恩人への嘘

 指先に込めた魔力がキョーヤ様の額へと流れ、緩やかに意識を眠りに誘う。

 元々疲れていたのもあってか、キョーヤ様は魔法に誘われるまま目を閉じていく。

 少しすれば完全に寝落ちたらしく、その眠りの深さを現すように穏やかな寝息が聞こえて来て、私は静かにその様子を窺った。



 強い意思に輝く黒の瞳は瞼の裏に隠れ、青白い整った顔立ちは疲労を滲ませていて、健康的とは言い切れない。

 目に付くのはたったそれだけの、他は何てことは無い青年の寝顔だ。

 精神がどれだけ成熟していようと、肉体は今も成長期なのか幼さが残るただの青年。

 穏やかに眠るこの青年が、300年程前に世界を救った彼の英雄だなんて、事実を知らない者は想像もできないだろう。



 起こしてしまわないよう注意して手を伸ばし、目元にかかる前髪をふわりと横に払う。

 ただ眠りへ誘っただけだったのだが、やはりあれだけの浄化を行えば、たった三日程度眠っていただけでは回復しないのだろう。

 少し触れようとも傍に居ようとも、キョーヤ様が起きる気配は欠片も無い。


 このまま寝かせておきたいが、先ほどの話で魔力を揺らがせ、溢れさせていた。

 あの程度なら魔力管が裂けてしまうような事は無いだろうが、それでも傷付いている魔力管に負担をかけてしまったはず。

 この方に何かあってからでは遅いのだ。眠っている間にもう一度健診しておこうと、契約の繋がりを通してルナへカルグに再びここへ来るよう伝言を頼み、私はそっと息を吐いた。




