第三章 試練

試練 Ⅰ


 九月十六日、午前六時四十分、九階。

 敬老の日と三連休が明けた火曜日、直樹は正式に死刑囚舎房正担当の任へ就き、この時になって初めて前任と引き合わせされた。

 井上はまさに「魂の脱殻ぬけがら」でしかなかった。

 嘗ては名拘柔道部のエースであったらしく、小幡が持ってきた大会のスナップでは豪快に片手で大きな優勝旗を掲げているのだが、眼前の看守は小学生でも一本取れてしまうのではないかと錯覚する程軟弱に痩せ衰え、陽炎のように小刻みに揺れていた。

「主任代理。早いですね、今日からよろしく」

 井上が階下へ去ると同時に鮫島が敬礼もなく飄々ひょうひょうとした体で担当台へやってきた。

 相変わらず掴み所のない男だと、直樹も適当に「よろしく」と返した。

「それはそうと、副担当。新しい掃夫の件なんだが、村上部長から何か聞いてるか」

「さあ」と鮫島は首を傾げた。どうやら誰にも未だ知らされていないらしい。

 矯正局が関わっているのに不用意な見切り発車で果たして大丈夫なのかと一抹の不安が過ぎった直樹であったが、今更泣き言を吐いても仕方なく気分を切り替え朝一番の業務準備を始めた。

 そうこうしている内に七時を告げる鳥のさえずり音声と共に起床音楽が流れ、房のあちこちから物音がした。

 七時三十分からは朝の点検が開始される。死刑囚のスケジュールも一般収容者と変らず点検までに布団を畳み、パジャマを着替え、洗顔をし、簡単な清掃を済まさねばならない。

「では、回ろうか」

 携帯のアラームが三十分を告げると直樹は点検簿を手にした鮫島へ掌を振った。名簿には人相写真、罪名、刑名、裁判確定日、本籍氏名と生年月日が書き込まれており、囚人番号とを照らし合わせ所在を確認する。

「点検用意!」

 副担当は廊下の端まで届く大声を発し、直樹の先頭に立って南端の房へ向かった。

「一室!」

 解錠された九〇一房から鮫島は部屋の状態を窺いながら声を張り上げた。

 中ではジャージの上下を着た岩本が扉に向かい正座していた。

 名拘では朝夕の点検時には所定位置で扉に向いて正座か安座で刑務官の見回りを待たねばならない。また、朝の点検時には部屋番号を呼ばれると収容者は自分の姓名を名乗り、夕刻の点検時には自分の称呼番号を返答せねばならない規則がある。

 彼は規則に則り、「岩本庄司です。おはようございます」と礼儀正しく返答をした。

「うむ、おはよう」

 直樹は室内に異常が無いかをさっと目視で確認すると軽く挨拶を返し、施錠をし、今度は第三房へ足を向けた。

 一一〇〇番の吾妻宗男も岩本同様丁寧な動作で点呼を受けた。八房の小林も一三房の石上も寝乱れ髪が目立つものの張り合い無いくらい従順で、鬼門の噂は所詮偽りではないかと直樹はすっかり緊張を解いた。

「いけませんよ、甘く見下げては。貴方の出方次第で皆態度を豹変させるんですから」

 房と房の間で鮫島が正担当の脱力しきった顔に注意した。

「俺の出方で?」

「ええ、我々はいわば競馬場の下見所パドックの馬です。サラブレッドか駄馬か住人の審査は厳しい。ま、通常より大人しいのは貴方が嘉さんの弟という遠慮もあるんですけど──と、噂をすれば九二〇〇番です」

 鮫島は九一六房の前で立ち止まった。確定者マークの付いた札には「竹之内嘉樹」の名前が見えた。懲罰期間を終え保護房から本来の房に戻されていたのである。

 直樹は鮫島の代わりに怒鳴り付けるように点呼を取った。

「九一六室!」

「竹之内嘉樹です。おはようございます、直樹先生」

「──馴れ馴れしく名前で呼ぶな。その馬鹿げた笑み顔も止めろ」

 死刑囚らしからぬ恵比須顔を浮かべる嘉樹に直樹は小癪に障って命令した。

「いやあ、顔は生まれ付きですから、文句を言われてもねえ」

 嘉樹は微笑を保ったまま答えた。直樹は同一の容姿をわらわれ、更なる激情を煽り立てられたが冷徹に、「これからは不必要ににやけるな」と、それ以上言葉を掛けず他の房へ向かった。

