闇の悲喜




 ──おちていく──




 無数の何かに四肢を掴まれて。


 空気を求めて喘いだ口は何かに抑えられ。


 吐き出した気泡が幾つも融けて消えて。




 ──俺はおちる。どこまでも、どこまでも。



 落ちる、墜ちる、堕ちる、おちる────






 ────俺を包んだ光は、誰の────






 弱く覚醒を促す光に、酷く重い瞼を上げる。

 霞んで見える視界の中、光源を探して目を向けた先には大きな窓があり、その外に広がる曇天の中で小さな切れ間を見つけた。


 僅かな隙間から射していた陽の光の柱が、流れる分厚い雲に遮られ消えていく。

 それに釣られて消える光を見届け、俺は自然と深く息を吐いた。



 ──何かを、見たような気がする。



 一体何を見たのか。

 思い出さなければならないような、思い出してはいけないような、妙な感覚が思考を掻き乱す。

 思い出そうにも何も思い出せず、考えるのも億劫になり、ぼうっとする意識のまま周囲へと目を向けた。



 ここは……王城の客室、だろうか。

 俺が横たわっているベッドと、テーブルやソファといった家具に部屋を飾る数点の調度品。

 内装に違いはあるが、以前城に滞在する時に用意してもらった部屋と似ている。


 限界を押して半ば無理矢理にガヴェインを浄化したのは覚えている。

 あの後、意識を失い倒れた俺をここへ運んでくれたのだろう。



 状況を把握している間に働き始めた思考と共に意識がはっきりとしてくる。

 それと同時に喉が酷く渇いているのに気付き、痛む腕を支えに上体を起こしたが、これ以上動くのは難しいらしい。

 ベッドの傍らに置かれたテーブルに置かれた水差しへ手を伸ばそうと試みるも、どうにも腕が上がらない。


 やはり精地の力を借りたとはいえ、あれだけの浄化を一度に行うのは無理があったか。

 腕どころか身体全体がろくに力が入らず、手を握ることすら酷く疲れる。

 少し浮かばせたものの、震えと共に限界を訴えて来たため、諦めて腕をベッドへ落とした。



 部屋には俺以外誰もおらず、在るのはテーブルに鎮座している色とりどりの花が飾られた花瓶だけだ。

 誰か人を呼ぼうにも声もろくに出そうにないし、体も動きそうにない。

 魔法を使うのも有りだが、浄化の際に使った魔力の量を考えるとしばらくは魔力管を安静にした方が良いため避けたい。



 それほどではないが、気怠さも残っているのだ。

 いっそこのまま眠ってしまおうかと思った時、静かなノックが響いた。



「失礼致します……あぁ、やはり目を覚まされたのですね、キョーヤ様」


「……ジーアス、どの」



 部屋に入って来たのはジーアスで、ここに来る前から俺が起きた事に気付いていたらしく、穏やかな表情のまま俺の傍へと歩み寄る。

 姿勢を正そうと体に力を入れるがジーアスは手を上げることでそれを遮った。



「どうぞ気にせず、楽な体勢のままで。

 インフィスは陛下達に知らせてください。それからカルグ殿をここへ。

 ルナ、君は英霊様方へ伝えに行ってくれるかい」


「御意」


《はぁーい》



 ジーアスの指示に従い、親衛隊と思わしき青年と幼い精霊が部屋を出て行く。

 ジーアスはというと、先ほどの俺の掠れた声に察したのか水差しからカップへと水を注ぎ、水を飲むのにまで手を貸してくれた。

 一国の王子にさせるような事ではないとわかっているが、彼以外にこの部屋には誰もいない。

 そのため黙って手を借り、喉の渇きを潤すことに専念した。



「……すまない」



 保温の魔法でもかかっていたのか、程よく冷えた水のおかげで喉の渇きは治まった。

 だが、全身に重りが圧し掛かっているような気怠さのせいで声を出すのも億劫だ。

 そのため短く簡単にしか返答できなかったのだが、ジーアスは特に気にする事も無く俺から空になったカップを取り、元の場所へと置いた。



「気になさらないでください。横になりますか?」


「いや……このままで大丈夫だ」


「……あれから三日も眠り続けていたのです。無理はしないでくださいね」


「……そうか、三日も……」



 気遣わしげに告げられた言葉に、小さく繰り返し事実を飲み込む。

 無茶をした自覚はあったが三日も眠り続けてしまうとは。



「ガヴェインは、ランディリアはどうなった?」


「精地は完全に浄化され、ランディリアもキョーヤ様のおかげでほとんどの邪気が浄化されました。

