26 屋外で飲むコーラって最高においしくありませんか?

 あたしはマツウラさんのいない部屋を見渡す。


 広い、からっぽの部屋。


 部屋という概念があたしの中でバラバラと崩れて、ただの空間になる。雑多な物がたくさん置かれた、ただのからっぽの箱。


 でも、そう見えたのは、ほんの一瞬で。

 あたしは視界の中心に、確かに彼女のキャリーケースを捉えた。


 思考が遠くから、ぶおんと円を描いてあたしの頭の中に戻って来たような気がする。部屋が部屋としての形を取り戻し、あたしは冷静に目の前の状況を見ることができるようになる。


 キャリーケースの他にも、部屋の中にはマツウラさんの通学鞄とか、ヘアゴムとか、スマホの充電器とかが散乱していて。


 マツウラさんは実家に帰ってしまったわけではない。そのことがやっと確信されて、あたしは安堵のため息を漏らした。


 でも、それなら彼女はどこへ行ったんだ?


 第一に考えられるのは、やはり鴨川沿いだ。落ち込んだときや泣きそうなとき、まず行く場所といえばあそこしかない。彼女があたしと別のルートを通ったとすれば、ちょうど入れ違いになってしまったということも十分に考えられる。


 でも、そこでふと、思う。


 そもそも、彼女は落ち込んでいたり、泣きそうだったりするのだろうか?

 彼女は今、どんな思いでいるのだろうか。彼女は一体、どんな思いであたしにあんなことを言ったのだろうか。


 この家にいることを、やめるだなんて。


 けれどきっと、なにか思うところがあったのだろうと今では思う。何か言いたいことを我慢して、ああ言うほかなかったのだろうと。だから、彼女は今、きっと泣いているのだろうと。


 でもそれはもしかすると、ただあたしの願望なのかもしれなかった。

 そして、彼女の涙を願うあたしの心は、どこまでも汚れていて、自己中心的で。


 彼女にはずっと笑っていてほしいと、思っていたはずなのに。悲しみなんて知らないでいてほしいと、願っていたはずなのに。


 自分のために泣いていてほしいだなんて、なんてひどい同居人だろう。


 あたしは鞄からピックを取り出して、握りしめる。

 いつだったかカ〇ートの島〇楽器に行ったとき、お互いに贈り合ったプレゼント。てのひらに食い込むピンク色は、あたしの行く先を照らしてくれる方位磁針のようで。


 マツウラさんは鴨川じゃない。きっとあそこだ。


 それはただの直観。

 あたしは再び家を飛び出し、自転車に跨った。


◇ ◇ ◇


 夜の闇の中、そこは不自然なくらいに煌々と光り輝いていた。

 まさに不夜城、まさに便利な店。


 コンビニエンスストアの灯りに照らされて、彼女は店の手前にしゃがみ込んでいた。

 手元には、アゲアゲチキンとフランクフルト。


 クオカードが当たって、ここのコンビニで豪遊したことを思い出す。ほんと、ジャンクなフードが好きなお嬢様だ。


 あたしは彼女の正面に立つ。彼女は俯いたまま、アゲチキを頬張っている。

 湿り気を帯びた微風が吹き抜ける。店の灯りに、数匹の羽虫が飛び交う。夜の匂いがする。


 彼女の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいて。それを見てあたしは、やはり少しだけほっとしてしまうのだった。


「あの人めっちゃ可愛いな」


「パンツ見えない?」


 後ろから塾帰りの男子中学生っぽい声が聞こえて、振り返る。


「あ゛?」


 ついついおしとやかな声が出てしまったので、ついでにガンを飛ばしておく。


「おっかねえ……」


「別のコンビニでプリカ買おうぜ……」


 なぜだか分からないが、男子中学生たちは逃げるようにその場を立ち去ってゆく。


 辺りに静けさが戻り、あたしはしゃがみ込んでマツウラさんと目の高さを合わせた。まだ半分ほど残ったアゲチキのジューシーな匂いが漂う。


「マツウラさん、突然飛び出してごめんね」


 あたしの言葉にマツウラさんはこくんと頷くが、それでも目を合わせてはくれない。


「あたしの気持ちを言うね」


 でもあたしは、勇気を振り絞ってマツウラさんに話しかける。

 

