拘置監 Ⅲ
名拘の空気に少しずつ馴染み始めた直樹は六階の日常業務をこなしながら、心のどこかで村上から聞かされていた「独居への担当」について考えを思い巡らせていた。
岡崎からわざわざ名古屋に昇進付きで異動させられたのには必ず深意がある。
特に矯正局の丸秘の厳命となれば通常の任務ではないのだろう。何か途轍もない職責を負わされるのはやたら陰から監視している首席や統括などの姿で判る。そして現場に姿を見せない村上までもがそれとなく仕事ぶりを観察しているのは恐らく、新たな要務に関する意図があって自分の様子を隈無く調べているのだろうな、と直樹は疎ましそうに察しつつも普段と変わりない丁寧な態度で収容者へ対応していた。
しかし、変事はいつも予期せぬ時に訪れる。
「アイ・ウォント・ツー・ノウ・ザアット」
五一〇房の前で佐波広雄は極端に大きな手振りで何かを喋っていた。
「川瀬、主任は何をしているんだ」
所用で五階に出向いていた直樹は近くを通り掛かった一般職員の川瀬太に尋ねた。
最近懇意になった川瀬は小顔で細身ながら筋肉質の腕で威儀に満ちた敬礼をした。
「五一〇房は外国人監房ですから国際対策の通訳です。今日は長田統括が休日のため佐波主任が代わりを務めているんです」
「だが、主任は前にコンテストで優勝したと自慢していたぞ。その割に
「あの主任の事です、恐らく統括に気に入られたい為の偽りに違いありません」
歯切れ良い口調だが憎しみがありありと籠もっていた。するとどこから湧いたのか、阿佐田啓一までが直樹の背後から不平をぶつけてきた。
「主任は上には気色悪いくらい頭が低いんです。それでいて下の階級には滅茶苦茶な命令ばかりするんですから」
「おい、二人とも、表立って上司を罵るもんじゃない」
「しかし、喜多野看守部長、主任にはハトや様々な疑惑があります」
「もう止せ、阿佐田。あれは建部の虚言だ。お前達まで信じたら刑務官の信頼は崩れる。佐波主任を個人的に嫌うのは構わんが仕事に支障が出るようだったら勤務評定に関わるぞ」
「それは、そうですが」
「だったら任務に戻れ。俺は主任の手助けをしてくる」
川瀬と阿佐田は、すっかり大人しくなった六〇五房の改革者を知っていたため、直樹を頼もしい味方だと思っていた。ところが期待を裏切られただけでなく、主任へ急接近していった
「くそっ、ヘイ・ユー。スピーク・ジャアパニイズ!」
外国人檻房へ向かって日本語を喋れ、とは佐波も横暴である。
「どうしたんです、主任」
直樹は佐波の後ろから声を掛けた。佐波は直樹の姿を確認するや一瞬ギクリと身体を揺らしたが、直ぐ横柄に背を伸ばした。
「何だ、君か。何、ちょっと中の奴と掛け合っていたんだが、さっぱり要領を得ずにな」
「処遇への配慮などに問題があるんですか」
「いや、そうではない」
再び佐波は興奮して歯を噛み締めた。
「俺の英語が通じんのだ。馬鹿なイラン人だからまともな耳もしておらん」
房の窓からは陽に焼けた顔が覗いていた。黒い口髭をたっぷり蓄え、精悍な容貌をしたチェックシャツの若者はファラキ・ラザヴィー、二十九歳、テヘラン出身。容疑は「覚醒剤取締法違反」である。
直樹は佐波の前に出て、筋骨逞しい男に話し掛けた。
「
「
流暢な通訳にファラキはアラーへ感謝した。房には三人のイラン人とパキスタン人がいるが大抵日本語が全く通じないか、もしくはよく使えて片言であった。
「
「貴
ファラキは直樹が口にした無職の一語に反発を強めた。
近年日本では外国人労働者が増えるにつれ、その犯罪率も同じように上がっている。直樹は勉強のためと村上から命じられ特別に外国人の身分帳にも目を通していた。
裁判記録によるとファラキは一審の罪状認否で犯行を全面的に否認し、一貫して無罪を主張している。
「そんなに尖るな。用件はなんだ」
「時計を下さい。置き時計でも腕時計でも構いません。取り敢えず時計が欲しいんです」
懸命にファラキは高唱してきた。しかし直樹は頭を左右に振った。
「無理だ。時計の房内所持は規則で認められていない。拘置所には必要ない」
