第一章 拘置監

拘置監 Ⅰ


 二〇〇三年、愛知県名古屋市東区白壁一丁目。約四千五百坪の敷地の上に、地下一

階、地上十二階の白い無機質な巨塔が夏の熱射を物ともせず涼しい顔でそびえている。

 法務省矯正局名古屋矯正管区、名古屋拘置所である。

 短い黒髪のサイドをヘアーワックスで後ろに流した東直樹は、一見オフィスビルと見間違いそうなその鉄筋建築を、新出来町通りをまたぐ陸橋から眼鏡のレンズを通して物憂げに見上げていた。

 同規模のビルの六倍の強度で耐震設計されたそれは関東大震災程度の揺れにも堪えられ、防火設備も完備されて一種の強固な要塞ともいえる。

 南北に細長く建てられた拘置所の外窓は、焦茶色をした俯瞰ふかん防止用の目隠し遮蔽板と磨りガラスの二重窓という構造になっており外側からは全く内部を伺えない。また、矯正施設にありがちなコンクリート塀は特になく、二メートル程の鉄柵が敷地を囲い、逃走しようと企めばいくらでも可能だが、誰も強行しないのは警備の堅さと、出口が少なく、扉の外側にも鍵付き柵を設ける構造にある。

 金網に覆われた屋上だけが唯一物々しいが、その厳めしさを彩るためか、構内には桜や山茶花、梧桐あおぎりなどが植樹してあり、盛夏の日差しを受け瑞々しい輝きを放っていた。

 そんな暑気漂う季節に思いも寄らない辞令が下った。

(盆も近くなってからどうして俺がこんな所へ回されなけりゃいけないんだ)

 直樹は、黒縁伊達眼鏡を外すと半袖ワイシャツから伸びる引き締まった腕を欄干らんかんに寄り掛け、煩わしそうに大息を吐いた。

 岡崎拘置支所長の舎川とねがわすすむから突然の異動を告げられたのは丁度一週間前であった。

 所長室に呼ばれてみると舎川は普段になく苦い顔で古ぼけた木椅子に座していた。そして直樹の敬礼を横目に見ながら一枚の書類を迷惑そうに叩いた。

「全く、少しはこちらの事情も考慮して欲しいものだ。昇級付きといった所でこんな時期に異動とは堪らんよ」

「ご栄転ですか。おめでとうございます」

 直樹はお世辞でなく心から謝辞を述べた。舎川は見た目普通の好々爺こうこうやだが昔は「尾張の鬼オヤジ」と懲役囚から畏れ親しまれた叩き上げである。それゆえ他の権威めいた所長とは異なり、一般職員にも気軽に声を掛け、特に直樹へは同僚が羨むほど気を遣っていた。直樹の、常に厳正で、高校卒業から三十六歳になるまで丸々十八年間も平担ひらたん(平の刑務官)でいる無欲さに見所を感じていたのである。

 直樹の方もまた舎川を好ましく思っていた。

 刑務所・拘置所等の行刑施設はある程度所長の裁量によって物事が決定される。つまり、所長の腹次第で今まで認められなかった規定が許可されたり、反対にしゃげという房内所持の品物が突然禁止になったりする。

