6 隣の席の人との距離感って難しくないですか?

 ピピピピピ、と目覚ましの音が鳴る。


 ああ、もう無理。休む。眠い。こんなに眠いのに学校行く必要なくない?


 とりあえず、目覚ましがうるさいので薄目を開けて止める。視界の片隅に、まだ熟睡しているマツウラさんの姿をとらえる。


 うう。マツウラさんまで遅刻させるわけにはいかないもんな……。


 平日は毎朝繰り返す一連の思考の果て、あたしは全エネルギーを投入して上半身を起こした。もっと素直に起きられたら、どれだけアクティブな生活ができるのだろうといつも思うのだけれど。


「マツウラさーん、朝だよ~!」


「むにゃむにゃむにゃ男……」


「誰だよ」


 とりあえずベッドを降り、ユニットバスに行って洗顔と歯磨きを済ませる。


 それが終わると、電子レンジのトースト機能を使って食パンを2枚焼く。トースターじゃないので、これに案外時間が掛かる。


「マツウラさん! そろそろタイムリミットだよー」


 その間、マツウラさんの元へ行って肩を揺らす。


「うーん。つむぎぃ。今日は寝てましょうよ~」


 それは非常に魅力的なお誘いなのだが、それを許していると、この生活が持続できないのだ。


 あたしは彼女の太ももあたりにしゃがみ込むと、脇の下に手を入れて無理やり起こした。彼女の顔があたしの顔にグンと近づき、気を緩めるとちゅーしてしまいそうになる。


「おはよ、マツウラさん」


「うぅ。おはよう、つむぎ……」




 お茶を沸かしつつ、並んでトーストを頬張る。

 食卓にあるのは業務用スーパーで買ったチーズのみ。さすがに飽きてきたので、たまにハムくらいはバリエーションに加えたいところだった。


「うー。月曜日の朝ってどうしてこんなに眠いのかしら?」


「ほんとだよね。まあマツウラさんは火曜日から金曜日も同じくらい眠そうだけど」


 あたしも朝が弱い。本当は早起きして弁当とか作りたいのだけれど、さすがにそれは無理なので、平日の昼食はひとり400円までで適当に済ますことにしている。


 そんなあたしよりも、マツウラさんの方がさらに朝に弱く、仕方なくあたしが気合を入れて起きているというのが現状だった。


 まあ言い換えれば、高校に入ってからいままで一度も遅刻してないのは、マツウラさんのおかげと言えないこともないわけだけれど。


「さ、ちゃっちゃとしないと遅刻するよ」


「はーいむにゃむにゃ」


「寝てる!」





 なんとかマツウラさんが人前に出られる状態になったのを確認して、ふたりで玄関を出る。


「よしっ! つむぎ、今日も頑張りましょう!」


「切り替えが早い!」


 マツウラさんはそれがお嬢様の特徴なのかどうなのか、人目に触れる状態になると突然元気になる。

 まあ、それじゃああたしはどう思われてるんだって感じではあるけれど、そこはあまり気にしないことにする。


「じゃあね、つむぎ!」


「うん、またあとでね」


 自転車に跨って、マツウラさんは颯爽と漕ぎ出す。

 あたしとマツウラさんは、別々のルートを通って学校へ行く。ふたりが一緒に住んでるとバレないようにするための工夫だった。

 途中で合流して登校している、で押し通せないこともないだろうけれど、念には念を入れた方がいい。


 あたしとマツウラさんが同棲していることは、バレたら一大事なのだ。


 そもそも、あたしが寮でもないところでひとり暮らしをしているだけで、学校側にはかなり問題視されている。

 お父さんが上手く言ってくれたからなんとか大丈夫だったけれど、そりゃあ毎日誰かの目の届く範囲に帰宅する生徒に比べて、あたしが不安要素であることは間違いがないだろう。


 その上であたしがなぜかクラスメイトを家に住まわせているとなれば、止められるのは目に見えている。


 しかもマツウラさん曰く、マツウラさんの母親は世間体を非常に気にするから、あたしたちのことが学校にバレた時点で、無理にでもマツウラさんを回収しにやってくるだろうとのことだった。


「じゃあどうして今は無理にでもマツウラさんを回収しに来ないわけ? 世間体を気にするなら、早めに手を打っておいた方がよくない?」


 いつだったかあたしがそう尋ねたとき、マツウラさんの答えはこうだった。


「あの人は、お金の価値というのを最上に見ているの。わたしがお金に困って母に泣きついたとき、本当の意味であたしを支配できると思っているのよ。今はそのために必要な期間だと考えているのだと思うわ」


「闇が深い……」


 それはともかく、あたしたちの同棲が先生およびクラスメイト達にバレてはいけないのは確かだった。だから今日も、あたしとマツウラさんはただのクラスメイトのふりをする。でも、思う。


 ただのクラスメイトじゃないとすれば、あたしとマツウラさんは、どんな関係なんだ?