 鮫島はというと双子らしからぬ舌戦が愉快なのか、他の点検中にも忍び笑いをしていた。

「そんなに可笑しいかね、副担当」

 西側の廊下に移動して直樹は口端を吊り上げた。

「失礼。まるで前哨戦の幕開けかと」

「別に本戦にもならんよ。それより野呂は体調でも悪いのか。まだ起きていないぞ」

 部屋番号を呼ぼうとしたが妙な房内の静けさに直樹は違和感を覚えた。視察孔から確かめるとマットレスの上に敷かれた布団にくるまっている老人の萎びた足裏が見えた。

(全くこの爺さんは、ルールってものを知らないのか)

 忽ち直樹は苛立った。起床時間を守らないのももちろん、この所内では枕の位置は常に扉へ向いていなければならず、この段階で二つも違反が重なっているのである。

 それでも鮫島は叱りもせず無頓着に点検簿にチェックを入れ爪先の向きを変えた。

「ノロさんならいつも朝飯の頃には目を覚まします。さ、次へ行きましょう」

「ちょっと待て。どうして規則違反を見過ごすんだ」

 さり気なく様々な事柄を看過する鮫島の肘を直樹は掴んで引き留めた。

 鮫島はグイと腕を強引に離して、今更何を、とんだ目で見返した。

「これはノロさんへの特別処遇です。ですから朝食まで寝かせてやらねばなりません」

「そんな馬鹿げた特例があるか。手緩い措置は認められない。叩き起こす」

 と、解錠の鍵をもぎ取ろうとする腕を今度は鮫島が握って制止した。

「とんでもない、駄目です。貴方も矯正局からの内旨はお聞きになっているでしょう。あれは監獄法の粋を出ない限り出来るだけ便宜を取り計らってやれとの意味です」

「だが、優遇してばかりでは無法地帯になってしまうじゃないか」

「九階は普通の獄舎ではありません。特別区では彼らが主なんです。第一、無法地帯に見えますか。この階では次々と願い事の呼び出しを受けます。物品関係、特別購入願、私本特別購入願、継続願など多岐に亘ります。勿論選別はしますが、大抵は聞き入れてやる必要があります」

「馬鹿げている。不本意だ。他の階の者はとても信じられんだろうよ」

 直樹は苦々しく副担当の腕を振り払った。

 鮫島は沁々しみじみと内意を述べた。

「一般収容者はいつの日にか出獄しますがクラウド・ナインは別です。だからせめて世間並みの恩情を与えるべきだと思いませんか」

「とても元検事らしくない発言だな」

 検事は犯罪を捜査し、公訴を行う行政官で立場はむしろ警察寄りである。鮫島も検察官時代は重い罪を求刑してきたはずであり、元とはいえまるで正反対の弁護士のように擁護に撤する様は直樹へは異様に感じられた。

「ふん、今は一刑務官で、ここの副担当です。もはやB行きに首肯する気になれませんね。貴方もやがて死刑廃止論者アボリッショニストになりますよ」

「いいや、俺は揺るぎ無き死刑存置論者リテンショニストだ。情も入れないし、考えも変わらんよ」

「私も最初はリテンでした。けれどアボに変った。死と向き合う人間に動じない者は誰一人いません」

「だったら俺が唯一の例外となるだろう」

「ま、リテンの方は決まってそんな虚勢を張るんですがね」

 頑として主張を曲げない直樹に鮫島は軽い溜息を零した。そして九二七房に声を掛けた。

「九二七室」

「坂巻敦夫です。お早うございます、東先生と鮫島先生」

「うん、よろしい。坂巻は惰眠を貪る野呂と違って規則正しいな」

 盲目にも拘わらず定位置で頭を下げる態度に直樹は満足したが、各人の特別処遇を知り尽くしている坂巻は、正副担当の間に意思疎通が出来ていないのかと困り果てた面を上げた。

