゼに陥ったのだろう。
直樹はファイルを閉じ、気負いを秘めた目で嘉樹を睨み付けた。
「ならば俺なりの意見を述べよう。日曜祝日は代務になるばかりか掃夫も免業となる。配達要員がいないし、事務職員の休日に新聞の配達は不可能だ。よって却下せざるを得ない」
すると嘉樹は直ぐさま異議を唱えた。
「俺達は総勢十六人だ。朝夕刊合わせても三十二部、併読している者がいても精々五十部。その程度なら掃夫無しでも交代担当は充分に配達出来る」
「駄目だ。承認しない」
「何故だ。別に監獄法の枠は超えていないぞ」
皆は拮抗する双子を黙って見比べていた。熱気を伴った論争が展開された。
「二紙を購読している点、官本、私本の舎下げ冊数も充分現行法規の枠を超えている。マットレス同様にな」
「それが何かの不都合を生じさせたか。新聞には墨塗り、私本も読み終えれば領置か、宅下げ、大抵は廃棄処分になる。第一、新聞とて皆自弁購入だ。無体な要求ではないが」
「いいや、そもそも無体な要求だ。購読部数が多いというのは検閲と交付に甚大な労力と時間が掛かる。それに休日には検閲係がいない。墨塗りを施さない新聞配達は不可だ」
「では墨塗り自体を廃止すればいいじゃないですか」
急に岩本が思い付きで賢しらに応酬すると直樹は躊躇いなく拒んだ。
「当所の所内生活のしおりの『閲読の許可基準』に、閲読が不適当と判断した時は、その該当する部分を抹消する事があると記述してある。施設を運営する上で墨塗りは所内の規律維持においての鉄則だ。それ以上に、『収容者に閲読させる図書、新聞紙等取扱規程』の第三条に違反する。行刑施設は法で動く。過ぎた違法は特別処遇とて断固認めない」
これには渋い顔で全員が唸った。今までの担当であれば理不尽に不許可を押し通し、何かと言い紛せていたが今度は機知に富んだ強敵である。直樹は消えた反論に、所詮は烏合の衆だと息を抜いた。と思いきや懲りずに手向かう敵がいた。
嘉樹である。
「ならば廃棄延長を要求しよう。休日明け大量に新聞が配達されるのは仕方ないにしろ、当日の内に全てをじっくり読むのは時間が要る。『新聞廃棄は翌日』の規則を改めて延長してもらう。通らなければ就寝時間を二十三時まで超過して新聞閲読の時間に当てる」
「二十一時消灯は拘置所の規則だ。動作時限変更は許されない」
直樹は瞬く間に論じ返した。
嘉樹も時を移さず反撃した。
「ナイター中継の延長は既得権になっている」
「それは夏期の、ましてや一週間に一度の制限がある。ラジオと新聞は別だ」
「では房内所持の期間延長を認めろ。新聞の廃棄が少々遅れた所で何か困るのか」
部屋が手狭になるのは収容者のデメリットであり、強いて言えば捜検(居室捜検・立入捜索検査)に煩わしいだけである。会議の全権は正担当にあるが、何でも要求を通してしまえばよいものでない。議事録を基にした最終決定は処遇部長と所長が行う。正担当が軽率に代裁してしまった中には村上や柴田に撥ねられた項目もあり、彼らの主張が常識の範囲にあろうが
「ともかく新聞廃棄は継続する。配達された当日の新聞は従来通り翌日に廃棄処分とする」
岩本は再度嘉樹に期待の眼差しを送ったが、直樹の融通の利かなさに主宰の瞼は閉じられた。
不穏な空気が部屋一面に漂った。このままでは確実に大騒ぎになると察した鮫島は隣に警告しようとしたが、何故か正担当は顔色一つ変えずにいた。そして言葉が続いた。
「但し、日曜祝日明けの新聞閲読に関しては一日の所持延長を許可する」
住人達はわっと歓声を上げた。
月曜会議の要望が確実な既得権となるには所長印が必要で、未だ暫定的な内諾に過ぎないが、恐らく通過するだろう気分が一同を賑やかに盛り上げた。
ところが副担当と嘉樹だけは
直樹は当日の新聞は翌日に廃棄すると前段階で拒否している。つまり、溜まった前日分の閲読が一日延びたに過ぎず、当日の朝夕刊が順送りで延期にはならない。折衷案に見せかけながら巧妙な心理を突いた決定だが、喜色を浮かべた住人は早速次の望みを求めてきた。
「一一〇〇番の吾妻です。私は」
「医事ならば受け付けないぞ。薬や診療は医務課の管轄だ。処遇部の俺には権限がない」
直樹は吾妻に目を合わすなり機先を制した。と、例によって嘉樹が加勢した。
