拘置監 Ⅱ

 

「斉藤、お前、松井選手の後援会会員なんだってな」

 独居房には視察窓が無い。その代わり房扉に上・中・下、三種のあながある。最上部には廊下から開け閉め出来る十五センチ四方の目潰し防止用金網が付いた視察孔しさつこう、中段は縦十センチ横四センチの細長い窓、これは夜間用でマジックミラーになっており、巡回の刑務官からは覗けるが収容者には鏡としか映らない。そして下段には食器や新聞雑誌を出し入れする食器孔の造りとなっている。これは視察孔より少しだけ広目に空けられている。 

 直樹は上段の視察孔から一一二番の斉藤宗二に語り掛けた。

「野球の話はもうしたくないです」

 やつれた白い顔を俯かせ、斉藤は愛想もない返事をした。

 あの喧嘩騒ぎの後、独房に移され警備隊員に厳しく詮議を受けた斉藤は再三にわたって六〇五房の陰湿ないじめの実態を訴えたが、感情によるいさかいと無理矢理結論付けられた。

 強制的に房長の建部からプロ野球賭博に参加させられた挙げ句、食料を景品として奪われた報告など巡視の怠慢だと取られかねないからである。

 確かに現行犯でなければこの手の違反は立証出来ないにしろ、余りにも一方的過ぎた。

 裏に何か潜んでいると感じ取った直樹は密かに六〇五房の調査を開始した。

 処遇部のロッカーキャビネットには、非常持ち出しのステッカーが貼られた「身分帳簿」がある。俗にいう身分帳であるが、そこには収容者の本籍や顔写真や指紋、生い立ちから罪名、家族関係まで事細かに記載され、未決の行動を記録した動静経過表、書信検閲記録である書信表、面会時の接見表、そして懲罰記録などが添付してあり、直樹はその資料から各個人を洗い出した。

「一一二番の斉藤(三八)は『昏睡強盗』で控訴中か。二〇五番の柳川昭哉(三六)、『傷害』、二五八番の建部竜成(三七)は『恐喝』、安西組所属組──そうかあいつ、安西組か」

 思い立って身分帳を片付けると直樹はその足で六〇五房へ向かった。

「建部、ちょっといいか」

 視察窓に寄って直樹は囁くような声で二五八番を呼んだ。

「はい。何すか、先生」

 直樹が個人的に買い直したゴルチエのサングラスも所詮似合っていないのだろう。たくし上げた右肩に昇竜が彫られた金髪の建部は従順に対応したものの目と口が笑っていた。

「腕まくりは禁止じゃなかったか、二五八番」

 看守が高圧的に称呼番号へ呼び変えた時は大抵気分を損ねた徴候と断じていい。色レンズの奥に恐ろしい視線を感じ取った建部は慌てて袖を下ろした。

「失礼しました。何のご用でしょう」

「お前、安西組で部屋住みをやっているんだろう。加藤誠を知っているか」

「加藤さんは俺の兄貴す。今は名刑めいけい(名古屋刑務所)でお勤めして、もう出所なさる頃ですが、先生はどうして兄貴をご存知で?」

「半田の担当だったからな。最近生きのいい竜成って奴が弟になったと自慢していた。意気腰があって枝にしておくのは勿体ないと漏らしてたぞ」

「まじっすか!」

「ああ。だが、加藤もへたを打った。矢沢組の田口では相手を見誤ったとしか考えられん」

「田口なんぞ関係ねえっすよ。兄貴は中尾の野郎にはめられたに違いねえ」

「京島一家若頭の中尾光一か。いや、お前の思い過ごしじゃないのか。京島と安西の分裂騒動は収まりが着いているはずだ。わざわざ矢沢を中に入れて揉める馬鹿はしないだろう」

「ほ、なかなか先生も事情通すね」

 にやりと北叟笑ほくそえんだ建部は窓一杯までいざり寄ってヒソヒソと話し出した。

「大きな声じゃあ言えませんが、蛇頭スネークヘッドの件で一悶着あったらしいんす。中尾が奴らとの付き合いにケチが付くって矢沢と組んで、中国ルートを拡げようとした兄貴を売ったんすよ」

