拘置監 Ⅳ


「直樹、久し振りに昼飯でも一緒に食わんか。近所に美味い魚を出す店を見付けたんだ」

 親友の麻生和幸から電話があったのはファラキの出廷警備を終えた翌日であった。

「そりゃいいな。俺も丁度お前と会いたかったんだ。じゃあ、明け番の明日に寄る」

 名拘に転勤してからというもの慣れない大施設での激務にストレスを溜めていた直樹は二つ返事で了解した。

 ファラキは幸運にも有罪を免れた。ところが、それだけで一件落着とはいかなかった。

 無罪判決は警備の人選が誘因だと他の外国人が訳の判らない噂を立て始め、直樹は日常の心配事や法律的な応対までをひっきりなしに受ける事になってしまったのである。

 しかし、保安に準じている看守は戒護区域の巡回だけが仕事でない。

 収容者の動静や健康状態のチェック、願箋の処理、面会の立ち会い、信書の取り次ぎ、懲罰事犯の取り調べ、出廷警護など忙しい。その上直樹は看守部長で、部下からの相談にも逐一応じなければならない義務を負っている。ましてや法律に強いと評判が挙がったせいか一般職員に依頼される場面が多かった。

 特に新米あがりの刑務官からの信頼があつく、年若い彼らは未決の処遇に対する不満を「規則だから文句言うな」と不見識に叱り付けていただけだが、柄の悪いチンピラや海千山千の懲役慣れした者は「どこに記載されているんだ」と強硬な態度で挑んでくる。そんな時決まってお呼びが掛かるのが歩く六法の直樹で、特に監獄法に関わる諸法を完璧に暗記していたため、未決の自己主張をあらゆる法例で封じ込めた。

 結果、仕事が増え、精神的疲労も蓄積していた。

 その最中、親友からの誘いは絶妙のタイミングであった。

 翌朝九時半に官舎を出た直樹は「麻生ココロホスピタル」へレジェンドを走らせていた。

 和幸は中学時代の古馴染みだが高校は別になってしまった。

 彼の父親、麻生勇作が営む「麻生精神病院」が盛況だったため手狭になり、勇作は豊橋の広大な土地を購入し診療棟と入院棟を新築した。移転と共に転校を余儀なくされた和幸は以後名大医学部を卒業し、現在大学で教鞭を執る多忙な父の代理として経営を一任されている。

 直樹は刑務官になってからも和幸とは親交が続き、実の所、直樹の処遇における手際良さは心理学の助けによるものが大きかった。未決への対処や相談事の解決法などを惜しげもなく披露してくれた和幸は友である一方講師でもあった。

「あいつまでこれをわらったら小突いてやろう」

 国道一号線で本宿もとじゅくの看板下を走り抜けた直樹は胸ポケットに忍ばせておいた例のサングラスを苦々しく掛けようとした。

 その時、突如、助手席に置いていた携帯の着メロが鳴り響いた。

 車を脇に停め、ハザードランプを点けた直樹は眼鏡を元に戻し画面を覗き込んだ。和幸の催促かと思ったが発信先は拘置本所を示していた。

 直樹は慌てて通話ボタンを押した。

「直樹、俺だ。今、会議室から掛けてる。お前、もう豊橋にいるのか」

 受話器越しの潜めいた声は小幡であった。

「いえ、未だ岡崎です。本宿を少し過ぎたあたりですが」

「では悪いが至急拘置所に戻ってくれ。大失態だ」

 非常登庁の命令である。何にも動じない警備隊長が失態というのであれば余程の緊急事態が発生したに違いない。咄嗟に不吉な予感に包まれた直樹は、火災ですか、と尋ねたが、一呼吸置いて「逃げた」と否定された。

