ヤコブの梯子

宮坂俊行

序章

序章  

わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。

                            創世記二十八章十五節



「くたばれ、人殺しッ」

 かん高いわめき声が、木製壇に弾き返された小刀の音に混じり静寂な廷内へ響き渡った。

 一九九八年九月二十日、名古屋地裁第一法廷に於ける人定質問が終わった途端の出来事に、検事や書記官を始め、誰もが傍聴席の夫人へ視線を集中させた。

「私の家族を返せ、ヤクザ者。鬼畜生。娘を、主人を、お爺ちゃんを返せえ」

 喪服の袖から覗く二本目の陶磁器小刀は明らかに、証言台に立つ被告の背中を再び狙っていた。

 この時になって漸く危急を察した警備は慌てて凶器の腕に飛び掛かった。

 それでも尚危害を加えようと足掻く絶叫に場は騒然となったが、数秒後ぴたりと沈黙した。被告の竹之内嘉樹よしきゆるりと未亡人へ正面を向けたのである。

 拘置所は、百八十センチを超えている被告が、県指定暴力団「扶桑會ふそうかい」の嫡子である実状から特に四人配置を取っていた。しかしながら、傍らで警備する刑務官は誰一人被告の転回てんかいを咎めず、右頬に赤く盛り上がった裂傷痕へじっと見入っていた。

 だが、謝罪と思いきや竹之内はよこしまな笑みで夫人を指差し、有るまじき言葉を吐いた。

「くたばるのはてめえだ。死に損ないめ」

 その罵りに傍聴席はわっと爆発し、弁護士の顔はたちまち青ざめた。

「殺せ、死刑にしろ」

「首をくくれれ。縛り首だ」

「火あぶりでも構わん、そんな極悪人」

 興奮を抑えきれない親族が次々と叫び、荒れ狂う死刑、死刑の怒号が方々から沸いた。

 反面、被告の強面関係者は極刑を要求する彼らに掴み掛かり、挙げ句大立ち回りを始めた。

 通常ではとても起こり得ない非常事態である。

 瞬く間に修羅場と化した局面に判事はもはや警備を総動員し、力尽くで一般傍聴人を退廷させるしかなかった。

 こうして一時中断した初公判は二時間後に終了となり、翌週発刊の『東海ニューズ誌』は、逮捕時の警察発表を基に『美浜事件』として左記の記事文を掲載した。

『一九九八年八月十日、午後九時、愛知県知多郡美浜町野間の橋爪邸に火災が発生。炎は見る間に燃え広がり、あわや全焼の所で消し止められたが、焼け跡から複数の焼死体が発見された。

遺体で見付かったのは、世帯主の橋爪勇次さん(五三)、父啓治さん(八七)、娘夏美ちゃん(八)の三人。妻の一枝さん(四四)は外出していたため難を逃れた。

ところが、現場検証と司法解剖の結果、何れも鋭利な刃物で殺害されていた事実が明らかとなった。特に睡眠薬とアルコールが検出された勇次さんの遺体は、炭化の損傷が最も激しい状況から、眠らされた後、動けないよう椅子ごと紐で固定された上、頚部を何度も刺され、灯油で火を掛けられたと判明した。また、夏美ちゃんの首は一刀で両断され、啓治さんは心臓と頚部を貫かれていた。

直ちに殺人事件と断定した半田署は愛知県警と合同捜査本部を設置し、犯人の足取りを追おうとしたが、火事を通報したAさんが怪しい男と被害者宅の玄関先で遭遇していた。スーツを鮮血で染めた男は血糊の付いた包丁で自らの右頬を傷付けながら「てめえも殺すぞ」とAさんを脅し、そのままクライスラージープで走り去った。

車種とナンバーから間もなく男の身元が割り出された。

容疑者(現被告)は(株)グリーンライム取締役社長、竹之内嘉樹(三一)。

愛知県指定暴力団「扶桑會」会長補佐でもある被告は傷害の前科があり、顔に新しい創痕そうこんが残っている事から緊急逮捕となり、同県警は時を置かず犯行を自白させた。

供述によると、勇次さんとはゴルフ場で知り合い、銀行常務という裕福な境遇を知った被告は早速橋爪宅を訪れ、二階にある書斎でワインを飲んだ。

その際、勇次さんの酒に睡眠薬を混入し、眠りに落ちてから逃げないようビニール紐で縛り上げ、台所にあった包丁で首を何度も突いた。そして隣の部屋で休んでいた啓治さんと夏美ちゃんも殺害し、現金二百万円、有価証券、宝石類を強奪していた現場を被害者の、嘗ての部下であった行員のひがし俊昭さん(五六)に見咎められたため、東さんも絞殺した。

証拠品と東さんの遺体をジープに押し込め、火を放って逃走した被告はやがてその車を名古屋の金城埠頭から海中へ突き落とし、後を付いてきた組員のランドローバーで事務所へ戻った。

翌日、水上署が車両を引き上げてみると、ジープのメッシュポケットに絡んだスポーツバッグより凶器となった文化包丁と、返り血を浴びたスーツ一式が発見された。

血液型と刺殺痕が被害者のものと一致し、また、盗まれた現金、株券、宝石十点も竹之内が経営する会社の金庫から全て押収され、事件は解決を見せた。

 但し、海底に沈んでいたクライスラーの窓と扉が全開になっており、後部座席にあったとされる東さんの遺体は外へ流れ出たのか依然行方不明で、捜索打ち切り後も警察は沿岸部周辺へ情報提供を呼び掛けている』




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