19 風邪のときっていつもと違う感じになりませんか?

 あー、喉乾いた。


 あたしはベッドから起き上がり、マツウラさんが沸かしていってくれたお茶をコップに注ぐ。静かすぎて、液体を飲みこむごくごくという音がはっきり聞こえてくるみたいだ。


 お茶を飲み終えたあたしは、机の上にあったスマホを取り上げると再びベッドに寝そべる。スマホの画面に表示された時刻は午前11時。本来なら授業を受けている時間だ。

 


 

 昨日、台所で倒れてから、あたしは何とか立ち上がってベッドに赴き、そのまま泥のように眠ったのだった。


 夜に少し目を覚ましたとき、熱を測ると38℃。涙目のマツウラさんが病院に行くか尋ねてくれたけれど、まあ日曜日ということもあり、様子を見ると言ってそのまま眠りについたのだった。


 朝起きると、幸い微熱になっていた。頑張れば学校にも行けそうだったけれど、いちおう大事を取って休むことにしたのだった。


 マツウラさんには『疲れが出たのかしら』なんて言われたけれど、それよりもマツウラさんのことを考えすぎた知恵熱じゃないかという気がする。

 ただ、本人にそんなこと言うわけにもいかず、あたしはそうかもしれないと笑ったのだった。


 まあ今日は、難しいことは考えずぼうっとしていよう。

 スマホで適当なSNSをスクロールしながら、そう決意する。


 渡壁さんのアカウントを覗くと、授業中なのに『マジ眠い。ねむすびころりんなのだが?』と意味不明な投稿がなされていて、ちょっと笑ってしまった。




 12時になったので、お昼ご飯を食べることにする。お腹はそんなに空いていないが、まあ食べられるのならなるべく食べた方が良いだろう。


 冷凍庫を開けるとそこにあるのは、マツウラさんが朝方ダッシュで買いに行ってくれた冷凍鍋焼きうどん。


 時間がない中わざわざ買いに行ってくれて、マジ感謝しかない。

 うどんを加熱し終えたあたしは、ちゃぶ台に敷いた広告の上にそれを置き、食べ始める。


 あー、おいしい。なんかホッとする味なんだよなあ、これ。

 シイタケとか鶏肉とかが入ってるのも豪華で最高だ。


 なんとなくテレビを点けると、どのチャンネルも普段目にすることのない平日お昼の番組を放送している。別に面白いわけじゃないけど、なんとなく、ただ情報が目の前を流れていくのは心地よくて。


 なんか懐かしい。この感じ。

 思い出すのもやっぱり、学校を休んだ日だった。


 あたしは滅多に風邪をひかないけれど、それでも2年に1回くらいは倒れる。

 小学校のころ、学校を休んで、朝から放送されている子供向けの番組をなんとなく眺めて。途中で難しい数学の番組とかになって、なんだこれと思いながらチャンネルを変えて。


 なんだか、無性に切ない気持ちになる。

 自分が、あの頃に戻ったような感覚。


 休みの日ってのは案外、時空の狭間で繋がってるのかもしれないなんて、荒唐無稽なことを考える。


 でも、あの頃より身体も大きくなって、誰もいないひとりの部屋でジャージを着ながらうどんを食べているあたしは、やはり高校生で、15歳で。あの頃に戻ることはできないのだった。




 うーん。マツウラさんが帰ってくるまで、あと2時間くらいかー。

 寂しいなー。早く帰ってこないかなー。


 あたしはゴロゴロしながら考える。

 身体が弱っているからか分からないけれど、なんだか異様に心細い。


 アパートの外で、キーッという自転車のブレーキ音が聞こえる。まさかマツウラさんじゃないだろうけど、少しだけ期待してしまっている自分に気付く。


 次いで、階段を乱暴に上る音。

 誰だろう。今にも崩壊しそうな階段なのだから、もう少しゆっくりと歩いてほしい。


 そして、錠を開けるガチャリという音。

 さすがボロアパート。隣の家の音がこんなにはっきり聞こえるなんて。


「つむぎー。起きてるかしら」


「って、マツウラさん!?」


 足音の主は本当にマツウラさんだったようだ。


「ちょっと待ってね」


 あたしは玄関まで赴き、チェーンを外す。


「ごめんなさい。寝ているところだったのに」


「いやいや、目は覚めてたし、全然大丈夫だけど、それにしてもどうしたの。帰ってくるの早くない?」


 あたしの問いかけに、マツウラさんは手に提げていたエコバッグからキウイフルーツを取り出し、掲げて見せる。


「つむぎが心配で、早退してきちゃった」


 てへ、という様子でマツウラさんは笑う。


「うう。マツウラさん、ありがとう……」


 あたしは泣きそうになりながら、マツウラさんにお礼を言う。抱き着きたいくらいだったけれど、風邪をうつしてしまってはいけないので(知恵熱だったらうつらないけど)、それはやめておく。


