29 頑張って考えた理屈を速攻で論破されると辛くないですか?

「どうしてここにいるの? 三者面談は明日だけど」


 玄関前にいた異様に存在感のある人物――自分の母親――に、開口一番マツウラさんは尋ねる。


 それは三者面談の日程を勘違いした母親をからかうような調子ではもちろんなくて(当然、同じ京都市内に住むマツウラさんのお母さんが前泊する必要もない)、あまりに強い緊張をはらんだ言葉。


 そんな娘の視線を、マツウラ母は笑みさえ浮かべて受け止める。

 まるで、ふたりの間に見えない電流が流れているかのようだ。


「どうしてということはないでしょう。娘が世話になった・・・部屋を一度くらい見ておきたいという親心じゃない」


 そう言ってマツウラ母はあたしの方に顔を向ける。


「寺坂さん、いつも周がお世話になっております。そして、今までありがとうございました」


 先ほどから気になっていたその過去形は、ただの言い間違いではないらしい。


「それはどういうつもりなの?」


 いつも穏やかな美少女は、声にさらに棘を含ませながら言う。


「まあまあ、ここではなんですから、中に入っていただいて……」


 マツウラさんが不用意にヒートアップしそうだったのと、ここで話してたら普通に近所迷惑なのとで、とりあえずあたしはドアを開ける。


 お邪魔します、と優雅に口にして中に入るマツウラ母の視線が部屋の中を舐めまわすのに怯えながら、あたしはドアを支えつつ、後ろにいるマツウラさんに視線を送る。


 なるべく落ち着くように、あたしがそばにいることを忘れないでいてくれるように。


 目が合ったマツウラさんは少し気恥ずかしそうに頷きを返す。そんなマツウラさんの手をあたしはこっそり握る。


 彼女の小さな手の中には、いつかあたしが贈ったピックの感触があって。

 それはあたしの手の中にある、いつかマツウラさんがくれたピックと触れ合って、ほとんど聞こえないような微かな音を出したのだった。

 

◇ ◇ ◇


「はいどうぞ、お茶です。完全なる粗茶です」


 あたしはちゃぶ台を挟んで向かい合うマツウラさんとマツウラ母の間にお茶を置く。

 お茶請けは、お父さんが置いていってくれたきびだんごだ。


 それにしても、あたしはどこに座れば良いんだ?


 お母さんの側に座るのは明らかにおかしいし、やっぱ空いている部分の真ん中に座るべきなのだろうか。でもそれじゃあ審判みたいになっちゃいそうだし。

 やっぱマツウラさんの隣に座るか。なんだかちょっと、謎の気恥ずかしさがあるけれど。


 という思考を経てマツウラさんの隣に座り、隣に座ってる人の母親と対峙する。

 この前は広い部屋の中でまあまあの距離からの対峙だったけれど、今日は目の前に座っているため、”圧”も倍増している。美人すぎて怖いよ……。


 古びたアパートの中にマツウラさんのお母さんが座っていると、そのあまりのギャップから時空が歪みそうだ。

 どうしてだろ。マツウラさんの場合はそこまで感じなかったのに。

 やっぱ、金持ちであるという覚悟とか自覚とかが違うのだろうか。上手く言えないけど、なんかそんな感じがする。


「で、結局お母さんはどうして三者面談の前の日にここに来たの?」


 マツウラさんは目の前のお母さんの目を見据えて言う。


「明日は一緒に学校に行けば良いかと思って」


「そ、それはつまりここにお泊りになるということですか?」


 ヤバい、それならもっと細かいとこまで掃除しておけば良かった!


「違います。あまねを連れて帰って、自宅から学校に行くということです」


 マツウラ母の笑っていない笑顔が、あたしに正面から向けられる。あたしは至って真面目だったのだが、皮肉だと受け取られたっぽい。

 でも、この文脈ならそりゃそうか。ヤバい。あたしはどうやらよほど冷静さを欠いているらしい。


「それに関しては、お断りします。帰りたくないので」


「そんな意見が通じると本当に思っている? 私はあなたの保護者で、仕送りも行っています。私が帰って来いと言えば、帰ってくるのが道理ではなくて?」


「なら、教えてください。わざわざ仕送りまでしてくれてここに住むことを許可したのに、どうして今それをやめさせようとするのか」


 母娘おやこ間の、一進一退の攻防が続く。マツウラさんも取り乱すことなく、冷静に受け答えをしているように思える。

 とはいえ、こちらが圧倒的不利な状況にあることに変わりはないが。


「コストに見合わないと思ったからです。仕送りなんて微々たるものだけれど、あなたの監視に掛かる費用は膨大なの。教育費・・・だと思って許可してきたけれど、それに見合う教育的効果が今後得られるかどうかは不明。ならば、別の方法を模索する方が理にかなっているもの」