 近衛通りに出て、ひたすら西に自転車を転がす。朝の風が気持ちいいけど、油断してると自動車の排気ガスを思い切り吸い込んでしまう。

 鴨川に突き当たると、そのまま南下。そこからちょちょいと行けば学校だ。


 対してマツウラさんは、家から南西の方向に向かって裏道を通っているらしい。おそらく細い道をジグザグに通っているのだろう。


 あたしはマツウラさんが毎朝見ている景色を、全く知らない。

 それが、少しだけ寂しい。




「おはよーっ」


 教室に入って、誰にともなく挨拶する。これはあたしのポリシーなので別に誰から返答されなくても構わないのだけれど、まあ何人かは「おはよう」を返してくれる。


百合中ゆりなかさん、おはよ」


 あたしは自分の席に鞄を置くと、右隣に座る百合中さんに声を掛けた。


「寺坂さん、おはよう」


 百合中さんはこれでもかと眼鏡が似合う眼鏡女子で、しかもかなりの美人だ。

 加えて大変に気さくな人なので、あたしもよくおしゃべりに興じている。


「寺坂さん、土日どうだった?」


「えーっと、特に何もなかったかな……。カ〇ートで買い物したりとか……」


 思い返すと、本当に特になにもしていない。まあ、マツウラさんと一緒にいられるだけであたしにとっては全てが特別な時間なのだけれど、そんな話を百合中さんにするわけにはいかないのだ。


「ああ、いいよね、カ〇ート。あたしあそこの地下のアイス好き」


「へえ。こんど食べてみよっかな」


「じゃあこんど一緒に行こうよ」


「え、ああ、うん……」


 突然、百合中さんとの会話に集中できなくなってしまう。

 それはマツウラさんが教室に入ってきたからだった。


 すれ違う人におはようを言って、みんなから笑顔で返されて。ほんとに、素敵な子だ。


「松浦さんも誘う?」


 マツウラさんを見ていたのがバレていたのだろう。百合中さんから思いがけないことを提案される。


「え、いや、別にいいよ。美人だなと思って見てただけ」


「そう? 確かに美人だよね。松浦さん」


「百合中さんも美人だけどね!」


「どうしたいきなり」


 取り乱してつい百合中さんを褒めてしまう。いや、別に正直な気持ちではあるんだけど。


「あたしはどうか知んないけど、寺坂さんは美人だよね」


「そっちこそどうした」


 謎の褒め合いが発生していた。

 絶対に社交辞令だとは思うけれど、百合中さんに褒められるとちょっと嬉しい。


「あ、2限目英語じゃん。小テストやば……。寺坂さん、問題出し合わない?」


「おっけ」


 そうして今週も、いつもの学校生活が始まるのだった。




「これはもしかして、お昼休みでは?」


「いや、もしかしなくてもそうだけど」


 4時間目が終わり、百合中さんは大きく伸びをする。普段は隠れている胸部が強調され、おいおいマジかよ嘘でしょと取り乱しそうになるあたしに、百合中さんは不思議そうな視線を送る。


「寺坂さん、今日も食堂?」


「そうだよ。行ってくるね」


「うん、いってら」


 弁当を取り出しながら片手をひらひらと上げる百合中さんを残して、あたしは食堂へと向かう。

 コンビニや購買のおにぎりとかパンの方が安上がりなんだけど、どうもお昼はガッツリ米を食べないと、午後からの授業が保たない。


 いったん校舎を出て、短い渡り廊下を通り、食堂へ。中は多くの生徒でごった返しているけれど、その中にマツウラさんはいない。

 彼女はどうやら登校途中にコンビニで何かを買って、教室で食べているらしかった。


 お昼の彼女は、どんなことを話しているのだろう。

 どんな顔で、笑っているのだろう。


 今は同棲のことを知られてはいけないという制約があるから素直に別々の行動をとっているけれど、もしその制約がなくなって、学校でも彼女と一緒にいたいと言ったら、彼女は素直に頷くだろうか。学校でくらいは好きにさせてくれと言うだろうか。


 その言葉におそらく傷つくだろうあたしは、束縛が強いのだろうか。付き合ってるわけでもないのにそんなことを考えてるあたしは、ヤバい奴なのだろうか。


 そんなことを考えながらも、食堂で食べる少し懐かしい味のするお昼ご飯は、いつもおいしいのだった。




 午後の授業もあと10分ほどで終わり、という時間帯。教室の空気は弛緩しきっている。


 早く部活に行きたい、早く三条河原町に行きたい、早く帰りたい、と様々な思いが蒸発して空気にまじりあうのが見えるみたいだ。


 あたしはといえば、先ほどから真面目に授業を聴くのを放棄して、斜め前方、離れたところに座るマツウラさんの横顔をぼんやりと眺めている。


 授業中、彼女を盗み見るあたしは、彼女と同棲していることなんて忘れて、彼女と話したいなと思っている。

 あんな女の子と仲良くなれたらどんなに楽しいだろう。そんなことを考えている自分に気付くことがある。


 あたしとマツウラさんは、果たして健全な友情をはぐくめているのだろうか。もしかして、彼女があたしの家に住むなんてことがなく、教室で一から仲良くなった方が良かったのではないだろうか。良かった? 何が?


 とりとめのない思考があたしの中で大きくなる前に、終業を告げるチャイムが鳴ってくれる。

 ふう。これでやっと家に帰って、マツウラさんと話せる。

 

 担任の先生が帰りのホームルームにやってくるまでの間、筆箱とか宿題の類を鞄に詰め始める。


「ねえ、寺坂さん」


「ん?」


 百合中さんに呼びかけられ隣を見ると、思いがけず真剣な表情の彼女がいた。


 そして彼女は、口を開く。


「寺坂さんと松浦さんって、一緒に住んでるの?」

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