 ──幼い頃、彼を人ではなく英雄として認識していたあの頃。

 父上が寂しそうにジーク様の人間らしい話を語ってくれたのを思い出す。



 『ジーアス』という私の名は彼にあやかり授かった物だ。

 彼の英雄のように強く、彼の親友のように優しく育てと父上が付けた名。


 それもあって、私は幼い頃から英雄ジークについて多くの事を聞いて来た。

 父上の親友であり、世界を救った英雄。

 その在り様を父上や母上、古い魔族や龍族など、彼を知る者達に幾度も語ってもらった。



 彼の軌跡を知る度に、尊敬の念を抱いていた。

 彼の遺した物に触れる度、この名に恥じないよう自身を戒めていた。

 彼の守った世界を意識する度に、この世界を守って行くのだと決意を改めていた。



 生まれた頃からの目標であり敬愛している遥かな存在。

 こうして触れる前は、言葉を交わす前は、私は彼に対し崇拝に近い尊敬の念を抱いていた。

 それは私だけでは無く、彼の死後に生まれた者の多くは同じだろう。


 親や祖父母、祖先から語り継がれた一人の英雄。

 その命を代償に世界を救ってくださった遠い恩人。

 それこそ教国では英雄ジークを神が遣わした戦士として崇めていると聞いている。



「……私達と何ら変わりは無いのに、ね……」



 深い眠りに落ち、魔法でほとんどの音を遮断している本人に届くはずのない小さな呟き。

 規則正しい寝息だけが響く静かな部屋に消えた呟きは、あの時の事を思い起こさせた。



 『俺はまだ、お前と話したい事が山ほどあるんだ!』

 『もっとお前と、みんなと……っ……みんなと……──もっと、生きていたかった……!』



 邪気に侵され、生きる事を諦めていた父上にそう声を震わせ訴える青年の背中。

 その光景を目の当りにした時、私はようやく、ジーク様について語る父上が寂しげにしていた理由を理解した。



 彼の英雄は──ジーク様はただ普通の人だったのだ。

 友を失いたくない。家族に会いたい。愛しい存在を助けたい。

 そんな当たり前の思いを抱く普通の人。

 ただ類稀なる力を持って生まれただけの、普通の人だったのだ、と。




 ふと扉の前に誰かが立った気配を感じ、静かに歩み寄り扉を開ける。

 そこには予想通りカルグが立っていて、扉を開けた私に一瞬驚いた様子を見せたが、すぐに姿勢を改めて一礼した。



「殿下、私をお呼びとの事でしたが、キョーヤ様の診察でよろしいですかな?」


「そうです。大きな声は出さないように。

 結界を施しましたし、深く眠っているのでそう起きないとは思いますが……」


「わかりました」



 既に中の様子を察しているようで、お互いに声を抑えて一言二言言葉を交わした後、カルグを中へ迎え入れる。

 カルグを連れて再びキョーヤ様の眠る寝台の傍へと戻り、視線で指示を出せば、カルグは音を立てないようゆっくりとキョーヤ様に近付き、横たわる手を取る。



「……少し、荒れましたか」


「……えぇ」


「では少し、治癒をしておきましょう」



 慣れた手付きでキョーヤ様に魔力を注ぐカルグ。

 淡い光がキョーヤ様を包んでいくのを横目に、私はその年老いた背中を見つめた。




 魔族の中で最も治癒魔法に長けている医師カルグ。

 彼はキョーヤ様が眠り続けた三日間、付きっ切りで治療を施していた。

 魔力が尽きるまで治癒魔法を施しては倒れかけ、少し休んで回復すればまた治癒魔法を施すのを繰り返す。

 何度かその様子を見たが、まるで自身の命を注ぐような治療に、見ているこちらの胆が冷えた。


 カルグが命を懸けて治療する人物は一体誰なのか、一体何をしてくれたのか。

 何も知らされていない者達の慌てようは酷い有り様だった。

 『殿下のご友人だと言っても、陛下の体調が完全に回復していない今、カルグ医師を失うわけにはいかない』と、数件抗議が上がるほどだ。



 だが、そうでもしなければ、キョーヤ様はもっと長く眠り続けていただろう。

 もしかしたら、目を覚ましてくれなかったかもしれない。

 そんな可能性があるほど、彼の容体は酷かったのだ。



 水の精地では邪気に侵されながらも精地を維持するために戦っていたセラ様と精霊化し、堕ちてしまった水龍カレウスと精地を浄化。

 その日の内にランディリアを訪れ、闇の精地で邪気に呑まれかけていたダルク様と精霊化し、ダルク様だけでなくランディリア全域と父上を浄化して救ってくださった。


 それだけの浄化をすれば一体どれだけ消耗することか。

 しかもキョーヤ様はそれぞれの地でお二人と精霊化を行っている。



 全く別の存在である精霊と術者が一体となる精霊化。

 ダルク様は勿論、セラ様も少なからず邪気に侵されていた。

