奈落の天界 Ⅲ

 

 名古屋拘置所、十二時四十五分。

 ワンフロア七十二室並ぶ独居房行きのエレベーターへ直樹は乗り込んだ。

「クラウド・ナインの身分帳には目を通しておいたかね」

 付き添いにやってきた村上が確認した。

「昼休みに簡単にですが。錚々そうそうたるメンバーですね」

 古畳が六畳べた置きにされた特別待機室のロッカーに厳重保存されている身分帳簿で、九階住人を照会するよう命じられていた直樹は事件や収容者の容貌を全て頭に叩き込んでいた。

 さすが死刑囚舎房の面々は号外の見出しを賑わせた有名人ばかりで、特に最高裁において上告が棄却された者、再審請求中の者、控訴を断念して執行を待つ者、取り分け死刑確定者と呼ばれる五名は全国規模で認知されている大物ばかりである。

 その五人とは一人を除き全て初対面であった。

 いやが上にも張り詰める直樹に村上は顔を上げた。

「猛獣の檻を初めて開ける新人調教師、そんな気分に浸ってやしないかね。うむ、その顔では図星のようだな。だったら予断は捨てた方が良い。忌み嫌われる死刑囚とて人間だ。彼らの裏を観察しなさい。でないと潰されてしまうぞ」

「潰される?」

「ゼロ番は刑務官の真価が問われる究極の特別区だ。正担当は持って二年。ある者は良心ゆえ、ある者は悪心ゆえ去っていく。九階は天国クラウド・ナインじゃない。まさに苦界くがいだよ」

「前任の井上も苦しみで去りますか」

「そうだ。君以上に気丈夫だった男が、一年も経たない内に神経を酷使し奇怪な言動を取るようになった。本当ならもう一人の代務として九階に据えるつもりでいたが、あの有様では日常生活にも支障を来たしているだろうから配置替えするよう私が所長に掛け合ったんだ。正直私は気掛かりだよ。君も翻弄されてしまうんじゃないかとね」

 村上の怪訝な案じ顔に直樹は胸を張って答えた。

「私は部長の愛弟子です。柔な精神はしていません。相手が心無い難物であろうが自分なりに処遇するだけです」

「だといいんだがね。私が長年勤めてきた中でこんな強堅な舎房は初めてだ。ここ二年で五人もの担当が変わり、二週もたない担当もいた」

 身分帳には確かに短期における異常な入れ替わりの数値が記されてあった。直樹の顔は緊張に締まったが、やがてエレベーターが停止して扉が開いた。

 鬼門の九階である。

 直樹は物々しい雰囲気に負けまいと意気込んで手足を振り出した。

 と、その時半袖の腕に妙な温度差のある風を感じた。一瞬気のせいかと思ったが余りにも冷たく、辺りの空気を大きく掻き回したらより判然とした。

「部長、この階はまさか冷房が入っているんですか」

「先程触れただろう。特別区だと」

「しかし」と直樹は反論しようとしたが村上の挙げた右手に遮られた。

「ここで『しかし』は無しだ。寒くなれば暖房も入れる。だから温度調整も仕事の一つとなる」

 名拘は高層建築で東西に向き、外壁と房の間に伸びている巡視路も開かない二重窓で覆い隠されているため、日光がまともに照り付け、特に夏場はサウナ状態となる。

 それでも一般収容者は団扇だけで凌いでいるのに九階だけがクーラーとは贅沢にも程があった。村上は木製の中央担当台に導きながら、不愉快ですねと愚痴めく直樹の背中を叩いた。

「これしきで腹を立てていては到底務まらんぞ。さて同僚となる副担当を紹介しよう。鮫島崇看守部長だ。鮫島君、彼が来週から正担当に就く東直樹主任代理だよ。君とは同年だ」

「鮫島です。よろしく」

 担当台に立って形式的に敬礼する鮫島は直樹に劣らない長躯の持ち主であったが、オールバックに固めた猛々しい面輪とは逆にまるで眠たそうな半眼の両目と、にへらと薄笑いする唇に、所々削り取ったような眉がれた態度と言葉遣いを一層顕著にしていた。

「新担当の東です。よろしくお願いします」

 村上は落ち込んで敬礼する直樹の背中を再び叩いた。

「何故肩を落としている? 鮫島君は九階専属になって六年の大ベテランだ。困った事があれば何でも相談すればいい。ここの住人からも『ケルベロス』の愛称で親しまれている」

「ケルベロスとは、冥府めいふの番犬――番犬?」

 ギリシャ神話に登場する三つ首の犬の怪物は冥府、即ちあの世の入口を守り、その死者の世界から逃亡を企てる亡者を捕らえ、貪り喰らうとされるが、とても愛称とは言い難いその渾名に直樹の頬は唐突に引きった。

 だが、鮫島は澄まし顔で指を振った。

「なあに、称呼番号を嫌う住人の我々に対するたわむれですよ。先任の井上は顔を真っ赤に息巻くから『タコ入道』だったし。その前の森は、長い首で房を覗く癖があったから『キリン』てな具合で」

「どれもこれもまともじゃない。九階の者は刑務官を嘲っているのか」

 直樹は勃然と怒り顔を作った。

 名古屋拘置所には死刑確定者用に特別な『所内生活のしおり』が配布されていて、詳細な遵守事項が書き連ねてあり、所内の生活動作の項目に「誰に対しても穏やかな言葉遣いや態度で接するよう心がけて下さい」との注意点が記されている。

 これは当然担当の刑務官にも向けられる訓示も兼ねているが、ここの確定者は全くそれを遵奉する意思が全くないようであった。

「当然です。彼らが地下に先導する我々へ胸襟を開きますか。憎んでも余りある!」

 鮫島は突然真顔で明言した。先程のふざけていた様子など一度に払拭してまさに凶暴な野犬のような凄みが表情に湧いて出ていた。態度も口調もクラウド・ナインに長期勤務する重みである。

「私は一日の長があるなどとは自惚れませんが、ここは名拘の特別区。どうかお忘れ無きように。でないと足をすくわれますよ、東主任代理」

「まあまあ、鮫島君。東君は私の秘蔵っ子でな。それより皆いるかな」

 村上が間に入って宥めた。

「現在面会中の六七〇〇番を除き十五名揃っています。十三時三十分より四三〇〇番が控訴審へ出廷する予定です。ただ、多数の者が午睡の最中ですので巡回はお静かに願います」