「東先生、ノロさんは頭痛持ちですから熟睡出来ないんです。朝が弱いのは大目に見てあげて下さい、鮫島先生、まさか処遇が変わったのではないですよね」

 心許無く懇願された鮫島は穏やかに答えた。

「大丈夫、何一つ変わっていないよ。心配せずとも横臥はノロさんの特権だ。それと教授も遠慮無く願い事を正担当に頼めばいい。可能な限り聞いてもらえるから」

 すると坂巻はほっとしたのか今度は至極神妙な面持ちで直樹へ訴えた。

「ならば早速。私の無実を晴らして下さい、東先生。雪冤せつえんこそ私への最高の特別処遇です」

「あ、いや──それは、だな」

「くっ」

 詰まった返答に鮫島は愉快げに含み笑いをした。

 坂巻独特のジョークと知った直樹は機嫌を損ねそのまま石動の所へ進んだ。

「九二八室」

「石動礼二」

 点呼を素直に受けた石動は赤いポロシャツを着て正座していた。

「今日から正式に担当だ。俺も前任と同様厳正に臨む」

 直樹は相変わらず真っ直ぐ差す視線を受け止め、硬い顔で睨み返した。

「東さん」

「何だ、石動」

「いや、何でも」

 石動は再びごつごつした背中を曲げた。と同じくして残念そうな副担当の舌打ちが漏れた。直樹から直ぐ鋭い眼光を向けられた鮫島は施錠し、何食わぬ顔で次の房へ向かった。

「ヨナさんは我々を決して先生扱いしません。敢えて苗字で反応をうかがうんです。仮に『先生と呼べ』と井上みたいに命じたら、一遍に敵視されますからね」

「ふふん、その程度だったら可愛いものだ。多分こいつが一番あくどい」

 最後の九三三房に直樹は顎をしゃくった。

「おはよう、ケルさん」

 大欠伸するだらしなさに慣れているのか鮫島は別段気にも止めず、「おはよう、殿下」と点検簿にチェックを入れた。寝腐ねくたれたパジャマを羽織り、子供のように眼を擦る様に直樹は堪らず声を張り上げ指導した。

「間宮、点呼の時ぐらいしゃんと座れ!」

「あ、直さん。お早う。そっか、今日からだっけ」

「貴様、俺を──」

 舐めているのかと怒鳴ろうとしたら、鮫島に裾を引っ張られ、「特別区、特別区」と囁かれた。「特別区がそんなに偉いのか」とぶちまけたくなったが、これは矯正局の絶対命令である。直樹は怒りを抑え腕時計を見た。

「早く着替えろ。もうすぐ朝食だ」

「はあい。あ、ところでケルさん、恩赦おんしゃは降りてきてないかな」

「ううん、未だみたいだねえ」

 鮫島は残念そうに肩をすくめた。

 復権、刑の執行免除、そして減刑を与える恩赦は「政令恩赦」と「個別恩赦」に分けられる。前者は国家的慶事や弔事の際に内閣が政令により判断するもので、後者は法務省保護局内の中央更正保護審査会にいつでも出願出来る。

 間宮は次いで直樹へ目を移した。

「直さんもとっくに知ってるだろうけど僕が待ってるのは政令恩赦の方だよ。ほら、今度、二笠宮の次女が早々と結婚するらしいじゃない。記事にも大きく取り上げられている」

 これ見よがしに週刊誌のページを広げる間宮を直樹は黙って観察していた。

「何たって間宮家はん事無き二笠宮家と遠縁なんだもの。結婚式から恩赦に浴するのは間違いないんだ。そういうわけだから、諸君はハイソサエティーの僕にそれなりの敬意を表するように。分かってるね、鮫島君」

「はっ、畏まりました。さあ、主任代理、もうすぐ配食ですよ。殿下、我々は次なる務めがございますのでこれにて失礼致します」

 慇懃いんぎんにお辞儀すると鮫島は直樹の背中を押し房から離していった。

 直樹は間宮の言動に二の句が継げなかった。

 行方不明の先祖を無理矢理大名や朝廷に結び付けるのが得意な系図知りが適当にこしらえた偽物を、そしてまた皇太子でもない皇族の結婚式で政令恩赦が残忍な死刑囚に降りる事を間宮は心底信じていたからである。

 加えて政令恩赦が死刑囚に適用されたのは一九五二年のサンフランシスコ条約批准時が最後で、それ以降その恩赦が死刑囚に関与した事例など一件も存在しない。第一、その時の恩赦とて減刑されたのは単純殺人に限られ、強盗や強姦などが絡んだ殺人罪には当てはまっていないのである。