 何かに付け禁止事項ばかりを増やし厳罰管理に頼る半田時代の所長は酷かったが、岡崎に移るや、未決は刑務官を信頼し逐一相談に乗っていた。

 それが舎川の訓辞によるものと悟ったのは転勤して間もない頃であった。

「ここに勾留こうりゅうされているのは『無罪の推定』を受けている者だから、その定法に準じ、処遇するように」との厳命は刑務官の無用な圧力を和らげた。

 結果、規律は大幅に緩和され、違反を犯した未決囚の処罰を合議する懲罰委員会も滅多に開かれなかった。

 直樹は、常々寛大で腰の据わった舎川にこそ管区の指揮を執って欲しいと願っていた。

 だが、キャリアでもない上、時代に逆行する方針を局は煙たがる。

 舎川には出世はよもやあり得まいと諦めていた時分の栄進であったから直樹は本当に嬉しかった。

「それで今度はどこの刑務所長にご就任なさるのですか」

「は、誰の話をしているんだね、君は一体」

 事態をまるで飲み込んでいない笑面へ舎川は書類を渡した。

 直樹は受け取った文面を見るや直ぐさま言葉を失った。

『辞令 東直樹 右の者 名古屋拘置所に於き看守部長に任ずる』

「わ、私が名拘めいこうへ!」

「溝口局長直々のお達しだ。ましてや厳秘扱いとされている」

 支所如きの些末な人事に局の首位が介入してくる前例など嘗て無い出来事である。

 竹之内が父、俊昭を殺害した時、渦中に深く巻き込まれそうになった直樹の所在をマスコミに知られまいと急いで半田から岡崎へ転出させたのは所の指示であったが、元矯正局長の芝井猛は全く関与していない。

 対して今度は新局長の丸秘直裁で、末尾には溝口昌資まさしのサインが大きく記されていた。

 舎川も解せない口を歪めつつ直樹の転任を惜しんだ。

「局の所懐は理解し難い。が、こんな半端な時期に異動とはよんどころ無い事情があるんだろう。引き留めたいのは山々だがそうもいかん。しかし君を失うのは正直痛手だ。君は私と同じく高卒だが、記憶力抜群、頭脳明晰、仕事にもそつが無い。殊に暴力団組織の知識が深く、どれ程分類処遇に役立ったか」

 直樹は舎川の労いに深々と頭を下げた。

「そのような正当な評価が刑務官最大の喜びです。五年間温かいご指導を賜りました。どうか支所長もお体を大切になさって下さい」

「君もな。本所は大規模だし、所長の采配も全然違ったものになる。処遇も人間関係も一苦労するだろうが、君ならどこへ行っても大丈夫だ。しっかり勤めてくれ、東看守部長」

(名拘の看守部長、か)

 年齢的にも看守部長への昇進時期ではあるのでそれ自体は珍しくないが、この中途半端な時期と、単なる二級の看守部長でなく特二級の矯正処遇官という一足飛びの昇進が不可解に感じられた。ただ、看守部長といっても特別に直々の部下が付く訳でもない。

 この昇級には何の意図があるのだろうと岡崎での会話を推察しながら直樹は白壁陸橋の階段を下り、拘置所東側に隣接する官舎一棟へ向かった。

 行刑では概ね官舎居住を余儀なくされる。

 だが、看守部長に昇進したとはいえ一棟は一般職員用官舎と異なり上級幹部専用で、家族用の少し広い官舎であるのを優遇措置と取れば越した事は無いが、元来自宅通勤者の直樹には苦痛であった。

 妻の瑞樹みずきは、お勤め先は真隣だし遅くまで寝てられるわよ、と慰めてくれたものの狭いアパート暮らしは半田の時と同様どうも性に合わない。

「おかえり、なお。手続きは済ませてきた?」

 年季の入った古めかしい官舎の鉄扉を開けると瑞樹が、部屋の中でしゃがんで引っ越し業者のロゴが付いた段ボール箱からドアマットを取り出しており、帰宅した夫に気付いて柔らかく声を掛けた。

 やや小柄で全体的に華奢な体付きであるものの、理知的な大きな瞳と長い眉に映える穏和な笑顔が薄暗い部屋を明るく輝かせていた。

 直樹は、靴を脱いで瑞樹の横を通り抜けると、ストレートの栗色の髪が鹿の子エプロンの後紐に絡んでいるのを見つけてそれを指で解いた。

「ああ、一応庶務課だけには顔を出しておいた。明日は多分処遇部巡りさ。さすがに支所とはスケールが違う。収容者数も半田の十七倍あるからな」

「大変そうね」

「そうだ。所の隣の官舎なのに制服を着ての登庁も何故か俺だけが不許可だしな」

「じゃあわざわざ所内で着替えなきゃいけないの?」

「だけじゃない。他にも細かい禁止事項が目白押し。局が何を考えているのかさっぱり分からん。でも本当に大変なのは庶務課長からの特命だ。ほら、この書類を見てみろよ」

 直樹は拘置所の住所が印刷されている水色の封筒を手渡した。

「特命って、直は特命で看守部長になったじゃない。なのに今更」

 片付けの手を止め、瑞樹は中から三つ折りに畳まれた一枚の用紙を抜き出し、広げて読み上げた。

「誠に勝手ながら本日より貴名を『喜多野直之』と改めさせて頂きます。名古屋拘置所の人事、または身上に関する公文書類、刑務官手帳に於いても全て上記名にて記載済みですのでご了承下さい。また官舎にても本名の御使用はお控え下さい──えっ、何これ」