「分かっているよ。では東君、君の紹介を兼ね案内しよう。先ずは裁判中の房だ」

 村上は先頭に立ち薄暗い廊下を北へ歩き出した。

 直樹は耳元で訊いた。

「部長、どういう人物なんですか、彼は」

「鮫島君かね。秀才だぞ。嘗ては名古屋地検に籍を置いていたからな」

 直樹は驚愕し、担当台を一顧した。また元のいい加減な態度に戻って生あくびを噛み殺しているその姿からはとても想像できない。

「どうして検察官が刑務官へ転身しているんですか」

 検察を辞職した場合大抵が弁護士などの法曹関係に就くのが通例で、刑務官へ転職する人間など一度も聞いた覚えもなかった。一時省内でも前代未聞の珍事と騒がれたよ、と村上は首元を掻いて裏事情を明かした。

「上司がスキャンダルを起こした際、罪を着せられそうになったらしい。どうも最年少で検事になったから周りからの妬みもあったようだ。信頼していた正義に裏切られたと検事正に秋霜しゅうそう烈日れつじつバッジを突き返し、何の因果かここにやって来た」

「でもそれだったら普通もっと上の階級を狙うでしょう。大体、司法試験合格者が看守部長で、現場を選ばなくても」

「総務も君と同じ薦めをしたらしい。が、いかんせん本人の希望だからね。ああ見えても彼は剣道三段の腕前だ。抜刀術にも長けている。外見で判断してはいかんよ。ここの住人もしかりだ」

 村上は歩きながら空室以外の視察孔を一つ一つ覗くよう指示した。

 直樹は熟睡中の未決囚を見つめた。

 死刑囚の称呼番号の末尾はゼロで統一されている。全国各拘置所、刑務所の死刑囚舎房が「ゼロ番区」と呼ばれる所以ゆえんである。特に名古屋拘置所の死刑囚番号は処遇規定で下二桁にゼロが二つ並ぶのが特徴となっていた。

 九階は監視カメラ付きの第二種特殊房と、カメラの無い一般独居房が全てを占めている。

 扉の向こうには畳が三畳敷かれており、睡眠時間以外は掛け布団、敷き布団、毛布、枕と枕カバーが綺麗に折り畳んで積んである。中央には小机があり、そこで手紙や裁判書類を書く。机の奥は一畳半の板間になっており小さな洋式便器と、反対側に洗面台がある。

 壁には出廷用の上着や替えの普段着が掛かり、打ち付けられた木棚には舎下げされた日用品や菓子、官本、私本が並べ置かれ、簡単に割れないアクリル窓には堅牢な金網と、巡視路を挟んだ目隠しの焦茶色遮蔽板が外界の景色をほぼ遮蔽し、うつぜんとした森のようで直射日光の明るさは全く無い。

 村上と直樹は片側を巡り終えると衝立の反対側に向かった。

 午睡時間ではあるが未決囚全てが眠っている訳ではなく、その中の何人かが通り過ぎる新しい担当の顔を、昼間は開け放たれている視察孔から瞬ぎもせず観ていた。

 本来なら午睡の時間は眠っているのでなければ定位置で座する規則がある。しかし、村上から「ここではそのルールは除外されている」と前もって聞かされていたので注意する事はなかった。

「嘉さん?」

 直樹はその声に振り向いた。九二一房の未決である。確定者マークが付いていない二七〇〇番のネームプレートには「小堀久夫」と記されていた。

「す、すみません。人違いです」

 小堀は無傷の右頬に謝った。

 直樹がサングラスを装着し歩き出すと村上は小笑いした。

「ここでは外したらどうだね。いずれ伝わるぞ」

「そういうつもりで掛けたのではありません」

 村上は何も咎めなかった。双子の顔は同じでも別人として振る舞いたいのである。

「では、そろそろ五人の衆に会いに行こうかね」

 促された直樹は緊張に一度大きく息を吸った。

 確定者舎房へ近付く度、どくどくと脈打つ鼓動が静かな廊下に響きそうであった。

「最初はここだ」

 村上は歩みを止めて、とある房扉に向いた。

「五八〇〇番、永平寺事件の野呂ですね」

 九二五房の前で共に立ち止まった直樹はプレートに印字された人物と事件を瞬時に追憶した。

 野呂末吉すえきち。一九三一年六月八日生まれ。福井県永平寺町出身。

 罪名は「殺人」。世の耳目を聳動しょうどうさせた「永平寺朝倉一族皆殺し事件」の正犯である。

 一九五九年八月十五日、午後0時。福井県吉田郡永平寺町荒谷で、盆に集まり、昼の宴を楽しんでいた朝倉家に突如野呂末吉(二二)が土足で上がり込み、改造した連射式猟銃を皆に乱射、その後なたで斬り掛かった。それにより当主の朝倉景亮(六三)、妻典子(五九)、長兄直人(二九)、妻理恵(二八)、直人の長男輝男(五)を始め老若男女十五名が即死し、朝倉家次女の瑤子(二三)が全治六ヶ月の重傷を負った。一族の殆どを葬り、返り血を全身に浴びたまま大佛寺山へ逃走した犯人に警察と消防は山狩りを決行。数時間後、山中に潜んでいた野呂を発見し自殺寸前の所を逮捕した。

 取り調べで殺害動機は、幼い頃から隠れて交際をしていた瑤子との結婚を認めてもらえないばかりか、家柄と素行不良を面罵され続けたのが原因と判った。

 瑤子は名の知れた大地主の娘であったが、野呂の生家は代々貧しいきこり兼炭焼きをしており、卒業後、地元の製糸工場や板金工場で勤務するも、同僚から差別され度々喧嘩沙汰になった。そのため近隣の評判も芳しくなく別の会社に就職を試みたが断わられた。

 その上瑤子との駆け落ちも失敗し、「卑しい山稼ぎが身の程を知れ。二度と娘に付きまとうな」と景亮に叩き出された悪態で遂に事件を引き起こした。

 一審で弁護人は生活環境の劣悪さを切々と訴え、判事に同情を求めたが福井地裁は情状酌量の余地なしと検察の求刑通り死刑を言い渡した。

 そして野呂は控訴せず刑が早々と確定した。

 直樹は四十年以上の長期拘禁につくづく奇異の念を抱いた。

 殺害に使用した物的証拠もあるし目撃者もいた。なのに七十二の今でも死刑に至っていない。

 ちまたでは、死刑の最高責任者である歴代の法務大臣が境遇に同情し判を押さなかったとか、ある程度の年齢になったのでそのまま獄死させるつもりであるとか、はたまた長期間拘束されたら精神にどのような障害をきたすか実験を試みているとか、荒唐無稽こうとうむけいな諸説ばかりが流れている。