「そもそもいかさま家系で恩赦を期待している事自体が、気が触れているとしか考えられん」

 直樹は小声で鮫島へ不満をぶつけた。鮫島はまあまあと宥めて現場の事情を教えた。

「その系譜が最後の支えなんですよ。例え確定者に政令恩赦が適用されにくくともです。減刑を願い再審請求している者も何かしら頼みにするものは持っています」

「つまりは執行されるのが怖い、と」

「そりゃそうでしょう。人間ですから」

 鮫島は当然との視線を投げた。

 逆に直樹は片頬を上げて嫌味を吐いた。

「ならば殺された被害者はもっと怖かったろうよ。冥福も祈らないで自分の命乞いだけはするのか。何て身勝手な野蛮人どもだ」

「それでもここの住人を害獣、鬼畜の類で処遇するなと村上部長から告諭されたはず。私も同意見です。しっかり覚えておいて下さい」

「分かっているよ、建前はな」

「では朝食の準備に取り掛かりましょう。ほら、中央に新しい掃夫も来ているようですよ。急ぎましょう」

 担当台に首を向けるとそこには村上部長と、大きなマスクで顔を覆い、白い帽子とエプロンを着た二人の雑役夫が配食用容器を乗せた台車のハンドルを掴んでいた。

「点呼は終わったかね」

「はっ、只今終了致しました」

 急いで駆けつけた正副両担当は村上に敬礼と報告を済ませた。

「よろしい。ああ、朝食前に舎房衛生夫を紹介しておこう。ま、二人ともここで東君が深く関わった人物だから今更引き合わせも無いだろうが、鮫島君の手前一応な」

「名拘での私の知り合い、ですか」

 直樹は面食らって二人の掃夫を凝視したが、帽子とマスク越しなので正体がはっきりしない。直樹は様々な未決収容者と可能な限り丁寧に接してきたので、模範囚となるような親しい者と示唆されても特別に思い付かなかった。

「お久し振りです、喜多野先生」

 と、不可解に見つめる直樹へ最初に帽子とマスクを取り、坊主頭を示したのは喧嘩騒ぎで一揉めあった斉藤宗二であった。

 直樹は驚いた。

「斉藤! お前、判決が下りて名刑にいたんじゃないのか。その刈られた頭なら」

「それが、矯正局特命とやらで呼び戻されたんです。事情を聴かされた時は私も吃驚しましたけれど、東先生にはお世話になりましたから喜んで雑役を勤めさせて頂きます」

「ならば、もう一人の掃夫とはまさか」

 直樹の驚きに残りの男も老いた笑面を顕した。

「キタノからヒガシとは存外安直ですね」

「有沢!」

「先だっては大変お手数をお掛け致しました」

 有沢恒蔵は岡崎の時と同じように深々と頭を下げたが、直樹は釈然とせず即座に村上を問い詰めた。

「部長、これは一体なんです。有沢は未だ未了の身なんですよ。あの逃走の件も九十七条(単純逃走)か九十八条(加重逃走)か取り調べの最中ですし」

「東君、君は『雑役は模範囚から選出される』概念に囚われ過ぎだ。有沢君の裁判とて長期化はしまい。それに君に恩義がある両名ならば決して他言はしないと踏んで私が特別に選んだ。彼ら以上の適任は見当たらるまいよ」

「それは、確かにそうでしょうが」

「私達を信頼して下さい、東先生」

 答えあぐね、互いを見つめる直樹に二人は声を合わせた。

「──お前達はここの、色々込み入った事情を知っているのか」

 事情とは嘉樹の件である。有沢と斉藤は共に首を下げた。

「そうか、では頼む。お前達なら正直俺も心強い」

 恩人から認められた両者が嬉しそうに微笑むと直樹は鮫島へ向いた。

「副担当、聞いていただろうが紹介する。こっちが有沢恒蔵、そっちが」

「知っています。斉藤宗二君。昏睡強盗で三年の実刑判決」

 鮫島は、一驚して村上に顧みる直樹へにやりと内情を口にした。

「刑事事件への興味は貴方だけの専売特許ではありませんよ。さて、配食立会はいしょくりっかいは私がやりますので主任代理は担当台についていて下さい。じゃあ、斉藤君、有沢君、行こうか」

