試練 Ⅱ
「では有沢君は信書を、斉藤君は新聞の配達だ」
気付かぬ内に一階から戻ってきていた鮫島がエレベーターホールで二人に指示を与えていた。有沢は両手一杯の封書を、斉藤は三日分の朝夕刊の山を台車に積んでいた。
「副担当、すれ違いに伊瀬さんが帰っていったぞ」
直樹は掃夫達が各房へ散ったのを確認してから報告した。
「別にあんな男に『さん』付けする義理はありません。どうせ毎度の如く私を中傷していったんでしょう」
鮫島は一笑に付し、配達にもたついている有沢の手伝いへ向かおうとした。
その時、「待て、副担当」と小声で呼び止められた。
「確定五人の中で一番心情が落ち着いている者は誰だ」
直樹の問いにぎょっと鮫島は立ち止まった。
「──どういうつもりで訊いているんですか」
「夏は終わった。来るべき秋冬に向け俺は任務を全うしなくてはならない」
鮫島は身じろぎ一つせぬまま立ち尽くした。
死刑執行上申書を高検が刑事確定訴訟記録と判決謄本と共に法務大臣に提出する時期に刑事局は、非常上告の事由の有無、執行停止の事由の有無、恩赦に相当する事由の有無の三点を入念に審査し、それを基に「死刑執行起案書」を作成する。起案書が現場審査のため矯正局へ送られ、最終的な死刑執行書類は、殊に名古屋の場合、概ね年後半に届くよう調節されている。
「審査に問題がなければ起案書は刑事局と矯正局と保護局が決済作業へと移り、各部局の決済印が押されると、次に刑事局へ再度送られ死刑執行命令書に改名される。そしてその書類は法務大臣官房へと届けられ、法相がそこへサイン(押印)をすれば、直ぐにも高検に回され、遂には死刑判決確定通知書という形で施設所長の手元に届けられ、執行当日には死刑執行指揮書を作成した検察官が所長にそれを手渡して刑を執行する。違うか、副担当」
敢えて細かく継ぎ足された経過に鮫島は冷眼視した。
「呆れましたね。執行について自ら口火を切ろうとする正担当は貴方が初めてですよ」
「踏み板へ繋がるボタンにいつまでも指を置いたままには出来ない。処刑命令は必ず下る」
「はッ、私は進んで殺し屋の片棒を担ぐつもりはありませんね。大体、元兄憎しの感情で他の者まで同等に憎悪するのは筋違いではありませんか」
「奴とは関係ない。刑務官は制裁役も兼ねている。国の代理として悪を処分する。俺は竹之内でなくとも公命とあらば確定の首に率先してロープを掛ける」
直樹は決意の拳を握った。と、ここで鮫島は籠もったように
「貴方は付け焼き刃で勉強したみたいですが、肝心な所はやはり一知半解ですね。九階の正副両担当は例外を除き執行官を免除されるよう決められているんです」
初耳であった直樹は目を丸くした。
「では、副担当、君は」
「雑用以外では一度も地下へ行っていません。いわば手を汚さない事こそが国家公務員の誇りです。国家は人、ならば極悪人とて国家の一部です」
「清濁を併せ呑むよう国民に押し付けるのか」
「それが文明国たる
理想国家としての在り方まで言及してきた鮫島へ直樹は総じて大衆が抱いている心情を代弁者の如く熱く語った。
「犯罪を許容する国に発展はない。死刑は刑罰の骨幹、腐った芽は事前に摘み取られるべきだ。悪人が淘汰されるのは自然の摂理だろ」
「執行は人為淘汰ですよ」
「邪悪が滅びるのはどっちも変わらん」
「やれやれ、本当に貴方も気骨な御仁だ」
「強固は俺の信条だよ」
「あのう、全部配り終わりましたが」
二人の睨み合いへ有沢と斉藤が申し訳なさそうに入ってきた。
「ああ、ご苦労だった」
口論を止めた鮫島は掃夫を労うと二人を二階の自所執行受刑者独居へ一旦還房させるため同行していった。
「被害者でない者に被害者感情を理解しろというのが土台無理か」
直樹は担当台から各房を見渡しながら鮫島や、死刑囚を支援する雑草の会の事を一考していた。彼らの中に一人でも被害者遺族が存在するのだろうか。愛する身内が殺害され、平気で死刑の反対を唱えられる者がいるだろうか。
「おおい、誰もいないのか」
黙考を大呼で破られた直樹は廊下を見遣った。