「ノロさん、いるかな。お邪魔するよ」

 扉の鍵を開け、村上は声を掛けた。だが、姿はあれど返事はなかった。

「ちゃんといるじゃないか。心配したぞ」

 直樹は村上の後ろから房内を覗き、影の薄い老人の不可思議な様を眺めていた。

 よれよれの灰色スウェットを着た、極端に猫背の野呂は真っ白な眉が際立つ、皺だらけの顔面を振り子の如く揺らしながらマットレスの上に座っていた。そして対面する壁に何かを語り掛けているのか、前歯が一本欠落した口をゆっくり動かしていた。

 いにしえの白黒写真の中で猛っていた、狂犬に似た粗暴な面影は、もはや幻影と成り果てていた。

 村上は畳に腰を下ろすと耳の遠い茶飲み友達へ尋ねるように顔を近付けた。

「何だって、ノロさん──うん、頭が痛むんだな。また医務で鎮痛剤をもらってあげよう」

 声色を和らげた村上は立ち上がって扉を閉じた。直樹は囁いて尋ねた。

「部長、やはり野呂は拘禁反応こうきんはんのうかかっているんですか」

 刑務所や拘置所等自由を奪われた環境にいると人間は神経症・鬱状態・幻覚・妄想などの精神疾患に陥る事が多々ある。それを総称して拘禁反応と言うのだが、特に死刑囚舎の場合は執行時期を知らされないため死への恐怖から鬱的な症状になりやすい。

「ああ、幽囚の身となってから四十四年。最近は満足に食べれない時もある。精神の限界はとうに超えているだろう。同じ年寄りとして堪らんよ。ところで次の九二七房は誰だったかね」

「称呼番号二五〇〇番、亀山毒ミルク事件の実質犯、坂巻敦夫あつおです」

 直樹は新たな房へ向かいつつ直ちに答えた。

「よろしい。では入ろうかね」

 村上は収容されている人物に一言の声も掛けず九二七房の鍵穴にキーを差し込んだ。

 ギッと開扉音が微かに鳴れば、内から見計らったように朗々とした声が流れた。

「何故今夜僕は笑ったのだろう どんな声も僕にそれを教えはしない

 厳しい返事をするどんな神も、どんな悪魔も

 天国や地獄から答えてはくれない

 その時、僕は直ちに僕の人間の心へと向かう

 心よ、君と僕はここで悲しく孤独なのだ

 何故僕は笑ったのだろう おお死の苦しみよ

 おお、暗黒よ、暗黒よ

 天国や地獄や人の心から答えを求めても空しく

 僕はいつもなげかなければなければならないのだ」

「その詩はハインリヒ・ハイネかね、教授」

 恭しく正座で入口に向き二人を出迎えた九二七房の住人へ村上は訊いた。真っ新なカッターシャツとベルトなしの紺スラックスを穿いた小柄な老囚は額の広い短いごま塩頭を横に振った。

「ハイネはもっとロマンがあります、村上先生」

「では、ヘルマン・ヘッセ」

「残念ですがまた違います」

 教授と呼ばれた坂巻は、毎回の事なのか、慣れた感じで駆け引きを楽しむ村上の解答に面白そうな薄笑いを向けた。

「先生はドイツ詩人ばかりがお好きなようですね。ヒントはイギリス人です」

「うむむ、英国かね、となればシェイクスピアくらいしか浮かばんよ」

「ならば先生の代わりに、後ろに控えていらっしゃる新担当さんに作者名をお答え頂きましょうか」

 直樹はぎくりと胸を突かれ、慌てて訊いた。

「どうして知っている。朧気おぼろげながらでも見えているのか」

 身分帳では坂巻の両目は完全に失明しているはずであった。義眼のない左目は調剤研究の事故で、半分閉じた右の視力も二年前に失われた。それなのに立ち位置ばかりか任務についても言い当てられては弱視か晴眼せいがん(目が見える事)を疑うしかない。

「靴の音ですよ」

 薄ぼんやり濁った左目を上げ、坂巻は長く垂れた右耳たぶを叩いた。

「歩き方には一人一人特徴があります。井上君の歩幅ある靴音が響かず、覚えのない足音が村上先生の後から聞こえてきた。クラウド・ナインは担当の入れ替わりが激しい舎房です。新しい方だと察するに難しくありません。さてさて、詩人の名前をお答え頂きましょうか」

 挑む口調で返答を迫られたが、直樹は難なく即答した。

「宿屋の番頭に生まれ、嘗ては外科医の弟子も勤めた十九世紀初頭のイギリス唯美主義を代表する詩人、ジョン・キーツの十四行詩ソネット『なぜ今夜僕は笑ったのか』、だ」

 今度は坂巻が驚く番であった。過去この方法で何人もの担当を試してきたが誰一人答えられなかった問題をあっさり解かれたばかりか、詳細なプロフィールまで付加されたのである。

「おや、何とも博識な」と忽ち賛嘆した坂巻へ直樹は顔をしかめた。

「担当を退屈しのぎにからかうとは崇高な趣味ではないな、二五〇〇番」

「これはこれは申し訳ありません。余りにも九階に回される方の文学的素養が低いもので失望していたんです。あ、いや、常時賭事に熱中するばかりの先生方に詩文の知識を求める私も悪いのかもしれませんがね」

 苦り切る直樹と逆に坂巻は声を弾ませ嬉しそうに、出来れば苗字で呼んで下さいと頭を下げた。

 村上は腕を組んで考え込んだ。

「ふむ、教授の指摘する通りだ。私も処遇部長として一度本省に刑務官試験のレベルアップを打診しておいた方がいいな。もしくは現職にも教養試験を義務化しようかね」

「村上部長──」

 ある程度の人権意識は必要ではあるが刑務官にとっての任務は主に収容者の戒護であり、拘置所においては裁判までの間の保安警備である。

 直樹は趣味で文学に詳しいだけで、犯罪者と対するハードな通常任務ではそのような知識は必要とされていない。法務省矯成訓第三二五八号・刑務官の職務執行に関する訓令で、その職務の品位にふさわしい品位の保持に努めなければならないとあってもそれはあくまでも形式的な命令であり、刑務官に暴力をふるったり脅しをかけようとする荒くれ者も多い現場に直面する当事者へ必要以上に品位を求めるのは正直酷な話である。

 また、現場を知らない上司も多く、意見しようにも組合もなく、近年では事務職より軽視されがちで、絶えず収容者を迫害しているとなど思い込まれている前線で働く刑務官は常に厳しい立場に立たされている。