「名前の変更だよ、驚くだろう。いきなり庶務課長から喜多野君と呼ばれた時は俺も戸惑った」

 繁々と眺める妻から書類を取り戻した直樹は、呆れ顔で備え付け戸棚の引き出しへ書類を入れて鍵を掛けた。行刑施設に勤める職員は国家公務員であっても囚人と接する仕事ゆえ秘密が多いが故、公言できない命令も少なくない。

 瑞樹も驚いていたものの、やがて観念した素振りで玄関の整理に向かい、苦笑して訊いた。

「でもこれって公文書変造罪じゃないの。法務省管轄が率先してそんな違反を犯して平気?」

「俺も確かめた。局内だけの通称だとさ」

「煩雑ね。じゃあ私も喜多野瑞樹になるんでしょ。だけど別名なんて必要なのかしら」

「伊達眼鏡着用を強制された事でも見当が付くだろ。名拘に収監されている男がその理由だ」

「それって、よ──」

「なあ、それよりお袋はどうだった、新しい病院」

 わざとらしく会話を遮り、直樹はキッチンへ進むと中型冷蔵庫のサイドポケットに収納されていた紙パックの野菜ジュースをコップへ注いだ。

「あ、うん、うちのお父さんに連れられてなんとか病棟の雰囲気には慣れたみたい。ただ、相変わらずお医者様も看護師さんも意味不明な言動に手を焼いているみたいだけど」

「そうか。ならまた今度の休みにでも俺が顔を出さないと駄目か」

 半分飲んだジュースを直樹は玄関へ運んでいきそれを妻に渡した。

 革靴を綺麗に磨いてシューズボックスに並べ終えた瑞樹は屈んだままジュースを受け取り、それをゆっくり飲み干すと申し訳なさそうに声を落とした。

「本当は私がお義母さんについてあげたいんだけど。ごめんね、少しの力にもなれなくて」

「いや、お前は精一杯やってくれた。気に病まなくていい」

 直樹は瑞樹の右手の甲にある治りかけの引っ掻き傷に目を遣った。

 するとコップを返しながら瑞樹は意味深長に夫の顔を覗き込んだ。

「ねえ、直──、今日、本所の中に入ったんだよね」

「瑞樹、奴に関する話ならさっき敢えて切ったはずだ。俺の立場はよく解っているだろう」

 憂いを含んだ妻の眼差しへ直樹は敢えて釘を刺した。立場とは、守秘義務を課せられている国家公務員としての意味ではなく、父親を殺された被害者遺族である心境を思い遣れとの含みであった。

 瑞樹は強情さがにじんだ夫の険しい顔付きに直ぐ問いを諦めた。


「申告します。私、喜多野直之は、看守部長として本日八月九日をもちまして処遇部に拝命致しました」

 薄青色制服の半袖に腕を通しながら、偽名を何度も反復していた直樹は月曜早朝、一階にある処遇部室に居並ぶ部長、首席、統括とうかつの前で緊張した敬礼を作った。

 名古屋拘置所は所長をトップに総務部、処遇部、医務課の三部門に分かれている。

 総務は、公文書類の接受・発送・編集及び保存・名籍(収容と釈放の事務)・指紋・統計・人事・研修を扱う庶務課と、歳入歳出・領置・保管をあずかる会計課、物資購入・保管・営繕・給養・職員の福利厚生を扱う用度課に分類され、処遇部も保安警備を司る処遇部門と企画部門に分かれている。中でも企画は教誨きょうかいや生活指導の指導担当と、房の割り振りを取り仕切る分類担当がいて、他の部同様に統括や主任が置かれている。