 そんな状態の彼等と一体になれば、融け合ってしまえば、肉体という壁を越え、キョーヤ様の魂に邪気が流れ込んでしまう。


 浄化の力を強めて広い範囲に広げるためとはいえ、自我を保てないほど限界を迎えていた精霊を救うためとはいえ、精霊化に伴う危険性をこの方が知らないはずがない。

 知っていて彼は精霊化したのだ。そうすることが一番だと考えたから──魂を邪気に侵されると知りながら。



「……無茶をなさる方だ……本当に……」



 胸に溜まる感情に、治療に専念するカルグの邪魔にならないようひっそりと呟く。

 父上や母上、古い魔族や龍族の方達など、当時を知る者達から聞いていたが、実際に自分の目で見て、言葉を交わした時間は一日にも満たない僅かな時間だ。

 深くは知らないけれど、それでもこの方が自分の身を顧みずに突き進んでしまう人なのは良く分かった。


 最善だと知れば、自分がどうなろうとその道を選び進む。

 その先で傷を負う事になろうとも、命を落とす事になろうとも、彼は進み続けてしまうのだ。

 だからこそ、彼が心を持って戻って来てくれたことが何よりの幸いだった。




 遠い昔、私が産まれるよりももっと昔。

 父上が初めて彼と出会った頃、彼は人らしい心を持っていなかったと聞いている。



 心を持つ者は揺らぎ、迷い、見えない傷をいくつも負ってしまう。

 そうして苦しい思いをする事もあれば、気を病んでしまう事もある。


 彼もそうだ。

 愛しい番が世界を脅かす存在となってしまい、大切な家族が皆、危機に瀕している。

 この世界で起きた真実の一つを教えられ、心を揺らがせ、無意識に魔力を溢れさせるほど精神が不安定になってしまった。



 心を持たない頃の彼であれば、そのような事にはならなかっただろう。

 揺らぐ事は無く、最善の道を選び、進み続けるだけ。



 けれどそれは彼ではない。

 彼は番と出会い、家族を知り、英雄として旅立った。

 死を越えて再び戻って来てくれた彼は、死にたくなかったのだと言ってくれた。


 もう心を持たなかった頃の彼ではないのだろう。

 もう心を持たない人形に戻る事はないのだろう。

 何よりも、心を持つからこそ、銀龍様を救う道を選んだのだから。




 世界を守護せし銀龍様。

 瘴気から全ての命の矢面に立ち、我らを守り続けてくれた存在。


 あの方はとてもお優しい方だ。

 愛しい番を失っても、それでもこの世界を守り続けてくれた。守り続けようとしてくれた。



 ──そんな方を、私は見捨てる道を選んでいた。



 女神により、浄化の力が多くの者に宿るようになり、魔物が現れる事はほとんどなくなっていた。

 世界の理を変える事はできないため、瘴気を根絶することはできないけれど、それでも銀龍様が命を削って戦わなければならないような事態は起こらなくなっていたのだ。


 銀龍様がいなくとも世界は続く。

 そんな世界になったこの世界で、あの方は邪龍となってしまった。

 世界の存続を第一に考えるなら、邪龍を救う必要は無いのだ。



 私とて、銀龍様を救いたいという思いはあった。

 特に彼の親友であり、銀龍様とも交流が深かった父上は、その想いを強く抱いていた。


 けれど、銀龍様を救うのにどれだけの犠牲を払う事になるか。

 そもそもあれほどの力を持った存在を救う事などできるのか。



 殺す事は簡単でも、救う事は難しい。

 だから女神は邪龍を殺す確かな存在を異世界から呼び寄せた。

 だから私も父上でさえも、銀龍様を諦めていた。

 でも彼は、キョーヤ様は銀龍様を救うために進むと決めた。



 彼は誰よりも救う事の難しさを知っている。

 その彼が心を持ち、銀龍様を求めているからこそ選んだのだ。

 心なき頃の彼であれば、恐らく憎しみに苛まれる銀龍様を終わらせる事を選んでいただろう。

 それが世界を救う最短の道なのだから。




 キョーヤ様を包む光が緩やかに消え、カルグはゆっくりとキョーヤ様の手を元に戻す。

 数秒キョーヤ様の寝顔を見つめたカルグはこちらに振り向き、皺だらけの顔に笑みを浮かべて頷いた。



「傷は癒やしました。

 ご本人の治癒力も高いようですし、これでもう大丈夫でしょう」


「そうですか……ご苦労様です」



 カルグに労いの言葉をかけ、先ほどと変わらぬ穏やかな寝息を立てるキョーヤ様へと視線を向ける。

 精霊化した際に入り込んだ邪気は、本人の浄化の力がぎりぎりの所で押しとどめられていた。

 そのおかげで眠り続けた三日間で彼の中に残っていた邪気は全て浄化できているが、彼の魂が傷付いた事実は消えない。

 肉体の傷を癒やす事はできても、魂の傷は自然に治癒するのを待つしかないのだ。