「ハハ、冗談だ、真に受けるな。さて、教授、改めて紹介しよう。井上君から引き継ぐ新担当の東直樹主任代理だ。よろしく頼むよ」

「東? では貴方が嘉さんの」

 坂巻は狼狽した頭を上げた。

「それより坂巻、何故お前が『教授』なんだ」

 直樹は訝しげにニックネームの理由を尋ねた。

「はあ、いつの間にかそう呼ばれていましたから私は存じません。しかし、他の方は理由があって名付けられましたよ。野呂さんは動作が遅いし名前の通り『ノロ』ですし、無信心の石動いするぎさんは『ヨナ』、サトゥルヌスの異名がある間宮君は『ゴヤ』、もしくは金持ちの家系から『殿下』。唯一嘉樹さんだけは渾名もなく『嘉さん』です」

「分かった。邪魔したな」

 直樹は村上から鍵を受け取り、房扉を閉じようとした。

「東先生」

 坂巻は急に真剣な声色で呼び止めた。直樹は施錠を止めた。

「何だ」

「扉を開ける前、貴方は私を『事件の犯人』だと仰いましたね」

「ああ。お前は広く有名だし、書類にはそう記されているからな」

 役人らしい淡々とした応答に坂巻は力強くアピールした。

「でしたら唯一つお伝え致します。既にご存知かと思いますが私は無実です」

「俺にも冤罪えんざいを訴えたいのか」

「新しい先生へ代わる度、真実だけは」

「そうか。だが、それは弁護士と裁判所に上申してくれ。俺は再審請求も妨げないし、一切関与もしない。中立を守るだけだ」

 直樹は無愛想に言い放つなり鍵を掛けた。

「亀山毒ミルク殺人」は特異な難件であった。

 新聞記事を大々的に盛り上げた猛毒混入事件は野呂の一家惨殺事件と共に生前の出来事であるが坂巻の方が四歳年上で、実際クラウド・ナインにおいて坂巻は最長老であった。

 一九六一年四月三十日午後三時、三重県亀山市若羽町の自治会議所で悲劇は発生した。

 坂巻敦夫(三四)が催す『滋養強壮乳試飲会』で、生薬と健康食材を調合したミルクを口にした成人男女、子供を合わせた二十人が卒倒、急いで救急病院に運ばれた。その内、八人が数時間以内に心臓麻痺で死亡、嘔吐した十二人が意識不明の重態に陥るなど町は騒然となった。

 司法解剖の結果、胃からは殺鼠剤「猫いらず」の原料である黄燐おうりんが大量に検出された。

 急性中毒死亡率が六割に達するその致死量は僅か〇・〇五から〇・一グラムであるが、遺体には推定二グラムが含まれており、情況証拠から亀山署はミルクに実質毒を混入出来たのは主催者の坂巻であると即断し、逮捕へ踏み切った。

 警察の主張は「ミルクに入っている黄燐は独特のニンニク臭がするため、粉末ガーリック入りだと事前に言い繕っていた事、そして黄燐がミルクなどの脂肪類に溶解しやすい専門知識は一般人には持ち得ない事」を根拠とし、元薬品会社で薬物研究に携わっていた坂巻を黒とした。

 逮捕された坂巻は頑なに否定したが警察は自宅で押収した『猫いらず』から同量の薬剤がなくなっていると算出し、裁判所に容器を提出した。

 一審の津地方裁判所は証拠不十分として無罪を言い渡した。ところが、判決を不服とした検察側が控訴、名古屋高裁では前審を覆し、逆転有罪とされ死刑判決が出された。また最高裁への上告は棄却され、伊勢拘置支所から移送された坂巻はそのままここで刑の執行を待つ身となった。

「それでも八回目の再審請求だ。『坂巻を救う集い』の援助も続いている。家族もいない、忘れ去られる一方のノロさんと違い亀山事件は世間の感心も強い。高裁の誤審説が極めて有力だ」

 次の房へ向かいながら村上が直樹の想いを読んで現状を述べた。

「部長は坂巻の言い分を信じているのですか」

「私も刑務官だからコメントは出来ない。ただ、裁判所も押収していた証拠品を紛失してしまうなど不手際が目立ったし、猫いらずは当時どこの家庭にも置いてあった。同じ分量の薬剤が教授の家から減っている事を罪証に挙げた警察の強引さが今になって非難されている」

「いえ、仮にそうであっても動機は明らかです。被害者の子供の父親は研究中に薬品で左目を焼いてしまった坂巻を『片めくら』と差別して嘲笑していた。事故で失職を余儀なくされた坂巻にとってその言葉は侮辱以外何ものでもなかった」

 直樹は判決通りの内容を語った。村上はチラリと直樹に目を遣った。

「だから子供を盛り殺し、復讐を遂げた訳かね」

「そうです。町の自治会からもあまり良い印象を抱かれていなかった坂巻は意趣返しに大量殺人を企てた。二審は検察の意見を支持した。坂巻以外犯行に及ぶ動機を持つ者は見当たらない。体力のない研究者が手っ取り早く報復するには毒物が一番適していた。全て明白じゃないですか」

「まあ、君の見解は判ったが、これ以上のあげつらいは不毛だ。次へ行くとしよう」

 直樹は村上の抵抗に落胆を感じたが、エレベーターの南隣に位置する九二八房へ足を進めた。

「ヨナさん、村上だ。失礼するよ」

 視察孔からは「部長さんか、勝手にどうぞ」とすげない返事が返ってきた。

「私は再審の資料作りの最中なんです。ご用件なら手短に」

 ペンをせわしそうに動かしていた石動は解錠と共に極端に無愛想な四角い目をじろりと上げた。

 直樹はその不遜な態度に思わず怒鳴った。

「八三〇〇番、その言い種は何だ。村上部長に失敬だぞ」

いそがしいのに失敬もクソッタレもあるかい。大体そのサングラスの方が失敬だろが」

 石動は手を止め、気色ばむ直樹を見上げた。

「何だと!」

「これ、大人げないぞ。多忙な所をすまないな、ヨナさん。来週からここに就く担当の紹介に寄っただけなんだ。長居はせんよ」

「また、恒例の病気交代ですか。骨のない奴らばかりだな、名拘の刑務官は」

 黒いポロシャツから伸びる筋肉質の腕を回した石動はエラの張った顎で直樹を示した。

「今度のは大丈夫なんでしょうね。あのタコ入道みたいに住人の事件を碌に覚えもしないで大きな顔をしやがるクソッタレは容赦しませんぜ。独活うどの大木ほど迷惑なものはない」