 意外な答えに思わず聞き返す口調が早くなった。

「誰が脱獄なんてしたんですか、小幡さん。あの建物から抜け出るなんて職員の手引きでもない限り不可能でしょう。一体どの通路から逃げ出したんですか」

 拘置所は保安上、あらゆる通路、そして階段は各階に鍵のついた扉があり、エレベーターでさえ刑務官が鍵を使わないと操作出来ない。つまり何者かが内部から誘導しない限り絶対脱獄出来ないのである。

 慌てふためく直樹に小幡は通話の声を抑えた。

「おい、取り違えるな。逃走だ。地裁から逃げた。年寄りだと油断していたらまんまと一杯食わされた。保安会議で捕獲作戦を練るから早く登庁してくれ」

「待って下さい、今日の公判を受ける年寄りといえばまさか」

 切られそうな電話を直樹は寸前でとどめた。

 受話器の向こうから直ぐ予想通りの名が挙げられた。

「ああ、有沢恒蔵だよ」

 直樹の対応は素早かった。携帯で麻生に事情を仄めかすと国道一号線を再び逆方向に向かった。

 小幡からの追加情報で直樹は事件の経緯を整理した。

 護送車で名古屋地裁に押送おうそうされた有沢は仮監かりかんで公判を待っていた。そして呼び出しが掛かり、法廷へ向かう途中便意を催したと訴えた。やむなく廊下にあるトイレに連れて行った警備の刑務官は、「これでは尻が拭けません」との要求で手錠を外した。

 但し、用心のため腰縄だけは付けたまま、ドアを半開きにして個室へ入れた。

 暫くすると「先生、便器の調子が」と有沢に手招きされた。

 ドア越しに立っていた看守は扉を開け中を覗いた。

 その瞬間、有沢は信じられない行動に出た。

 何とカッターの下に着ていたTシャツを看守の頭に被せて首の所で縛り、力一杯蹴飛ばしたのである。

 完全に不意を衝かれた刑務官は捕縄の手を離してしまった。

 外で待機していたもう一人の同僚も異常に気付きトイレに飛び込んできた所、重ね着していたシャツで同じように縛られた。

 全ては計画的であった。予めシャツは真中で裂いてあり、絡んだ布をもぎ取ろうとする二人に有沢はシンクのバケツ水を浴びせた。シャツが武器になるとは出房時服装検査を行った刑務官でも予想出来ず、水を吸った綿布は強度を増し、視界も声も完全に塞がれた。

 警笛も吹けず、看守が悶える隙に有沢は非常ベルを押し、混乱する裁判所から逃走した。裁判所警備員や通行人の証言ではコンビニ駐車場からキーの付いたままのトラックを拝借し、二十二号線を西へ走行していったという。

(どうしてそんな馬鹿な真似を)

 直樹はハンドルを握りながら有沢の穏やかな顔を思い浮かべては必死に理由を長考した。

 裁かれる恐怖から逃げたのか。或いは刑が確定して刑務所に入るのが嫌だったのか。またはもっと別の訳があるのか。

「──待てよ。そういえば一昨日」

 脳裏に一つのシーンが蘇った。

 二日前、清洲に住む長男から届いた、桜花検閲印の付いた手紙を六一一房に持っていった時であった。中身を読むなり涙ぐむ有沢へ直樹は言った。

「いい息子だな。滝沢鳴人といえば評判の弁護士だ。あの先生を引っ張り込んだなら余程苦労も金も惜しまなかっただろう」

「はい、お陰様で子供には恵まれました。でも」

 突然声を飲んだ有沢は思い詰めたような、寂しげな眼をした。

「失礼ですが先生は、お子さんはお見えでなくとも、ご結婚は一度ですよね。私は二度目なんですよ。若い頃に一人目と別れさせられてしまって」

「させられた?」

「はい。実は最初の妻は病気がちで、年中床に伏せっていて子供を産まないから親が少しの金を渡し追い出してしまったんです。私の家では上の代に逆らおうものなら絶縁です。妻を庇う勇気も度胸もありませんでした。早苗には悪い事をしました」