 行刑施設で使用される統括や首席の名称は役職であり、看守や看守部長は階級である。

 刑務官は法務省管轄から「法務事務官」という正式名称を持つが、一般に馴染みは薄い。

 序列で幹部職員と一般職員に分けられるのはもちろん、役職と階級は細かく分類されている。先ず序列下位から、看守、主任看守があり、これは階級では一般職員である。そしてその上が看守部長、副看守長、看守長、矯正副長、矯正長、矯正監とステップアップする。大抵看守長以上が幹部(管理職)でそれ以下が一般職に二分される。

 役職は看守部長が一般職員または矯正処遇官、副看守長が矯正処遇官、または係長及び主任矯正処遇官、看守長が首席矯正処遇官、統括矯正処遇官、課長、課長補佐、支所長、支所次長及び支所課長、矯正副長が部長、調査官、首席矯正処遇官、課長及び支所長、矯正長が所長、または部長となり、矯正監が矯正管区長か所長となる。

 普通、刑務官は毎年一回実施される試験によって採用され、受験資格は年齢が十八から二十九才まで、身長が百六十センチ以上との制限以外特に設けられておらず学歴も重視しない。九月に実施される一般教養試験と作文の一次試験、それに十月に行われる行刑幹部の面接試験と体力テストに通過すれば合格発表がある。

 また採用試験にも他に二つある。

 国家公務員Ⅰ種とⅡ種である。

 キャリアと呼ばれる刑務官はⅠ種合格者である。袖章にも人絹縞モール以外に金線(金糸縞モール)が巻いてあり、Ⅱ種合格者は最初から看守部長(銀縞モール袖章)の位と矯正処遇官の階級が与えられる。一般採用の刑務官が昇進するには中等科、もしくは高等科の入所試験に及第して数ヶ月の合宿研修を受けるしかない。

 直樹は何一つ帰ってこない欠礼の集団に不審の念を抱いた。

 そもそも一般職員の姿が誰一人見当たらないのも異様であるが、目の前に並んでいる上官は紛れもなくそのキャリアや研修終了者達なのである。

 不慣れな伊達眼鏡の向こうでは首席も統括も苦い顔をしており、看守部長昇任試験も受けずに登用されたのが余程気に入らないのか、とも考えたが気配が違う。

 それとも転勤に当たって、私語の特例許可が自分だけに与えられた事が不愉快なのだろうか、とも直樹は考えた。

 刑務官は職務の事以外、収容者との間での会話が禁止されている。見付かれば収容者は懲罰、刑務官は懲戒処分の対象として目を付けられる。しかし直樹の場合矯正局から私語禁止規則が免除されていると聞かされていた。それは当然上官にも通達されていて、その特例が腹に据えかねているのかなとも推量した。

 そんな怪訝な沈黙を破り、一人の老刑務官が口を開いた。

「岡崎の鬼オヤジどのはご健勝かな、喜多野君」

 直樹は敬礼を解くと舎川の渾名あだなを知っている白い顎髭を生やした小男に視線を向けた。

 右胸アウトポケット上部に付いている階級章は矯正長の位を表す、金の飾り溝の上に二個の金桜花が乗っている。

 誰だろうと怪訝な面持ちでいると男は制帽を取り直樹へ顔をよく見せた。

 明らかに六十に近い年齢のせいであろう、広い額には深い皺が幾筋も刻まれ、縮れた眉にも短髪に見えるのと同様白いものが混じっており、それでいて威厳ある鉤鼻が特徴的なその老人は、閉じているような細い両目をグイと上げて直樹を見上げた。

「私だよ。半田で一緒にいたのにもう忘れたかね」

 老人は更に顎髭を手で覆った。

「む、村上係長」

 直樹は歓喜の声を上げた。半田を離れ、東拘とうこう(東京拘置所)の教育課長に栄転した便りは耳にしていたが、まさか名拘で再び出会えるとは想像していなかった。

「懐かしい呼び名だ。今はここの部長だよ」

「あ、こ、これは失礼致しました、村上処遇部長」

 直樹は再度礼儀正しく敬礼した。

「ははは、変わらないな、君も。さあ、硬い挨拶は抜きにして余所の部屋で茶でも付き合わんかね。おい、堤君、長田おさだ君、三十分程構わんだろう」

「はい、部長の御一存であれば」

 首席と統括はきびきびと声を揃えた。還暦に程近い村上賢司は体付きこそ貧弱だがどことなく逆らえない風格を備えている。生家が寺院で、僧侶の資格を有しているせいか矯正の生き仏とたとえられる程人心を掴む術に長けていた。

