堕ちた水龍の咆哮

 空を切る青の翼が家々を越え、木々を越える。

 邪気を薙ぎ払う風と共に王都ほどはあろうかと思うほど大きな湖の上へと辿り着いた時、下の方から背筋が凍るような冷たさが襲って来た。


 湖の近くに来ただけなのに、吐いた息が白くなって消えていくほど一気に温度が下がっている。

 少し高度を落とすレンスの首にしっかりと掴まったまま下を覗き見れば、そこは深淵のような底の見えない暗い湖が広がっていた。



 邪気によって世界を照らしているはずの太陽の光が霞んでいるのもあるだろう。

 だがそれ以上に光を拒絶するかの如く湖の底が見えない。

 その暗さは、水面近くを飛んでいるレンスの影が水面に薄っすらと映っているかどうかわからないほどだ。


 近付いて、実際にこの目で見てようやくわかった。

 この辺りを満たす邪気はこの湖から溢れ出ている。

 それも精地があるという島に近付くほど、より濃く、多い邪気が溢れ出ているのだ。



 溢れ出る邪気のせいでここ一帯の温度も低くなっているのだろうか。

 肌を突き刺すような冷たさに小さく身体が震えた。




 この様子だと水龍の長を助けるには湖もどうにかしなければならないだろう。

 精地と村を守るために邪気に堕ちるようなドラゴンだ。

 ただ助けたとしても、湖がこのままならまた同じことを繰り返すだけだ。


 だがこの規模の湖を全て浄化するには、俺だけでは力が行き届かない。

 水の精霊であるセラが居てくれれば何とかできたが……居るかどうかわからない彼女を想定して考えるのは得策ではないな。

 精地にいるという水の英霊とどれだけ力を合わせられるかはわからないが、そちらを充てにするしかないだろうか。




 その時、強い気配を感じた。



《っ、長が来るぞ! どこに──》


「下だ!!」



 何者も許さないような威圧感が下から昇ってくるのを感じ、周囲を警戒するレンスへ向けて叫ぶ。

 それとほぼ同時にレンスより大きなドラゴンの影が湖の底から急速に近付いているのが見えた。


 俺の声にレンスは咄嗟に大きく羽ばたいて後ろへと飛び退く。

 その衝撃で一瞬息が詰まるが、飛び退いた場所へと貫くように飛び出た何かが見え、何が起きようと対処できるよう魔力を練り上げる。



 湖の底から現れた大きなそれは水を纏い、水上へと姿を現す。

 邪気の塊のような水が落ちていく中で、強烈な怒りを宿した邪悪な光が煌めいた。



《長……!!》



 レンスの悲痛な声が聞こえたのか、その煌めきがこちらへと向けられる。

 その身に纏っていた水が全て重力に従って落ちていく。

 そうして姿を現したのは、どこかレンスに似ているものの、邪気を纏い、狂った瞳をした青きドラゴンだった。



 レンスよりも一回り大きなその身体がのけぞり、腹が膨らんでいくのが見え、俺は咄嗟に結界を張る。



《【──グゥルウァアアァアァアアアアアアアァァアアアア!!!!!!】》


「っぅ……!」



 大量の邪気と共に放たれた咆哮は、その音だけで周囲の全てを吹き飛ばす。

 結界を張ったとはいえ至近距離で放たれたため、勢いを防ぎ切れずに俺達も大きく吹き飛ばされてしまう。



《くっ──そ、このジジィがぁ!!》



 怒号にも似た叫びを上げて体勢を整えようと羽ばたくレンスへと飛んでくる幾つもの邪気を纏った水の刃。

 強烈な衝撃で身動き一つ取れない中、俺は避ける事ができないその攻撃を防ぐために水の壁を幾つも張り巡らせる。


 水の刃は水の壁に当たって壁と共に砕け、大量の水滴となって湖へと降り注ぐ。

 激しい雨のような水音が響く中、レンスは湖の岸まで飛ばされながらも何とか落ちずに体勢を整えた。



 精地がある小さな島を背に、堕ちた水龍は俺達へとその身を深く蝕んでいる邪気を放つ。

 精地へと近付けまいとしているかのように立ちはだかるその姿に、どこか既視感を覚える。


 まさか、まだ僅かに意識が残っているのか。

 邪気に堕ちた今も精地を守ろうとしているのか。



 ────だとすれば、救える。



《今はとにかく精地に向かう! 援護は頼むぞ!!》


「任せろ!」



 俺が返事をするや否や、レンスは一気に空を駆ける。

 決して振り落とされないように身体強化を施した腕と脚で身体を支えながらも、水龍をしっかりと見据えて魔力を練り上げた。



 今は救えない。

 俺一人だけでは、邪気に堕ちた者を救うことはできない。

 それはあの時、彼を救えなかったあの時にわかっている。


 だけど、俺一人でなければ、きっと。



《来るぞ!》



 速度を上げて精地へと向かうレンスへ向けて、空を覆うほどの水の刃が放たれる。

 邪気を纏ったそれは確かな殺意を持って降り注いでくる。


 俺は、空へと右手を掲げた。



「──【ヴォーア・ディゲン】!」



 魔力が水となり、光輝く幕となって俺達を守るように展開する。

 邪気に満ちたこの湖において異質なほど光を放つそれに、次々と水の刃が襲い掛かった。


 幕は刃が当たる度に強く輝き、光の粒子を散らして全ての刃を防いでいる。

 攻撃が届かない事に苛立ったのか水龍が再び咆哮を上げて空気が振動するが、レンスは構わず翼を動かし、水龍の横をすり抜けた。



「後ろは気にせず、行け!」


《わかった!》



