奈落の天界 Ⅳ


「直、体調でも悪いの? 最近そんなに残して変よ」

「いや、別に」

 点けっぱなしのニュース番組を観ている訳で無し、ただソファーに漠然と体を預けていた直樹は全然口を付けていなかったジュースの分量を妻に指摘され、慌てて飲み干した。

「明日お見舞いに行くのにお義母さんが心配?」

「いや、別に」

 直樹は手の甲を掻くとコップを降ろした。

「妙に深刻な顔して、仕事で失敗でもした?」

 瑞樹は空のコップを持ち上げテーブルを拭いた。

 夫は何かを隠したり動揺したりすると手の甲を二、三度無意識に掻く癖がある。案の定直樹は左手を再び掻いて口を真一文字に結んだ。

「ハイハイ、業務上の機密なのね。じゃあ訊かないわ」

 小皿に瓶のナッツを補い、瑞樹は台所へ戻ろうとした。が、突然手首を掴まれた。

「微妙な問題だ。絶対に外へ漏らさないと誓えるか。でないと話せない」

 直樹の厳しい眼差しに瑞樹は「はい」と思わず膝を正した。

「実は現任を離れて、来週からクラウド・ナイン勤務になった」

 思い掛けない告白に瑞樹は暫く口を利けなかった。

 任務に重大な落ち度があったのか。あるいは誰かの陰謀に引っ掛かり職を追われる羽目になったのだろうか。それでも相談も無しに喫茶店へ転職するとは酷い亭主だと恨めしそうに睨んだ。

 直樹は直ぐ妻の顔付きから甚だしい誤解に気付き、言い直した。

「勘違いするな。クラウド・ナインは茶店じゃなく名拘特別区の別称だ。俺は正担当に指名された月曜下見へ行ってきた」

「ああ、正担当ね。でも特別区ってどこなの」

「それはここだ」と直樹の掌には正中に割れたカシューナッツが二片乗っていた。そしてその一片はテーブルに置かれ、空コップが上から被せられた。やがてもう一片も直ぐ隣に並べられ、二片はガラスを隔てて向かい合う形となった。

 瑞樹は最初その謎掛けが分からなかったが、険しい面持ちからはっと悟った。

「特別区って、まさか、死刑囚の──」

「そのまさかさ」

「どうして直が」

 嘉樹との関係上、いつまでも怪しむ瑞樹へ直樹はエニグマ事件や矯正局長の思惑を織り込みながら詳細を語った。

 家人に対しても守秘義務違反は有効であるとはいえ、これからの勤務体系上、通常業務よりハードになるだろうと予測された直樹は瑞樹だけには語っておかねばならないと思った。

「つまり俺は試金石、というか体のいい実験台モルモットだ。迷惑この上ない」

 直樹はコップのナッツを力一杯噛み砕いた。

「でも、よしは単にあなたと会いたかったんじゃないかな。死刑確定者って接見交通が極端に制限されているでしょう。家族としか面会も手紙も許可されないなら寂しがっていたと思う」

「はっ、寂しいだって? 奴は今や九階を牛耳っているんだぞ。クラウド・ナインは担当潰しの鬼門だと伝えられている。今度は俺を憂さ晴らしにもてあそぶつもりなんだろう。親殺しの悪党らしい卑劣な思い付きさ。だが、俺は絶対に潰されんぞ。奴だけには絶対に」

「ねえ、直はどうしてそんなに嘉を憎むの」

 瑞樹は弱り果てた顔付きで夫に尋ねた。敢えて今まで訊かなかった質問である。

 直樹は当然の言葉を吐いた。

「決まっているだろ、奴は親父を──」

「お義父さんを殺したから、だけじゃないでしょ」

 怒りの口を途中で止めて瑞樹はナッツの残片を手に取った。

「私は知ってる。あなたはあの日以来嘉を強烈に憎むようになった。あれだけ仲の良かった二人に亀裂が入ったのは特別な事が起きたとしか考えられない。嘉が森本の実家へ赤い目で駆け込んできたあの夏に何があったの。嘉も一言も話さなかったあの日の出来事は一体何だったの」