「前の奥さんは早苗さんというのか」

「縁切りしてからは市原の旧姓に戻りました。でも何年もしないうちに他界してしまったんです、私の娘を一人で育てていたのに」

「うん? 話が解らんぞ。産めなかったから離縁されたんじゃなかったのか」

「それが皮肉にも別れてから授かったんです。懐妊を知った私は迎えに行こうとしましたが、またしても父に不健康を理由に反対されて」

「子供はどうした」

「市原の実家に一旦預けられました。けれども二年後には親戚中をたらい回しにされ、いつの間にか行方知れずになりました。哀れな人生です。だから償いをしたかった。今の妻の三回忌を済ませてから探偵を雇い、その娘を、佳代子という名前ですが彼女を捜させたのです。そうしたら最近見付かったという、それも岡崎に住んでいるとの報せがあったのです」

「ほう、岡崎のどこだ。俺は支所に勤めていたから周辺の地理には詳しいぞ」

「では板屋町はご存知ですか」

「岡崎公園から矢作川寄りの町だ」

「そうです。そこに観音寺があって、裏手の小さな平屋に佳代子はいたんです。早速電話で連絡を入れましたが、『今更会いたくありません』と冷たく断られました。恨んでいるのは当然ですが、許されないにしても一目見たかったんです。でも寸前でこうしてお縄になってしまいました。まさに罰です」

「本人にとっては捨てられた形だからな。憎しみは消せないだろう」

「ええ、どれだけ言葉を費やしても耳を傾けてくれません。佳代子には今年初孫が産まれたそうです。私にとっては曾孫です。抱くのは無理でも一度眺めてみたい」

 有沢は湧き出る涙を掌で振り払った。

「そうか、板屋町だ」

 車を急停止した直樹はメモを取り出し携帯のボタンを押した。

「小幡さん、東です。お忙しいところ申し訳ありませんが有沢が乗っていったトラックの車種を教えてもらえませんか。出来ればナンバーも」

「車種は二トンの白色エルフだ」

「また有り触れた車ですね。番号の出だしは名古屋ですか」

「いや、ナンバーなら暫く判明しそうにない。警察も被害届けを待っている最中で、割り出しに時間が掛かりそうだ。エルフは元々盗難車だったんだ」

「え、有沢は盗難車を盗難したんですか」

「みたいだな。警察はコンビニで窃盗犯をご用に出来たと喜んでいたが、こっちはそうはいかんよ。時間内に捕まえないと県警へ捜査を依頼しなけりゃならない。柴田所長はさっさと確保しろと凄い剣幕だ。早くお前も来い」

 監獄法二十三条に規定されている制限は逃走してから四十八時間、つまり正味二日が刑務官に与えられた逮捕権の許容時間で、タイムオーバーとなれば後は警察へ捜査本部が移される。

 収監と矯正を主とする行刑としては面目上絶対避けたい事態であった。

 特に最高責任者の所長は気が気でない。というのも監獄法施行規則五十六条、五十七条に記載されている「逃走者が立ち寄る見込みのある地方警察署」に人相書きを添えて通報しなければならないし、有沢は拘置監収容者だから裁判官と検察にも伝達する必要があった。

「ところで、小幡さん、張り込み人員の配置はもう決まりましたか」

「ああ。現住所の清洲と田舎の祖父江町、そして会社関係の一宮と稲沢、津島に三名ずつを警備隊と休暇の職員でまかなう。お前には津島への予定を──」

「逆方向には誰も派遣しようとしていませんね。私はこれより岡崎の板屋町へ向かいます」

「板屋だと。奴は二十二号を西へ行ったんだぞ。そこは捜査の候補に挙がっていない。何故だ」

 派遣は現在の保安業務に支障を来たさない数でこなさねばならない。いくら旧知の仲でも理由無くして勝手な行動は許しかねる警備隊長は声を強くした。

 だが、直樹から有沢の悲話を伝えられると急に小声になった。

「そうか、よく知らせてくれた。しかし、有沢にそんな過去があったとは」

「身分帳に記されていないのですから無理ありません。ともかく私に板屋への直接派遣を許可して下さい。板屋はここから十分程の距離です。逃走時間から逆算すれば大体有沢の到着と一致するはずです。もし一時間経っても現れなかったら御命令通り登庁して津島へ参ります」