「なら安西と京島はまた第三次抗争に突入しているんだな」

「いえ、結局は組長同士でケリを付けたみたいっす」

「そうか。邪魔して悪かったな」

「ヒマだからいいすよ。それより、物は相談なんすけど、これ仕入れてもらえませんかね」

 建部は煙草を吸う仕草を繰り返した。

「何の真似だ、その手は」

「しらばくれるのは止しましょうや。先生もハトに来たんでしょ。また独居に移してくれりゃあ煙草ゴリも言い値で買いますよ」

 ハトとは伝書鳩から名付けられた不正行為の一種である。

 行刑施設では外部連絡手段が短時間の面接、もしくは極端に制限される手紙のみのため意向も充分伝わらず、気弱な刑務官を金銭で口説き、連絡役に付けようとする受刑者も少なくない。正に、先生も、とは建部にハトが飼われている物言いだが、直樹は一考してから訊いた。

「お前の所の相場はいくらなんだ」

「月に十万すね」

「では何月も取り次げば結構な額になるな。確かに小遣い稼ぎにはうまい話だ」

 これを聞いた建部は、しめたとばかり笑みを満面に浮かべ、調子に乗って言い募った。

「ビールも欲しいなあ。ナイター聴きながら酒がないのはつまらんすからねえ。ツマミもあれば最高。その時先生が巡回してくれればもっと最高なんすけど」

「──建部、お前、ブリキ眼鏡って聞いた事があるか」

「は?」

「いいから答えろ。囚人の間じゃ不注意な看守を『ブリキ眼鏡』と呼ぶらしいな」

「え、ああ、昔、そういえばそんなのもあったっすね」

「お前には俺の掛けているこの眼鏡がブリキに見えるか。職員の誰を籠絡ろうらくしているのかは知らんが、俺をそんな安っぽい奴と一緒にするな。この糞ヤクザが!」

 突如直樹は口荒く罵った。建部はその豹変にぎょっと狼狽うろたえた。

「な──」

「大体ビールとかツマミとか悠長に構えている場合か。お前累犯だぞ。どうせ弁護士に任せっきりで何も知らんだろうから教えてやる。恐喝罪は刑法第二百四十九条で十年以下の懲役、まして累犯の刑期は倍掛けだ。控訴審の判事も一審を支持するのは間違いない。ましてお前の場合恐喝だけじゃなく横領や詐欺も関わっている。罪質が罪質だから加重かちょうされないにしろ、最低十五年の別荘ムショ暮らしは覚悟しておくんだな」

 建部は途端青くなった。十五年の刑期も裁判官が大げさに言い渡しただけで控訴審に持ち込めば多くて五年くらいに減刑されると信じていた。出所する頃には五十をとうに超えている。

 未決に要らぬ動揺を与えるのは忌むべき行為なのだが、罪の意識がない者もハト同様多い。ショックで呆然となる建部を直樹は執拗に責めた。

「仮釈放は任侠の恥になるそうじゃないか。せいぜい気長に勤める事だ。ま、長期のムショが嫌ならとっとと足を洗うんだな。ここでの時間はたっぷりある。足りない頭でもよく考えろ」

 一気に静まった六〇五房を後にして直樹はそのまま七階へ向かった。

「斉藤、話があるんだが、いいか」

 独居房の視察孔から直樹はそっと尋ねた。虚ろな顔で一一二番は、はい、と返事した。

「お前、懲罰後は雑居に戻りたいか。六〇五以外でも」

 斉藤は無言で伏せた頭を振った。

 拘置所の雑居房は人の出入りが激しく基本的に長期拘禁を考慮していない。だから分類課では収監者の前科や個性、心身の状況、諸々を検討して部屋分けをするのだが相性まで判る術がない。それ故些細な事で喧嘩になる。

「このまま独居にいさせてやろうか」

「え?」

 直樹から思い掛けない提言が斉藤の耳に届いた。

「房の皆はドラゴンズファン、片やお前だけはジャイアンツ。アンチの対立が引き金になって虐められていたんだろう」

「せ、先生は私の話を信じて下さるんですか」

 暗く沈んでいた顔の先には励ましの笑みが映っていた。

「ああ。建部は野球賭博の前科まえがあるからな、こっそりと賭場を開いていたくらい推察出来る。どうせ勝っても負けても因縁を付けられ品物を巻き上げられていたんだろう。俺はお前が相手に何一つ手を出していなかった現認(現場を目撃した刑務官)だ。懲罰委員会に掛ける前にその辺は証言しておいてやるよ。但し、懲罰の期間が縮まるかまでは保証出来んが、それでいいか」