行刑に時計が設置されていないのは保安上の理由に重きを置いている。時計があれば巡回の時間を知られてしまい、その看守の目をかいくぐって収容者が違反を犯す可能性が高い。直樹はその理由こそ口には出さなかったが、ファラキは事由を察して弁明した。
「違うんです。私には、この房の
「ああ、イスラムの
外国人監房に収監されている未決は宗教に応じて様々な儀礼を有している。直樹もイスラム教徒が一日に決まった時間にメッカへ向かい礼拝する儀式は何度も目にしてきた。
「そうです。だから時計が要ります。預けてある私の腕時計を持ってきて下さい」
「その前に統括はどう答えていた。彼にも舎下げを頼んだのだろう」
「トウカツ、
「ならば俺もノー・グッドだ。統括が諒解しない物を部下である俺の一存で認可する訳にはいかない。礼拝はチャイムを元に
「おい、喜多野君、こいつは何をべちゃくちゃ喋っているんだ」
主任が辛抱しきれず口を挟んできた。直樹はファラキとの話し合いを具に明かした。
「呆れたもんだ。まだそんな要求をしてるのか。あれは統括が何度も断っている。まさか君は勝手に認めたんじゃないだろうね」
「いえ、施設の決まりですから当然拒否しました」
「ならばいいが。うん。そうだ、君は聞き苦しいイラン英語が分かるようだから、私の説得を正確に伝えてくれ、いいな」
胸を張って同時通訳を命じた佐波に直樹は、どうぞと手を向けた。
「これ以上文句を言うな。ただでさえお前達は優遇されている。食事もイスラムの教えに従った食事を用意してある。礼拝の時間も早朝を除き拘置所が例外処遇で認めている。後は判決が出るまでじっとしていろ」
“He says, don’t complain so much. We’d given you some special treatments, especially foods processed by Islamic tenets.We pay respect to halāl and avoid harām, moreover we admit every prayer time of Athan at discretion except fajr. It’s an extra favor.So,do not request any orders until the adjudication”
「
即時にファラキは火がついたように格子を勢いよく握って、日焼け顔にぎらつく白い目を剥いて威嚇した。
「ここには最低の人権すらないのか。トウカツもこいつも頭が狂ってる。馬鹿者の集団だ。私は時計が欲しいだけだ。鉄格子を切断する
「喜多野君、何だって」
クレイジーやらフーリッシュの単語から罵倒を感じ取った佐波に腰を小突かれた直樹は、さすが全文を憚り、後半だけをそれとなく訳した。
主任は直ぐにファラキをじろりと睨んだ。
「こいつめ、これだけ説き付けても諦めんとは何とも性懲り無い。規則は規則、日本で罪を犯したなら日本のルールに従えと知らせてやれ」
直樹は再びありのままをファラキへ伝えた。だが、逆効果となった。
「彼は何者だ。この拘置所では所長よりそんな看守の方が偉いのか」
「怒鳴るな、落ち着け。あまり騒ぐと外国人でも懲罰に掛けねばならん。独居房に移されて面会も手紙の遣り取りも出来なくなる。そうだ、お前には深津麻里子さんがいるんだろう」
直樹はファラキの面会記録から毎週頻繁に会いに来ている恋人の名を思い出した。
ファラキは突然黙った。そして直樹を正視したかと思えば名前を尋ねてきた。
「俺か。喜多野だ」と、直樹は変名で答えた。
刑務官は(一部の施設を除き)名札が無い上、収容者に名前を教える事もあり得ない。それでも信用されるためにはこの場合名乗らなければいけないと感じた。
「ミスター・キタノ。貴方は結婚していますか。では、奥さんを愛していますか」
「もちろん」
「私もマリコを愛しています。だから早く釈放されてマリコに会いたい」
「ならば時計は我慢してくれ。余計な懲罰で面会人を心配させるのは趣味じゃない」
アイ・シー、とファラキは不承知ながら納得した。
「すまないな、ラザヴィー。特例ばかり増やすと他の日本人から
直樹は眼鏡をずらし、隠れていた眼差しを露わにした。