 水龍の咆哮に応じるかのように幾つもの水柱が前方にそびえ立ち、俺達の行方を阻む。

 それら全てを避けて飛ぶレンスへと叫び、俺はレンスの首に掴まって、後ろから追いかけてくる水龍へと視線を向けた。


 水龍は先ほどよりも大量の邪気を放っていて、激しい追撃と共に追いかけてきている。

 その速度はレンスよりも速く、徐々に距離が詰まっているのがわかった。

 追撃は防げているとしても、先ほどから精地には近付けまいと邪魔をする水柱のせいで時間がかかっている。

 このままでは水龍に追い付かれてしまうのは目に見えている。



「もっと速くできないか!?」


《空は苦手なんだ! 水の中ならまだ……!!》



 レンスも追い付かれてしまうのがわかっているのか、焦った様子で返事が飛んで来た。

 水の中となると、湖に潜らなければならないだろう。

 だが湖の中は水上よりも邪気に満ちている。潜れば邪気に侵されてしまう。


 ならば、浄化すれば良いだけのことだ。



「俺が浄化する! 行け!」


《っ、息を吸え! 一気に行く!!》



 肺に一杯の空気を入れた瞬間、レンスは頭から湖へと飛び込んだ。

 衝撃と共に顔に当たる水に思わず目を閉じ、流れる水の感覚に慣れてから目を開ける。

 そこは、生き物の気配など無い冷たい水だけの世界だった。


 邪気に満ちた湖の中には魚一匹見当たらず、ただただ邪気だけが漂っている。

 すぐさま浄化の力を使って結界を張るが、触れる水全てが命を奪おうとしているようだ。

 水が凍るように冷たく刺さり、急速に体温が奪われていくのを感じた。



《あと少しだ!》



 水の中でもはっきりと聞こえたレンスの声に前を見れば、そこには一か所だけ隆起した場所があった。

 湖の中心だというのにそこだけは隆起し、水面に少しだけ顔を出しているようだ。きっとあそこが水上で見えていた島だろう。

 その時、結界に邪気の塊がぶつかった。



 結界と邪気がぶつかり、爆発するような音と共に強い衝撃が俺達を襲う。

 その衝撃で息が漏れ出てしまい、咄嗟に口元を抑える。


 後ろを見れば水龍が数多の刃を携え、凄まじい勢いで追いかけて来ていた。



《【チカヅクナァアアァアァアアアアアアアァッァアアアア!!!】》



 俺の張った浄化の結界を壊すためだろう。

 僅かに残っている意志が、水の精地へと近付く者を排除しようとしているのだろう。

 水だけでなく、邪気までが刃となり、水龍の咆哮と共に放たれた。


 迫りくる刃を防ぎきるため、結界へと魔力を注ぎ、浄化の光を後ろへと放つ。

 それでも浄化の光を避けて飛んで来た刃は結界の力を削ぎ、激しい衝撃をもたらした。




 激しい水の流れと共に、俺の口から漏れ出た息が流れていく。

 意識に陰りが射し、身体の力が抜けていく。


 ──息が、足りない。


 霞んでいく視界に限界が近いと嫌でも悟ってしまう。



《あと、もう少しで……!!》



 どこかレンスの声が遠く聞こえる。

 もう漏れ出る息も無く、ただ歯を噛みしめた。



 守らなければ。

 俺はまだ死ねないんだ。



 緩んでいた腕に力を入れ、先を急ぐレンスの首へとしがみつく。

 最早後ろを見ている余裕などない。

 俺はただ浄化の力を維持し、結界を維持し、襲い来る水と邪気の刃を防ぐことだけに意識の全てを割く。



 薄っすらとしか見えない視界の中で、青い髪の青年が俺を抱き寄せ、小さな洞窟の中へと身体を滑り込ませたのが見えた。




 水の中から出る感覚がし、俺は反射的に息をする。

 急に入って来た空気に身体が拒絶するかのように咳き込み、口の中に入った水を吐き出した。



「キョーヤ! しっかりしろ、息をするんだ!」



 いつの間にか人型になっていたレンスは俺の身体を抱え、大急ぎで岩場へと引き上げる。

 バクバクと激しく脈を打つ心臓に、俺はただレンスに身を任せて身体が求めるまま息を繰り返した。



「すまない……人にはきつかったな。ここまで来れば一安心だから、息を整えてくれ」


「こ、こは?」


「水の精地に繋がる洞窟の一つだ。長は今人型に成れないだろうから、ここには来ないだろう」



 岩に手を突き、荒れた息のまま問えば、レンスは俺の背を摩って静かに答える。

 顔を伝って落ちていく水に瞬きを繰り返し、ようやくはっきりと見えた視界に周囲へと目を向けた。



 周りの岩には何かの結晶のような物が埋まっていて、仄かな灯りを灯している。

 魔力を感じる事からしてきっと魔力を宿した水晶──魔晶石のような物だろう。

 精地に繋がっていると思われる洞窟の先にも絶えず灯りが続いているのが見えた。

 後ろには俺達が入って来たと思われる穴に水が満ちていて、水龍の咆哮が微かに聞こえて来ている。



「この、先が?」


「あぁ、この先が水の精地だ。……行けるか?」


「っ、大丈夫だ。急ごう。早くしないと水龍を助けられなくなる」



 ある程度息が整った所で、身体に張り付いた服と少し眩暈がする視界によろけながらも立ち上がる。

 これぐらいなら歩いている間にでも治るだろう。今はとにかく先を急がなければ。

 動き難さから魔法で軽く服を乾かし、俺は気遣ってくれるレンスの後に従い洞窟の奥へと進んでいった。

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