「ヨナさんの要求は手荒いからな。井上君の神経も余程参って──」

 と、ここで言葉を遮るように直樹が村上の前に進み出て口を開いた。

「石動礼二。三十八歳、福井県坂井郡丸岡町出身、元土木作業員。罪名は誘拐殺人。小松市の串野小学校から下校途中の、当時七歳だった弘文ちゃんを誘拐し、要求した身代金二千万円を受け取った直後弘文ちゃんを殺害し遺体をロッカーに入れた」

「ふん、所詮生齧なまかじりだろ。それっぽちじゃ不合格だ」

 石動は小馬鹿にした手をヒラヒラと振ったが、直樹は「小松事件の概要」と、一気に全容を語り出した。

「一九九二年八月二十日、午後四時、石川県小松市串野小学校から下校途中の桑山弘文ちゃん(七)が行方不明となった。何時間経っても帰らない息子を心配した両親は小松署に捜索願を届け出た。その矢先、『子供は預かった。二千万用意しろ。警察には喋るな』との電話が入り、小松署は桑山家へ潜り込んだが、後は一向に連絡が無く、翌日一通の封筒が配達された。

 ダイレクトメールの宛名シールを再利用した封書は小松の郵便局から投函されており、一枚のメモ書きが入っていた。

 文面は三文字を除き、全て新聞の切り抜きで、『二三日 朝一番父 一人 車 でKOMATSU 駅 行け サツ来ると 頃す』と貼られ、鍵が同封されていた。

 父親が指示に従い小松駅へ行くと鍵はコインロッカーのものと判った。

 ロッカーを開けると今度もメモが置いてあった。それも新聞の切り抜きであった。

『八号 三六四号 山中温泉 ホテルもみじ フロント 名前 いえ 紙 速工 全部 焦がせ 火 遅いと コロス 無線 ころ酢』との指示と共に百円ライターが転がっていた。即座にメモを灰にした父親は車でそのまま八号線、三六四号線を通り、指定のホテルで名乗った。年配の支配人は貴重品入れから無記名の封筒を探った。抜き出された中身は、『大内峠十号 サツ まけ 長畝 〒の Pの 青いペール 金 入れろ』となっていた。同じく同封のライターで紙を焼いた父親は車を飛ばし、三六四号線から十号線へ進路を変え、警察の追跡を振り切った。車内の警察無線は鳴っていたが、応答している所を見付かれば子供の命に関わるから出なかった。

 そして長畝郵便局の駐車場に備えてある青いゴミ箱を開けると『ここ に 金入れろ カネ入れば 子DOMO 返す そのママ帰れ』との紙が丸めてあった。父は自宅へ戻ると待機していた刑事に急いで事情を話した。警察は郵便局へ急行したが身代金は跡形もなく消えていた。二日後、再び郵便でコインロッカーキーが届けられた。但し、鍵は二つ隣の動橋いぶりばし駅のもので、そこには袋に入った息子のバラバラ遺体が詰められていた。

 石川県警は福井県警と合同捜査本部を設置し、総力を挙げて犯人探しに挑んだが、手元に残っている証拠は最初のメモと父親が持ち帰ったライターの二品。ところがどちらからも指紋は検出されず、ライターの出所は余りにも一般的過ぎて不明。郵便の消印からも捜索したが手掛かりは絶無であった。ホテルもみじの支配人も手紙を持参した犯人は若い男としか記憶になく、新聞の切り抜きも福井新聞からカッターで切り取られただけで後は何の情報も得られなかった。

『番・父・駅』の直筆三文字に限られた捜査本部は長畝に土地鑑のある者と推察し、ドライブ好きで金に困っており、無職か、長期休暇を取っている者を虱潰しに探した。

 間もなく長畝郵便局から然程離れていない団地で一人の男が捜査線上に浮かんだ。

 男の名は石動礼二(二七)、土木作業員で会社の都合により一時解雇されていた。

 離婚したての石動は日がな一日パチンコで時間を潰していたが、いきなり羽振りがよくなり、車も新車に替え、飲み屋で梯子の日が続いているとの噂を聞き付けた丸岡署は確信を深めた。そして偶々たまたまクラブで客と掴み合いになった石動を傷害未遂で逮捕、誘拐事件の取り調べと家宅捜索を行い、団地の押し入れから桑山の空鞄を発見した。

 鞄には父親の指紋も出た。また筆跡も一致し、初め鞄は道路に捨ててあったから拾っただけで、通帳に新しく記入された五百万の出所も高校野球賭博とのみ馬券で大穴を当てたと言い張り、誘拐を否定していた石動は一週間後、弘文ちゃん殺しを自白した。

 一審の福井地裁では死刑が求刑され、石動は控訴。ところが名古屋高裁金沢支部でも死刑判決は覆されなかった。上告するも最高裁は棄却。死刑が確定し現在名古屋拘置所に収監され、再審を請求中。二審で弁護人は筆跡鑑定のみを主力とし、判決の決め手とするのは条理に反すると反論。複数犯説を支持し、石動無罪救済会は『平成のドレフュス事件』と位置付け、裁判所を非難している──と、こんなものでどうだ、石動」

「ならばドレフュス事件とは?」

 石動は入口に向くと突如前のめりになって訊き足した。

 直樹は淀みなく解説を加えた。

「広義では一八九四年に起きたフランス陸軍機密漏洩事件を指すが、スパイ嫌疑を掛けられたアルフレッド・ドレフュス大尉の名を取ってそう呼ばれた。ある日、ドイツ大使館の屑籠からフランス陸軍の情報を暗号で記した、明細書と呼ばれた手紙が見つかり大騒ぎとなった。仏軍参謀本部のアンリ少佐は機密内容から、ユダヤ系で、ドイツ人と接触する機会の多いドレフュスを犯人だと告発した。その最終的な証拠に挙げられたのが筆跡だ」

「で?」

「フランス軍部は人体測定法の権威であったベルティヨンに鑑定を依頼した。ベルティヨンは迷いなくドレフュスの筆跡と手紙の筆跡が一致すると回答した。それによりドレフュスは裁判で悪魔島での終身流刑の宣告を受けた。だが、これに疑念を抱いたピカール中佐は独自の調査に乗り出し、軍部へ報告した。にも拘わらず上申は無視され中佐は左遷された。しかし、事件の胡散臭さに触発された文学者のエミール・ゾラやアナトール・フランス、マルセル・プルーストなど著名人がドレフュス再審に向けて活動を始めた。フランス国民は、反ユダヤを支持する有罪説と冤罪説に二分して大論争となった。そうすると事の重大さに恐れをなしたアンリが、ドレフュスを貶めるために自分が文書を偽装したとする遺書を残し自殺した。これがいわゆるドレフュス事件だ」