「配食~」「配茶~」というマスクを掛け直した有沢と斉藤の間延びした声で、おかずと麦飯、みそ汁、湯茶の容器が積まれた台車がガラガラと音を立て一室へ向かっていった。

 因みに配食立会は掃夫が配食の際、量の差が出ないよう職員が立ち会う業務を指す。

 村上は感慨深げに評価を添えた。

「元検事なのにクラウド・ナインに溶け込んでいる。君とは最良のコンビになるだろう」

「アボでなければ、或いはそうかもしれません」

 法律に詳しくて適応能力が高くても死刑廃止論者は自分にとって一番の敵である。直樹は不機嫌そうに鮫島の背中を見た。それでも村上はきっとそうなるだろうとうなずいた。

「初めは彼もリテンだったしね。厳罰主義を掲げる検事ゆえにもっと辛辣で強硬だった。しかし、ここにはどんな硬い鉄も溶かしてしまう、人知れぬ深い苦しみや悲しみがある。鮫島君は一年もしない内にそれを理解した。だから長年勤めている」

「九階以外の配置替えは無かったんですか」

「一度検討されたみたいだが、いなくなると聞いた途端住人が荒れてね。直ぐ撤回されたようだ」

「どうして正担当ではないんですか、六年もいて」

 直樹は素朴な疑問をぶつけた。

 村上は力強い笑みを浮かべた。

「彼の要望だ。自分は長く滞在し過ぎて都合が悪い。この階には新風が必要だとね」

「しかし、今までの正担当が潰れる前、副担当は何の協力もしなかったのでしょう」

「いや、アドバイスはしたが鮫島君に逆らった者は自然と排斥された。井上君もそうだ。離任した者は挙って存置の立場で大上段に構えていた。東君、話は少し逸れるが刑の執行の責任者は誰だね」

 刑の執行とはこの階の場合死刑を指す。刑務官なら誰であっても知っている幼稚な事実を敢えて尋ねる村上に直樹はそれでも礼儀正しく受け答えをした。

「無論、法相です」

「そうではない。私が述べているのは現場の話だよ」

「現場の?」

「一番重責を担うのは君達舎房の担当だ。ゼロ番区の任務は確定者の心情を安定させるのが主だが、日々の様子も逐一報告する義務がある」

「あ!」

 九階の報告書は死刑執行を左右する答申書に繋がる。地下行きを決するのは担当次第に依ると直樹は改めて気付いた。村上は続けて説明した。

「正担当になれば否応なく書類に一番の責務を持たねばならない。故に鮫島君は九階に常任すると決められた際、所長に副担当だけとする条件を突き付けた。それが今でも申し送りされている」

「最前線で執行を否定しているのも妙ですね」

「制度を存続させ執行は反対との声もある。だが、無情にも執行日は必ず来る。肯定しつつ否定するのは矛盾で叶わぬ夢だが、鮫島君なりの反逆なんだろう」

「しかし、副担当自身も先に明言したはずです。『確定者には我々刑務官は憎んでも余りある存在だ』と。結局全員地下送りにするなら情などむしろ邪魔になりませんか」

「ふう、今は何を教えても解るまいな。とにかく確定の者達は執行に陥れてやろうと企む担当の気配には敏感だ。結束して楯突くし、最大限に求めてくる。君も心を折られぬよう重々気を付けなさい」

 念押しに似た警告を言い残し、村上は到着したエレベーターで階下へ降りていった。

 それでも直樹は全く納得していなかった、今までの担当は根性が足りなかったか、又は法的な知識が浅くて対応しきれず潰れたと洞察していた。

 刑務官は精神と体力の両方を強靱に兼ね備える必要がある。その上で法律に明るくなければ収容者に振り回されてしまう。死刑囚舎房は一般の舎房より自由勝手な傾向が強いだろうと予測出来るが、基本相手も犯罪者であれ人間であり、普段のように任務をこなしていれば村上が危惧するような事態には陥らないに違いないと直樹は考えた。