 会議室に招いた村上は直樹をパイプ椅子に座らせるなり転勤の謎を語った。

「統括以上の限定的な者には君の本名を伝えてある。だから一棟に住んでもらっている。しかし、彼らは君がここに赴任してきた理由が解せんのだよ」

 直樹は差し出されたペットボトル麦茶にも口を付けず核心部分を訊いた。

「私も同じく解せません。ここに竹之内が収監されているのは周知の事実です。どの階に収まっているかは存じませんが、私の異動を知られると面倒な事態になるのではありませんか」

「確かに君の登用は不都合な点が多い。しかし、これは行刑全体の問題が絡んでいる。事情があって詳細は言えないがね。今は東拘が関与しているとだけ伝えておこう」

 村上は自分の麦茶を小さな湯飲みに注いだ。

「東拘が?」

 直樹は益々理解不能となった。東京の拘置所が名古屋拘置所に及ぼす影響も、自分の事ながら矯正局丸秘人事異動も全く蚊帳の外である。困却し続ける直樹に村上はぐっと椀を一飲みで空けた。

「それより六階雑居房が取り敢えず君の担当だ。直属の上司となる副看守長の佐波主任矯正処遇官から後で説明があるだろう。ああ、それと君の憂慮へも対処してある。もしかすると面会人、同僚の中に竹之内との関連を見抜く者がいるやもしれん。だから特例で面会の立ち会い業務を免除する」

「しかし、その程度では巡回時、奴を知る未決に発覚してしまいます。仮に伊達眼鏡を掛けていてもです」

「そうくると予感してな、更なる予防措置にこれを用度課から調達してきた」

 と、村上の内ポケットから取り出されたのは薄紫レンズのサングラスであった。

「──まさか、それで私に仕事しろと仰るのではないでしょうね」

 直樹は冗談だろうと疑いの眼差しを向けた。

「そんな小馬鹿にするな。現に君とて髭を生やした私を暫く思い出せなかったじゃないか。それに人間は目を隠していれば意外に正体を隠せるものだぞ。どうだ、なかなか見違えやしないかね」

 不格好なサングラスを掛け、村上はおどけてみせた。

「いえ、いくらなんでもその姿は」

「皆まで言うな。一応私も逆効果だと反対したんだ」

「誰にです?」

「柴田所長だよ。これは所長なりに出した結論だから変装は業務命令で君に課す」

 サングラスを外して村上はそれを直樹へ渡した。

「とするものの身分を偽らせたままいつまでも雑居に置いておくつもりはない。暫しの間だけ堪えてくれ、東君」

「では七階から上が本当の意味での持ち場なんですね」

 名拘は六階までが雑居房(共同室)、七階以上が独居房(単独室)になっている。言葉尻をとらえた鋭い問いに、む、と村上は唸った。

 どうやら転勤の真相はそこにあるなと直樹は直感したが立場を慮り追及しなかった。

 それから十分も経たない内に直樹は設備案内役も兼ねた主任矯正官の佐波広雄と六階を巡回していた。佐波も他の刑務官同様サングラスに当惑したが、所長命令である事と、保安の主力を担う処遇部長との昵懇じっこんな繋がりを告げられると渋々ながら了承せざるを得なかった。

「喜多野君。君の身上調査票を読ませてもらった。刑務官歴は長いのに一度も研修を受けていないな。どうして昇進試験を受けないんだ」

 名拘では衝立ついたてで中央を仕切ったリノリウム廊下に五十センチ幅の人工芝が貼り付けられており、刑務官は靴の音を響かせないようその上を運動靴で歩く。二十代後半の年若い佐波は少し跳ねるような妙な歩き方で、極太の眉の下で忙しなく動く丸い目を直樹へ胡散臭そうに向けた。右胸に光る階級章は金色台の中央に黒線が走り、金桜花が一つ見える。直樹は看守部長だから黒色の縁取り台に金色線二条と金桜花が一つである。