「その問題点については?」

「フランスに蔓延まんえんしていた反ユダヤ主義は言うに及ばず、そもそもの原因は筆跡鑑定において素人だったベルティヨンが採った的外れな数学的手段による。彼はケトレ教授の『統計的蓋然性がいぜんせい(確率)』を筆跡鑑定に当てはめた。出現頻度を表す推定事前確率の手法は正しいが乗積の値を誤り、似ているとされるドレフュスの文字の割合だけで犯人をドレフュスと決め付けた。もう一つはフランス軍部がベルティヨンの権威に盲従した点にある」

 ここで石動が同意の膝を打った。

「そこだ。それが俺の鑑定と同じなんだ。専門家は絶対ミスがないと裁判官は錯覚してやがるんだ」

「科捜研(科学捜査研究所)の文書鑑定課は相当な自信を持っているようだな」

「裁判でも解説はあったよ。字画の形態や構成も一致した。筆圧もほぼ間違いないとね。だが奴らは鞄の指紋を盾に尤もらしく証明立てているだけで、そんな鑑定に証拠能力なんてありゃしない。たった三文字で死刑だぞ。警察も裁判所もクソッタレだ」

「お前は高校野球賭博の胴元を再度の証人として事件の洗い直しを求めているんだってな」

 直樹は再審を求めている内容を確認した。石動はそうだと拳を握った。

「奴こそが再審の目玉だ。あいつさえ正直に吐いてくれれば俺の金の出元が明らかになるし、あの時間は事務所にいて奴と二人でだべっていた。なのに逃げた胴元の行方を警察は追わない。裁判官もまともな頭をしていればあんな計画的な犯罪が一人で回せないくらい判断もつくのに、結局俺が柄の悪い肉体労働者っていう偏見で死刑を言い渡しやがったんだ」

「しかし、お前の姿は身代金が消えていた時刻に長畝郵便局の防犯カメラがとらえている。偶然葉書を買いに行ったと証言しても駐車場で金を取っていない裏付けにはならない」

「ケルベロスと似たり寄ったりの指摘をするんだな、あんた」

 可笑しそうに石動は皮膚の厚い小鼻をうごめかした。

「いいかい、じゃあ仮に俺が弘文ちゃんを誘拐したとしよう。どうやって誘拐した? 車に乗せたら髪の毛や指紋が残る。警察は新車を購入したのは罪跡湮滅のためだなんて詰め寄ったがな、下取りした車はそのまま知り合いの中古屋に置いてあったんだ。車は掃除がされていなかった。俺は自慢じゃないが片付けは苦手だ。だから渡す時も何一つ触っちゃいない。警察は車内をすみから隅まで調べただろう。勿論俺は犯人じゃないから何の手掛かりもない。当然発見出来なかった、最初はな。ところが暫くして弘文ちゃんの毛髪がトランクから見付かったと追加報告があった。俺はその時初めて警察の恐ろしさが身に沁みて分かったよ」

「証拠の捏造ねつぞうか。有り得無くはないな」

 直樹はつい口に出してしまった。村上は即座に「おい」と注意した。

 愉快気に石動はペンを回した。

「わはは、村上部長もやっとまともな担当を連れてきてくれましたね。前後関係の噛み合わない自白調書を鵜呑みにしている身分帳で判断されりゃあ無実の者は遣り切れません。弘文ちゃんを解体した凶器は? 隠し場所は? 身代金二千万の在処ありかは? そんなのは無関係の俺が知ったこっちゃない」

 やがてその笑い声は段々と苛立ち混じりの罵声へと変わっていった。

「ところが見込捜査で俺を犯人と頭ごなしに決め付けた丸岡署は巧妙に誘導尋問し適当な自白調書を作り上げた。裁判では秘密(犯人しか知り得ない事実)を暴露したと有罪判決が下された。ここでは単に死刑囚扱いで、不勉強な奴は言いたい放題で役人風を吹かすだけだ。だから俺は警察の手下のようなクソッタレた担当は断じて認めない!」

「──石動、お前、九二〇〇番とは対話したか」

 石動から途轍もない激怒の形相を向けられたが直樹は何一つ動ぜず冷徹に問い掛けた。

「九二〇〇番って、嘉さんか。ああ、俺に法律やら再審の遣り方を詳しく教えてくれたのは嘉さんだ。ここであの人の世話になってない奴は一人もいないよ」

 やはりな、と直樹は得心して眼鏡と制帽を取った。

 石動はその素顔に慌てふためいた。

「あ、あんた、本当にここへやってきたのか」

「前任の井上に代わって正担当になる。俺も警察は嫌いだが、もっと反吐へどを吐くほど嫌いなものがこの世にたった一つある。分かるか」

 石動はほうけた顔を振った。再度変装に戻すと直樹は右頬を切る仕種をした。

「竹之内嘉樹だ。俺の父親を絞め殺した極道のクソッタレだ。よく覚えておけ」

 房の扉は不機嫌さに合わせて加減無く閉められた。

「次は誰ですか、部長」

「ゴヤ君だ」

「間宮邦広ですね」

 今から世界を震撼させた一大猟奇犯と対面出来る。怒りに任せていた態度を一変させ、直樹はごくりと生唾を飲み込んだ。

 そもそも死刑囚舎房は夜勤巡回以外滅多に入れず、ましてクラウド・ナインは魑魅魍魎ちみもうりょう跋扈ばっこする鬼門だと皆近寄りたがらない。鬼哭啾々きこくしゅうしゅうと無念の内に処刑された者の亡霊が出没する噂も流れているが、それ以前に死刑囚に顔を覚えられたくない心理が働くようである。

 しかし、直樹は文明国家における絶対的タブーを犯した男の心情が知りたかった。

 渾名のゴヤには察しが付いている。スペイン画家フランシスコ・デ・ゴヤの名画、黒い絵の一枚、『わが子を喰らうサトゥルヌス』から取ったもので、間宮は事件当時サトゥルヌスの別名を使用していた。それが名拘では何故か作者のゴヤに変わっていた。