「かなり良い食事が出されているんですね」

 暫くすると食事を配り終わった有沢と斉藤が鮫島へ話し掛けていた。

「湯茶も出涸でがらしでなく冷たく濃い麦茶だし、雑居に比べてみそ汁の具も多い。ここだけ三等食に増菜してある噂は本当だったんですね」

 担当台へ寄ってきた掃夫へ直樹は鮫島に含ませるよう嫌味たっぷりの顔を上げた。

「これだけの待遇の差だ。どう感じる」

「まあ、羨ましくはありますが」

 斉藤が包み隠さず胸の内を明かすや直樹は、そらみろと副担当へ睨む視線を遣った。ところが逆に、有沢は遠慮がちの小声で反対意見を漏らした。

「でも、ここの人はいつ居なくなるか分からんのでしょう。ならばもっと上等な品でもいいと私は感じます」

 今度は鮫島が勝ち誇った笑みで返した。

 癪に障った直樹は不機嫌に二人へ言い付けた。

「お前達もさっさと飯を食え。終わったら皿下げに行くぞ」

 行刑施設の食事時間は十五分から二十分と短い。有沢と斉藤は空いた房でかき込むようにして朝食を済ますと「下げ~」と声を廊下に出し、二手に分かれ容器回収を開始した。

 有沢は直樹の後へついて残飯を集めた。本来皿下げは雑役の仕事だが、直樹は死刑囚舎房以外でも収容者の健康状態を計るため残飯の量に目を光らせていた。

 そんな直樹へ九一六房から非難が飛んだ。

「おい、直。今日の新聞はなんだ。小判も猫またぎも薬臭い。業者を変えろ。蜂の巣も鉄火箸も生煮えだぞ」

「炊事夫は素人ながらみんな一生懸命やっている。嫌なら食うな」

 ぶっきらぼうに直樹は前を通り過ぎた。報知器も出さず、通りがかりの刑務官に声を掛ける事自体が違反であるのに、一々批判までするのは特別区と見なされていても腹立たしい。

「東先生、今のが」

 視察孔から興味深げに中をちらりと覗き込んだ有沢は冷静に振る舞う直樹の横顔を見た。

「──竹之内だ」

「正真正銘に双子なんですね。頬の傷がなければ入れ替わっても判りません」

 配食の時にはしっかり見えていなかったが、ちらりと瓜二つの容貌なのを認識した有沢は心底驚き入っていた。直樹は思わず責め付けた。

「止めろ、あんな下らんヤクザと俺を同列に見るな!」

 二人の確執は前もって聞かされていたがこれほど凄まじいとは想像していなかった。

「す、すみません。ところで、さっきの新聞とか猫またぎとは何ですか」

 有沢は似気無い怒りに首をすくめ、話を変えた。

 直樹は忌々しそうに教えた。

「新聞はおかず。小判は沢庵、猫またぎは蒲鉾かまぼこ、蜂の巣と鉄火箸は蓮根と牛蒡ごぼうの囚人用語だ。奴は前科をくらったからその時に覚えたんだろうが、戯けた符丁だ」

「私も覚えた方がいいですか」

「必要ない。その分自分の裁判に気を回せ。お前はここの手合いのように檻の中で生涯を閉じてはいけない人間だ。後はいいか、掃夫を利用しようと目論む者もいるだろうが絶対に手なずけられるな。強要や脅迫をされたら全部報告しろ。全部俺が対処してやる」

 平生の穏やかさに戻った直樹へ有沢は安堵して頷いた。

「けれど、こうして残暑に冷房が効いているのは快適ですね」

「この階の特権だから勝手に切る訳にもいかない。予算で動いている行刑には光熱費も馬鹿にならんのに堪らんよ。ややもするとここの皺寄せが一般未決の風呂の回数を減らすかもしれんのにな」

「それは勘弁して欲しいですが。でも、この人達は汗もかかず、洗濯物も減って助かるんじゃないでしょうか。新しい上着を舎下げせずに済みますし、風呂が一週間に二度でも気になりません。どなたか存じませんが、監獄の環境を熟知した人の提案なんでしょう」

 直樹は有沢の盲点を突いた推考に瞠目したが直ぐ思い直した。

「偶然の産物だ。奴はそこまで狙って要求したんじゃない」

「奴?」

「いや、それより向こうは皿下げを終えたようだ。俺達も急ごう。斉藤、食べ残しの目立った者はいたか」

「はい、九二五房が半分残しました。ポテトサラダと卵焼きは奇麗に平らげていましたが、お粥は一口箸を付けただけです」

「野呂か。何か喋ったか」

「少し聞き取りにくかったですが、粥が固いとか」

 直樹は野呂の房の入口に「病人食」と掲げられたプレートを思い浮かべ、ふんと鼻息を吐いた。もはや病房と化しているが憎まれ口を叩けるならば心配ない。大体病人食は普通食の最後に配るから必然お粥も冷め糊状に固くなるし、何より死刑囚には火傷をさせないよう熱い食品や湯は出さない不文律がある。