「ファラキでいいですよ。キタノサン。それにしてもそいつは最悪ですね。一方的で他人の意見などまるで聞かない。貴方はきっと部下なんでしょう。そんな男の下で働いている貴方が気の毒だ」
と、案じ顔で哀れまれた直樹は眼鏡を押し上げ平坦な表情で語った。
“He is flashy and sneaky.He splits hairs.I’m always in a trouble about it”
これを聞いた途端ファラキは思い切り噴き出した。
佐波は再び直樹の腰を突いた。
「喜多野君。こいつは何を可笑しがっているんだ」
「さあ。それよりも決着しました。もう時計は要求してこないでしょう」
「そうか。やっと俺の誠意が通じたか、うん?」
その時、佐波の耳に何処からか籠もったような笑声が流れてきた。
足音を消し、廊下の逆から回り込むと衝立に寄り掛かり盗み聞きしている川瀬と阿佐田の姿が見えた。
「こらっ、おまえら仕事中に何をしている」
「は。以前から衝立の防音の悪さを指摘されておりましたので点検をしておりました」
姿勢を正した二人は至極真面目な顔で敬礼した。
廊下の衝立は防音性を重視していない。だが、職務だと堂々告げられては佐波も怒るに怒れず、苦虫を噛み潰したような顔で「もういいから行け」と追い払わざるをえなかった。
阿佐田と川瀬は遠のきながら必死に爆笑を堪えていた。
川瀬は、身上調査票に記入していなかったが英検準一級クラスの英会話能力を持っていた。
「
直樹は部下の特技と尾行を知っていて聞こえよがしに言い捨てたのである。
ストレスの解消はこうやるものだと示された二人の足は軽やかであった。
「ところで、喜多野君。折り入って話がある」
ファラキの房を離れて直ぐ佐波は注意深く四顧し、直樹を見上げた。
「君は一体何者だ。いや、今更惚けなくていい。実は先日岡崎支所に電話を掛けた。するとお答え出来ませんと切られた。手を回して獲た職員録のコピーにも君は記されていなかった。君の母校へも尋ねてみたが、創立以来そんな卒業生はいないと返答された」
先程の虚勢を取り払い、恐怖心と懸命に戦いながら主任はもう一度繰り返した。
「君は誰なんだ。本名を隠し、経歴を詐称して名拘に配属された理由は何だ」
「おや、遂に露見しましたか」と、直樹は事も無げに答えた。
「や、やはり特捜か。公に収容者と私語が認められているのは調査のためなんだな。な、何を調べにここへ来た」
どうやら例の粗末な流言に引っ掛かっているらしく、焦りの色が浮かぶ佐波へ直樹は息を大袈裟に吐いてみせた。
「特捜ではありませんが、本省のさるお方より密命を受けて遣わされたのです」
「では矯正局の保安課から? 待てよ、英語が堪能なのは国際課か? いや、もしくは人権擁護局あたりの?」
名古屋刑務所刑務官暴行事件(二〇〇二年、名古屋刑務所の刑務官が受刑者を革手錠をはめ暴行死させた事件)以来刑務官への指導が厳しくなった。だからきっと矯正局か、或いは法務省が実態把握のため時をみて内偵を送り込むだろうというのが佐波の絶えず抱いていた懸念であった。
予想通り監査が入ったのだと早合点した佐波は緊張した舌を一層震わせた。
直樹は主任の耳元に寄ってドスの利いた声で囁いた。
「深く伺わない方が賢明です。また、この秘密は絶対口外なさらぬように。もし洩れたら貴方の地位は一切保証しかねます。私は喜多野直之です。よろしいですね、佐波広雄主任矯正処遇官」
看守・看守部長の任免権は施設所長に委ねられているが、副看守長以上は矯正管区長が関与する。つまり自分を調べにきたならば矯正管区以上が係わっている
凄みを帯びた威嚇に佐波は固まった首を縦に動かし立ち去るしかなかった。
直樹は不憫に思ったが、正体を暴かれると厄介になるから一人開き直った。
「俺も嘘をついた訳じゃない。実際ここに転勤したのは矯正局長の指示だからな」
自己弁護をぶつぶつ繰り返しつつ巡回をしていると、六一一房からパシャンと報知器が勢いよく下りた。
直樹は視察窓から顔を覗かせた。そこには微笑みを湛えた老人が立っていた。
「おはようございます、先生」
六一一房の点検簿に有沢恒蔵の名を見付けた時はどきりとした。あの夜のお節介が老人の心を痛めさせたと反省していた折、翌日には自分の担当する未決の一人になっていた。