 直樹は問題の房の前にやってきたが、興奮のあまり体の震えが止まらず、緊張が増した手は何度も鍵穴を外してしまった。

 見かねた村上が、九三三の番号が浮き出た房扉を代わりに開けた。

「やあ、部長さん。お久し振り。元気だった?」

 解錠を合図に壁にもたれていた間宮は丸々した童顔を綻ばせ朗らかに手を挙げた。

 菓子を詰め込んだ頬をリスのように膨らせ、伸ばした短い膝には輸入車カタログが乗っている。服装もクレックシャツに薄緑のベストを羽織り、コーデュロイのトラウザーズ、靴下はアーガイルチェックの英国スタイルで、壁には勢獅子きおいじし紋章が貼り付いたブレザーが掛かっていた。

「ゴヤ君、菓子屑が胸の所に落ちてるぞ」

「あ、本当だ。高貴な紳士がみっともないね。へへへ」

 照れ臭そうに妖精のように尖った耳の裏を掻いた間宮は屑籠を取ってハンカチで胸元を仰々しく払うと、突然思い出したように言った。

「見て見て、この髪型良いでしょ。元床屋だった衛生係のおっちゃんに切ってもらったんだ」

 片笑窪えくぼを刻んだ間宮は刈り上げ気味にサイドカットした頭を自慢げに示した。

(この男がハーメルンの笛吹き、カーニバルの人喰いカニバリストと恐れられた、あの間宮邦広か)

 想像をがらりと覆された直樹は無邪気にはしゃぐ子供っぽさにすっかり気勢を殺がれてしまった。

 一九九九年九月十七日。富山県氷見市窪でおぞましい事件は始まった。

 落窪小学校へ登校する途中、小楠花梨(七)が行方不明になった。

 幼いながらも少女は評判の器量良しで、両親も変質者には気を付けるよう注意していたが、神隠しの如く忽然こつぜんと消えた。直ぐ捜索願が提出されたが花梨は見付からず、代わりに三日後、自宅玄関脇に見知らぬ小荷物が置いてあるのが発見された。

 開けてみると中には骨らしき一部とビニールに包まれた肉片が、「娘さんは身も心も大変おいしゅうございました。サトゥルヌス」とのワープロ文書に添えられていた。

 誰かの悪ふざけと憤慨しつつも気色悪くなった両親は一応一式を警察へ届けた。

 当初氷見署も悪戯と思って取り合わなかったが念のため科捜研へ回した。

 すると期せずして驚天動地の回答が寄せられた。DNA鑑定から荷物の中身は花梨の骨肉と判明したのである。

 人喰い誘拐犯出現に富山は固より全国が大慌てとなった。

 そんな騒ぎの中、第二の犠牲者が再び犯人の毒牙にかかった。

 同じ氷見小久米の山口悠(八)が下校途中で掻き消え、翌々日裏庭に捨てられるように転がっていた手紙付きのダンボールから骨片が見付かり、文面には「季節外れの謝肉祭カーニバルが開催されました。次のディナーは誰にしよう。サトゥルヌス」と綴られていた。

 ローマ神話における農耕神サトゥルヌスは「いつか子に権力を奪われ殺されるだろう」という予言を恐れ、次々と我が幼子を食い殺した逸話で有名である。そしてそのモチーフはルーベンスなど様々な画家に描かれたが、中でも世に知られているのがゴヤの残虐な一枚であり、その神話に準えられた連続幼児殺害事件は一気に耳目を集めた。

 犯人を検挙できない警察を嘲笑う挑戦状へマスコミは「氷見カーニバル事件」と称し、大々的に「人喰い変質者現る」と放送を繰り返した。県警と氷見署の合同捜査本部は犯人探しに躍起になったが指紋もなく目撃者もいない事件に困惑した。

 そして第三の凶行が総領で起こった。犠牲者は天野茜(七)である。

 まんまと少女誘拐殺人を重ねて行くサトゥルヌスに警察は焦りを隠せなかったが、やっと一本の線が繋がった。

 被害者は全て低学年の女子。行方不明現場は絶えず小学校の近辺であった。

 警察は教育委員会を通じて生徒に注意を喚起しつつ、各校に刑事を張り込ませた。

 そうすると一週間の後、麦積小学校近くで、下校中の女子を言葉巧みにアストン・マーチンへ誘うジェームス・ボンド気取りの若い男が職務質問に掛かった。

 刑事は不審な挙動を怪しみ、任意同行を求めた。

 その英国かぶれの若者こそ医大生の間宮邦広(二七)であった。

 子供タレント専門スカウトを詐称していた間宮は警察の仮借ない追及に負け、一連の事件だけでなく高岡の女子中学生家出、富山の女子大学生失踪にも関わったと自供した。

 氷見署は飯久保にある一人暮らしの被疑者宅を捜索し、鍵が掛けられた大型冷蔵庫からタッパーで保管されたおびただしい人肉を発見した。その一つ一つは被害者の名前別に分類され、また、部屋から押収されたビデオテープには強姦レイプシーンと共に悪心を催す光景が克明に記録されていた。

 それは猿ぐつわを噛まされ泣き喚く本人の前で、部分麻酔を射ちながら四肢を切断し、その肉を調理し、含味するという身の毛も弥立よだつ戦慄の映像であった。

 富山地裁高岡支部の裁判は大いに注目された。

 だが、判決は言わずもがなである。寸毫の躊躇ためらいもなく裁判長は強姦と人食嗜好カニバリズムの暴状が社会に与えた影響は甚大であると極刑を言い渡し、二審でも死刑は変わらず、スピード裁判は確定をも急がせ、高岡拘置支所から名古屋拘置所へ移送された間宮は九階の一員となった。

 クラウド・ナインの中でも特にこの事件へ強い関心を寄せていた直樹は、取材や新聞の情報から間宮は強かで狡賢いとの人物像を描いていた。ところが今日の出会いで一転した。

「美味しいよ、そっちのサングラスの人も食べる?」

「いや、結構。スナックは胃にもたれる」

 人懐っこい丸顔から野菜菓子を差し出された直樹は奇妙な返事をした。

 間宮はパチンと指を鳴らした。

「ホテル・クラウド・ナインへようこそ。新しいベルボーイさん」

「──そういう人を食った態度は感心しないな」

 直樹は当意即妙に皮肉を述べた。

 対して興をそそられた間宮は可楽しそうに手を叩いた。

「いいねえ、切れ味の良いジョークだよ。さすがは機知に富む嘉さんの兄弟だけあるね」

「何で判った。廊下の声が聞こえていたか」

 間宮は違反を物ともせず布団の上に飛び乗って胡座を掻くと、低い小鼻を弾いた。

「僕が大学で専門に学んでいたのは筋肉と骨格だよ。あなたの出っ張った頬骨弓きょうこつきゅうと強く盛り上がった咬筋こうきん、それと手首の尺骨茎状突起しゃっこつけいじょうとっきの独特な形は嘉さんと一致したんでねえ。そんな安易な変装で隠そうなんて二流もいいとこ。ヨナさんには通用しても僕の目は誤魔化せないよ」