 父上もすっかり元気になっていて、今は結界の解除や各国への使者、それから王都を訪れた商人達の対応などに追われていますよ」



 ジーアスに尋ねると、彼はベッドの横に置かれた椅子へと腰かけ、溢れ出るような明るさを隠さずに微笑みながらそう答えてくれた。

 どうやら俺は無事にランディリアもガヴェインも救うことができたようだ。

 力の入らない手の平へ視線を落とし、自然と緩みそうになる唇を軽く噛み締める。


 だが、嬉しいことばかりではないと、頭のどこかではわかっていた。



「……とはいっても、邪気に命を貪られていたのに変わりはありません。

 以前より明らかに体が弱っているため、これを機に父上は退位し、私が王位を継ぐことになりました。

 正式な継承はまだ先の話で一部の者にしか知らされておりませんが、キョーヤ様には知っていて欲しい、と」


「……そうか」



 微笑みはそのままに、微かな陰りを宿した言葉が告げられる。

 あいつの事だ。王位を退いたとしてもジーアスの補佐か何かをして、この国を守るのだろう。

 そうわかっているのに、この喪失感は一体何なのだろうか。



 魔族を統べる王。

 銀龍に選ばれた血脈という事実だけでなく、全ての魔族に認められた者が背負う冠。

 使者として訪れ、出会ったあの時の事は色褪せることなく記憶に刻まれている。


 その地位は時の流れと共に替わる物だと理解している。

 俺が訪れた時、俺が去った時、そして俺が再び訪れた今、あいつが背負い続けた冠を、あいつの息子が背負う。

 例え俺が戻って来れずとも、時が流れればいつか替わっていた。

 あの玉座にあいつ以外が座ること。始まりと終わりがあるのだから、それは当然の事だと解っている──わかっているんだ。



「まぁ、父上は元が元気過ぎたので、家臣達は『ようやく大人になった』と安心しているんですが」



 黙り込んでしまったから気を遣わせてしまったらしい。

 瞳の陰りを押し消し、そう困ったように笑って話すジーアスに、俺も軽く笑みを作り返した。



「微かに残ってしまった邪気ですが、キョーヤ様が倒れた後、浄化に促されたのか大精霊様が目を覚まされました。

 眠っていたので詳しい事はわかっておられなかったようですが、ダルク様の説明を受けて、王都を彷徨っていた邪気を全て浄化。

 邪気が減ったこの機会を逃すわけにはいかないと、ラノール全域を浄化するべく魔族も精霊も一丸となって浄化に当たっています」



 淀みかけた空気を変えるように話を切り出したジーアス。

 話を聞く限り、事態は好転しているようだ。

 他から邪気が流れて来るだろうが、大精霊も浄化の力を持っているようだし、魔族だけでなく精霊も戦っている。しばらくは問題無いだろう。



「ダルクとセラはどうしている?」


「ダルク様は闇の精地で回復に努めておられます。

 浄化したとはいえ、まだ本調子というわけにはいかないそうで……。

 セラ様はキョーヤ様が眠っておられる間、各英霊様とジーク様のご友人へキョーヤ様が帰って来た事を伝えに向かわれました。

 その後、水の精地にも寄られたそうで、よく闇の精地でダルク様と話しておられます」


「俺の友人……?」



 二人がどうしているか尋ねるとそんな答えが返される。

 確かに世界を旅した際に友人はある程度できたが、あの頃から300年近く経っているのだ。

 生きていたとしてもガヴェインのように長命の者だけだろう。

 あの頃別れた友人達の顔が脳裏を過ぎり、それが誰なのか尋ねようとした時、慣れ親しんだ強い魔力が急速に近付いているのに気付いた。



「どうやらお二人が来たようですね」



 壁があろうと扉があろうと、何があっても物ともせずにここへ向かっているのだろうか。

 二つの力が競い合うようにここへ近付いているのにジーアスも気付いたようで、彼は静かに席を立った。

 それとほぼ同時、部屋の扉が勢いよく開かれ、セラともう一人、軍服に似た服装をした黒髪の青年が部屋へと飛び込んで来た。



《キョーヤぁ!》


「セ、らぁっ……!?」


《心配したんだからぁ!!》



 多少勢いを緩めたものの、俺の腹部目掛けて飛びかかるように抱き付くセラに思わずくぐもった声が漏れる。

 少々どころか結構な痛みが響くのだが、心配させた罰だと思って甘んじて受けよう。

 それはさておき、問題は夜空のように黒く輝く瞳を揺らがせ、一人立ち止まる青年の方だ。



