2 一目惚れって存在するんですか?
「マツウラさーん、なんか手伝うことある?」
「大丈夫。ピーマンくらいお手のものよ!」
と、マツウラさんは言うのだが、なぜかピーマンの種が部屋にいるあたしのところまで飛んでくる。もう包丁を使う段階は終わってるだろうから怪我とかはないと思うけど、内心ヒヤヒヤしながらあたしは料理が出来上がるのを待つのだった。
その間に、なにかできることはないか考える。
「マツウラさん、体操服ちゃんと持って帰ってきたよね?」
「もちろん! なんかそのへんに置いてあるわ!」
確かに。訊くまでもなく、体操服を入れた袋はなんかそのへんに置いてあった。
いまのうち洗濯しとくか……。
今日は屋外でのサッカーだったので、けっこう裾のところとか土汚れが付いてると思うし、早い目にやっといた方がいいだろう。
マツウラさんの体操服を袋から取り出す。
うっすらと湿った感触に、どきっとする。
いいにおい。春の香りだ。
あの日のにおいと同じだった。あの日、あの曲がり角を曲がった日と。
「マツウラさん、香水とかつけてたっけ?」
「どうして? つけてないわよ?」
「じゃあ柔軟剤使ってる?」
「そうそう柔軟剤~ってなんでやねーん。いつも一緒に洗濯してるやないかーい」
かわいすぎか。
じゃあやっぱり、このにおいはマツウラさんのにおいだ。
手の中にある体操服が、さらに愛おしくなる。顔をうずめてしまいたい。香り成分を抽出して香水にしたい。
「つむぎ、洗濯してくれるの? ありがとう!」
マツウラさんの声に、あたしの意識は引き戻される。
「うん。ちょっとお風呂で下洗いするね」
「さすがつむぎね! ひとり暮らし経験者は違うわ!」
「ま、一週間もしてないけどね?」
あたしのひとり暮らしを終わらせたのは、他でもない。マツウラさんだ。
そう。あの日。といっても、今から約2週間前。
◇ ◇ ◇
ヤバい。ひとり暮らし超孤独じゃね?
と、あたしの中のギャルが言う。
なんかほんとにしゃべる人いないな。当たり前だけど。
これは困った。面白いこととかあっても誰も聞いてくれないし、トイレットペーパーなくても誰も持ってきてくれないし、皿もご飯を食べるごとに洗わなくちゃいけないし。
これ、失敗だったかなあ。
まだおととい入学式が終わったところで、新生活も始まったとさえいえないくらいなのに、既に後悔の念が押し寄せてきている。うーむ。もうちょっと飄々とした人間だと思ってたんだけどな、あたし。
ひとり暮らしをしたい、と言い始めたのはあたしだった。
もともとあたしの地元はかなりの田舎で、通える高校もあるっちゃあるんだけど、そこに行かずに下宿して遠くの高校に行く、というのは比較的よく見られる光景だった。
でも、そういう人はだいたい寮に入る。
寮母さんがいて、ちょっとした共有スペースがあって、互いの部屋に行き来したりして。寮に入ればたぶんそんな感じで、孤独とは縁遠い生活が待っているのだろう。
知らないけど。
でもあたしは、完全なるひとり暮らしがしてみたかった。
どれだけ自分ひとりの力でやっていけるのか試してみたかったし、そしてなにより、京都でのひとり暮らしに死ぬほど憧れていた。
小学生のころから大好きな、京都が舞台の刑事ドラマ。そのドラマの主役のひとり、ボロアパートデカがボロアパートで送る、昭和さながらの生活! たまらん!