「充分です。ありがとうございます、先生」

 扉へ四つん這いに歩いてきた斉藤はそのまま頭を下げた。

 直樹は身分帳の記述を思い出して訊いた。

「ところで、お前、昏睡強盗なんてやらかす程逼迫ひっぱくしていたのか。禁固の前科があるから執行猶予の見込みも無いし、当分ムショ飯を食わねばならんぞ」

「仕方なかったんです。不況で工場が倒産して女房は蒸発、なかなか職が見付からず貯金も使い果たしてしまいました。でも幼い息子達を飢えさせるには忍びなくて」

「その子らは今どうしている」

「施設に入ったみたいです。何の力もない親元にいるよりまともな生活を送れるでしょう」

「ちょっと待て。自弁品を奪われた証言と矛盾しているぞ。資金はどこから出てるんだ」

 自弁とは収容者に与えられた購入権利で、物品と期日は所が決めた制約があるが菓子、果物、弁当、筆記用具、新聞雑誌などを買い求められる。収容者は現金所持を許されていないが、会計課が領置といって彼らの所持金や私物を出所するまで保管する。纏まった大金の場合は銀行に預け、そこから引き出し、欲しい物を願箋がんせん用紙に書き込み(現在はマークシート記入)、用度課に取り繋いでもらう。そして看守によって品物が房に届けられ、数量を確認の上、指印を押し授受する仕組みになっている。

 だが、それは領置金がある者に限られ、無い者は官品で補われる。刑務所も拘置所も金銭のあるなしで随分暮らし振りが変わってくる。

 金の出所でどころを斉藤はしんみり語った。

「母ちゃんです」

「そうか、お袋さんか」

 直樹は書信表に載っていた斉藤久美子の名を思い浮かべた。

「はい。栃木の実家から送ってくれるんです。『何かの足しにしておくれ』って。馬鹿ですよね、こんな出来損ないのために少ない年金崩して」

「親から見ればどんな大罪を犯そうが可愛い我が子に変わりない。だから一日でも早く勤め上げ安心させてあげるべきじゃないか。どんな仕事にでも挑戦して、いつか子供も養ってな」

「そうします。しかし、先生はどことなく老成した雰囲気がありますね。私とさほど年が離れている訳でもないでしょうに、不思議です」

「説教癖が身に付いている刑務官は得てして老けた口調になるらしい。職業病だ」

 分別臭さを指摘された直樹は渋い顔でうなじを掻いた。


「わはははははは」

 村上の腹を押さえた絶笑が部長室に響き渡った。

「如何です、部長。悪くはないと思いますが」

「うむ。やってみる価値はありそうだ。しかし、暫く会わない内に腕を上げたな、喜多野君」

「半田時代、部長から盾の両面を見ろ、と口を酸っぱくして叩き込まれた賜物です」

「いや、訓戒を生かしている者は極少数だ。中でも君は群を抜いている。恐ろしい程に」

 恐ろしい所じゃないよ、と直樹と村上の会話を隣で聞き入っていた佐波の額には脂汗がべったり浮かんでいた。直樹から部長に相談があるから付き合ってくれませんか、と頼まれのこのこやって来たら事は六〇五房の一件であった。

 供述調書の訂正と斉藤の転房希望、そして六〇五房の荒れた実情を直樹は訴えた。その上六一〇房を仕切っている阿川仁を斉藤の代わりに問題房へ入れるよう献策した。

 佐波は即刻反対した。阿川は杏仁組組長であり、暴力団組織に疎い自分でも杏仁組と安西組とのいがみ合いは知っている。そんな反目(敵対関係者)の両者を同房にしたら何の刃傷沙汰になるか分かったものでない。

 それでも敢えてリスクを冒し決行するよう勧められた。

 直樹の情報によれば、建部は嘗て阿川に恩を受けていた。また、杏仁組は賭事が嫌いなためのみ行為を一切禁じている希有な組織である。つまり、六〇五房の喧嘩の近因になった野球賭博を阿川の転房で抑制しようとの策であった。

 建部を独居に移した方が無難じゃないか、と佐波は再び難色を示したが、直樹は過去の懲罰記録を村上に差し出した。

「建部は独居でも騒ぎを起こしていますし、現在職員と繋がっている節があります。携帯電話は手軽なツールとなります。不正連絡行為で建部を懲罰にかけるのは容易ですが根本的な解決にならないでしょう。違反を防ぐためには雑居処遇の方が望ましいと思います」