音に気付かなかったが九一六房の報知器が知らぬ間に降りていた。
鬱陶しそうに声の元へ向えば、朝刊を読み耽る嘉樹がコーヒー入りの紙コップを焦れったく揺すっていた。
「遅いぞ、直。呼び立てたらもっと早く来い」
「随分居丈高に命令するんだな。そうやって暇に飽かして、皆を煽動してこれまでの担当を潰してきたのか」
視察孔には直樹の射竦めるような双眼がぎらりと光っていた。
「お、こんな温厚な者達に対して『潰す』とは人聞きが悪いな」
コップを置き、立ち上がった嘉樹は扉を軽く叩いた。
直樹は更に
「空々しく
「嫌がらせときたかね」
嘉樹は可笑しそうに畳に座り直した。
「罪を
「もう馬鹿話はいい。用は何だ。不要に報知器を降ろしたら懲罰だぞ」
「これを昼食後、ケルさんに頼んで第一室から順に回覧させてくれ」
嘉樹はコーヒーを飲み干すと、一枚の便箋を食器孔越しに滑らせた。
用心深く拾った直樹はボールペンで手書きしてある内容を読み上げた。
「本日、恒例のALADCマンデー・アーベントを開催致します。出席を希望する方は例会に付議する要望を便箋用紙に書き添え、回収に当たる副担当へ提出して下さい。代表・竹之内嘉樹──何だ、これは」
不法を犯しそうな集会への呼び掛けに驚愕した直樹は便箋を視察孔に叩き付けた。
「ケルさんから聞いているだろう。今夜行われる、新たな優遇権拡充を求める月曜会議の回覧状だ。俺は議長兼進行役だから要望を取り纏めなければならない──おい、そんなに目くじらを立てるな。毎週の仕事だ」
「毎週だと?」
「住人同士が手紙で遣り取りするのも特権だ。日曜のテレビ視聴の後で法律相談を受け付けるのも二十回目の会議で既得権になっている。部長も所長も公認なのに知らなかったか」
突如直樹は孤立感を感じた。確かに九階住人の、特に確定者は法に詳しかった。その状況を作り上げたのは全て嘉樹のアドバイスが原因であったが、一堂に会して法律の抜け道を模索していたとは思いも寄らなかった。大体死刑囚に法律などを教えたら刑務官の任務が煩わしくなるばかりか、死刑囚の心情安定に差し障りが出て執行にも影響が出る事くらい矯正局とて予想しているはずである。それでも容認しているのは実検結果を求めての理由なのであろうが、現場を受け持つ刑務官からすればとても了承出来る話ではなかった。
「気付いてみれば一人蚊帳の外か。それでよくぞここの正担当を引き受けたもんだな」
無口になった直樹を見て嘉樹は嘲ら笑った。
直樹はかっとなって言い返した。
「黙れ。名指したのは貴様だ。俺が好きで希望したとでも思っているのか!」
「嫌でも引き受けたんだろ。宮仕えの
嘉樹はケラケラと笑い転げた。直樹は逆上し、扉を蹴破りたい衝動に駆られたが、この手には乗らないよう息を整え再び無表情に戻した。
「用件はそれだけか、九二〇〇番」
「今の所はな」
嘉樹は依然として笑い続けていた。
直樹は回覧用紙を苦々しく握り、九一六房の報知器を指で押し戻すと担当台へ向かった。
(特権、優遇、免除。人殺し共に何故人間並みの権利を与える必要があるんだ)
本来名拘ではアンケートで選ばれた日刊通常新聞紙二紙とスポーツ新聞等の特別紙二紙の内、拘置所に選択された中日新聞と中日スポーツ新聞しか購読を許されていないが、それ以外に朝日新聞や毎日新聞、日経、産経新聞の購買記号もプレートに複数部表示されていた。胸糞が悪くなった直樹は廊下の床を思い切り蹴り付けた。
「主任代理、無神経に大きな音を立てないで下さい」
顔を上げると階下から戻ってきた鮫島がいた。右手に丸めた紙筒からは風景写真と明朝数字が垣間見え、左腋には青色の分厚いファイルが挟まれている。
直樹は煩わしく意見する鮫島を敢えて無視した。
すると副担当は手の筒を直樹の喉元にヒュッと突いた。
「確定者にとって今は『魔の時間』です。どうかご静粛に」
柔道に抜きん出た有段者の直樹だが、得物を持つ者には反応しきれず、皮一枚の寸止めに息を凝らした。