そんな生活を送るため、あたしは鴨川のちょっと東に位置するこの安アパートを選んだのだった。
もちろん、母親にはオートロックもなければウォシュレットもない場所でのひとり暮らしなんて大反対されたわけだけれど、インド放浪系男子である父親がなんとか説得してくれて、あたしも京都の大学に進学するためのモチベーションがなんとかと御託を並べて、ここまでこぎつけたのだった。
それなのに、もうめげそう……。
なんやかんやいってあたしは、妹がテレビを見てアイドルに上げる嬌声や、早く風呂に入るように言うお母さんの声や、お父さんが呟いては無視される謎のポエムが好きだったのだ。それがここには、何もない。
とか言いつつ、まあ、そんな状況を心のどこかで楽しんでいるのも事実で。お父さんもたぶん、いつもこんな気持ちで旅に出るんじゃないかなと、なんとなく思うのだった。
とりあえず、散歩にでも行こう。
日曜日だからって家に籠っていたら気がめいってしまう。この近所のこと、まだ全然知らないし。もしかすると、いま使ってるのよりもっと安いスーパーがあるかもしれない。
外に出ると、とても良い天気だった。
今年は桜が遅めで、ちょうど入学式と満開の時期が重なっていた。クラス分けが発表されて、それぞれの教室に赴いて、ガイダンスを待つ間。中学からの知り合いなのか、コミュ力が異常に高いのか、もう和気あいあいと話している人たちの声を聞きながら、窓の外を見ていた。
そのとき目に映った満開の桜は、なぜだかあまりあたしの心を動かさなかった。それはもしかすると、視界の隅でとらえた女の子のはにかみが、心に焼き付いていたからかもしれなかった。
それから2日。すでに桜は散り始めている。
そこかしこから舞う花びらをぼんやりと眺めながら、住宅街の中を歩く。
学校、やっていけんのかなあ。そもそもあたし、春って弱いんだよなあ。
同級生の顔を思い出してみる。けどまあ、ほとんど思い出せない。
マジでどんな人がいたっけ……?
駄目だ、あの女の子のことしか思い出せない。
お人形さんみたいな顔で、一挙手一投足がキラキラしてて、なんていうかもう、天使みたいで。
どうやったらあんなふうに輝けるんだろう。別に輝きたいわけじゃないけど、単純な疑問として。
小学校とか中学のとき、何人かの男子に告白されたことがあるけど、全員断った。
付き合うとかどうとかいうのにそもそも興味がなかったのもあるけれど、なんか釈然としなかったのだ。
どうしてあたしなのか?
どうやってあたしを選び出したのか?
あたしは輝いていたのか?
でも彼女は、そんなことを感じる必要がないし、おそらく感じないのだろう。
だって彼女は、明らかに輝いているのだから。
そんなことを考えていると、自分がどこを歩いているのかよく分からなくなってきた。
日差しが、強い。
家々の壁に反射した太陽が町を浮かび上がらせ、白昼夢を見ているような気分で、あたしは歩き続けた。
目の前には小さな曲がり角があった。
なんだかあたしは、その先に全く知らない景色が広がっているような気がして。
でもまあ、初めて歩く場所なのだからそれは当たり前といえば当たり前で。
特に、その先になにがあると思ったわけではない。
あたしは散歩をしていたのであって、散歩に目的なんてものがあるとすれば、それは散歩以外にあり得ない。
だからそこで彼女に出会ったのを、あたしは運命なんて言うつもりはない。いわば、散歩中の偶然。でも確かに、あたしがそこで出会ったのは彼女であり、彼女がそこで出会ったのはあたしだったのだ。
角を曲がった瞬間、強い風が吹いた。
桜の花びらが枝を離れ、彼女のまわりを舞う。
キャリーケースを引いた彼女は少し憂鬱そうな顔をしていて、それでも背筋はピンと張っていて。太陽の光は、彼女を照らすスポットライトでしかなかった。
あたしは、彼女と目があった。
制服を着ていなくても、すぐに彼女だと分かった。クラスで見た、可愛らしい子。でもそのときあたしは、彼女のことを、かわいい、ではなく、綺麗だと思った。なんていうかもう、天使みたいだった。
春の香りがした。
それはたぶん、彼女の香りだったのだろう。
その香りをかいだとき、あたしは恋に落ちた。
迂闊に、唐突に。
自分がいま恋に落ちたのだということが、痛いほどに分かってしまった。
「あの……」
あたしはなんと言おうと思っていたのだろう。もしかすると、告白するつもりだったのかもしれない。十分にあり得る。だがいずれにしても、あたしの言葉は遮られたし、何を言うつもりだったのかなんて忘れざるを得なかった。
なぜなら、キャリーケースをほっぽり出した彼女が、あたしに抱き着いたから。
柔らかな感触。太陽みたいにあたたかくて、あたしの冷たさが彼女の温度を奪ってしまうのではないかと怖かった。
そして彼女は言う。
「一緒に住みましょう!」
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