「ならば、仕送りも監視もやめてもらって結構です」


「周。もう少し大人になりなさい。仕送りなしじゃ生活できないでしょう。私は全部、あなたのことを思って言ってるの。すべては愛情からということを分かってほしいものね」


 それはたぶん、そうなのだろう。マツウラ母の娘に対する愛情を否定することなんて、誰にもできやしない。でも――


「ステファニーを捨てたのも愛情?」


「もちろん。あんな汚い人形をずっと持っているなんて、持てる者・・・・としてあってはならないことだもの。あなたを次期経営者としてふさわしい人間に育てること。それが、私があなたに与えられる最上のこと」


 でも、そんなの、あまりに自分勝手すぎるじゃないか。なら、マツウラさんも、少しくらい自分勝手なわがままを言ってもいいんじゃないか?


 母親の言い分を聞いたマツウラさんは、しばしのあいだ黙り込む。

 ここからどうするのだろうか。感情に任せて怒る? 粘り強く応戦を続ける? もしかして、受け入れる?


「お母さん。お願いです。わたしがここでの生活を続けることを許してください。最初はただの家出だったけど、ここでつむぎと生活しているうちに、大切なことがいっぱい分かって来たの。人と分かり合うことの難しさとか、だからこそ感じる、楽しさとか、愛しさとか。だからお願い。もっとここにいさせてください」


 しかしマツウラさんの反応は予想したどれとも違っていて、彼女はそう言って頭を下げたのだった。


「あ、あたしからもお願いします! 周さんはとっても良い子で、こんなボロアパート暮らしでも文句も言わないし、ちゃんと節約してるし、決して勉強になってないってことないんです!」


 あたしも慌てて頭を下げる。

 マツウラさんの言葉を吟味している時間は、今はない。


 この役目は、あたしだけで良かったのに。


 そんな気持ちが胸を満たす。

 もちろん、マツウラさん自身が頭を下げる方が筋は通っているのだろう。でも、彼女が頭を下げているところなんて、あたしは見たくなくて。最初から、あたしだけがこうして頭を下げて全てが上手く行っていれば良かったのに。そんな思いでいっぱいになる。


「それに、周さんがご実家で生活するのに掛かる費用は5万円では済まないんじゃないですか? その差額を積算したら、監視費用くらいにはなるんじゃないでしょうか。つまり、周さんがここに長く住めば住むほど、その金額はペイできるんじゃないでしょうか」


 あたしはここぞとばかりに、あらかじめ考えておいたとっておきの理屈を提示する。これはかなり筋が通っているんじゃないだろうか。


「寺坂さん。なかなか面白いお話ですが、詭弁の域を出ていません。監視費用は周がここにいなければ発生しない負担であり、そんな回りくどいことをしている間に必ず損失が生まれますからね。それに、これは我が家の問題です。申し訳ありませんが、口出しはご遠慮願います」


 マツウラ母の冷たい視線があたしを刺す。

 あたしは息を呑んで、ちゃぶ台の下で自分の太ももをぎゅっと掴む。


「そして、周」


 マツウラ母はあたしから視線をマツウラさんに移すと、今までと同じトーンで、しかし明らかな怒りを込めて、言った。


「あなたなんてまだなんの価値もないの。そんな人間に、口答えをすることなんてできないの。親の金がないと生活もできないんだから、素直に言うことを聞きなさい」


 その言葉に、あたしは血が突沸するのを感じる。

 マツウラさんに価値がない? そんなはずがない!


 それがお金を基準にした労働力の問題に過ぎないのだとしても、それは絶対に言ってはいけないことだった。


 立ち上がろうとするあたしの太ももを、しかし隣から伸びた手が優しく押さえつける。

 横目に見るマツウラさんの瞳は、どこか憂いを含んでいて。


「では、仕方がありませんね」


 そう言ってマツウラさんはパチンと指を鳴らした。

 刹那、玄関ドアからノックの音が響き渡る。状況が理解できないあたしをよそ目に、マツウラさんは立ち上がって玄関まで赴き、扉を開いた。


 そこに立っていたのは、ジュラルミンケースを持った木下さんだ。いつも通り、執事らしくピシッとベストを着こなしている。


「失礼いたします」


 そう言って木下さんは優雅に靴を脱ぐと、こちらにやって来て、あたしたちの間に膝をつく。そして、ジュラルミンケースの中身をあたしたちに見せるように開いた。


「……え?」


 目の前に広がる光景に、あたしは自らの目を疑う。


 そこにあったのは、今まで見たこともない量の紙幣だったのだ。

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