「それは奴が、は──」

「は、何?」

 何か話すのを急に思い止まった直樹の袖を瑞樹は掴んだ。直樹はその指を外すと顎を強く噛み締めた。

「何でもない。お前に俺達の確執は判らん。とにかくこれで隠し事はない」

 一方的に打ち切られそうになったが、瑞樹はこの時ばかりは諦めず腕を取った。

「私は、今だって嘉を『三本椰子』の一人に数えてる。直も覚えているはずよ。私達が幼い頃、恋路ヶ浜で、三人共生涯手を携えていこうと指切りした約束を」

「ああ、よく覚えているさ。その内の一本は途中からねじ曲がって根腐れしたからな」

 懐かしい回想を掻き消すように直樹は現状を語った。

「奴のせいで親父は海の藻屑となって今も苦しんでいる。お袋をあんな病気にさせたのも全部奴が事件を起こしたせいだ。お前が奴にどんな感情を持とうとも俺は決して許さない」

 ぎりぎりと更に軋む奥歯に瑞樹は何も言えなかった。まるで「仮にお前の実父が殺されたらお前は冷静でいられるか」と詰め寄られた気がした。

 嘗ての伯父であり後に義父となった俊昭は直樹や嘉樹と体型や外見が瓜二つの、溌剌はつらつとした優しい人であった。義母妙子も従順な人柄で、「瑞ちゃん、瑞ちゃん」と娘同様に扱ってくれた。

 だから、義父殺害の凶報がもたらされた時、自分達が歩いてきた道が一瞬にして粉砕された衝撃を受けた。悲嘆に暮れる夫を励ます一方で、警察の誤認逮捕ではないかと事件への関与を打ち消すよう努めたが嘉樹の自白は疑いようもなく、橋爪遺族が極刑を望んだのも当然である。

 それでも瑞樹は頑なに腕を揺すって言い張った。

「でも、直が恨んでいてもやっぱり私は嘉の事が知りたい。嘉を知るのは直を知るのと同じだもの。被害者家族としては自分本位かもしれないけど、せめてどんな風なのか教えて」 

 すると直樹はやおら立ち上がり、腕を振り払うと無表情に瑞樹を見下した。

「俺は今までお前を唯一人の理解者だと勝手に思い込んでいたようだ」

「違う。私は別に」

「もういい。そんなに聞きたいなら明かしてやる。その代わり、俺はその度最高に不快でいるのを忘れるな」

 瑞樹は乱暴に閉められるリビングの扉を伏し目がちに見つめるしかなかった。


 翌朝、特別に休暇を取った直樹はワイシャツに格子柄のネクタイ姿で、大きく膨らんだ手提げ鞄を携え、妙子が入院している名古屋私立大学病院へ薄暗い地下道を下っていた。

 名私大は官舎から西に歩いて十分と程近い距離に建つ、愛知県でも有数の近代設備と名医数を誇る十五階建ての総合病院である。

(本当は近所だから毎日通ってやりたいが、逆に母さんに怪しまれるからな)

 外出用の偏光グラスを掛けた直樹は周囲を取り巻く状況に心を痛めていた。

 瑞樹との喧嘩もあるが、むしろ病臥している母の方が悩み深かった。

 妙子は夫死亡の急報に正気を失ってしまい、目覚めた後は現実逃避も重なって軽いうつかかった。

 直樹はマスコミの視線から逸らせるためもあり、母を麻生の老人病棟へ預けたのだが、一年後その妙子に緊急な変化が現れたと連絡を受けた。

「一旦ここを退院させる。そして別の消化器外来で肝臓検査を受けてもらう。早急にだ」

 院長室でカルテと睨み合いながら和幸は後退した額を掻いた。

「精神科の俺は門外漢だから断言は避けるが、どうもお袋さんの肝臓におかしな兆候が感じられる。最近ディプレの進行が早いし、うっすら黄疸が出てるから肝性脳症の疑いもある。しかし、症状を診ても脳とは別の障害が潜んでいそうな気がする。薬のコントロールは万全だったから薬害性ではないが、ともあれ肝機能が低下しているのは間違いない」

「お前は何だと見立てているんだ、和幸」

「何とも言えん。ただ風邪の徴候が出てない上に以前から訴えられているかゆみが気に掛かる。首筋の赤い斑点もな。それとお前に伝えなければならない新たな症状が一つ見付かった。いや、その件は検査を済ませてから知らせよう。取り敢えず、肝臓をチェックしてみてくれ。そっちが先決だ」

