25 ふと蘇った言葉に納得する瞬間ってありませんか?

「どういうこと、マツウラさん……?」


 あたしは恐る恐る尋ねる。


『テストが終わったらいなくなっちゃうと思うわ』


 マツウラさんは確かにそう言った。おいしいご飯を食べたあとの、何気ない会話のはずだった。


 でも、マツウラさんの放った言葉は、あたしが今、いちばん聞きたくなかったもので。

 何かの冗談であってほしい。それを冗談として受け流せるかは分からなかったけれど、あたしはそう強く願った。


「この前、家に帰ったときから思ってたの」


 しかし、マツウラさんは相好を崩すでもなく淡々と続ける。彼女は本気なのだ。それが痛いほどよく分かって、あたしの心は押しつぶされそうになる。


 『家に帰ったときから』と彼女は言った。


 それはたぶん、ふたりでマツウラさんの実家に行って、マツウラさんのお母さんに三者面談のプリントを渡したあの日のことなのだろう。別に、取り立てて何があったわけでもなかった。ただ、マツウラさんのお母さんがちょっと怖かっただけだ。


「つむぎにわざわざ実家まで来てもらって、嫌な思いさせて。次の日は遅刻までさせちゃうし……。こんなことで良いのかな、って思ったの」


 そんなの全然気にしてないよ。そう言うべきはずのあたしの口は、なぜだが上手く動かなくて。


「やっぱりお母さんとのことは、お母さんとわたしの問題で、つむぎを巻き込むのは違うんじゃないかなって」


 マツウラさんは俯きながら続ける。


 やめて……。それ以上言わないで……。


 あたしは心の中で、必死に祈る。

 でも、口にされないあたしの思いが、目の前の美少女に届くはずはなくて。


「お母さんは、わたしを思い通りに動かすためにつむぎを利用しているわ。それはつむぎに対して、とっても迷惑なことなんじゃないかって思ったの。つむぎも自分の都合があるのに、あたしが勝手に押しかけて、家の問題を持ち込んで……」


 それだけ言い終わると、マツウラさんは沈黙した。


 以前、マツウラさんがお母さんについて語っていた言葉を思い出す。


『わたしがお金に困って母に泣きついたとき、本当の意味であたしを支配できると思っているのよ』


 だからこそマツウラさんは、この家に自分が住むことで、自分の、あるいは自分たちの都合にあたしが振り回されることを心配しているのだろう。

 理屈は、分かる。でも、理屈だけだ。


「だから、三者面談のタイミングで実家に帰るってこと?」


 あたしは、自分の言葉に棘が付いていることを意識しながら発話する。


 どうして、こんなことしか言えないのだろう。

 もっと言うべきことがあるはずなのに、今のあたしには何も分からない。

 それでもマツウラさんは、静かに頷いた。


「たぶん三者面談のとき、お母さんはわたしを連れ戻そうとするわ。わたしが泣きつくまで待つのが理想だろうけど、それだといつになるか分からない。今現在わたしの監視に掛かっている費用を考えれば、そのくらいのタイミングで事を終わらせるのが、一番コストパフォーマンスを発揮できると思っているはずなの」


 どうして、そんなに冷静に語れるのだろうか。どうして、そんなに理詰めで分析できるのだろうか。


「だからわたしは、それに従う。これ以上つむぎに迷惑を掛けられないわ」


 それは、不可逆的な決意に思える肯定。


 迷惑なんて掛かってないよ、とは言えなかった。それはあたしが実際に迷惑しているからではなく、マツウラさんが迷惑を掛けていると感じているから。


 家に押しかけてきて、やっぱり迷惑だから出ていくと言っている人を、家主は一体どうやって止めることができる?


 ましてや、相手は保護者もいて、家もある女子高生だ。その彼女が家出を終わりにすると言ったところで、なぜそれを止める必要がある?


 止めることなんて、できないんじゃないか?