魔の時間とは朝食後から午前十時までの「死刑執行へのお迎え時間」を指す。その凡そ三時間、確定者は担当の一挙手一投足に異常な程神経質になり、人によっては靴の音の差まで聞き分けられるくらい聴覚が研ぎ澄まされる。
「彼らの心情安定に腐心するならこの時間には特に気を配って頂きます。よろしいですね」
直樹は諦めた眼で了解した。ならば結構と、鮫島はいつもの悪童の笑みに返り、「教授、教授」と鼻歌を口ずさみながら西の房へ足を進めた。
「やあ、教授。許可された点字カレンダーがやっと仕上がったよ」
鮫島は後ろに直樹がついてきているのを確認すると、坂巻の房を解錠し中に入った。
「すみません、先生。何から何までご面倒をお掛けして」と坂巻は頭を下げた。
「他ならぬ教授の頼みなら断れんさ」
「そうですか、他の方でも同じように聞き届けて下さるでしょう、鮫島先生なら」
「ははは、地獄耳は相変わらずだ。それよりカレンダーはたった今房の北壁に貼ったからな。写真はなかなか勇壮だぞ。弁天崎から漁船が何十艘も大漁旗を掲げて沖から帰港している。昇ったばかりの朝日が水面と漁師をオレンジ色に染めている」
中途視覚障害者の坂巻には景色が見えない。そのため鮫島は分かりやすく写真の説明をして、坂巻がかつて見ていただろう記憶へ語り掛けた。
「ああ、そこは故郷の的矢です。私のために探して下さったんですね」
嬉しそうに坂巻はカレンダーへ向かい虚空に手を伸ばした。
鮫島は説明を足した。
「今はインターネットがある。写真転送とカレンダー加工は難しくない。礼なら点字ボランティアの人に」
「いいえ、墨塗り代わりにシールが貼ってあるのは先生のご尽力あっての事です。点字新聞のお陰で私も世間の情報を得られます」
「国が定めた基本的人権は塀の中にも生きている。遠慮せず何でも要望するといい」
「副担当、そろそろ入浴じゃないのかね」
この階では私語が許されているとはいえ刑務官は官吏、国で裁きを受けた死刑囚とは相対する存在で、無用に慣れ親しむのは業務違反だと信じてやまない直樹はいつまでも続きそうな駄弁を遮った。そして浴室に連れ出そうとする鮫島を手招きし、嫌悪感を湛えた顔つきで尋ねた。
「まさか運入も毎日あるんじゃないだろうね」
既に
鮫島は腋に抱えていた綴じ込みファイルを差し出した。
「そうそう忘れていました。そんな風に仰るのではないかと先程待機室から持ってきたんです。中には今までの既得権が記されています。ご参考にどうぞ」
「用意周到だな」
「機転が利かねばこのホテルには住めませんよ」
鮫島はこめかみを指で叩くと、いつの間にか後ろに付き従っていた阿佐田と共に一室から順に浴室へ連れて行った。
「刑務官がホテルマンになってはお終いだ。しかし、酷いな、これは」
担当台に戻った直樹は「九階定例会議議事録」と題されたファイルをテーブルの上で広げながら腹立たしさを覚えた。
交談の自由、日中の座位の自由、許可された貼り紙の自由、マットレスの使用、舎下げ品の増加、私本の購入制限の撤廃、ラジオ時間(特にナイター中継)の延長、惣菜・飲食物の購入金額の引き上げ(四千円)、集団教誨(茶華道講義)の倍増、文房具購入の自由化、願箋無しの読経自由などページを捲る度に一般収容者には到底与えられない破格特典のオンパレードが広がっていた。
これでは自由を拘束して省察を迫る行刑施設の意義に欠ける。
だが、叶った要望に対し、議事録の最後に必ず処遇部長と所長の認証印が押され、その数はアーベントそのものが正式に認可されてから月を追う毎に増加していた。
という事はこの膨大なデータは間違いなく矯正局へ伝えられているはずである。
直樹は奇妙な感じを受けた。
法務省は一九六三(昭和三十八)年、矯正甲第九十六号通達、一般に言う「六十三年通達」により死刑囚の接見交通を四十年近く制限してきた。