「保温ケースでもあれば暖かいまま皆に配食出来るんですがね。溝口局長の行刑改革も外装工事で終わりそうだ。情けない」

 聞き耳を立てていた鮫島が独りごちた。

 即座に直樹は反論した。

「局長は検事出身だから収容者に厳しいのさ」

「それは私への面当てですか」

「甘くすれば図に乗る。断固たる処置も必要だ」

「私は何も施設を無くせとは言ってません。我々の実生活に近付けた等し並みの処遇をしているだけです。それが主任代理にはお気に召さないようですね」

「いみじくも矯正はめて正すと書く。住人は真っ直ぐな麻の中でもひねくれ育ったヨモギだよ。鍛冶屋のように曲がった物を力尽くで叩き直すのが俺達の仕事だ」

「であれば『つのを矯めて牛を殺す』の譬えはどうです。曲がったものが美しい工芸品も数多くありますし、ハンマーが正しい道具とは限りません」

「正しいのさ。重罪人には何の芸術的価値もない。欲望で醜く湾曲しているだけだからな」

 するとここで平行線の議論に唖然あぜんと立ちすくんでいる掃夫に気付いた鮫島が、「際限がない。もう止めましょう」と打ち切った。

「これより私は斉藤君と有沢君を連れて新聞の受け取りに行ってきます」

「うん、あれは午後じゃないのか」

 行刑施設における購読された朝刊には必ず検閲が入り、墨塗りを施されるため配達されるまで時間がかかる。尚、新聞の墨塗りは、反社会的な内容や性的描写、自殺関連の記載など所内の秩序を乱すおそれのある箇所が標的となる。

 つまり検閲係の職員が目を通して先ず見本の一部に墨塗りをしてからそれを元に他の職員が機械的に同じ箇所を墨塗りしていくため、午前中の配達は先ず考えられない。

 鮫島は理由を明らかにした。

「九階の特別処遇です。この階の新聞だけは一番初めに検閲されるんです。それに身分帳でもご存知でしょうが、ここの皆は誰も請願作業(自己契約作業)を希望していないので余暇時間もそのまま時間が空いているんですよ。新聞を読むには良い時間でしょう」

 直樹はもはや溜息をつくのにも飽きた。

 請願作業をしないのは外部からの援助に恵まれている結果に他ならない。大抵死刑囚は家族と断絶している者が多く領置金に乏しい。故に一ヶ月数千円の袋貼りなどの請願作業で日常品を購入し耐乏生活を余儀なくされているのだが、ここの生活振りは豊かで房は規定を超えた品で溢れていた。大学生の分際で一戸建てを親から宛がってもらったすねかじりの間宮ならばいざ知らず、他の死刑囚は決して裕福でもなければ家族すらいない。にも拘わらず皆一律に金には困っていない。支援団体からの寄付もあるが、更に養親からの定期的な仕送りが彼らの生活を潤わせていた。

 クラウド・ナインは担当には鬼門かもしれないが囚人にとっては正に桃源郷だなと直樹は改めて痛感した。

「主任代理、後は私達が下に降りている間、診察と投薬がありますので立ち会いを」

「分かった、分かった」

 面倒臭そうに直樹は手を振った。

「あっと、それと言い忘れていましたが今日は十九時まで残って下さい。月曜は決まりですから」

「今日は火曜だぞ」

「休日の振り替えです。月曜の十八時十五分から住人によるアーベントが開催されるんです」

特定夜間集会アーベント? 音楽会でも開くのか」

「戻ってきてから説明します。とにかく出席して頂きますよ。これは両担当の義務であり、矯正局通達に係わる重要な集会ですのでそれなりの心構えでいて下さい」

 思わせ振りな薄笑いを残し、鮫島は掃夫を連れ一階へ下りていった。

 そして折しも上がってきたもう一基のエレベーターが九階で止まり、家庭用薬箱を携えた二人の白衣の男が担当台の前に姿を現した。

 診察に出向いてきた保険助手である。彼らの一人は直樹に目を合わすや、

「あんたが今度の新担当か。グラサンを取った顔は初めてだが、変名は喜多野だったか」

 と、歯に衣着せずいてきた。直樹はその横太りした男に敬礼した。

「東です。改めてよろしくお願いします」

「ややこしいな」

 無愛想に敬礼も返さず、整えられてもない髪を掻いた保健助手は「俺は医務課の伊瀬明だ。こいつは部下の桂木」と名乗って周囲を見渡した。そして伊瀬は起伏に乏しい平たい顔を直樹に向けた。