内心ほっとした。
未決には逮捕されたショックで衝動的に自殺してしまう者がいる。情緒不安定な者は最初から監視カメラ付きの第二種特殊房へ入れられるが、一般房では強引に自死を遂げてしまう事もある。世界的にも刑務所へ下獄されてからより拘置所で命を断ってしまうケースが多い。自殺の予防はカウンセリングと徹底した監視しかないのだが、カウンセリング時間を奪われた現在の刑務官には監視しか残されていない。
雑居はその点、自殺の予防機能を兼ねている。それでも可能性はゼロではない。入所の際には首を吊らないようネクタイやベルトといった紐状の物を予め没収されるものの、石鹸やトイレットペーパーの様な異物を飲み込んだり、入浴中にカミソリで手首を切り付けたりする場合もあり、直樹は有沢が感情のまま有らぬ行動に走ってしまうのではないかと密かに案じていた。
「先生は、昨日お見えになりませんでしたね」
「非番だったからな。で、何の用だ」
「いえ、特には。先生がお通りになりましたので」
「報知器は用件があって職員を呼び出すものだ。皆忙しい。無闇に押すな」
別人と見間違えるほど無感情な口気に有沢は
「す、すみません。ただ、お礼を申し上げたかったんです」
「礼?」
「あの時は刑の長さに
そうか、と直樹は思わず相好を崩した。
刑務官は業務上収容者に笑顔を見せるのは禁物であるが、こういう時は自然に笑み零れてしまう。職業的に一般人と接する事がないので、犯罪者を逮捕する警察と異なり感謝される事も滅多になく、むしろ看守は恐ろしいだけの存在との誤認が広く蔓延しているから、稀に謝意を示されると心が満たされる。
直樹は嬉しさついでに一つのアドバイスを与えた。
「過失致死以外で裁かれるのは不本意だろう。その点は弁護人と煮詰めた方がいいぞ」
「はい、面会の時同じ注意を受けました。事故の罪を反省している所は訴えなさい。しかし殺意だけは絶対否定しなさい、と」
法廷では絶えず妙な矛盾が生じる。例えば容疑者が警察で有りもしない強引な調書を取られ、裁判で証明しようとすると判事の目には「
心証主義最大の弊害である。
「でも、前の裁判で私は敗訴しています。その怨恨で殺したと疑われるでしょう。こんな状況になるなら些細な境界なんかで争うんじゃなかった」
「止せ、有沢。ここでは過去の仮定に触れるな。どう足掻いても時間は前にしか進まん。未来だけ考えるんだ」
現在の境遇に引き戻された有沢は何度も何度も無言で頷いていた。
「それで直は二人の結婚に反対しているの?」
ソファーに身を沈め二か国語放送番組を観ている夫に、夕食を片付けながら瑞樹は尋ねた。
外国人独特の声太なアナウンスに直樹の返答が混ざった。
「今直ぐは賛成しかねると言っただけだ」
テレビのボリュームを絞ると、蛇口を止める音と共に苦笑いが聞こえた。
「そういうのを世間では反対って表現するのよ」
「俺には麻里子さんの心境が理解出来んよ。ファラキはテヘラン大でも国際問題を研究していた秀才だ。いい配偶者になるだろう。だが、今は罪囚だ。何も獄中結婚しなくてもいい」
「まだ判決が出た訳じゃないでしょう。直らしくないわ、犯人と決め付けるなんて」
「無罪の証拠が足りないからな。俺も何度か未決には騙された経験がある。誰でも最初から信用しないようにしている」
「『人を見たら懲役と疑え』って? 刑務官も嫌な人種ね」
タオルで手を拭きながら部屋に入ってきた瑞樹は夫の隣に腰を下ろし、テーブル上のアーモンドを一粒齧った。
「荒くれ者の中で働いているからな、家庭での勤務評定は手柔らかに頼む」
酒も煙草も嗜まない無害な直樹に妻は微笑した。頑丈な体であるが案外消化器が弱く、帰宅後はいつも手作りのフレッシュジュースか野菜ジュースしか口にせず、今晩もアーモンドをツマミにオレンジジュースを楽しんでいた。
瑞樹もピッチャーから一杯コップに注いだ。
「でも、私は会ってないけどファラキさん、無実だと思う。理屈は合ってるでしょ。一緒にアパート住まいしていた仲間は捜査の手が伸びる前に強壮剤だと偽ってファラキさんにクスリを打って雲隠れした。だから検査すれば覚醒剤反応が出るのは当前。それも部屋の天井に覚醒剤と大麻草を隠しておいて彼一人に使用と所持の罪を被せた。なのに裁判では彼が密売人になっている」