 本当のことを言うんだって、決めたから。


「正直、家を出ていくって言われてすっごいショックだった。マツウラさんはそんなにこの家に愛着ないのかなとか、あたしと一緒にいるのが楽しくないのかなとか、いろいろ思っちゃった」


 マツウラさんは両手にアゲチキとフランクフルトを持ったまま、膝に顔をうずめている。

 それでもあたしは、言葉を続けた。


「それでよく分かんなくなって、逃げ出しちゃった。それは、本当にごめん」


 そしてあたしは、祈るように彼女を見つめる。


「あたしはマツウラさんのことが大好きで、だからずっと一緒に住んでいたいよ。マツウラさんがどう思っていようとも、それが今の、あたしの気持ち」


 言ってしまった。


 言葉にしてしまえば、こんなに単純なことだったんだ。大好きだから、一緒にいたい。これがあたしの、唯一の願い。


「それなら……」


 今まで黙っていたマツウラさんが口を開く。それと同時に、鉄を打った火花のように可憐で鮮烈な光を湛えた瞳が、あたしを打ち抜く。


「それならどうして、あんなに悲しい瞳を見せるの? それならどうして、笑ってるのに笑っていないときがあるの?」


 マツウラさんの言葉は、はっきりとあたしの耳に届く。その声には、あたしが初めて彼女から感じた感情――剥き出しの怒り――さえ含まれていて。


 彼女から発せられた言葉は、予想さえしないものだった。


 悲しい瞳を見せていた? 笑ってるのに笑っていなかった?


 あたしは、小さなアパートの一室で暮らすふたりの少女を想像する。ひとりはあまりに可憐で、もうひとりは時に気だるげで。目の前の少女の可憐さを映す瞳は、どこか痛みを抱えて、いる?


 マツウラさんの存在によってあたしの中に掻き立てられたモヤモヤが、彼女にも伝わっていたというのだろうか?

 でも、悩むときあたしはきっとひとりで悩んでいて、彼女といるときは、きっといつも楽しくて。だから――


「そんなはずないよ。マツウラさんといるときは、いつも楽しいもん」


「そんなの嘘よ!!」


 あたしはマツウラさんのあまりに明確な否定に驚く。その頑なさは、あたしの心に火を点ける。いつのまにかあたしたちは立ち上がっていて、お互いを見つめ合うように前のめりになっていた。