「分かった。そこまで確信があるなら責任は俺が持つ。板屋へ行ってこい。それとエルフの荷台には電動自転車が二台積んであるそうだ。岡崎署には直ぐ応援要請をしておこう」


 岡崎公園の鮮やかな緑が目に入ってきて程なく板屋町がある。

 ナビの検索から観音寺は一号線から一分も掛からない畑の中にあった。

 公園の東側道路に停車した直樹は近所を用心しながら歩いた。ここに寄るならば車を置く場所は大体限られている。

 しかし一通り周囲を見回ったもののエルフらしきトラックは見当たらず、唯一目に付いたのが直ぐ前に停まっていた白のカリーナで、ちらりと中を覗くと、お揃いの半袖を着た二人の男が胡散臭そうにこちらを盗視していた。

 もしやと勘付いた直樹はわざとがましくフロントガラスをノックした。

 顎髭の濃い男が運転席の窓を開け、上目遣いに何かと睨んだ。

「失礼ですが、岡崎署の方ですか」

「あんたは?」

 否定もしない疑いの目は間違いなく警察であった。

 覆面パトカーの男に直樹は菊紋が入った黒カバーの刑務官手帳を示した。

「名古屋拘置所矯正処遇官の喜多野直之です。ご協力感謝致します」

「ああ、名拘の看守さんか。俺は巡査長の八田。隣は村瀬巡査」

 無愛想に八田巡査長は煙草を吸って返答した。村瀬に至っては顔を向けただけであった。

「どうでもいいがホシは本当に現れるのかね、ええと、喜多野さん」

「察するにもう直かと」

「そりゃどうだか。しかし裁判所から老いれ爺一人に逃げられるとはまた無様だな。いっそ法廷警備も警察に一任したらどうかね。俺達ならそんなみっともないヘマはせんぞ」

 八田は刑務官を愚弄する憎たらしい笑みを浮かべた。露骨に警察官の方が偉いとの態度であったが、直樹は何一つ表情を変えず非難を肯定した。

「仰るとおり今回の失態は確かにこちらの不手際で無様です」

「だろうよ、ははは」

「ところで、八田巡査長。先月の岡崎銀行の強盗犯は逮捕されましたか」

 冷静に直樹は話題を変えた。八田は高笑いを静めた。

「目下捜査中だ」

「では一七銀行はどうです。あれは一般客に負傷者が二人も出ている。監視カメラには犯人像が明確に捉えられているのに未だ逮捕に至らない。おや、これらは全て岡崎管内ではありませんか」

 手痛い急所を突かれた八田と村瀬は体裁悪く押し黙った。すると、不具合な沈黙を突如けたたましく鳴り出した警察無線が打ち破った。 

「羽根北二丁目の第二銀行岡崎南支店に強盗事件発生。犯人は行員を人質に取り立て籠もった模様。巡回中の車両は直ちに現場へ急行せよ。繰り返す──」

「また無様にやられましたね」

 反逆の当て擦りに八田は煙草のフィルターを噛みしめた。

「おい、聞いた通り、俺達は年寄りなんぞ見張ってる暇はない。逮捕はあんたに任す。いいか、了解しろよ」

「はい、今度こそ逃がさないよう頑張って下さい」

「ええい、最後まで口の減らん奴だ。そこをどけ、轢き殺すぞ」

 とても警察官らしくない乱暴なせりふを吐き捨て、非常点滅灯を車上に設置したカリーナはサイレンの吹鳴と共に視界から消えていった。

「やれやれ、有沢が警戒するからあの音は止めて欲しいんだがな」

 直樹は警察が生理的に嫌いであった。それでも刑務官は警察施設を借りて拳銃の射撃訓練する関係となっている。まして警察には竹之内逮捕の大きな借りがあったし、現在も形式的とはいえ、亡父の探索を継続してもらっている弱みがある。だから先程は少々やり返しただけで、言い切れない不満は一切口にしなかった。