「さっきも説明したろう。やった証明もなければ、やっていない証明もないんだよ。そういう場合自白調書がたった一つの証拠として採用される」
「仲間は捕まったの?」
「全員高飛びしたようだ。そうなったら一人日本に残ったファラキを主犯で裁くしかない。警察の刑法犯検挙率は上がらない。となれば面目丸潰れになる」
「じゃあ数字を上げるために犯人に仕立てたんじゃない」
「確かに強引だが
ファラキを全く疑ってないと判った瑞樹はぱっと喜色を浮かべた。
直樹が皆から慕われているのは、
「あれだけ敬虔なムスリムだ。やってないと信じたい。二日後に一審の判決が出る。求刑は懲役八年と厳しいが一緒に無罪判決が聞ければいいんだがな」
「え、直も出廷するの?」
「統括の命令なんだよ。英語が話せるとばれて即外国人監房の兼任さ。それとファラキは求刑年数の長さに暴れそうになったらしいから俺の柔道の腕が買われた。出廷警備には色無し眼鏡で出るよ。さすがに法廷で禁止のサングラスは掛けれんからな」
「そうね、大体判事笑わせてどうするのって感じ」
「お前なあ、仮にも夫だぞ」
「冗談よ、冗談」
瑞樹は直樹の首に腕を回し唇を重ねた。長い睫毛が瞼に触れると直樹は妻の華奢な体をソファーに寄り掛けさせ、エプロンとブルーストライプのカットソーを脱がせた。
結婚してから十一年が過ぎたが直樹の愛し方は変わらなかった。
直樹は従妹の森本瑞樹に出会った瞬間から虜になってしまった。幼稚園から高校まで一緒に進学し、短所も知り尽くしていたけれども想いは日に日に増していくばかりであった。
実は瑞樹は中学の頃から他の男子と付き合っていたのだが、直樹は諦めなかった。
早稲田現役合格の頭脳に追いつくため必死に勉強に励み、彼女の好む文学も読んで、柔道場へも通い体を鍛えた。全ては好かれたい一心であった。だから念願が叶い妻に迎えた直樹が優しく扱わないはずがなく、稀に軽い口喧嘩にはなるが手などは一度も上げていなかった。
一時間後、瑞樹は火照りがおさまった小さな顔を直樹の肩に乗せた。
「麻里子さん達、結婚出来るといいね」
「獄中であろうが婚姻届けにサインすれば手続きは終了だ。書信を読めば彼女は自立心のある人だから、有罪判決が下っても健気に待ち続けるだろう。
「検閲とか
行刑の施設では遣り取りされる手紙の内容を一度検めて、施設職員によって都合の悪い部分があれば真っ黒に塗りつぶさなければならない「墨塗り」という決まりがある。ちなみに名古屋拘置所の場合、検閲済の証として黒色の桜の小さなスタンプが手紙の端に押される。
「声を大にして文句を言われたよ。手紙の塗り潰しはプライバシーの侵害だってな。でも保安上の規則だと言い含めて納得してもらった。それにファラキも強くは押せんさ。外国語発信願いの願箋を出してもペルシア語も英語も使えない状態だし」
「だから直が日本語に訳してあげてるんだ」
「代筆は本来文字を書く能力がない日本人向けなのを俺の場合は監獄法を拡大解釈してやってる。信書は大阪にまで翻訳を依頼してるけど大体二週間はかかる。各施設が常勤の通訳を雇えばいいんだろうけど法務省は収益率の悪い金食い官省だからな」
パジャマに着替え直し、寝室に入った瑞樹は滅多に漏れない直樹のぼやきを聞いた。
「ところで文面はどうなの。相手は麻里子さんなんでしょ」
「ハハ、全く顔から火が出る思いだよ。甘ったるい形容ばかりがよくぞまあ淀みなく出るなと感心する。でもその分情が移ってまるで俺が書いている気にもなる」
「ううん、何か悔しいわ、私はあなたから一通も受け取っていないのにね」
瑞樹はベッドに潜った夫の
「お前はずっと奴と付き合っていただろう。そんなの渡せるか」
「あ──」
学生時代の思い出は直樹にとって最大のタブーであった。うっかり口にした失言で空気を重くしてしまった瑞樹に直樹は、もう寝る、と、ふて腐れた声のままシーツを被った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます