22 遅刻も嫌だけど急ぐのも嫌じゃありませんか?

 うー。眠い。もうちょっと寝る。2分。2分でいいから。


 ……って、あれ? 目覚まし、鳴ってなくない?

 そう気付いて、脳が覚醒する。


 いつも轟音で鳴り響いてあたしをげんなりさせる目覚まし時計の音。

 それが聞こえないということは、今現在が起床予定時刻の前、あるいは後であるということを意味していて。


 これは、やってしまったか?


 こんなに眠いのに、目覚ましよりも前に起きるはずなくない? ってかおぼろげに目覚ましを消した記憶があるようなないような……。


 恐る恐る枕元の時計を見ると、8時10分。

 お、終わった……。


 あたしは視線を床に遣り、布団でぐっすりと眠っているマツウラさんを確認する。

 うう……。マツウラさんだけは絶対に遅刻させないつもりだったのに……。


 いや、まだ間に合うか?


 始業時間は8時40分。

 10分ちょっとで準備できれば、ギリギリ間に合うか間に合わないかというラインかもしれない。とにかく。


「マツウラさーん! 起きてええええ!」


 あたしはベッドを降り、マツウラさんの肩を揺らしながら彼女の耳元で声を出す。


「うう……。もうこれ以上ケーキは食べられないわ……」


 なんてかわいい夢を見ているんだ! びっくりするわ!


「マツウラさーん! 遅刻寸前か、もしくはもう手遅れなんだよー!」


 その言葉に、ピコっとマツウラさんの瞼が開く。


「もうそんな時間?」


「そう! 8時11分!」


 マツウラさんはそのままガバっと状態を起こす。あたしは危うく顔面を強打するところで、なんとか身を引く。


「うーん。そういえばよく寝た気がするわ。昨日の実家訪問で気疲れしちゃってたんでしょうね」


 マツウラさんは呑気に言って、伸びなどしている。

 まあ確かに、あたしも普段は感じないタイプの緊張をマツウラさんのお母さんの部屋で感じ、いつもより疲れていたというのはあるかもしれない。

 それはともかく。


「急いで準備して出ようよ!」


 あたしの言葉に、マツウラさんは人差し指をひとつ突き立てて答える。


「わたしは急がないわ」


「どうして? まだ間に合うかもしれないんだよ?」


「だってどのみち、今から出たらギリギリでしょ? ということは、ふたり同時に急いでしまうと、ふたり同時に息を切らして学校に到着してしまうことになる。そうすれば、わたしたちが一緒に住んでいるってことのヒントをクラスのみんなに与えてしまうことになるわ。そうならないためにあたしが遅刻するから、つむぎは頑張って行ってきて♪」


 た、確かに。マツウラさんの言う通りだった。


 今まで、わざわざ別の道を通って通学するほど慎重にやってきたのに、今回焦ってボロを出していては意味がない。しかし――。


「それなら、あたしが遅刻するよ。目覚まし時計を止めちゃったのはあたしなわけだし、マツウラさんに遅刻させるなんて酷なことできないよ(決して急いで準備するのが面倒なわけじゃなくて)」


「そんなことないわ! もとはといえば、わたしの実家に付いてきてもらって疲れちゃたのが原因なんだから、わたしが遅刻するわよ(決して急いで準備するのが面倒なわけじゃなくて)!」


「いやそんな、マツウラさん遠慮しないで!」


「つむぎこそ!」


 と、そんな争いをしている間に時間は刻一刻と過ぎてゆく。

 こうなったら……。


「「さいしょはグー!」」


 あたしとマツウラさんが声を上げるのは同時だった。


「「じゃんけん、ポン!」」


 あたしがチョキで、彼女がグー。


「うう。分かった。行ってきます」


 まあ、マツウラさんに急いで準備しろってのも酷だし、仕方ない。遅刻させるのが申し訳ないという気持ちも、本当にあるのだけど。


「グッドラック! 車に気を付けてね!」


「ありがと。でもマツウラさん、遅刻して教室に入ってくるのとか平気? なんなら、もっと別の手を考えるけど」


 たとえば、あたしが腹痛でうずくまっていたところをマツウラさんが助けてくれてふたりとも遅くなった、とか。

 パッと考えたわりには、悪くないアイデアかもしれない。


「1回くらい平気よ! なんとなく乗り切るわ!」


 マツウラさんは自信たっぷりの様子で言うが、本当に大丈夫だろうか。


「分かった!」


 だが、いよいよ考えている時間はない。

 あたしは大急ぎで顔を洗って歯磨きを済ませると、制服に着替えて家を飛び出る。


 時計を見ると、8時21分。ギリギリ大丈夫そうだ。車に轢かれてしまっては遅刻どころの騒ぎではなくなるので、ここからはあまり焦らないで行こう。


 髪とか全然整えてないけど、まあ自転車乗ってるうちに良い感じになるだろう。そう自分に言い聞かせながら、あたしは自転車で風を切り始めるのだった。




 ギリッギリ、セーフ。

 あたしは肩で息をしながら鞄を机の上に置く。


「おはよう。芸術的な滑り込みだね」


 呆れたような百合中さんの言葉とともに、ホームルーム開始のチャイムが鳴る。


「お、おはよう、百合中さん……」


 ここまで全力を出す予定ではなかったのだが、自転車を置いてから教室までの道のりが想像してたより長かった……。


 暑い……。自分から湯気が出てないか不安だ……。


 ほどなくして担任の先生が教室に入ってきて、出席を取る。

 空いているのはマツウラさんの席だけ。当たり前だが欠席連絡とかは入っていないらしく、先生は首をかしげている。「連絡を聞いている人は?」という先生の問いにも、教室は静寂を返す。


 あー、なんか暑いのとは別に、変な汗かいてきた。

 今ここにいない人に全員が思いを巡らせているのに、その思いは言葉にされることなく、それぞれの内に沈んでいく。そして残るのは、無言だけ。


 なんだかとても居心地が悪い。なんでだろう。こんなこと、マツウラさんじゃなかったら感じないような気がする……。


 たぶんそれは、みんなが普段のマツウラさんを知らないことへのもどかしさだった。マツウラさんはあんなに可愛くて、しっかりしていて、魅力的なのに。

 みんなは今、心の中にマツウラさんのことを思い描いては、自分の勝手なイメージと照らし合わせて、きっと遅刻の理由を邪推なんかしていて。

 マツウラさんがそんな扱いを受けることへの苛立ちが、きっとあたしの中にはあるのだった。


 かといって、あたしが思うマツウラさんもまた、あたしの勝手なイメージに過ぎないのかもしれなくて。


 それでもあたしは、この教室で一番マツウラさんと一緒にいる時間が長い人間として、今すぐにでも立ち上がって、マツウラさんの素晴らしさを説いて、遅刻の理由なんかも解説してしまいたいという衝動と戦っていた。




 ホームルームが終わり、1限目が始まってしばらく経った。

 マツウラさん、そろそろ来ても良いんじゃないか。

 そう思ってあたしはさっきからヤキモキしていて、彼女が先生に怒られないかとかいろいろ考えて、緊張していた。


 その矢先。

 ガラッ、と前方の扉が開いて、マツウラさんが颯爽と教室に現れる。


「遅くなってすみません。松浦周です」


 そして、マツウラさんは笑みさえ浮かべながら教壇の数学教師に伝えた。

 こんなに優雅に遅刻する人、初めて見た……。


 なんだか教室がパッと明るくなった気がして。たぶんそれはあたしが思ってるだけだけど、マツウラさんの輝きにみんなにが一瞬、魅了されたのは事実なような気がして。


 遅刻の理由を問われたマツウラさんは「疲れが出てしまいまして」とだけ言う。

 そして数学教師はそれ以上何も訊かず、彼女に座るよう促したのだった。


 すごい。マツウラさん、雰囲気だけで遅刻をうやむやにしやがった……(まあ記録は付いてるだろうけど)。恐ろしい女やで……。


 それはもしかすると彼女の”圧”がなせる業なのかもしれず、あの母あってこの子があるんだろうなとあたしは当たり前に思うけれど、それはまあマツウラさんに言ったら嫌がるかもしれないので、心の中だけに留めておくことにする。


 そして全員が揃った教室は、普段通りに進んでゆくのだった。


◇ ◇ ◇


「えー、というわけで、来週月曜に開催される球技大会のチーム分けを発表したいと思います!」


 帰りのホームルーム。教壇に立った渡壁さんが声を張り上げると、教室中が小さく盛り上がる。


 そう言えば休み時間に回ってきたあみだくじに名前を書いたっけ。

 どのチームになってもまあ良いけど、こういう機会にマツウラさんと一緒になると楽しいかもしれない。学校でマツウラさんと一緒に何かをすることって、強制されない限り絶対にないし。


「――さん、寺坂さん。以上が女子バレーボールAチームです」


 あれ、聞いてなかった。あたしがAチームだってことは分かったけど、結局あたしは誰と一緒なんだ?


「――さん、松浦さん、百合中さん。以上がバレーボールBチームです」


 おお、松浦さんと百合中さんがBチームってことは、あたしはどちらとも違うチームってことか。ちょっと残念。


 球技大会のルールとして、まずはクラス内で対戦し、勝ったチームがクラス対抗戦に出られることになっている。すなわちあたしは、マツウラさん、百合中さんと戦う運命にあるってわけだな。


 隣に視線を遣ると、百合中さんと目が合う。


「負けないよ」


 なぜかテンション高めの百合中さんはニヤリとしながら言う。こんなに球技大会とかに張り切る人だったっけ? でもまあ、卓球のときのこととか考えると、そうかもしれないという気もしてくる。


 あたしは(頑張る気があまりないため)曖昧に頷く。すると百合中さんも、何を考えてるのかよく分からない表情で、ゆっくりと頷きを返すのだった。

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