第二章・良二の異変とかけがえのない存在
僕が次に目を覚ましたのは、山仲医院の病室の中だった。
「気がついたようだね」
僕の寝ているベットのそばには、辰子の父で主治医の山仲医師が立っていた。優しげな顔立ちで、微笑んで見つめる目は、少し悲しげだった。
「じゃあ、行くよ」
そう言って、山仲医師は僕を起こして立ち上がらせた。僕は何のことだかわからず、医師に質問したが、とにかくついてくるようにと言うだけで、何も語らず、僕を愛車に乗せ車を走らせた。僕が山仲医師に連れてこさせられたのは、良二のいる病院だった。僕は抵抗して入らないようにしていたが、医師から知らされていたのか、何人かの仲間たちが現れて、良二のいる病室へと向かわせられた。
良二が寝ているベットの周りに、十四人の仲間たちが全員立っていた。全員視線を落としたままだった。入り口のそばの椅子には、力なく座って良二の兄に体をもたれさせ目をつぶる良二の母がいた。二人共泣いていたのか、頬に涙の跡がくっきりと残っていた。
「ま、まさか」
僕はそうつぶやきながら、恐る恐る寝ている良二のそばへと歩み寄った。良二は目を開けてこちらを見つめていた。
「良二さん、彼が卓真君ですよ」
辰子のその言葉の意味がわからなかった。わかりたくなかった。一瞬辰子の顔を見つめた後すぐに良二を見た。良二の口からかすれた声が聞こえてきた。それはもう、人の声と言うにはあまりにも弱々しい声だった。力なくだが、震えながらも力一杯良二のはずのその男がつぶやきだした。
「ああ、良かった、完全に忘れてしまう前に、お前と話ができて」
ますます意味がわからなくなって辰子を見ると、視線を落としたまま辰子がつぶやいた。
「お医者様が言うには、記憶中枢に障害があって、私たちのことも母親のことも忘れていて、だけど、あなたにだけは言いたいことがあるからって、今まで頑張ってきたの」
「なぁ、中学の時の事覚えてるよな。俺はきっとこのまま忘れてしまえると思う。もう、最近ではお前との思い出も霞がかかったみたいに薄れていっている。だから、完全に消えてしまう前に言っておきたい」
僕は良二の顔を見て小さくうなずいた。言葉が出てこなかった。励ます言葉も、記憶がなくなることを否定する言葉も出てこなかった。
「お前、好きな人ができたんだろ」
僕は何も答えられなかった。
「彼女は、俺にしたことも知っていて、それでもお前のそばにいるんだよな」
僕は小さくうなずいた。
「だったらもう裏切るなよ。それによってお前が幸せになるかどうかなんて関係ないし、俺は興味がない。けど、俺たちのことで彼女を悲しませたくない。ただそれだけだ」
「けど、僕は、僕は……」
「俺にしたことが気になるのなら、そのときに言えばいい。彼女ならきっと、お前の力になる。そうだろ卓真」
「けど、それが彼女の重みになる」
「重みになるかどうかは彼女が決めることだ。お前が決めることじゃない。そりゃ、お前に気を遣って彼女もまた無理をしすぎるかもしれない。だったらお前は、別のやり方で彼女を支えればいい。それがどんな形になるかは知らないし、興味ねぇけどな」
良二は何度も、昔からの口癖だった「興味ない」を繰り返しつぶやいた。しかし、良二の視線は僕の視線にあっていなかった。それどころか、白目をむいているようなそんな目つきになっていった。
「なんだか、暗くなってきたな、もう夜なのかな、もう寝るよ」