「私は高卒で試験向きじゃないんです。体育会系ですから」

「その頃から柔道をやっていたそうだな。黒帯か」

 立ち止まった小太りの佐波は短い足で踵をコツコツと廊下に叩き付けた。

「一応四段です。主任は?」

「俺は基本文科系だから全然上達しない。柔道も正直訓練にはあまり行きたくない。しかし、体育以外の五教科なら今でも処遇部の中で最高得点を取る自信があるぞ。特に英語はスピーチコンテストで優勝したからな」

 佐波は偉ぶって低い鼻を高く上げた。

 と、そんな時事件は起きた。

 舎房南側から壁を何度も叩く鈍い音と同時にけたたましい奇声がこだました。

 未決同士の喧嘩に違いないと経験則で感じた直樹は即座に主任と急いだ。

「おい、六〇五房、貴様ら何を暴れている!」

 佐波は房扉の隣にある視察窓の鉄格子から甲高い声で怒鳴り付けた。

 見れば年の似通った若者同士二名が取っ組み合いをしており、周りの囚人達も野次を飛ばし、騒ぎは一段と大きくなっていた。

 主任は鉄格子を叩いて叫んだ。

「二〇五番、一一二番、止めなければ保護房へ叩き込むぞ」

 房(保護室)とは聞こえはいいが、いわゆる「懲罰房」であり、収容者からは「拷問房」「虐殺房」と恐れられている。つまり保護房行きは行刑施設で働く者にとって最後の脅し文句であるが、血の気に逸っている彼らには佐波の警告など小馬鹿にされ何の効力もなかった。

 一応刑務官は矯正護身術を学んではいるものの、型ばかりで実戦訓練をしない。また刑務官になった者は柔道、もしくは剣道を(大体が多忙なため)勤務時間外に業務として訓練しなければならない規則がある。しかしながら全ての刑務官が武道を得意としている訳でもなく、超過勤務手当がつくのと規則だから渋々道場に通っているケースも見られ、佐波もその一人となっていた。故に佐波は手を出さず、大呼して警告している状況で止まっていたのである。

 側で控えていた直樹はこのまま放置しておいては怪我人が出ると危ぶみ、佐波の許可を得て解錠すると野次馬の足を素早く払い、将棋倒しに三人を倒した。続いて輪の中心で馬乗りに殴打しているショートモヒカン男の左腕を取り、背後に捻ってから畳の上に頭を押し付け佐波に言った。

「主任、警備隊を」

 あれほど騒々しかった房が一瞬の制圧でぴたりと静まった。

 佐波はあまりの手際よさに見取れていたが、直樹の声で我に返り直ぐ非常ベルを鳴らした。

 間もなく大柄の警備隊員が警棒を捧げ、十人大挙してやってきた。

 管区機動警備隊(略称は管機)は柔道や剣道の猛者ばかりを選りすぐった保安のエキスパートである。看守長の任を有する小幡忠治警備隊長は房の前に突っ立つ佐波を睨んだ。大勢で駆け付けてきたのに静寂が辺りを覆っている。

 また取るに足らない小競り合いで俺達を呼び立てたな、と気迫漂うまなじりに佐波はたじろいた。怒りにつり上がった短い眉と、岩でも噛みちぎりそうな頑丈な角張った顎、それに隊の象徴である臂章ひしようの銀旭日、それに鳳凰の刺繍が一段と恐ろしさを増していた。