 直樹は早速和幸の紹介状に従い、岡崎病院へ母を連れて行った。

 そして一週間後、妙子の精密検査を終えた消化器内科部長の藤浪智史は、鬱病を考慮し直樹だけを別室へ呼び、検査結果の詳細なデータを提示した。

「細胞診Ⅴ病期Ⅱの悪性腫瘍です。ご覧のように、AFP、PIVKAⅡの高い数値は肝臓癌の陽性を示しています。転移は見当たりませんでしたので原発性肝癌、中でも単発の肝細胞癌と断定出来ます。しかし問題は、切除出来ない部位に発生した肝癌ももちろんですが、血液検査で抗ミトコンドリア抗体が陽性になっていた症候性PBC、即ち、原発性胆汁性肝硬変にあります」

 原発性胆汁性肝硬変PBCとは自己免疫疾患の一種で、自己の抗体が肝臓を攻撃して肝硬変を起こしてしまう悪疾であり、主に小葉間胆管に炎症を生じ、胆汁の流れが滞る。初期は薬で進行を抑えられるが、黄疸が出る頃は予後が悪く数年の内に死に至る場合が多い。

 肝硬変と肝臓癌の二つの重病に暫く茫然としていた直樹であったが必死な形相で訊いた。

「何か、何か治療方法は無いのですか」

「肝癌だけならば、『肝動脈栓塞術』や『マイクロ波凝固療法』などがありますが、進行性の肝硬変を患っていますから正直難しいと思います。それでもまだ肝動脈内に抗癌剤を注入する方法が残されていますし、陽子照射もお望みであれば」

「どれも結局延命措置のようなものではありませんか」

「そう取って頂いた方が賢明かもしれません。ただ、抗癌剤で想像以上に長期生存なさる患者さんもお見えになられます。どうなさいますか。私達は入院をお勧めしますが、通院での陽子照射も選択肢の一つです」

「母は鬱が進んでとても通える精神状態ではありません」

 入院を即決した直樹はその足で豊橋のココロホスピタルへ向かった。

「──何てこった、肝細胞癌HCCだけじゃなくPBCもか」

 直樹から予想以上の検査結果を聞かされた和幸の顔は暗く曇った。

「さっきお袋を岡崎病院へ三日後入院させる手続きを取ってきた。だから新しい症状云々を教えてくれ。藤浪先生に伝えておきたいからな」

「ああ、そうだな」

 和幸は一瞬躊躇ったが、やがてぼそりと口にした。

「実はお袋さん、ADに罹っている」

「は、何だって」

「最初は仮性痴呆だとばかり診ていたが抗鬱剤でも改善がなく、知的障害が感じられたから各種検査を実施した。CTでは脳室や側脳室の顕著な拡大が見られた。PETでも側頭部、頭頂部局所に糖代謝率の低下がある。アセチルコリン・エステレース活性の低下もあった。長谷川式スケールの評価でも認知症のレベルを示している。明らかにAD、アルツハイマー病だ」

「お袋は未だ五十八だぞ。確かあれは六十台後半からの病気じゃないのか」

「ADは脳の変性疾患だ。ディプレからの移行も珍しくない」

「治る見込みは?」

 カルテ類には一切目もくれず直樹は和幸の右肩を掴んだ。

 和幸は、今日は悲報ばかりになるがと前置きして声色を硬くした。

「薬剤で進行を遅らせるしかない」

 若いながらも和幸は新進気鋭の医学者である。『海馬と認知症の記憶水準』の論文で高い評価を受けており、そのホープが「治らない」と確言した。直樹は震える手を離し顔を俯かせた。

「専門分野なのに力になれずにすまない」

「──ストレスは、認知症に関係するのか」

 直樹は首を上げるなり問い質した。怒りの鬼面に和幸はぎょっとした。

「ああ、発症スイッチの一つとされている。お袋さんの場合は『配偶者の死亡』という最高レベル百でショックを受けたからな」

「ならばレベルは二百だ!」

 和幸は倍数値の真意と憎悪の面持ちを察した。Life Change Unit(心理ストレスとなる生活上の出来事)には『配偶者の死亡』は載っていても『配偶者の殺害死』項目は見当たらない。 