 ぞっと全身に悪寒が走った。それと同時におちょぼ口から時折覗く鋭い犬歯がやけに目に付き、まるで喰われるために品定めされた草食動物のような感覚に襲われた。

 間宮は直樹の異常な気の張りに気付くと高笑いした。

「アハハ、安心しなよ。僕は男の肉なんかには興味ないから」

「当たり前だ。ところで、竹之内はどんな風にお前を笑わせたんだ」

「嘉さんかい。嘉さんはね、僕がここに収監された時、開口一番、『ベジタリアンになれ。長生き出来るぞ』って言ったんだ。あのセンスあるユーモアで一遍にファンになったねえ。九階に空調を効かせてくれたのも、舎下げ品を増やしてくれたのも、電灯のワット数を上げてくれたのも全部嘉さんが交渉してくれたお陰だよ。だからここの住人はみんな頼りにしてるんだ。嘉さんは法律に明るいし計算にも優れている。誰にも差別なしに、どんな相談にも乗ってくれるALADCの主宰さ」

「アラードク?」

The  Allianceアライアンス forフォア Liberation リベレーションofオブ Allオール Death-rowデスロー Convictsコンビクツの略だよ。全死刑囚解放同盟。みんなが嘉さんを初代代表にしたんだ」

「また大層な、叶わぬ夢の称号だな」

「そうかなあ。僕は嘉さんなら何か度肝を抜く事をいつかやってくれそうな気がするよ」

 間宮は新しい菓子をついばんだ。

「監獄、特に死刑囚舎房は立法行政の暗部が凝縮されているからね。密行主義は政界でも同様だし、ここが厳しく締め付けられるのはいずれ国民にも波及する。官僚は管理世界の人間だから自由を嫌うんだよ。あらゆる物を束縛し、圧殺して能率的に組み込みたいんだよね。今の政府は民主主義とは名ばかりの江戸幕府さ。切り詰めさせた民草から得たぜい悪代官かんりょうは贅沢三昧だ。その内暴動いっきでも起こるよ。ガラス張りの行刑は理想だけど、それには政治もガラス張りにしなくちゃいけない。でもあのタヌキ達は自分の直隠ひたかくしにしてきた不正が見透かされてしまうから未来永劫、名拘みたいな目隠し板を付けたままにしておくんだよ、きっと」

「はっ、確定者のお前から政治評論を聞くとはな」

 直樹は呆れた鼻息を抜いた。

「そう? 僕は確かにクラウド・ナインに拘置されているけど、ここの皆以上に死刑が適応される愚者は世にごまんといる。適者生存なんて資本主義は自ずと標榜ひょうぼうするけどそれって言い換えれば弱い者は滅びろって強者のおごりだよね。ま、富者の僕が言うのも何だけどさ。社会に適応出来ず罪を犯す人間なんてざらだよ。それなのに経済政策に失敗してみんなを路頭に迷わせ、そのせいで首を吊った弱者は数え切れない。本当に絞首刑を宣告されるべきは能書きだけ垂れて何も行動しない無能で無責任な政治家じゃないかな」

「うむうむ、ゴヤ君は勉強家だ、大したものだ」

 村上が賞賛すると間宮は子供のように含羞がんしゅうして舌たるい声で切り出した。

「ねえ、部長、僕の部屋だけど東端に変えてもらえないかな。この房は西からの陽当たりが強いんだ」

「だそうだ。どうする東君。希望に添ってやるかね」

「無理です。ここは一週間前に定期転房したばかりでしょう。差し詰め、優先事項でもありませんし、第一、クーラーがついているのに暑いとはごねさせません」

「ええ、そんな無慈悲な。あなた、ほんとにあの嘉さんの弟?」

「俺は東直樹だ。竹之内とは縁も所縁ゆかりもない。とにかく転房は二ヶ月先だ。十一月まで辛抱するんだな。さ、部長、次へ参りましょう」

 極端なほど冷徹な物言いで直樹はさっと踵を返すと九三三房を施錠した。

 村上は、まるで兄弟否定の行脚だなと肩を竦め、東廊下に向かう背中へ念押しした。

「これから九二〇〇番の房へ向かうが、事を荒立てるのは本意ではない。大丈夫かね」

「何ともありません。私は竹之内のような監獄の法律屋が嫌いなだけですから」

 村上は深く嘆息した。憎悪の感情は全く収まっていなかった。

「一通り終わりましたか、主任代理」

 竹之内が収監されている保護房は担当台の東正面にある。再度欠伸をして鮫島が声を掛けた。

「ここが最後だ」

「では、お待ち兼ね、一別以来の、涙のご対面ですな」

「生憎だが、奴が流すのは血潮となる」

「東君──」

「冗談ですよ、部長。九一〇房を解錠します」

 直樹は鍵を差し込んで房扉を開けた。

 ギギッと軋んで開いた薄暗い保護房内には、木製拘束台のベルトに縛り付けられた一人の大男が足裏を向けて寝そべっていた。グレーの囚人服を着せられ、下はトランクス一枚だけの格好で、右太腿には天井から吊り下げられた栄養点滴の針が刺さっている。

「竹之内君、長らく待たせたね。君のご所望だよ」

 村上が室内の人物に声を掛けた。

 四方を囲んだ柔らかい樹脂壁と異様に高い天井、そしてリノリウム床が無機質さを余計増幅させた。め殺した小さなブロックガラス窓は開閉がきかず、ここが改めて自殺防止房だと実感出来る。暴れる囚人には官衣に着替えさせた上、革手錠を嵌めて放り込み、食事も「犬食い」を無理強いさせ、用を足す為だけの地面の孔からは便臭が漂い、入浴禁止の罰をも受ける為、汗臭さも混ざり合い、嗅ぎ慣れたとはいえ直樹は堪らず鼻を押さえた。

「よお、直、遅かったな」

 強制輸液を受けている竹之内嘉樹が首を持ち上げた。

 直樹は、右頬桁ほおげたから小鼻に掛け一直線に斬られた傷以外同じ容貌を見交わして短く吐き捨てた。

「何やってんだ、貴様」


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