周りの誰もが嗚咽と共に涙を流しているようだった。僕も泣いていた。いつの間にか、良二は良二でなくなっていた。僕たちの知っている良二は、今日死んだ。僕の腕をしっかりと握ったまま、良二はいなくなってしまった。その手はまるで、僕を励ますかのようだった。僕はいつしか泣き崩れて号泣していた。いつか、逆恨みで嫌っていた祖母が死んだときのように、周囲を気にせず、泣き叫んでいた。幼い頃、僕の心のよりどころであり、気づかないうちにストレスのはけ口になっていた彼の名を呼びながら、僕は、僕たちは泣き続けていた。
僕は、良二の葬式から数日後、辰子と一緒に寝ていた。
「本当に大丈夫卓真君」
「うん、僕は良二のためにも、そして辰子ちゃんのためにも、前を向くことにしたんだ。それに、今日は君のことを、細部まで、その」
僕の顔は真っ赤になってしまっていただろう、そのぐらい顔がほてっていた。辰子がちょっと微笑んで、僕をベットの上へと誘った。彼女の柔らかな唇が僕の唇に触れると、僕の理性は吹き飛びそうになっていた。僕は、我慢しきれずに彼女の体の上に乗り彼女の唇にキスをして、舌を入れ彼女の舌と絡ませた。僕は彼女の鼓動の高鳴りを感じた。彼女も僕の鼓動を感じたろう。僕はそのまま彼女の首筋にキスをして、胸までなめ回した。彼女の嗚咽した声が、なぜか心地よく聞こえた。今度は僕が下になり、彼女が僕の体に体をすり寄せて、ぬくもりを感じあった。そして彼女は背中をこちらに向けて、僕はそのお尻に自分の精気を彼女のお尻に入れた。そうして、僕たちは長い夜を過ごした。
数日後、仕事先に辰子の父親から電話がかかってきた。産婦人科に来てほしいと言われて僕は、ドキッとした。ちゃんと計算して行ったはずだった。しかし、辰子は妊娠してた。順番が全くでたらめだった。僕はまず結婚してから子供を作るべきだと考えていた。それなのに、結婚する前にできてしまったことで、僕はショックで頭を抱えてしまった。
「辰子、ごめん、ごめん、うかつだった。結婚もしてないのにあんなこと、するべきじゃなかった」
「いいのよ卓真君、私も計算ミスっちゃったから。謝らないで卓真君」
僕はそんな彼女の言葉もほとんど耳に入っていなかった。ひたすら謝り続けていて、それ以来あまり彼女の前に現れなかった。
辰子と会う回数が減って半年して、辰子の父親からの呼び出しがあった。僕が辰子の実家に行くと、閑散とした医院内が真っ暗であった。今日は休みではないはずだった。僕が医院内に入ると、看護婦婦長の双山恵美子さんが、僕を医院の奥、診察室へと案内してくれた。そこには、山仲医師が椅子に座っていた。そばのベットには、辰子の母親がいて、そのお国も誰かいるようだったが、誰かわからなかった。
「おじさん、どうしたんですか」
「一昨日の夜、辰子と約束していたそうだね」
「え、ええ、でも急用があって、約束はキャンセルして」
「君が、その夜近所に出かけているのを目撃しているんだ。それも久美子ちゃんと一緒に」
久美子というのは、僕たちの共通の友人で、その日の用事というのは、やましいことがあってのものではなかった。
「いや、あれは、」
「辰子は、ショックで声をかけようと思わず道路に出たときに、自転車にぶつかったんだ」
僕は返す言葉を失って、息をのんだ。
「近づいてきていた自転車に突然ぶつかった辰子は、少し負傷したが、おなかの子供は、」
そのまま山仲医師はうなだれて、震える声でつぶやいた。
「流産したよ……」
「そんな」
僕は絶句したまま固まった。すると、そばにいた辰子の母親が動き奥にいた人間の姿が見えた。小さなベットの上にうずくまり、まるで貞子かなんかの幽霊のように生気のない表情でうつむいたまま、運動座りしている辰子だった。
「辰子は、流産したと知ってからずっとあんな調子だ。我々が何を言っても反応しない。何も食わないし何も飲まない。今じゃ点滴でなんとか生きながらえてるだけだ。君のことを言っても反応しない」