 本当なら一週間、いや、二週間は安静にしていてほしい。

 無理にでも引き止めたいと思うけれど、そうすればこの人は無理にでも抜け出してしまうだろう。

 この方の歩みを止めることなどできないのだ。

 それこそ、運命の番である銀龍様──カリア様以外、誰も。



 これ以上傍にいても、できる事はもう無い。

 自分ができる事をするためにも、私はカルグと共に部屋を出る。

 静かに扉を閉じてその場を後にしようとするが、隣でカルグがじっと扉を見つめているのに気付き、そちらを見れば、カルグはくしゃりと顔を歪めて呟いた。



「……再びお会いできたというのに、私はこれ以上お力にはなれんのですなぁ……ままならんもんです」


「カルグ……貴方、以前彼にお会いした事があるというのですか?」


「……えぇ、幼い頃、一度だけお会いしました」



 私が産まれる前から城に居るのは知っていた。

 しかしカルグの年齢は、城の記録上280を超えた程度だったはず。

 彼が死んだのは300年以上前の事だ。それなのに彼と会った事があるというのか。


 疑問を抱く私に気付いたのか、カルグが少し困ったように微笑む。

 誰もいない城の廊下で語り出したカルグの過去は、遠い昔、歴史の闇に葬られたはずの出来事だった。



「人間との戦で父親を失ったのに、人間と仲良くするなど受け入れられんかった。

 そんな子供の刃をあの方は受け止めただけでなく、自分と自分の家族にも刃を突き立てていた子供を守ってくださった……命を、救ってくださった」



 父上が一度だけ語ってくれた話だ。

 当時戦争をしていた人間と魔族は瘴気から現れた魔物に対し、同盟を結ぶ事となった。

 その使者としてやって来た人間達と、銀龍様に選ばれし存在として中立に立つジーク様へ、魔族の子供が刃を向けたのだ。


 魔物が現れ、銀龍様が中立に立っていたため、同盟こそ破棄されなかっただろうが、それでも国際問題に発展するのは火を見るよりも明らかだった。

 本来ならば問題を起こしてしまったラノール側は、人間達だけでなくこの世界に対しけじめをつけなければならなかった。

 だがそれはジーク様が身をもって防ぎ、問題にしなかったため、何事も無かったように片付けられた。



 歴史の闇に葬られた我ら魔族の失態。

 当時ですら全て秘され、知っていたのは当事者だけだった。

 魔族も人間も語り継ぐ事を禁じ、王であり責を背負うべき魔王のみが受け継ぐよう定めた我らの罪。


 全ての発端である魔族の子供は、誰にも知られず消えたと聞いていた。

 消えて、生まれも育ちも何もかも捨て去って、全く別の魔族として誰にも知られぬまま父上の監視下に置かれていたのか。



「その恩を返したく磨いたこの技術。

 あの方の進む力となれるなら嬉しい限りだと思っていたのですが……再び危険の中へと送り出す事になるとは、堪えますなぁ……」



 それは城の記録も何もかも偽って、長い間誰にも知られず胸に秘め続けた想いだろう。

 遠くを見つめ、溜息交じりに語った古い魔族。

 どこか小さく見えるその姿に、私は一度瞼を閉じ、次に目を開いた時は真っ直ぐ前を見据えた。



「……皆、同じ気持ちです。

 ですがこれは、彼が選び、進むと決めた道。

 私達にできるのは、進もうとするこの人の背を押し、少しでも歩きやすいように手を差し出すだけでしょう」


「殿下……」


「幸い、キョーヤ様は私を信じて、眠ってくださった。

 色々と整える時間は稼げましたからね。私達はできることをやるだけです」



 恩人であるキョーヤ様に、私は嘘を吐いた。

 各国の城へと通じる転移の魔法陣。

 それを起動するのに必要なのは、向こう側の王の許可と、その承認を得た王族の魔力だけ。

 その準備に三日かかるところをどうにか二日で終わらせると言ったが、元来緊急時のために造られた魔法陣だ。準備など数分で事足りる。


 セラ様がエルフの城へたどり着くには一時間もあれば十分だろう。

 そのため本当ならば今すぐにでも転移できるのだ。



 偽った事を知られ、怒られても構わない。謝罪を求めるのなら望む物を差し出そう。

 だって、そうでもしなければ、貴方は自らの身を顧みる事をせず、傷付こうと苦しもうと進んでしまうのだから。

 私とて貴方の力となり、貴方を守りたいのだから。



 我らの英雄、どこまでも矢面に立ち進む人。

 どうか今は騙されたまま、英気を養ってください。



「さぁ、行きましょうか」


「はい、殿下」



 その間に、私達は貴方の為にできる全てを致しましょう。

 心の中で眠る友へ謝罪し、私はカルグと共にその場を後にした。

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