「嘘じゃない!」


「嘘だもん! わたしだって、そのくらい分かるよ。つむぎが思ってるほど、わたしはぼうっとしてないもん!」


「ぼうっとしてるなんて思ってない!」


「思ってるわよ! なんの悩みもない、世間知らずの箱入り娘だって思ってるもん!」


「そんなこと、思ってない!」


 思わぬマツウラさんの攻勢に、あたしは根拠のない否定を繰り出し続けることしかできない。それはたぶん、マツウラさんの指摘が的を射ているからで。


「そうだとして、笑ってるのに笑ってないときがあったとして、だからマツウラさんは出ていきたかったの!?」


「違う! つむぎが何も言ってくれないから! わたしに相談してくれないから、つむぎが本当は迷惑してるんじゃないかと思って、それで……」


「そんなわけないじゃん!! それこそ相談してよ!」


「そんなこと言えるわけないじゃない! きっとつむぎは本心を打ち明けてくれないし!」


「だからさっき言ったじゃん! マツウラさんのことが大好きで、ずっと一緒にいたいって!」


「それならわたしも言うわ! わたしもつむぎのことが大好きだから、ずっと一緒にいたいの!」


 互いの思いを一番気持ちを込めて言い切った瞬間、静寂が訪れて。

 その隙間にぐぅーというお腹の音が二重奏デュオで鳴って。


「ぷっ、くふふ」


 マツウラさんが吹き出して、ついにあたしも我慢できなくなる。

 お腹の底から笑いが溢れてきて、止まらなくなって。ふたりの笑い声が、暗い夜空に響き渡る。


「つむぎ、アゲチキ食べる?」


「うん、食べる」


 マツウラさんが差し出してくれた齧りかけのアゲチキを、そのまま頬張る。

 これでもかというくらいジューシーな、お馴染みの味。


「フランクフルトも半分こしましょう?」


「ありがと、マツウラさん。なんか飲み物買ってくるね」


「ありがとう、つむぎ!」


 そしてお馴染みの入店ベルを聞きながら、思う。


 大好き、という言葉の意味について。


 あたしの「大好き」とマツウラさんの「大好き」は、たぶん異なるものなのだろう。でもどちらの「大好き」も、きっとどこか重なる部分はある。今はそれで、十分な気がする。


 コーラをふたつ買って、マツウラさんのところに戻る。


「はい、マツウラさん」


「ありがとう、つむぎ」


 ぷしゅ、という音が夜空に響く。マツウラさんからフランクフルトを受け取って、齧る。


 ふたりしゃがんでコンビニの前でコーラを飲むあたしたちは、周りからはどんな風に見えるのだろうか。

 どうあがいても不良には見えないだろうけど、ちょっとくらいひねくれた奴らと見られているかもしれない。そうだとしたら、少し愉快だ。


「つむぎ、ごめんなさい。出ていきたくないのに、出ていくなんて言って。たぶんわたし、拗ねていたんだわ。つむぎが大人で、なんだか遠くにいるような気がして」


「違うよ。マツウラさんのこと何も分からないまま、あたしこそ拗ねていただけ」


 たぶんそれは、お互いにきっと、子供でも大人でもないということ。

 それはきっと、それでいい。


 舌の上で弾けるコーラの炭酸は、確かに希望の味がして。


「マツウラさん」


「何? つむぎ?」


「三者面談、絶対に乗り切ろう。絶対、いっしょに夏休みを過ごそう」


「ええ!」


 そう言ってマツウラさんは最高の笑顔を見せる。そしてあたしたちは、コーラのボトルを触れ合わせたのだった。


◇ ◇ ◇


「さあ、勉強して寝ようか」


「これからまだ勉強するの!?」


 そんな会話をしながら、ふたりでゆっくりと自転車を漕ぐ。


 アパートが見える場所まで来たとき、ふと自転車置き場のところに人影が見えた。

 他の住民の人かなと思ったけど、それにしては動く気配がない。


「マツウラさん、あそこの人、怪しくない?」


「どれどれ?」


 少し警戒しながら近づくと、それが知っている人だということに気付く。


「あら、木下さんじゃない!」


「お嬢様! こんな遅い時間に出歩くのはお控えください!」


「でもずっと監視してくれてるんでしょ?」


「それはそうですが……」


 ピシッとベストを着こなしたその人影はやはりマツウラさん家の執事こと木下さんだった。相変わらず仲が良い。


「こんばんは」


「これは寺坂様、ご機嫌うるわしゅう」


 あたしの挨拶に、木下さんは優雅に一礼する。


「それにしても、木下さんこそどうしたの? こんな時間に」


「はい、不肖木下、少しお嬢様のお耳に入れておきたい情報がございまして、こうして秘密裏にやって来たわけでございます」


「情報?」


「はい。実は……」


 そうして木下さんはマツウラさんに耳打ちする。その間、マツウラさんの表情がどんどん曇ってゆく。


「というわけです」


「あぁ……」


 そうして深刻な表情のまま、マツウラさんはあたしに言う。


「つむぎ、悪い知らせと悪い知らせがあるわ」

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