僕は頭の中が真っ白になっていた。自分のせいでまた、誰かを傷つけた。僕は、僕はどれだけ他人に迷惑をかければいいのだろうか。僕は、結局ただの疫病神なのだろうか。
「いっそ、きみと出会わなければ娘は、」
「ちょっとあなたっ」
辰子の母親が山仲医師を非難する声を聞きながら、僕は医院を飛び出した。
医院を飛び出した先で、上川と出会った。多分山仲医師が呼んでいたのだろう。
「どこへ行くんだよ」
「どこって……」
「また逃げるのか。また取り返しのつかないことになってからお前は後悔する気か。何があったか知らないけど、まぁ久美子がなんか言ってたからなんとなく理由は知ってるけど、辰子ちゃんは死んでねぇ。生きてるんだ。今は抜け殻だけど、また元の辰子ちゃんに戻れる可能性はある。そして、それができるのはお前なんじゃないのかよ」
僕は何も答えずにその場を走り去った。
一ヶ月後、僕は再び辰子の家にやってきた。
「卓真君、こないだはすみませんでした」
入り口で僕を迎えた山仲医師がそう言って頭を下げた。僕は首を振って告げた。
「僕の方こそすいません、辰子に誤解させるような嘘なんかついたから、あんなことになってしまったのです」
「久美子さんから聞きましたよ、あの日無理矢理彼女が連れ出したそうですね。それも約束を断ったことを知らずに。久美子さん謝っていましたよ」
「すいません、辰子に会わせてもらえますか」
「あ、ああ、そうだね。今は、一階の病室で寝かしているよ。二階だと何かと危ないからね」
僕は山仲医師の言葉を聞き終わらないうちに病室へと進んだ。一番奥の病室、かつて仲間の一人が絶対安静面会謝絶されていた病室に、辰子はいた。
辰子は、ベットの上で天井を向いたまま寝転がっていた。点滴のおかげで、肌のつやがなくなっていることはなかったが、生気のない人形のような姿に、僕は心が折れそうになっていた。僕はそばにいた辰子の母親に辰子の半身を起こしてもらい、僕は彼女の前で跪いて、一つの箱を提示した。箱の蓋を開けると、そこには安物の指輪が入っていた。
「こんな安物の指輪しか用意できなくてごめん。だけど、辰子、君と一緒にいたいんだ。ずっとずっと。君といつまでも。子供が無理なら犬か猫でも飼おう。僕たちの子供として育てよう。だから、結婚してください」
僕の一世一代の決断と行動だった。辰子の母親が満面の笑みを浮かべた。山仲医師も近づいてきた。だけど、辰子の表情はすぐには変わらなかった。だけど、徐々に精気が満ちていき、瞳の色が鮮やかによみがえっていった。そして彼女はこう言った。
「待っていた、私ずっと待っていたんだよ」
僕は彼女を抱きしめ、彼女も僕を抱きしめた。僕はもう迷わない。悩まない。決して話さない。僕は強く誓った。
僕と辰子の結婚式は、質素ながらも盛大に開かれた。その場には、良二であって良二ではない、全てを忘れてしまった新たな良二も、車椅子に座って参加してくれていた。披露宴が終わり、二次会は仲間内だけで山仲医院の二階でのパーティーとなった。僕の指示で酒のない宴も終盤にさしかかった頃、僕と辰子は良二に誘われてみんなから離れて、ベランダへと出た。
「星空がきれいねぇ」
「うん、きれいだ」
良二がそう言って天を仰ぎ見て、目をつぶった。
「良二、疲れたんならそろそろ寝るかい」
僕がそう言うと、良二は僕の腕をつかんだ。良二を見ると、反対側の手で辰子の腕をつかんでいた。
「二人共おめでとう、末永く幸せになってくれよな」
僕と辰子は思わず良二を見た。そこにいた良二は……
【続く】
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