 パトカーが去り、周りが静けさを取り戻してから五分が経過した。

 ポケットに忍ばせた捕縄を指で弄りながら直樹は観音寺で有沢の到着を待った。

 刑務官には常時携帯を義務付けられた三品さんぴんがある。身分を証明する写真入りの刑務官手帳、緊急時に吹き鳴らすシルバーの呼子笛。そして収容者を縛るワイヤー入りの携帯捕縄である。

 刑務官は非常登庁も捕縄の使用法も絶えず訓練されている。捕縄は、手錠を掛け、さらに上から体に巻き付けるのが一般的な決まりだが有沢はその隙を突いた。裁判官の出廷前後で初めて外される手錠を不用意に解錠し、腰に巻いた捕縄も等閑なおざりであったに違いない。

 今日出廷警備を担当した若い市川と寺部は捕縄の訓練にも不器用さが目立っており、今頃上司達に散々油を絞られ、出世の見込みが無くなった両名のどちらかは悲観して辞めるだろうと直樹は厳しい現実を予想した。

「新人には過酷な洗礼だが仕方ない──ん、あれは」

 エンジン音を耳にした直樹はさっと寺の物陰に身を隠した。

 白色エルフが直樹の車から十メートルも離れていない場所で停車し、紐で固定された電動自転車のハンドルが荷台で二つ小刻みに揺れていた。

 推理は的中した。有沢恒蔵が姿を見せたのである。

 車を降りると有沢は人気のない道路をゆっくり見渡し、佳代子のいる住居へ足を向けた。

 市原の家は観音寺より四軒東に建っていた。錆びたポストには佳代子と夫、息子夫婦四人の名が記され、二世帯が同居するには手狭に違いないと一目で察する程生活苦が滲んだあばら屋である。

 有沢も逃走までしたなら娘や家族を遠くから確認するのみでは終わらないだろう。

 だが、出向いたとしても叩き出されるのは目に見えている。後の不吉な事態を思い浮かべた直樹は親子の対面を止めるため有沢へ飛び掛かり、捕縄で手首を後ろに締め上げた。

「つまらん人騒がせをしたな、有沢恒蔵」

 老人は唖然として、自分にのし掛かっている大男を振り向き見上げた。

「俺だよ」と、直樹はポケットのサングラスを掛けた。

「せ、先生」

「この馬鹿が。逃走は、例え裁かれる罪が無罪でも、それ自体が一年以内の懲役刑になるんだぞ。加重逃走ならより刑は重い。どうして罪を加算する無茶をしたんだ」

「一年、二年足されようが関係ありません。もう私には時間が残されていないんです」

「どういう意味だ」

 直樹は人目を憚りながら境内へ連行した。

「私は最近心臓が弱くなったんです。何年の刑が言い渡されるかは知りませんが、もしかすると近々逝ってしまうかもしれません。年が年ですから死ぬのが怖いんじゃありません。佳代子に誤解されたままこの世を去るのが心残りなんです」