「こっちですよ、警備隊長。違反者はこの二名です」

 房内から呼ばれた隊長は未決を組み伏せている見知らぬ刑務官に首を向けた。

 小幡は一瞬場違いな色眼鏡にぎょっとしたが、早急に部下へ二名の連行を命じた。

「ちょっと待って下さい」

 直樹は警備隊によって力尽くで廊下に連れ出された、一方的に殴られていたばかりの色白男の腕を取ると、その口から滲む血をハンカチで拭ってやった。

 すると一一二番の男は恐縮したのかおとなしく目礼した。反して二〇五番は未だ暴れ足りないようで屈強な隊員に無理矢理両脇を抱えられ保護房へと引き擦られていった。

「朝礼で通達があった、今日着任した訳ありの銀線ぎんせんってのはお前の事か」

 佐波が去り、部下を全て階下に帰した小幡が独りエレベーター前で待っていた。

 一般に看守部長は銀縞モール袖章から銀線と呼ばれている。小幡はその袖章とサングラスを如何わしいそうに見比べていた。

「はい、喜多野です。本日配属されたばかりです。よろしくお願い致します、小幡警備隊長」

 直樹は制服の上からも分かる筋骨隆々の強面の隊長へ鋭い礼を作った。

「敬礼はいい。以前はどこに勤務していた?」

「半田と岡崎の支所です」

「ふむ、そこへは数回しか行ったことがない。なのにどうしてお前は俺の名前を知っているんだ。道場関係者か」

 突き上げた小幡の顎には不審がはっきりと表れていた。

 相手の背が高く筋が通った丈夫な鼻や、細面ながらも強健に盛り上がった首や掌の筋肉で運動経験者という事は小幡も見抜いたが、肝心な目が隠れているので正体が判別出来ない。

 直樹は黙って眼鏡を取った。帽子の蛇腹に一本の金線が巻いてある看守長は、力強い眼光を帯びた切れ長の眼を見て間もなく記憶を呼び起こした。

「もしや、東。直樹か、お前」

「よかった。忘れられていたらどうしようかと心配しました」

「忘れるものか。中学時代からお前らには何度中部大会行きを阻止されたか、こいつめ」

 十八年ぶりの再会に小幡は親しみを込め直樹の腹を軽く殴った。

 小幡は一つ年上で、学校こそ異なれ、中部屈指の強豪であり共に柔道の良きライバルであった。中体連の県大会では惜しくも直樹が判定負けするも、インターハイ地区予選では見事雪辱を果たしていた。

「そうか、お前も刑務官だったな。でも喜多野なんて婿養子に入ったのか。そりゃそうと、その趣味の悪いグラサンは何だ。全然似合ってないぞ」

「ええ、私もこんな物外していたいんですが。実は所長命令で。ですから小幡さんも私を本名の東直樹でなく喜多野直之とお呼び下さい。後は隊員の方にもご内密に」

「ああ、成程な」

 小幡は再び戻った変装と偽称の深意を見抜いて警告した。

「ここには扶桑會の手下も大勢ぶち込まれている。面が割れないよう用心しろよ」

 犯罪傾向の進んでいる者を収容するB級施設における暴力団関係者の占有率は三割にも及ぶ。必然刑務所に送られる前の拘置所においてもそれは変わらない。

 直樹は眼鏡の蔓を指で叩いて言った。

「はい。でも小幡さんが見破れなかった位ですからサングラスも結構有効みたいです」

「直樹、いや直之だったな。俺な、敢えてメンシキ出してないから『ゼロ番』に何度か入ったぞ。あいつとは以前二度対戦した覚えがある。袖釣込腰そでつりこみごしの切れが凄かった。順調であればお前より格段に強くなっていただろうに残念だ」

「小幡さん、その話題は」

「分かっている。一番被害を被ったのはお前だからもう触れんさ。それより武道大会には出ていないな。稽古には通っているんだろう」

「ええ、もちろん岡崎でもやっていました」

「ならばどうだ、ここの部で俺達と一緒の時間にやらんか。腕も鈍っていないようだし」

「お話は嬉しいんですが、実は家の事情で練習時間があまり割けないんです。それにここへ転勤の際の条件に訓練への禁止を言い渡されていますので」

「所も徹底してるな。ならばいっそ警備隊へ来い。お前がいてくれれば心強い。何なら俺が上に口を利いてやろうか」

「次々とお断りばかりして申し訳ありません。私は緊急より一般の現場が好きなんです。それに私には特別な役目が与えられるそうなので。何かは現段階では分かりませんが」

 苦笑いの首を直樹は傾けた。

「ううむ、そうか。俺の推薦なら確実に引っ張ってこれるんだがな。まあ、お前が最前線で働いてくれれば一緒か。頼りにしているぞ」

 小幡は嬉しそうにバンバンと直樹の肩を叩いた。

 対して直樹は静まり返ってもなおどこからか喧噪が沸き上がってきそうな先程の房を振り返り、食傷した目を向けた。

「しかし、懲罰を警告しても大人しくならないとは、どことなく名拘は乱れていますね。半田も酷かったですがここはもっと悪い予感がします」


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