「決裁するのは村上部長と所長だ。少なくとも要望の形で伝えられる。ノロさんのマットレス使用も横臥許可も医務課の了承を得ての上だろう」
「いや、野呂は重度の慢性リウマチがある。膝の屈伸が困難だから認められた。戸外運動に支障が無い、内臓疾患だけの吾妻とは比較にならない。それにあまり診察と投薬を要求すると医務課から懲罰事犯にするよう求められる。その覚悟が有れば掛け合うが」
直樹は鮫島をちらりと覗き見た。鮫島はふて腐れて顔を背けた。
「無能な医務は誰か一人でも病死して本当の死因が世間に知れ渡ってからでないとまともに取り合わない。ま、監獄医療のシステムが外部に譲渡されない以上何百年経っても骨の髄まで腐った体質は変わりませんがね」
わははと住人が笑いさざめく中、「副担当、言い過ぎだぞ」と苦り切った直樹は気を取り直し正面を向いた。
「では次、小林か。お前は何だ」
「電子レンジを九階に入れて下さい。弁当を購入した時に温めてほしいんです。後はラジオ番組への電話リクエストをお願いします」
「──論外だ。次」
直樹は馬鹿馬鹿しさに顔を片手で覆った。その矢先またも嘉樹が異見を
「おい、黙殺するな。こっちは大真面目なんだぞ。却下なら却下の訳を説け」
「用紙を寄こせ、九二〇〇番」
「何?」
「そこには各自の要求が載っているんだろう。これ以上長丁場に付き合うつもりはない。会議の進行方法を変更する。いいから渡せ。こんな質疑応答など時間の無駄だ。速決する」
嘉樹は便箋の束を手渡した。直樹は一通り目を通してから全員を見渡した。
「今日の会議は新聞以外許可を与えられるものは一つもない。レンジなど言語道断、刑務官はコンビニ店員じゃない。一々応じていたら他の者に対する監視が疎かになる。間宮も同類の要求をしているが当然却下だ。死刑囚舎房ではラジオへのリクエストも外部との不正連絡と見なされ聞き届けられない。小堀とその他二名は捜検の廃止を訴えているが保安上無理だ。石動の面会時間延長も他の収容者との兼ね合い上難しい──後は竹之内の要求だが」
直樹は一気に不成立の理由を並び立てると、嘉樹に向き便箋を指で叩いた。
「何だ、この『刑事施設法案』の完全廃案を望む、とは」
「ご覧の通りさ」
嘉樹はさらりと返した。
処遇改善を求める会議とは全くかけ離れた提言へ直樹は眉を顰めた。
「特別処遇に関係ないだろう」
「いいや、大いにあるね。刑施法の第百十九条第二項には死刑囚のお互いの接触を禁じる旨が記載されている。法案が通ったら集会は忽ち中止されてしまう」
「だが、現在はこうして遣り取りがあるし、刑施法は既に三度も廃案になっている」
「今はな。けれど死刑囚を過小視してはいけない。誰もが何故こんな特別処遇を与えられているか百も承知だ。お前達が属している法務省が裏で仕組んでいる暗流は特にな」
壇上を凝視した主宰の顔付きは何もかもを見通しているようであった。
目を僅かに逸らし、直樹は黙って左手の甲を掻いた。
嘉樹はその仕草に気付くと皆に会議終了を告げ、一人ずつ担当と、外で待機していた警備隊員と共に退出させた。
「九二〇〇番」と、最後に部屋を出ようとする背中を直樹は呼び止めた。
「刑施法案は受刑者がいかに反対してもいずれ国会を通過する。レジスタンスを気取ってるのかは知らんが、つまらん監獄闘争など止めろ」
「死刑囚は大人しく死ねと言うのか。ここのしおりの馬鹿げた条文みたいによ」
振り向いた嘉樹は冷笑を浮かべていた。
「いたずらに悩み焦ることなく、落ち着いて生活してください」との『所内生活のしおり』の最初の注意事項を嘉樹は嘲笑っているのである。いつ首に縄を掛けられるか分からない人間に向かって落ち着いて生活しろとは随分お門違いではないか、と。
それでも直樹は厳として言い放った。
「全ては法の定め、日本国は全て法律で動く。逆らうだけ無駄だ。その内お前達は嫌という程その意味を思い知るだろう」
「法ね。ふん、何とも下らん了見だ」
嘉樹は不遜な笑みで頬の傷をなぞって言い退けた。
「俺は只では死なんぜ。死刑という悪法を未だ
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