「だから逃げてここへ来たのか」

「そうです。けれど、また捕まってしまいました。やはり神様は佳代子には会わせてくれないようですね」

「が、会った所で拒まれたら死ぬつもりだったんだろう。止めろ、何の償いにもならん」

「いいえ、今のままでは私の気が済みません」

 絶望した有沢は悲しげに直樹を見上げてきた。それは縋(すが)るような目付きにも見えた。

 直樹は暫く思案して一つの提言を与えた。

「滝沢弁護士がついたといえ、この逃走で判決は厳しくなる。初犯だから三重か名古屋の刑務所へ出向くだろうが良い方法を教えてやろう。禁固刑でなければ刑務所には就労義務がある。健康を酷く害した者を除いて受刑者は誰でも働かねばならない。刑務作業には雀の涙程度だが報奨金が出る。その額を月々実家に知らせ、ここに郵送してあげろ。佳代子さんを不憫がるなら新しく産まれてきた曾孫のために、有沢自身が一生懸命働いて得た貴重な賃金を送ってやれ。その方がずっと祖父らしい詫びにならないか」

 思いも付かない考えであった。

 頻りに泣いて感謝する有沢に直樹は、歩けと静かに背中を押した。

「──おや、何処へ行くんですか」

 当然このまま拘置所へ連行されると思いきや、いきなり腕を捕まれ逆方向に引いていかれた有沢はまごついた。

 直樹は瞬く間に捕縄を解き、市原家の引き戸前に立たせた。

「先生、これは」

「これからの事は拘置所では他言無用だ。それと今から絶対に余計な口は挟むなよ──ああ、すみません、どなたかいらっしゃいませんか」

 直樹は扉越しに声を掛けた。

「はい。お待ち下さい、ただ今参ります」

 間もなく家の中からソプラノの声がして古いモザイク模様のガラス扉が開いた。

 玄関に現れたのは五十代半ばの、薄茶の横髪を巻き垂らした小太りの中年女性であった。

 亡き妻の面影を見たのだろう、有沢の異様な強張りから直ぐ目的の人物だと汲み取れた。紫のペイズリーシャツとバラ柄のロングスカートを着けた市原佳代子は長身のサングラス男と、皺深い老人の奇妙な二人組を如何いかがわしげに見つめていた。

 直樹は申し訳なさそうに有沢の左肩を叩いた。

「あのう、伊藤産婦人科の場所はご存知ですか。実はカーナビの調子が悪くなって道に迷ってしまいまして。爺ちゃんの記憶は全然当てにならなくて困っていたら丁度お宅が目に留まったもので」

「ああ、そうでしたか」

 佳代子は安心し、靴箱の上に乗っていた広告の裏にボールペンで地図を書き入れた。

「伊藤病院でしたらこうして明神橋を渡ってから堤防へ左折すれば看板が見えてきますよ」

「あれ、お義母さん。そのコースじゃ遠回りよ。公園前から殿橋を渡った方が早いじゃない」

 急に台所の奥から胸に赤子を結わえた女性がスリッパを響かせながらやって来た。

「何言ってんの、美鈴さん。竹千代通は昨日から工事で通行止めなの。すみません、嫁が紛らわしくて」

「いえいえ、お教え頂きありがとうございます。おや、可愛い赤ちゃんですね。うちも元気に産まれてくれればいいんですが、腰が痛いだの、食べれないだの機嫌が悪くて喧嘩ばかりしてます。この苦しみは男には分からないって」