ところが、隠されていた死刑囚への実態が暴露され、加えて刑務所暴行事件が連鎖的に発生し、法務省に対して野党から攻撃が飛び交った。国会で槍玉に上げられた溝口は新行刑改革で打ち出した死刑囚処遇改善を改めて公言せざるを得なかった。また矯正局関係者も「前向きに検討致します」と口を濁し決して内容には触れなかったが、死刑囚を預かる施設だけには密かに所内規則緩和の内命を出していた。
その処置はある意味適正であったかもしれない。国民は結局塀の中には無関心で、改善した一面を示せばやがて納得するだろうとの目論みは見事に的中した。
しかし一足飛びに締め付け処遇に戻る訳にはいかず、今は刑事施設法案が通過するまでの意図的な沈黙なのである。その証拠に局は死刑囚に対し信書・面会だけには絶対的な制約を設けている。これは即ち法案が施行したらいつでも以前の状態に戻れるよう仕組んだ罠であり、死刑囚は裏事情に気付かず、知らぬ内に心情を安定させていく。
現在実験段階の待遇内容を選出しながら、期を見て公表し、世論に行刑の改革結果を強くアピールしつつ、その後一気呵成に刑事施設法案の通過に持っていく腹なのであろう。
だが、重要なのは陰に潜んだ後件にある。
それは赤煉瓦組から外れた場合の保険ともいえる法務大臣への触手伸ばしで、政界に強力な親類を持つ溝口にとって充分見込める事であった。
死刑囚だけに特権を与えるのは計り知れないメリットがある。そこには当然予算が絡んでくる。
死刑囚は数が少ないため、どれだけ我が儘を言い散らしたところで少額で済むが一般受刑者も同様に扱えばそうはいかない。溝口は少ない
刑施法は前述したように受刑者の行動や権利を押さえ付けるもので、一例を挙げると第七章「規律及び秩序の維持」の第三十八条第一項・二項には「①刑事施設の長は、法務省令で定める基準に従い、被収容者の地位の別に、刑事施設の規律及び秩序の遵守すべき事項を定める。②前項のほか、刑事施設の長又はその指定する職員は、刑事施設の規律及び秩序を維持するため必要がある場合には、被収容者に対し、その生活及び行動について指示することが出来る」と明記してある。
一見すると何気ない文章だが、これこそが主幹と断じても過言ではない。
第一項では、どんな規律を作成しても法律で認められている以上受刑者にはクレームが付けられない。それに施設の長に遵守事項の権限を委任するのは朝令暮改になりやすい。二項では規律を乱した受刑者には指示の名目で刑務官の処罰が待ち受けている。今までは監獄法に載っていない理由で訴えられた項目も簡単に退けられる。法案には一応形式的に施設の長と法務大臣への苦情の申し出の条項も盛り込まれているが、現在の監獄法ですら機能していない法律が刑施法に変った途端改善されるとは考えにくい。
つまり矯正施設にとってこれほど曖昧で都合の良い法律はないのである。
警察へは治安維持が、行刑には徹底した受刑者の更正が望まれるのは言を
警察官が悪事を働いても、刑務官が暴行を犯しても長期間問題視されないのは国民の根底に根付く罪人へ対する不安故であり、不況下に置かれた今、重要犯罪が激減するとは予想されず収容人口が膨れ上がるだけの施設には強力な締め付けが不可欠となる。
検挙率が下がっている警察が当てにならないならば再犯を予防するしかない。
弁護士も法案に対抗するが、洗脳された世の流れには敵わないだろう。溝口の従兄弟には衆議院議員一の雄弁家と目されている新堂剛がいる。溝口が折に触れ彼と接触し、法案通過への対策と時期を練っているのは間違いなく、国会の公開討論会で溝口を援護していたのは新堂であった。
安全は無料とする国民には人権の概念は受け入れられ難い。自分が国の基盤との意識より国家に絶対的に護られている気持ちに支配されているから法律と戦うなど悪に等しいと恐れているし、法そのものに関心はあっても直接係わるのを嫌う。それに受刑者向けの法案に関与出来る行動も限られ、最終的に議員の賛成多数を取り付けた者が勝利するのが現実である。
直樹は溝口昌資という男と司法権力の巨大さに今更ながら途方もない畏怖を抱いた。
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