《……良かった》


「ダルク」



 一人ぽつんと立ち止まり、小さく呟く彼の名を呼べば、青年はゆっくりと俺の傍へ近寄る。

 銀の縁取りが施された黒の袖から覗く手は俺の頬へ伸ばされたが、触れるか触れないかの瀬戸際を彷徨っている。

 そんな手の温もりに自分から近付いてやると、端正な顔が痛ましげに歪んだ。

 何を躊躇っているのか。距離を空けている彼へ手を伸ばすことはできないけれど、その代わりにと、俺は星が流れそうになっている瞳へ笑みを向けた。



《……ジー、ク》



 掠れた声が響き、俺の頬を包むように暖かな手が当てられる。

 そして一度、二度と頬を撫でると、ダルクは俺の背中に手を回し、肩口に顔を埋めるように力一杯抱きしめた。



「……すまない二人共。心配かけた」


《ホントよ! もう……!!》



 相変わらず腕に力が入らず、抱きしめ返すこともその背を撫でることもできないが、その分を補うかのように二人はきつく抱きしめて来る。

 そんな二人へ少しでも思いを返そうと言葉を紡げば、腹部に顔を埋めていたセラが耐えきれないとばかりに小さな叫びを上げた。



「セラ」


《~~~っ、泣いてなんか、ないんだからぁ!》


「……うん、泣いてない、な?」



 俺の腹へ腕を回し力一杯抱きしめて、顔を埋めたままそう怒ったように声を上げるセラ。

 時の流れに従い姿や性格に多少変化はあれど、根本的な部分は変わらないのだろう。

 こういった時は指摘すると拗ねてしまうとわかっている。

 明らかに涙声になっているが、セラがそう言うならそうしておこうと苦笑いを浮かべて肯定していると、今度はダルクが腕の力を緩めた。



「ダルク?」



 突然緩んだ腕にどうかしたのかと真横にあるダルクの顔へ視線を向けるが、顔を俯かせていて表情を窺えない。

 これ以上はどうしても動けないのだが、どうにかダルクの表情を窺おうとしていると、不意に伏せられていた一対の黒が向けられた。



《……お前が、本当にお前がいるんだな》


「……そうだよ、俺はここにいる」



 俺に向けた瞳は揺らぎ続け、搾り出された言葉は迷子の子供のようだ。

 しっかりと頷き返しても、それでもまだ不安を拭いきれないのか、苦しげに唇を噛み締めているダルクに身を寄せる。



「ただいま、ダルク。遅くなって悪かった」



 本当は抱きしめて安心させてやりたいけれど、今の俺にはそれができない。

 だから精一杯の想いを籠めて言葉を口にし、ダルクの肩へと擦り寄った。



《……あぁ、そうだ。そうだな──キョーヤ》



 慣れ親しんでいるはずの古い名ではなく、慣れていないはずの新しい名で呼ばれ、思わず顔を上げる。

 見えた瞳は酷く愛おしげで、彼の名を呼ぼうとした口は頭ごと抱え込むように抱きしめられ、声を発する事無く閉じてしまった。



《おかえり、俺達の愛し子》



 今、ダルクがどんな表情をしているかはわからない。

 けれどきっと、その声と同じように、遠いあの頃のように、滅多に見せてくれない笑みを浮かべているんだろう。


 心落ち着く懐かしい二つの温もりを享受すべく、俺はダルクの胸に額を押し付けて目を閉じた。






 ベッドに横たえていた手が取られ、微かに魔力が流れ込んでくるのがわかる。

 探るような動きを見せるその魔力の持ち主は細心の注意を払ってくれているようで、特に痛むことも無く俺の魔力管を流れて行った。



「魔力は正常に流れているようですね。

 少し、魔力管が傷付いていますが……この程度であればもう一日ゆっくり休んでいれば治るでしょう。

 決して無理に動こうとしないように……といっても、その状態であれば心配ありませんな」



 カルグ、と名乗った医師はそう穏やかな声で告げるが、生憎今は何も見えない状態だ。

 どういった表情で話しているのかさっぱりわからないが、最後は苦笑い交じりだったろうなと察することはできる。

 何せ腹の辺りにはセラが、そして俺の頭はダルクが抱きしめているのだから、想像に難くない。




 セラとダルクがやって来た後、ほどなくしてガヴェインと共にカルグ医師が俺の元へと訪れた。

 二人共俺達の状態に驚いたようだが、特に触れる事無くただ俺が目を覚ました事を喜んでくれた。

 そして念のために診察をしようという話になったのだが、二人がどうしても離れようとしてくれなかったのだ。