「元を絶たなければぬかに釘か。分かった、分類課の日向君には私から通しておこう。ところで、六〇五房のハトとは何者かね。私が一度尋問してみなければなるまい」

「いいえ、相手が建部ならば、部長のお手を煩わす必要などありません」

 直樹は左隣の佐波を一瞥いちべつして口元を緩めた。

「取り調べの適任者は佐波副看守長です」

 佐波の太い眉の間は真相を見抜いている目付きにさっと青くなった。

「おい、どうした主任、顔色が悪いぞ」

 村上は顔面蒼白で乾いた唇をパクパク開閉する佐波を睨んだ。

「そ、そんな事はありません。部長は何を根拠に顔色を判断なさるのでしょうか」

 もはや返答が返答になっていない。声を上擦らせた佐波に直樹は哀れみを感じて言った。

「まあ、主任が建部を個人的に問い質せば、事実無根のデタラメくらい簡単に発覚するでしょう。そしてその報告を保安会議の席で伝えておけば、奴が虚勢を張って誰々をハトにしているなどと適当に言い触らした所で虚言癖の烙印を押された者には何の説得力もありません」

 はっと佐波は直樹に目を注いだ。一瞬意味を量りかねたが、直ぐに自分を擁護する発言だと悟り寒気立った。今までの経緯を総合するとこれは計画ではなく全て咄嗟の思い付きである。

「では、主任、喜多野君の提案通りにやってくれるかね」

「はっ、畏まりました。早速私が責任を持って建部を詰問致します」

 助け船に飛び乗った佐波は、村上に敬礼を済ますと勇み足で部屋を去っていった。

 村上はドアが閉じられて程なく、「甘いな、東君、君も」と椅子の背もたれに寄り掛かり、直樹を呆れ見た。ハトが誰であるかうに知っていたのである。

「ご存知だったんですか」

「ああ、以前から佐波主任への内部告発もあった。今回自供調書を作成した警備隊の黒島も同様に不当処遇の嫌疑が掛かっていた。二人は裏でこそこそやっていたらしい。ここで全てを追及してもよかったんだが、君が要らぬ入れ知恵をしてくれたお陰で出来なくなった」

「申し訳ございません」

 内輪揉めを嫌う直樹は軽く頭を下げた。村上は組んだ両手を机に置いて片目を閉じた。

「まあいい。伝聞だけで処分するのは私も気が引けるし、君のアイデアは佐波と建部の両者を牽制する。主任はこれで調書を大幅に改正せざるをえなくなった。懲罰の度合いは変わるだろう。但し、喧嘩両成敗だ。一方的にやられていたにしろ斉藤も調査パイ(懲罰委員会が処分無しとする事)とはいかんぞ」

「はい。無理強いであれ賭博に加わっていた訳ですから本人もそれは覚悟しています。しかし懲罰委員会は公正な事由が必要です。誤った処置をすれば、二度目の収監とて刑務所に移ってからの処遇に影響が出ます」

「そうだ。矯正の一歩はここから始まっている。その任を負う者がハトに走るなど言語道断だ」

「と仰せられても、私は特別に免除されていますが、近年では収容者へ応対するだけで刑務官の大半が私語と見なされ叱責されます。いくらハトや籠絡防止のためとはいえカウンセリング機能を喪失せしめ、事務的に固めてしまった行刑にも問題がありませんか」

 村上は直樹の指摘に重々しく首を曲げた。

「うむ、それは私も常々案じている。拘置所は裁判で苦悩する未決、刑に服する確定へ指針を示してやらねばならんのに、所内規則だけで罰しようと意気込む職員も多い。点数稼ぎで昇格した刑務官にろくな者はおらんよ。だが、東君、君もごろつきや暴力団を手玉にとって情報収集するのは構わんが、ミイラ取りがミイラになるおそれもある。充分心得たまえ」

「御懸念には及びません。私は処遇に役立つと勘案しているだけで、奴らには興味など一切ありませんので」

 怒りの感情を面に表さないようにしろ、と支所時代に諭されてから直樹は努めて腹立ちを静めてきたが、殊の外、暴力団の話題になると抑止力が効かなくなっていた。

 父である俊昭は扶桑會會長補佐に殺されている。

 村上は、必死に激昻を堪えている直樹へやおら退室を促した。


 それから週が明けた午後九時三十分、消灯時間が過ぎて三十分が経った。

 六十ワットの灯りが十ワットに下げられた各房は寝息だけが密やかに響いていた。

 夜勤の刑務官は在監者に異常がないかを一部屋ずつ確認しつつ、十五分毎に一度巡回をした証として廊下先に設置してある装置(タイムレコーダー)のスイッチを押す事が義務付けられている。