 美鈴はくすりと口に手を当てた。

「確かにあれは辛いです。でも産んでしまえば治りますから愚痴も辛抱してあげて下さい。そうすると九ヶ月目くらいですか」

「ええ。お宅の赤ちゃんは大きそうですね。どれくらいありますか」

「首が据わった所ですから六キロくらいでしょうか」

「数字ではあまりピンと来ませんね。やっぱり産まれてくるまで感触はお預けか」

 直樹は残念そうに息をついた。すると美鈴は紐を外し赤子を差し出した。

「よかったら抱いてみますか」

「え、よろしいんですか」

「その代わり気を付けて、落とさないで下さいね」

 直樹が眠っている子を慎重に受け取ると、今度は佳代子が笑った。

「実感は湧きましたか」

「ずしりと重いですね。あ、そうだ。爺ちゃんにも抱かしてあげていいですか。子供はまだか子供はまだかと急いてばかりで」

「構いませんよ。どうぞ、ここにお掛けになって抱いてやって下さい」

 佳代子は上がりかまちに有沢を座らせた。

「──この子の名は何と?」

 手渡された子供を慈愛深く見つめる有沢がやがて小さく口を開いた。

「鈴菜と申します」

「市原鈴菜。良い名前だ」

「あら、うちの郵便受けってそんなに目立ちますか」

 粗忽そこつに発せられた苗字に直樹は慌てて言い繕った。

「あ、爺ちゃんは余所様の玄関を潜る時は名前くらい覚えるのが礼儀だっていうのが口癖で」

「まあ、お爺さまは随分厳しい家庭にお育ちになられたんですね」

 佳代子が哀れみの目を細めれば、有沢は鈴菜の頭を撫でてぼやいた。

「厳格に過ぎたくらいです。でも、本当に可愛い子だ。将来はお婆ちゃんに似て美人になるな」

「ま、嫌ですよ、年上の方がお世辞なんて」

 嬉しそうに佳代子は有沢の肩先に触れた。対して美鈴は、「鈴菜は私に似ます」と赤子を不機嫌に取り上げ、廊下奥へ消えていった。

「ははは、これは余計な一言だったかな」と笑った直樹は有沢の退去を急かせた。

「さて、爺ちゃん、時間だよ。そろそろ行こう。市原さん、長々とお邪魔しました」

「お宅も丈夫なお子さんが産まれるといいですね」

「ありがとうございます。ほら、爺ちゃん。先生達が待っているから急ぐよ」

 なかなか立ち上がらない有沢に気を揉んだ直樹は腕を引き上げた。

 その拍子、何を思ってか有沢は佳代子の手を強く握った。

「あの、お爺さま」

「爺ちゃん、何やってんの。もう、みんな待ってるんだから行くよ」

 震える掌を引き剥がした直樹は佳代子へ謝罪して玄関を出た。

「有沢、最後のあれはどういうつもりだ。お前自分の立場が──」

 市原家を離れると直樹は危うく素性を明かしそうになった愚行を叱り付けた。だが、深々と腰を折られ、途中で叱責を止めた。

「有り難うございました、先生。まさか曾孫まで抱けるとは。全ては先生の名演技のお陰です。これで生きていく励みが出来ました。ご恩は生涯忘れません」

「そんなのは忘れていい。これで気は済んだか」

 はい、と爽快な面持ちで頷いた有沢はレジェンドの助手席に乗せられ、捕縄で固定された。

 と、この時、直樹はふと思い出して訊いた。

「そうだ、有沢、警備に被せたシャツのアイデアだがな、誰かから教わったのか」

「いえ、あれは息子がした昔の悪戯を思い出したんです」

 念のため同房の示唆でないのを確認した直樹は次いで本所へ連絡を入れた。

「小幡さん。喜多野です。たった今有沢恒蔵の身柄を確保、拘束しました。これより連行致します。いいえ、これも任務です。後は岡崎署に二重盗難車は岡崎公園東側に駐車してあると連絡しておいて下さい。ええ、総出で他の事件現場へ向かってしまったんです。よろしくお願い致します。では後に」

「先生、二重盗難とは?」

 会話の内容を聞いていた有沢が怪訝に尋ねてきた。

 直樹はエンジンを掛けて訳を明かした。

「あのトラックは一度盗まれていたんだよ。お前の逃走で窃盗犯が一人お縄になったって訳だ。相殺してやりたいが罪は罪だからな。拘置所に帰ってからは先ず懲罰だ」

「ご迷惑をお掛けしましたから当然です。それより」

 言葉を途中で切った有沢は運転席の横顔に向いて言い放った。

「その変な色眼鏡は折角の男前を下げますよ」



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