 全て俺が無茶をしたせいだとはわかっている。

 ただでさえ一度似たような真似をして彼等の前から消えているのだ。

 そんな俺が倒れてしまえば、心配にもなるだろう。


 だが、せめて診察の間は少し離れて欲しい。

 腕の良い医師だからか問題は無かったようだが、普通なら精霊の魔力と交じり過ぎて診察どころでは無かっただろう。

 無理矢理にでも引き離すべきだったかもしれないが、少し離れて欲しいと言い掛けた途端、セラもダルクも余計にしがみついて離れなくなってしまったのだ。

 そのためカルグ医師の好意でそのまま診察をしてもらう事になった。



「申し訳ない……」


「いえいえ、英霊様方がそのようにしているところをまた見られて嬉しい限りです」



 多分、朗らかで度胸も据わった人物なのだろう。

 少なくとも、英霊と呼ばれ敬われている存在が病み上がりの俺に抱き付いているというのに、彼は特に動じる様子も見せずに隙間から俺の腕を取り診察を始め、何事も無く終わらせた。

 しかもこのように笑って流せるのだから、相当な人物だと思う。



「念のため二日間は安静になさってください。私はこれで失礼致します」


「わかった。ありがとう」



 皺が刻み込まれたカルグ医師の手が離れると共に退室の意を伝える言葉が聞こえる。

 それとほぼ同時に席を立つような音が聞こえ、どうにか礼を言えば、傍にあった人の気配は遠ざかり、扉が閉まる音が響いた。


 何か小声で話しているガヴェインとジーアスの声が聞こえる辺り、二人はまだこの部屋にいるようだ。

 ダルクの心音や息遣いの方が響いているため話の内容は聞き取れないが、再び椅子が揺れる音と共に誰かが座った気配が感じ取れた。

 魔力からして……これはガヴェイン、だろう。

 量も質も違うが、親子なだけあって二人とも魔力が似通っているので少々ややこしいな。



「……セラ、ダルク。そろそろ離してくれないか?

 この体勢のままだと少し辛いし、聞きたい事もあるんだが……」



 二人の好きなようにさせてやりたいのは山々だが、如何せん、今の俺は病み上がりに等しい。

 身体の痛みは誤魔化しきれそうにない上に、正直この体勢は少しどころか随分辛いのだ。


 何よりも、俺は聞かなければならないことがある。

 そのため二人へ声をかければ、ほぼ同時にぴくりと反応を示し、セラは小さく頷いてから、ダルクは黙ってゆっくり離れて行った。



《……カリアのこと、よね……》



 俺が何を聞きたいか、セラもダルクも、ガヴェインもジーアスもわかっていたのだろう。

 俯きがちに呟くセラはダルクに視線を移し、ダルクはそれを受けて小さく頷く。

 二人の神妙な面持ちに、それとなく他の二人の様子を窺えば、椅子に腰かけたガヴェインとその隣に立つジーアスも同じような硬く暗い表情をしていた。



《実は、な……》



 言葉を選ぶように、何度も口を開いては閉じてしまうセラとダルク。


 ──言いにくいのなら、俺から切り出してしまった方が良いだろうか。

 そう考えると同時に、俺の口は前から抱いていた予感を口にしていた。



「邪龍は」



 声が震え、鼓動が早くなる。

 みんなの様子を窺いたくとも、嫌なほど脈打つ鼓動に意識が向いてしまう。



 信じたくない、考えたくもない可能性だった。

 だが俺は、俺だけがその可能性の結末を見届けた。


 だから、何となく。

 それこそこの世界に来て、初めて邪気に触れたあの時から、邪龍の存在を聞いた時から、そうなのではないかと思っていた。



「────カリアなのか」



 セラの息を呑む声が聞こえる。

 ダルクが顔を歪ませ視線を逸らす。

 ガヴェインが膝に置いた手を握り締める。

 ジーアスが泣きそうな顔で俺を見る。




 ──その全てに、それが真実だとわかってしまった。



「……そう、か……」



 力の入らない手を精一杯握りしめ、辛うじてそう吐き出す。

 脳裏に過ぎる彼女の姿は遠く、胸に穴が空いたような虚無感が襲い掛かってくる。

 それが嫌で、俺は唇に歯を立て痛みで意識を無理矢理掻き乱した。



 考えないわけではなかった。

 彼女の創造者であり、この世界を影から守っていた彼がそうだったのだから。


 彼女が──カリアが──銀龍が堕ちない保証など、どこにも無かったんだ。

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