「どうせ帰るならもっと早く出た方が良いのかもしれないけれど、やっぱりそこは泣きついたと思われたくないから。申し訳ないけれど、もう少しここにいさせてね」


 マツウラさんは、なお俯いたまま言う。

 あたしは、自分の中でふつふつと湧き上がる怒りの感情に驚いていた。


 どうしていまさら、そんなことを言うのだろうか。

 どうして、簡単に出ていくなんて言えるのだろうか。

 あたしとの生活は、そんなに簡単に捨て去ることができるものだったのだろうか。

 この家はやっぱり、ちょっとした宿みたいなものだったのだろうか。


 マツウラさんはあたしと一緒にいなくても、寂しくないのだろうか。


 口から漏れ出そうになる感情を抑えて、あたしは立ち上がる。


「つむぎ……」


「ちょっと頭、冷やしてくる」


 頭の中で作った台詞を喉から絞り出して、鞄を掴んだあたしは玄関に進む。


 振り返ると、マツウラさんはそのままじっと座っていた。

 そしてあたしはそれ以上何も言わず、玄関を出たのだった。


◇ ◇ ◇


 夕闇の中、鴨川の水面は静かに揺れている。ジョギングする人や犬の散歩をする人が、ひとりベンチに座って泣く女子高生を見るでもなく見ている気がする。


 こんどはあたしが、ここに来てしまった。


 4月。マツウラさんと焼きそばのキャベツのことで喧嘩して、マツウラさんも川沿いに佇んでいて。

 思い出せばなんて些細なことで喧嘩したんだろうと可笑しくなって、余計に辛くなる。


 三者面談が終われば、ああして焼きそばを作ることも、一緒にゴロゴロすることも、なにもかもできなくなってしまうのだろうか。


 また涙が川みたいに溢れ出して、止まらなくなる。鴨川だ。ひとり鴨川だ……。


 あたしは悔しかった。


 何が?


 マツウラさんが出ていくという選択肢を持っていたということが?


 違う。そんなのあたしのわがままだ。マツウラさんが出ていきたいのならそうするべきだし、悔しがる資格なんてない。


 なら、どうしてあたしは悔しいんだ?


 それは――


『それは、逃げてるだけじゃない?』


 百合中さんの声が脳内にこだまする。決定的に逃れられない言葉。友人からの、それは本気の忠告。


 まったく、どこまで的確なんだ、君は。

 少しだけ笑って、あたしは立ち上がり伸びをした。


 あたしが悔しいのは結局、あたしがあたしの本心をマツウラさんに伝えていないからで。だからマツウラさんに何を言われたって、それはあたしの作った殻の中で、めちゃめちゃに反射して、あたしを刺し続けるだけで。


 あたしは頭を冷やすとか言って、またマツウラさんから逃げているだけなのだった。


 帰ろう。そして、マツウラさんとちゃんと話そう。

 そう決意して、あたしは自転車に跨った。


◇ ◇ ◇

 

 アパートの下に自転車を置き、深呼吸する。

 どう切り出そうか。何を伝えればいいんだろうか。それに、マツウラさんは本当に実家に帰るつもりなのだろうか。


 いろんな感情が混ざり合って、絶対に上手く言葉にできない自信がある。でも、どうせ上手く言えないのなら、準備なんて必要ない。


 とにかく早く、彼女の顔を見たい。早くマツウラさんに、会いたい。


 階段を上り、扉の前でもういちど深呼吸。鍵を開けて、ドアノブに手を掛けた。

 そしてあたしは、勢いよく扉を開く。


 一瞬、チェーン掛かってるかなと思ったけど、扉はそのまま難なく開いた。


「マツウラさん、ただいま……」


 暗い部屋の中、沈黙だけが返事を返す。


「マツウラ、さん?」


 あたしは急いで靴を脱ぎ、室内へ。

 分かっていても、ユニットバスの扉を開けて、押し入れを開けて、布団を捲り上げる。


「マツウラさん……」


 だがもうこの部屋には、マツウラさんはいないのだった。

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