 億劫がりながらもスイッチを押した直樹の心は晴れ晴れしていた。

 懲罰委員会は、斉藤には五日の運入うんにゅう(運動と入浴)禁止と糧食自弁十日禁止の軽い処罰を、柳川には二ヶ月の軽屏禁けいへいきんという一番重い罰を課した。

 保護房から第二種特殊房に移された柳川は官物私物を問わず一切廊下に出され、懲罰用の粗末な日用品だけが手渡された。起床から午後六時の仮就寝まで、受罰姿勢という扉に向かい決められた枠内に座していなければならない上、許可無く立ち上がったり、無断離席は絶対許されず、トイレに立つ際にも報知器と呼ばれる房内のボタンを押し、飛び出たプレートに気付いてやってくる看守の了承を得ねばならない。

 短い喫食時間も更に短縮され、運入も一ヶ月に二回あればいい方で、信書や面会、そして拘置所唯一の娯楽である新聞、読書、ラジオ聴取も禁じられる。

 人は精神刺激から離れると途端もろくなる。軽屏禁は聴覚も視覚も奪いはしないが、無感動、無変化の狭い環境での暮らしを強制し、嫌で暴れようものならより過酷な保護房に放り込まれ、再度懲罰が追加される。そうして収容者は段々気力を失い、羊のように従順となる。

 粗暴であくどい柳川への軽屏禁はしかき処置であった。

 直樹は四階の巡回をしながら嬉しさ反面、新たな苦悩も抱えていた。

 斉藤の一件が解決したまでは良かったが、実はあの後、一度サングラスの理由をとある未決から「法務省から送られてきた極秘の監査官でしょう」と尋ねられた直樹は「名地検めいちけん(名古屋地検)特捜とくそうだ」と悪ふざけで肯定した。すると噂が噂を呼び、知らぬ内に矯正局参事官の世を忍ぶ仮の姿だとか、最後には官房長官の隠し子だの妙な尾ひれがついてしまった。

 更に滑稽なのは過半数の一般職員までもが特捜の潜入調査という空言を鵜呑みにした事にある。

 事件も起きていないのに特別捜査部が刑務官監査へ出向く訳もないのだが、人は一旦疑惑を持つと思考がけるらしい。何度冗談と説明しても通じないのは面倒であった。とはいえ刑務官同士にありがちな嫉妬や嫌がらせに比べれば勘違いされた方がまだ気楽だと直樹は思い直す事にした。

 それにしても夜間巡回は何度回ってきても気色よいものでない。

 廊下はスイッチが切られほぼ暗闇となる。夜勤用の色無し伊達レンズには薄暗く光る房の小電灯が妖しく反射し、上下同色のズボンを巻き止める腰のベルトに下げた鍵が人工芝を踏む微音に混じって歩行と共に小さく鳴り、左腕にめたハミルトン腕時計のカチカチという機械音が時折耳に届いてくる気がする。

(そういえば、阿佐田は去年離婚したといってたな)

 直樹は、一般職員である下膨れが特徴の阿佐田啓一が、休日の少なさを理由に妻から別れ話を突き付けられた身上をふと思い出した。

 一般的な公務員よりは給料が高いものの、看守のハードスケジュールは密行主義のため余り知られておらず、丸一日の休日を取れるのは月に二度など当たり前で、有休も使えない。そして夜勤の少ない施設でも四日に一度は役が回ってくる。

 収容者数は増加の一途を辿る反面、職員数は横ばいである。当然人手不足を補うために休日を減らさざるを得ず必然過重労働となる。また、縦割り社会の閉鎖された空間の上、ストレスが鬱積し、上司からの苛めや同僚からの嫌がらせも日常で、体力と気力が続かない刑務官が早々に退職していくケースは珍しくない。