「あら、てっきりつむぎなら『そんなことで早退してどうするの!』なんて言うのかと思ったけど、やけに素直なのね」


 マツウラさんは悪戯っぽい口調で言う。


「だって、嬉しかったから……」


 あたしは素直ついでに、素直な気持ちを伝える。発熱してるときくらい、甘えさせてもらおう。


「うふふ。つむぎ、可愛い。さ、ベッドへ行きましょう」


 マツウラさんにエスコートされて、あたしは再びベッドに寝転がる。


「熱は測ってる?」


「いや、朝に測ったきりかな」


「じゃあ測らなくちゃ!」


 マツウラさんは机の上に置きっぱなしだった体温計を手に取り、あたしに近づく。

 そして、そっとあたしのシャツの裾に手を入れると、体温計の先を落ち着かせる場所を探し始める。


「自分でできるよ、それくらい」


「まあ良いじゃない。熱があるんだし」


 まあいっか。熱があるんだし。


 脇を探し当てたマツウラさんは、そこに体温計を差し込む。くすぐったい。


 体温を測る間、あたしとマツウラさんは無言で待ち続ける。待ってみると意外と長いものだ。あたしを見つめるマツウラさんの視線が、照れくさい。


 しばらくすると、ピピピ、と音が鳴った。体温計を取り出す。


「何度だった?」


「うーん。37度2分」


「あら! まだまだ熱があるじゃない! 病院行く?」


 マツウラさんは言う。お母さんみたいだ。


「いや、いつもの傾向だと明日には良くなってるから、大丈夫だと思う」


「そう? ならしっかり休んでね?」


「うん。ありがと。マツウラさんは普段通りにしてくれてていいからね。あたし、寝れるから」


「そういうわけにはいかないわ。つむぎが普段通りじゃないってことは、わたしも普段通りじゃないってことだもの」


 マツウラさんはケロっとそんなことを言う。申し訳ない気持ちと共に、心の底から愛しさが込み上げてくる。


 上手く言えないけどなんだか、マツウラさんがこの家をやっと自分のものだと認めてくれた気がして。


「キウイ買ってきたんだけど食べる?」


「うん、食べる」


 なんだか、マツウラさんがこうやって甘やかしてくれるの、最高に最高だな……。今日はもう全部マツウラさんに委ねよう。


「ところで、キウイってどうやって切れば良いのかしら?」


 というわけにもいかなかった。


「えーっと、半分に切って、スプーンですくって食べるスタイルでいいんじゃないかな」


「なるほど! そういうのがあるのね!」


 マツウラさんは納得したらしく、そそくさと台所へ向かう。

 しばらくすると、包丁がまな板に当たる、トン、という音が聞こえた。


「できたわよ!」


 マツウラさんの声に、半身を起こす。

 ベッドの隣にやって来たマツウラさんは、片手に半分になったキウイ、もう片方の手にスプーンを持っている。キウイのもう半分は、ちゃぶ台の上の皿に載せられていた。


「ありがと、マツウラさん」


「えへへー。どういたしまして」


 マツウラさんは得意そうに言いながらスプーンで果肉をすくうと、あたしの口元まで持ってきてくれる。


「はい、あーん」


 なんといっても熱があるので、このくらいは甘えてもいいのだと自分に言い聞かせながら、あたしはキウイを口に含む。


「どうかしら? キウイっていつが旬なのかとか気にしてなかったけれど……」


 マツウラさんは首をかしげながら尋ねる。


「……甘酸っぱくて、おいしい」


「良かった! じゃあもう一口、あーん」


 なんだか、状況を意識すればするほど心臓がばくばくしてきて、キウイという果物の味があたしの心境とあまりにもシンクロしていることに、困惑すら覚える。


「大丈夫!? なんだかさっきより顔が赤くなっている気がするけれど! このくらいでやめておく?」


「大丈夫だから、ぜんぶ、食べさせて」


「わ、分かったわ」


 なんか意地になって「あーん」をゴリ押し要求してしまう。これ、後からめっちゃ恥ずかしくなるやつでは?


「あーん」


 もぐもぐ。


「お次もあーん」


 もぐもぐ。


「つむぎってかわいいわね!」


「ごほっ、ブフッ!」


「どうしたの突然!?」


「ゲホッ、な、なんでもない」


 食べてる最中に人をときめかせるのは反則だ。


「咳が出なければいいけど……。はい、これで最後ね。あーん」


 結局あたしは、キウイフルーツ丸々ひとつをマツウラさんにあーんしてもらったのだった。


「ありがとう。ごちそうさま」


「どういたしまして。他に何か用事はあるかしら?」


 あたしは布団に潜り込みながら、呟く。


「……じゃあ、もうちょっと隣にいてほしい」


 今日のあたし、なんて素直なんだろう。

 自分でもちょっとびっくりするほど、自分の思いに忠実だ。


「お安い御用よ!」


 マツウラさんはスプーンと皿を流し台に持っていくと、枕元に戻ってくる。

 そのまま、あたしの顔の隣くらいに腰を下ろして、あたしを見つめる。


「照れるから、やっぱいい」


「えー、別にいいじゃない。じゃあ、目を瞑って?」


「……分かった」


 あたしは言われた通りに目を瞑る。

 目を瞑っても、そこにはマツウラさんの気配があって――。

 いや、本当か? マツウラさんは、本当にそこにいるのか?


 急に不安になったあたしは、つい目を開けてしまう。彼女と目が合う。


「心配しなくてもいいわよ。どこにも行ったりしないから」


「ほんとに?」


「ええ。ほんとう」


 そう言って、マツウラさんは掛け布団にやさしく触れる。そして、ゆっくりゆっくり、それを繰り返す。


 いつの間にか、またあたしは目を瞑っていて。


「つむぎ……」


 まどろみの中で、マツウラさんの声が聞こえた気がする。

 でもそれが現実のことか、夢の中の声なのか、あたしにはもう分からなくて。



 "――ピンポーン!!"



 あたしのまどろみは、静寂を切り裂くインターホンの音によって邪魔された。

 軽い混乱の中、マツウラさんと目を合わせる。


 マツウラさんもあたしも、物音を立てないようにじっとする。

 宅配とかなら大体の場合、事前にいつごろ届くか把握できているが、直近で何か荷物が届く予定はなかったはずだ。


 滅多に訪問者の来ないアパートの一室。なにかの勧誘とかなら、このままやり過ごすに越したことはなかった。


 だが、ドアの向こう側の人物は、明確に、あたし・・・への訪問者だったのだ。


「寺坂さーん! 百合中でーす!」

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