第二章 奈落の天界 

奈落の天界 Ⅰ


 冷却装置が効きにくい残暑の蒸し暑さと、半端に開けられた格子窓から漏れる通りの雑音が扇風機で撹拌かくはんされる待機室で直樹は物思わしげな顔をしていた。

 逃走の捜査本部を解散した拘置所では、マスコミに詰め寄られる前の俊敏な逮捕によって体面を保った所長を始め、陰で直樹を疎んじていた首席や統括でさえ手際よい対処を賞してくれた。

 矯正局と法務大臣から少々お叱りはあったものの、大事に至らなかった顛末てんまつから幹部は一ヶ月の減俸だけで済み、免責同然であった。

 直樹はその日の夜、記者会見に応じる柴田修を初めて見た。

 柴田所長とは一度も顔を合わせておらず、今回の労いも村上を通しての事務的な伝言であったので、柴田を見たのはテレビモニター越しである。ブルドッグに似た、視線が泳いでいる落ち着かない風貌であったが手柄顔でカメラに映っていた様は変に滑稽であった。

 ところが四日後、有沢連れ戻しが直樹にとって予想外の展開を引き起こした。

 登庁して間もなく村上から呼び出しを受けた直樹は誰もいない会議室で唐突に副看守長の階級章を渡された。

「本日より君を臨時の副看守長に任命する。正確には主任矯正処遇官待遇、主任代理だがな。それでも取り敢えず三級に昇格だ」

「はあ、また、有り難うございます」

「何とも気の無い返事じゃないか。嬉しくないのかね」

「逮捕は非常時の任務です。昇級して頂けるとは考えてもおりませんでした」

「まあ、掛けなさい。少し訳有りでな」

 勧められたパイプ椅子に腰を下ろすと、村上は存外な事を話し始めた。

「実は、佐波主任が半田支所に転任した。として」

 主任は副看守長である。こんな時の異動は大抵昇格人事で、直樹は聞き間違いかと疑った。

「早い話が左遷だよ。あの男は事もあろうに小賢しい手段で君を讒言ざんげんしようとしたんだ。今度の件で所長から叱責された市川と寺部に接触し、『有沢逃走は裏で喜多野看守部長が手を貸していたと告発すれば罪は解消される』とそそのかした。その甘言に釣られた二人は私の所へやって来た」

「馬鹿な! 私がどうしてそんな不正をするものですか」

 驚いた直樹は思わず立ち上がった。

「落ち着いて座りなさい。真実であればとっくに君は『看守等による逃走援助罪』によって逮捕されている。所詮、愚にもつかん誣告ぶこくに過ぎん」

 村上は興奮する直樹を冷静に宥め、椅子に座らせた。

「私は二人の前で君がどれだけ廉直で不法を嫌っているかを滔々とうとうと教えてやった。やがて市川も寺部も詰問に観念して自白した。佐波は一度君に助けられたのに恩を仇で返した。君は矯正局の特例異動者だ。主任は管区長の鶴の一声で降任、そして左遷と決定した」

「つまり新しい副看守長が決まるまで私に代わりを務めろと」

「ああ。今は暫しの代理だが、君が本来の特務を終えた後は正式に何らかの昇任の内示が届くだろう」

「特務? 特務とは何ですか」

 雑居から独居へ変わるだけならいざ知らず、村上は何故か「特別任務」という一声を発した。直ぐに直樹の胸中には奇異な感情が湧き上がった。

「転勤初日にお話しになった、独居房への配置転換という意味ではないのですか」

「あ、いや。まあ、ある意味その認識で正しいが、詳しい指示はもう少し後になる。それはさておき寺部と市川も本日付で辞職した。三名の欠員は大変だがスケジュールを調整してやっていくしかない」

「そうですか、結局二人とも辞めたんですか」

「君が責任を感じる事じゃない。自業自得だ。勿論逃亡を図った有沢の軽屏禁とて同じ。不幸な未決や受刑者を哀れむのは肝要だが、度を超えた処遇は時に危険をはらむ。君は省に属する法務事務官だ。いかなる時でも戒護の責務まで忘れてはいかんぞ、いいね」

 直樹は村上にだけは有沢の市原家訪問を話していた。しかし、刑務官には守るべき職務規程がある。規則を超える行為は同情であっても厳禁との注意を悟った直樹は「以後は慎みます」と恭しく敬礼した。


「喜多野主任、随分深刻な顔をなさってますね。何かお悩みですか」

 昼休みの待機室で腕を組み、逃走事件を再考していた直樹に川瀬が近付いてきた。

「その呼び名は止めろ。俺は暫定的な代理に過ぎん。正式な階級は看守部長のままだ」

 総務の一人が口まめらしく朝の辞令が昼には皆へ伝わっていた。

 直樹の正体が割れないのはもはや奇跡である。

「正式な後釜は処遇部の他の看守部長から選ばれるだろうよ。俺は金線きんせん(ここでは副看守長の事・袖章の筋が金色になっているため)なんかには一切興味がない」

「でも俺は主任になってもらえれば嬉しいですよ。なあ、阿佐田」

「うーん、一般職員はそう願っているけど、なかなか難しいんじゃないか」

「別に差し支えないだろ。今回の逮捕だって昇進の一因だ」

 責め立てる川瀬の口調に阿佐田が慌てて弁解した。

「その件を差し置いても高木看守部長とか、松島看守部長はここの古株だしさ。主任代理も再び無試験で主任に上がれば穏やかじゃない」

「正論だ。実力社会とはいえ年功序列も評価されるべきだろう」

 と、直樹は川瀬に脱いだ帽子を向けた。

「野心はないとお二方へ伝えておいてくれ。俺は出世競争で職場を荒らしたくないからな」

「残念です。主任代理なら職員の待遇とか色々改革してくれると期待していたんですけど」

「そんなのは主任になった所で無理だ。行刑改革は本省の着手事項で刑務官一人の力でどうこうなる制度じゃない。大体ノンキャリアの出世限界は矯正管区長、キャリアでさえ局付きの官房審議官だ。それこそ民営化にでもなれば枠も外れるだろうが」

「法務省が民営化って、そりゃまた面白いですねえ、喜多野さん」

 三人の会話に突然どこからともなく割り込んできた男がいた。つばの埃を払いながら直樹は気色悪く笑う刑務官を見上げた。名拘へ転勤してきてから一年の一般看守、五十嵐英彦である。

 大きなスキンヘッドの逆三角頭とアンバランスに細い体をくねらせ、丸い両目をちらりと上げる容貌は他の職員や未決が密かに「スズメバチ」と渾名あだなするに相応しかった。

「面白いか。ならば一度お父上の五十嵐玲二課長に刑務官の待遇改善を申し上げてくれ」

「ふうん、喜多野さんはマジ変わり者だ。ここでパパの役職を口にする人間は少ないのに」

 五十嵐は爪楊枝をくわえ、ゲップに喉を震わせた。

「変わり者がいてこその行刑さ。偏屈も必要だろう」

「間違いなくその色眼鏡は偏屈の証だ。でも僕に興味を示さない人はあまり得しませんがね、では、お邪魔」

 上官に敬意すら表さず五十嵐は体を振りながら席へ戻っていった。

 川瀬と阿佐田は小声で不満を漏らした。

「パパって面か、スズメバチめ。自分が大臣官房施設課長の六男だって踏反返ふんぞりかえってやがる。箸にも棒にも掛からない無能だからあちこちの施設を回されているのに」

「全く、奴のせいで辞めさせられた職員は相当らしい。親の七光りで採用試験に通らせてもらったくせにサボりしか考えていない。でいてお山の大将気取っているんだから質が悪いぜ」

 確かに五十嵐の周りには一顰一笑いっぴんいっしょうを窺い忙しく立ち回っている看守達が目に付いた。煙草に火を付ける長野宏一、食後のコーヒーを淹れる甲賀昌、肩を揉む最上秀次、三人とも露骨である。直樹は呆れ果てた顔を川瀬に向けた。

「今まで統括や首席はどんな扱いをしていたんだ」

「見ぬ振りですよ。面と向かって叱るのは村上部長くらいです。未決からの評判は最悪で、夜勤していると房から、些細な違反ですぐ懲罰に掛けるって泣き付かれます。あれで功科を上げようって腹なんでしょうが、小票キップを切り過ぎると煙たがられるのを知らないんですかね」

 刑務官の夜間巡回は違反を見つけるためのあら探し時間とも言う。全く違反を見つけなければ怠惰との評価が下るので些細な違反でも取り上げなければならない。それは警察の道交法違反者取り締まりのノルマ消化と似ている部分がある。それでも何が何でも懲罰にもっていこうとする刑務官はやはり嫌われる。

 川瀬の怒りに阿佐田が尤もだと付け足した。

「査定する人間が揃って触らぬ神に祟りなしだから駄目なんだよ」 

「全くだ。上司が皆、村上部長と主任代理みたいな、味のある人ばかりだったらなあ」

「おい、俺をそんなに買い被るな。第一、行刑改革なら溝口局長が既に実行されている。ここも外国人処遇に関しては幾つか改正されたぞ」

「そりゃあまあ、羊肉とかは戒律で処理された食材を特定業者から購入するようになりまし、ラマダン(イスラム教徒が断食などをする月間)でも事前に不食願さえ出せば認められるようになりましたけど。でもあれだってイスラムの有名な未決収容者が房内で病死して、日本の拘置所の粗末さを報道されたからで、局長自らが発案したんじゃありません」

「川瀬は手厳しいな」

「だってそうでしょう。『新行刑構造改革』なんて御大層に発表しましたけど、あれが現場の声を反映して作ったものでないのは最前線で働いている俺達が一番知っています。施設の近代化、受刑者への中等教育推進、刑務作業金の賃金制度、どれも一般受けするものばかりですが、あれは陰謀です。俺には局長の裏の顔が透けて見えます。主任代理も気付いているんでしょう」

 川瀬の問い返しに直樹は間を置かず答えようとした。

 正にその時である。

「死刑反対ー! 死刑止めろー! 拘置所職員よ、人殺しにはなるなー!」

 突発的な騒音が待機室に反響した。

 直樹は拡声器から発せられたがなり声に耳を塞ぎ、部下達を見た。

「何だ、あのやかましいのは」

「『雑草の会』ですよ。偶にああやってデモにやってきては声を張り上げていくんです。昨日、時期外れに札幌で一件執行されたでしょう。どうも、そのクレームみたいです」

 阿佐田が部屋中の窓を閉めながら言葉を濁した。遅れて所内のスピーカーから『美しく青きドナウ』が大音量で流れ始めたが、微かに外部の声は届いていた。

「死刑は野蛮な行為であるー。世界を見よ、廃止の時流に乗り遅れている日本は恥だー! 文明国の恥だー! 死刑に手を貸す拘置所職員よ。今こそ良心に立ち返り、愚かな法務省に抗議せよー! ストライキを決行し、サボタージュしろー!」

「戯け。そんなストしたら馘首くびだがや。お前ら法律知らへんのか」

 死刑廃止や省への中傷を仰々しく鼓吹する団体へ腹立った長野がスモークガラス窓へ叫んだ。

 国家公務員法第九十八条第二項(職員は、政府が代表する使用者としての公衆に対して同盟罷業、怠業その他の争議行為をなし、又は政府の活動能率を低下させる怠業的行為をしてはならない)には罰則として懲役三年、または百万円以下の記載がある。仮に法務省に属する刑務官がそれを行った場合先ず解雇だと思った方が良い。

 長野は「ボケナス共め」と罵声を重ねて浴びせたが、こちらからの肉声が達するはずがない。雑草の会は声を揃えて単調に繰り返した。

「死刑囚の人権を守れー。罪人であろうが生きる権利を奪い取るなー」

「何が人権や。ここにいる奴らはな、全員他人の人権を侵害して牢に入れられとるんじゃ。大体死刑が無い外国やと警官が犯人撃ち殺しとるやろが。日本の警察は簡単に発砲出来ん。それで死刑が野蛮て何や。よう考えてみい」

 五十嵐が荒々しく声を上げれば、最上と甲賀も同調した。

「俺も人権人権簡単に口にする奴は嫌いだがあ。一般常識も通じんならずもんに人権なんぞ与えたら遣りたい放題で、ただでさえストレス溜まるこっちの身が持たせん。未決も懲役も人間扱いなんて出来るか。刑を犯した全員腐ったゴミやゴミ。大体、会の奴らも昼間から暇潰しとらんと働け」

「言える。あいつら自己満足に浸っとるだけだがね。『私は立派な慈善やってます。監獄闘争を支える素晴らしい私を褒めて、もっと拍手して』」

 舞台役者の演技を真似た甲賀に五十嵐達は爆笑した。

「そうか、ここには刑場があったんだな」

 悪口に盛り上がる五十嵐達とは対照的に改めて名拘の地下区域を想見した直樹は目を伏せた。

 処刑場を付設する施設は全国に七カ所ある。札幌刑務所、宮城刑務所、東京拘置所、大阪拘置所、福岡拘置所、そして名古屋拘置所である。

 それを証明するように名拘にはB階のボタンが付いたエレベーターが稼働していた。

「チッ、心外ですね。会の言い種じゃまるで俺達全員が死刑に係わっているみたいですよ」

 忌々しそうに川瀬の舌が鳴った。

「B行きに選ばれる刑務官なんてほんの一握りなのに、奴らは一律人殺し扱いですからね。昔ここで執行があった日の晩、家族が俺の手をじっと眺めるんです。ニュースで知っているんですね。俺は関与していないのにあの疑いの目をされた時は堪りません」

「あっ、うちの女房かあちゃんも一緒の事するで。あれは嫌やでかんわ」

 耳をそばだてていた最上がついと川瀬の愚痴に乗った。

 五十嵐は額に青筋を立て最上を睨んだ。裏切り者と誤解された最上は焦って取り繕った。

「けど、五十嵐さん。地下行きなんか何百回も連荘れんちゃん(パチンコ・スロットで大当たりが連続する意)するくらい確率無いんでしょ」

「へへへ、そりゃあ台が故障せん限りないわ。後は非合法に裏ロムに交換するとかな」

「そういえば俺は新台で一昨日二万やられた」

「は、お気の毒に。俺はこれで七万の儲けや」

 自慢げに三度宙を親指で弾きつつ五十嵐は直樹に向いた。

「喜多野さんは、最高どれくらい稼ぎました?」

「俺はパチンコもスロットも知らん。ギャンブルの類は一切な」

「なら競馬うま競艇ふね競輪ちゃりも! へえ、賭事の楽しみも知らずによく生きてますね」

「──五十嵐、お前、六〇四房、飯尾隆が何で捕まったか覚えているか」

 と、急に直樹に問われた五十嵐は飯尾、飯尾と呟きながら何とか罪名を思い出した。

「あ、あー、強盗たたきでしたっけ」

「そうだ。飯尾は競馬の借金で首が回らなくなり、闇金に手を出した結果、暴力団の督促から逃げる為に強盗に走った。賭けで身を滅ぼした馬鹿な収容者を俺は嫌というほど見ている。小遣い銭で遊ぶのはいいがまかり間違っても刑務官が懲役にはなるなよ」

「へっ、村上部長みたいな年寄り臭いお説教は願い下げですよ。おい、時間だ。行くぞ」

 五十嵐は口角を歪め、ダイヤモンドがちりばめられたピアジェの長針に目を遣ると取り巻きと共に待機室から出て行った。

「主任代理、お休みは何をされているんですか。俺もあいつら程じゃないけど少しは玉で遊びますよ。パチンコでなければ釣りとかですか」

 デモの罵声が遠ざかっていく頃、川瀬が興味ありげに訊いてきた。

 直樹は「看病」とだけ口にした。

「どなたかお悪いんですか」

「お袋がな。うちは親父が早く他界しているから俺が見舞いにいかないといけない」

「でも、主任代理には奥様がお見えでしたよね」

「女房も理由があってお袋の側にはやれない。悪いが家の内情はもう訊かないでくれ」

「あ、すみません」

「いや、謝る事じゃない。それより俺達も任務に戻ろう」

 クラシックが鳴り止み交替要員が待機室に入ってきた。

 直樹達は立ち上がり廊下へ出た。

「そうそう、雑草の会って言えば、阿佐田。最近井上の奴、かなり変じゃないか」

 不意に川瀬が担当舎房へ向かいながら問い掛けた。

「井上──ああ、去年の柔道大会で三位だった井上亮治か。おう、確かにここ半年でげっそり痩せたよな。前は横綱みたいな体付きだったのに」

「だろう。実は本人は黙ってるけど、どうやら上の鬼門に日参しているらしい」

 川瀬が眉根を寄せて天井を指さすと阿佐田がすかさず呪わしそうに目を細めた。

「げっ、まじか」

「ああ。三日前に馬券売り場ウインズで見掛けたけど十番人気とか、後はおかしな馬連ばっかに大金はたいてた。一攫千金狙っている風じゃなかったし哀れだった。ありゃ、間違いなくクラウド・ナインのせいだな」

「クラウド・ナインかあ。あの化け物の巣窟だけは俺も遠慮したいよ。通った同僚も何人か鬱になったらしいし」

「『クラウド・ナイン』だと。二人ともさっきから何の話をしているんだ」

 立ち止まった直樹の困惑顔に川瀬は驚いた。

「え、主任代理は未だご存知ないですか」

「馬鹿にするな、コーヒーぐらい飲みに行くから近所は分かる。モーニングの小倉クロワッサンとあんかけスパが美味い。だが何故あそこが鬼門なんだ」

 拘置所前道路の北側に四階建てビルがあり、最上階にティーハウス「クラウド・ナイン」は店を構えている。一説にアメリカの気象用語、特に高度による雲形を俗語にしたとされる、「天にも昇る心地」の意訳を持つ喫茶店はメニューも豊富で直樹も休みの朝には何度も利用していた。

「そうではありません。俺と川瀬が噂しているのは茶店とは違います」

 川瀬から忌まわしげな視線を向けられた阿佐田は仕方なく代わりに頭を振った。

「名称は屋号から転用したみたいですけど、その隠語は名古屋拘置所内の、とある階を指すんです。つまりそこに足を踏み入れた途端、あの店とは全く逆の意味合いになってしまうんです」

「逆?」

「はい。名拘でナインとくれば九階、則ち」

 ここで阿佐田は息を溜め、怖々と呟いた。

「死刑囚舎房ですよ」



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