 行刑施設が国営のブラック企業と揶揄やゆされるのも無理はない。

 職員を増やせば増やしたで家庭崩壊にも幾分歯止めも掛かろうが、有力な族議員の欠けた法務省は予算取りが下手で、それは施設への機能にも関与する。

 名古屋拘置所の冷暖房装置は完備されているにも拘わらず、(幹部の部屋や待機室などを除き)光熱費の節約で使用された形跡はなかった。

 夏の名古屋は暑い。名拘はその都心に建てられているから放射熱が熱帯夜を余計熱くする。

 春夏だけ開放される食器孔が通気口の役割を果たすため、収容者にとって多少の涼を取る気休めにはなるが、行刑は一枚の団扇うちわ所持を認容するに止めている。

 制服の第一ボタンを外した直樹は、極暑のせいで昼間と誤っているのか、外壁にへばり付いた油蝉の微かな輪唱を聞きながら四階の巡回を終えようとしていた。

 と、そんな矢庭に、「センセーイ」との小さなうめきが気配無く流れた。

 直樹はびくりと体を揺らし、その声の先を懐中電灯で照らした。見回すと四〇六房の視察窓から一人の痩せた老人が覗いていた。

 見ると、薄く禿げ上がった前髪がボサボサに乱れ、小さな目の周りにはシミが目立ち、皺寄った唇も黒ずんだ、ある意味どこにでも見かけるような典型的な年寄りがいた。

 ボタンを掛け直した直樹は驚きを悟られないよう窓に寄って札を見澄ました。

 三二一番の有沢恒蔵である。

「先生、どうして私はこんな所にいるんでしょうか」

「有沢にはここがどこに見える?」

 四階は新来者が一時的に収監される分類房であり、翌週にはどこかの雑居か独居へ転房となるが、拘置所初経験者は稀に離人神経症といって、置かれた現実から逃避する心理が働き、自分が自分でなくなる喪失感に襲われる。

「檻の、拘置所の中です」と、有沢は間を置いて答えた。

「うむ、理解していれば良い。もう遅い。今日はとにかく眠りなさい」

 軽症と察した直樹は声を落とした。

「眠れたらいいんですが。この先を思うととても」

「その憂慮は分かる。だが、有沢だけじゃない。他の皆もおもてには出さないけれど不安を抱えている。罪を悔いるのはいいが、自分を追い詰めるのは体に障るぞ」

「──はあ」

「お前の罪状は傷害致死だったか、確か」

 気弱な生返事に直樹は仕方なく尋ねた。

 原則的に刑務官は事件に関わらない。それでも同房以外で一番顔を付き合わすのは担当で、当然刑法や刑事訴訟法、同じような罪状で以前どんな判決が下ったかなどの質問も際限ない。

 直樹は少しでも未決の気苦労を和らげるため六法全書を日頃から覚えたり、過去の判例を具に調べたりしていた。

「そうです。運送業をしている息子が留守の間に大切な取引先から緊急の荷が入ってしまい、私が代理で配送する事にしたんです。もう年ですし、免許の更新をせずにいたのですが、運転歴が長く自惚れていたんでしょう、ハンドルを握った途端人を撥ねてしまったんです」

「無免許運転か」

「それだけじゃないんです。被害者は私の近所で、境界争いで裁判になった事もあって奥さんから故意に轢いたと殺人の嫌疑を掛けられてしまいました。警察はブレーキ痕のない現場写真を見せて殺意があったんだろうと何日も詰め寄りました」

「で、自供したと」

「はい。何でもいいから一度認めろ、万一の時は俺が裁判で証言してやるから、と最後には刑事さんが約束してくれましたので」

(全く、署の連中は一度偽証罪で法廷に立つべきだな)

 直樹は相も変わらぬ警察の無責任さに口を歪めた。一旦作成された調書をひっくり返すような証言を警察は殆どしない。仮に裁判で証人として出廷しても刑事は「記憶にありません」と否認するだけで終わってしまう。検察官も裁判官も自白調書を基に裁くから一度サインしてしまうと弁護士も反論に苦労する羽目になる。

「先生。私の罪はどれくらいになるんでしょうか。やはり刑務所にいかねばなりませんか」

 消え掛かった薄い眉を集め有沢は鉄格子を掴んだ。直樹は「俺は裁判官ではないから一喜一憂するなよ」と前置きした上で、自分なりの判断を下した。

「殺人容疑を別に考えれば懲役五年が一般的だな」

「五年、ですか」

 有沢はショックを受けた顔をあからさまに示した。

 直樹は慌てて言い直した。

「判決は裁判官の心証に依る。初犯だし、執行猶予や情状酌量の余地も充分ある。さっきの刑期は飽くまでも一例だ。おい、そんなに落ち込むな。不服なら控訴審に持ち込めばいい」

 精一杯の励ましであったが有沢には何も聞こえていない風であった。果たして判例以下に減刑されるだろうか、と一瞬でも抱いた疑念を見透かされたのかもしれない。

 直樹は「もう寝なさい」と暗い想いでその場から消えるしかなかった。



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