「直樹、俺はお前の怨恨憎悪の鬱積ルサンチマンを解らないでもない。だが、全てを嘉樹に被せるのは止めろ。肝癌とPBCまでもを導因とするのは医学的に無理がある」

「いいや、奴こそが病根だ。奴がお袋の体をむしばんだ張本人だ」

 和幸は直樹だけでなく嘉樹にとっても遊び仲間であった。また、和幸の父、麻生勇作は二人の通っていた柔道場の非常勤師範を務めていた。そういう経緯もありどちらにも偏らず平等に付き合っていた和幸らしい意見だが、嘉樹を庇われ余計依怙地いこじになった。

「奴が琉死不得婁ルシフェルにいた時、お袋がどれだけ警察に呼び出されたか、そして傷害事件で新聞に載った時もそうだ。いつも気苦労が堪えなかった。結果内臓にダメージを受けたんだ。奴はお袋に取り憑いた病魔だ」

「直樹──」

 人を盲目にするのは恋愛だけではない。和幸は対極を成す双子に遣り切れなくなった。


「入るよ」

 名私大八五三の個室札には東妙子の名が見える。サングラスを外した直樹は扉を三度ノックした。

 中から返事はなかった。恐らく眠っているのだろう。扉をスライドさせれば母はやはり睡眠中であったのだが、抗癌剤の副作用で豊かであった髪は減り、浅黒く乾燥した体には点滴管やドレナージ管、採尿パイプが、「スパゲッティー症候群」と揶揄される如く上下に垂れ下がっていた。

「あら、いつの間にいらしてたの」

 丸椅子に腰を下ろし窓の景色を眺めていた直樹の耳に小声が届いた。

 視線をベッドに移すと母が穏やかに微笑していた。

「やあ、起きたかい、妙子」

「朝はいつも定例会議じゃありませんでした、あなた」

「今日は午後からなんだ。明商銀行の接待でカントリークラブへ行かなきゃならない」

「ゴルフ、お上手じゃないのに大変ね。常務に昇進するとそんなものなのかしら。相手の方があなたと同じ山好きだったらよかったのかもしれませんね」

 若年性アルツハイマーに罹病りびょうしてから既に四年が経過していた。

 認知症、俗に痴呆症は一般的に初期、中期、末期の三段階を経て進行する。それに伴い、夜間のせん妄・徘徊・幻覚・幻視・情緒障害・記憶障害など様々な障害が発生する。

 妙子は中でも記憶障害が顕著に現れた。専門用語でいう「見当識障害」である。

 見当識障害は「場所の失見当」、「時間の失見当」、「人物の失見当」とに分類され、妙子は初め自分が入院している場所に混乱して暴れた。そして暫くすると時計を見ても時間の概念が狂い、壁に貼られたカレンダーの月日が読めない時間の見当識障害に陥った。

 現在では末期の「人物誤認」の症状が出現している。

 人物失見当は時間の失見当もミックスされ自分の年齢すら忘却してしまい、付き合いの浅い順に家族や友達を忘れていき、大抵配偶者が最後になる。

 最初に妙子は瑞樹の記憶を消してしまった。

 瑞樹が喪失を知ったきっかけは妙子の病室に入った時、「亭主の不倫相手が何しに来た」と花瓶を投げ付けられた時であった。幸い怪我はなかったが、瑞樹はその日から恐怖のあまり見舞いに行けなくなった。半月前に再び勇気を出し病院を訪れたが、思い出はもはや無く、嫉妬した義母に手の甲に爪を立てられ、看護人のリストから外れてしまった。

 一方、直樹への記憶は二年前まで留まっていた。とはいえADは脳の病気である。結局、現在見舞うのは殺されて居ないはずの俊昭へすり替わっていた。

 悲しみを隠しつつも直樹は母の許へ出掛ける際には必ず父の衣服を着て、話題も俊昭の過去だけに専念した。

「食欲はあるかい、妙子。今日はお前が好きなゴリの甘露煮を持ってきたんだよ、私の故郷の」

 直樹はバッグから石川県の郷土料理と炊きたての白米を取り出した。

「わざわざすみません。でも吐き気が」

 氷枕を敷いている妙子は申し訳なさそうに謝り、か細い声で管の突き出た腹部をさすった。

「ところで私の潰瘍はいつ治るのかしら。痛いばかりで少しもよくならないの。早く退院して子供を産まなきゃならないのに困ったわ」

「そうだね。一度主治医の先生に訊いておくよ」

 胃潰瘍と偽った肝臓病の苦しみに耐える母を看るのも辛いが、息子である自分の存在と今の時を永遠に失ってしまった母と接するのはもっと辛かった。



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