「鮫島はどこにいる」

「副担当ならたった今下に降りたところですが」

「チッ、さては逃げやがったな。まあ、いい。あいつが帰ってきたらきつく言い聞かせておいてくれ。ここの連中の診察申し込みを一々真に受けるなと。ただでさえ九階の奴らは好訴妄想や詐病さびょう(仮病)が多い。大抵の訴えも心気症。死刑囚の優遇措置か何かは知らんが医務課は暇じゃないんだ。あんたも正担当なら鮫島に振り回されず詐病の房は把握しておけよ」

「その旨、しかと伝えておきます」

 直樹は吐き捨てるような物の言い方や偉そうな素振りとは別に、死刑囚に厳しく応じる態度へは共感を抱いた。何より嘉樹との関係にまるで無関心である人間に出会ったのは初めてであった。

 伊瀬は桂木を連れ九一三房へ向かい、立ち会いの直樹が扉を解錠するのを待った。そして扉が開くや居丈高に訊いた。

「おい、吾妻、どうした」

「最近腹の調子が悪いんです」

「またか。お前、先週も要求していたな」

「本当に痛むんです。空腹になると鳩尾みぞおちが差し込むように痛いんです。背中も腰も痛むんです。胸焼けもします。ですから医務室で診て下さい」

「飯は食ってるか。ならば冷房で腹を冷やしたんだろう。暫く我慢しろ」

「そんな」

 拘置監収容者が医療を受けるには先ず週二回、担当が巡回しながら「診察及び投薬を希望する者は申し出ろ」と声を上げる。そして診察願いを提出させる。すると三、四日してからやっと保健助手がやってきて簡単な問診と投薬をする。

 だが、見立てが実にお座なりなのである。保険助手は准看護師の国家資格を有してはいるが医師免許を持っている訳ではない。それでも何故か監獄では代理の役割を担い、受診するには緊急を要するか余程病状が悪化してからでないと医務課は受け付けない。だから病気を訴える収容者には診療の前に渋々ながら投薬して容体を観察する。

「仕方ねえな。胸焼けならこの消化剤でも飲め」

 伊瀬は執拗に診察を要求する吾妻に救急箱から錠剤を二粒与えた。

「先生、これでなくもっと別の薬はありませんか。むしろ痛みが増すんです」

「何、文句があるなら二度とやらんぞ」

「いいえ、飲みます、飲みます」

 焦って吾妻は薬を三人の前で飲み干した。

「よおし、口を開けろ、ベロも上げろ。うむ、ちゃんと飲んだな。桂木、次の奴は」

「九二五房、五八〇〇番の野呂です」

 桂木が診察票を捲りながら房を施錠した直樹に首の動きだけでついてこいと指図した。

 保健助手は同じ刑務官であるにも拘わらず傲慢さだけは立派に備えている。そのくせ真剣になって収容者の苦痛に取り合わない。吾妻の症状も十二指腸潰瘍で消化剤は逆効果であろうが、とにかく服薬させれば役目は終わる。

「おら、爺、起きろ。アスピリンを持ってきてやったぞ」

 叩き起こされるうめきに蛇口を捻る音が混ざり、続いて水を含んだ激しい咳き込みがした。

 どうやら野呂は強引に薬を流し込まれているらしいが、直樹は待機していた廊下で、大勢の尊い命を奪った報いだと黙って制帽の鍔を下げた。

「東、あんた、鮫島と対立しているだろう」

 診察を終えた伊瀬が直樹の前で踏ん反り返っていた。

「俺達の診療に口を挟まない担当は大抵鮫島と反りが合わないんだ。俺はあいつの善人面が大嫌いだし、奴みたいにここの阿呆共に同情するつもりもない」

「私もです。微罪の収容者はともかく、悪逆無道の人殺し集団に情けをかける気は毛頭ありません」

「うん、あんたの正担当起用は適切だ。何はともあれ鮫島には用心した方がいい。九階の担当が何度も交代するのは奴が裏で住人と組んで追い払っている噂もある。ま、飽くまで噂だがな」

 伊瀬達は乾いた小笑いをして去っていった。

 信憑性に欠ける流言だが死刑囚に味方するとこんな評価だと、担当台へ戻った直樹は自らの存置論に改めて正当の感を持った。


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