幸せと償い

虫塚新一

第一章・悲しみの雨

 彼女の胸が僕の体に押しつけられた。僕の胸はずっと高鳴ったままだった。彼女は意外と積極的で、僕の裸の体に唇をあて、キスをしていった。

 彼女の名前は山仲辰子。十六歳のある日、ある事件がきっかけで彼女と知り合い、数年がかりで恋人同士になった。僕は、恋人など作る資格のない人間だったから、その気は全くなかった。しかし、積極的な彼女におされる形で、僕たちは恋人関係になった。

 恋人同士と言っても、ただデートして夜になったらそれぞれ家に帰るという、他の人からしたらなんとも味気ない関係だった。それが、今日二十三歳となった誕生日に、彼女から一晩付き合ってほしいと言われて、彼女の家で一緒にいたときに、彼女のほうから僕の服を脱がせ、一緒に寝てほしいと言われた。

 ただ寝るだけならと思って僕は同じベットの中で一緒に寝ていた。初めはそれだけだった。しかし、途中から彼女が僕の腰に手を回し、抱きしめてきた。そして、無抵抗に固まっていた僕を無理矢理仰向けに寝かせ、いつの間にか裸になっていた彼女は、その豊かなな胸を僕の体にあててきた。彼女がそれほどまでに積極的なのには、本当に驚いていた。僕は、その体に自分の身をうずめたい衝動にかられたが、彼女の体をどけてベットから飛び降りて、衝動を抑えた。

 僕は、高鳴る鼓動を感じながら、急いで衣服を着込みだした。

「卓真君、まだ、だめなの」

「ごめん」

「謝らないで。それじゃあまるで私が責めてるみたいじゃない」

「ごめん」

「もしかして、まだあの人のことを気にしているの?」

「ごめん」

 僕は、謝ることしかできなかった。僕の気持ちは彼女も知っていたし、彼女の気持ちも僕はいたいほどわかっていた。

「それでも僕は、僕には幸せになる資格なんてないんだ」

 そう言って僕は彼女の部屋を出て、彼女の家を後にした。外はすでに真っ暗で、雨が激しく降っていた。いつしか僕は誰もいない公園の橋で座り込み、天を仰いでいた。顔には涙なのか雨なのかわからないしずくが流れていた。


 どのくらい経っただろうか、突然視界に黒い物が現れて、声が聞こえた。懐かしいような怖いような声が。

「何やってんだよ、こんなとこで」

 声の主は、福山良二だった。小学校の時からの友人であった者だった。

「良二君には関係のないことだ」

「そんな風には思えないけどな」

 僕は、その黒い物、傘を手で払って走った。


 僕は、ずぶ濡れのまま自宅に到着した。すると玄関から妹の元気な声が飛んできた。

「兄貴、どこ行ってたんだよ」

「どこでもいいだろ」

「大変なことになってんだよ、福山さんが、良二さんがさっき交通事故で病院に運ばれたって」

 そういえば、走ってる間に救急車のサイレンが聞こえた気がした。僕は驚いて顔をあげ、真偽を確かめようとしたが、すぐに顔を下に向けて、妹を無理矢理どかして自宅の中に入ろうとした。

「兄貴、さっきタクシー呼んだから、服着替えたらすぐ戻ってきて」

「もどらねぇよ。お前が行けばいいだろ」

 高校生の時のある事件がきっかけで、十四人の同級生と知り合い、家族ぐるみで交流してきた。そのため何かあるごとに、全家族と話し合ったり会うことがたびたびあった。だから、ほっておいても誰かが行くだろうと思った。

 妹の反論の叫び声が聞こえたが、僕はそのまま自分の部屋へと向かい、着替えて寝ようとしていた。すると階下から大きな足音と共に、色黒でいかつい川上三郎が現れた。

「何やってんだよお前、ふくちゃんが大変なことになってんだぞ」

「ああ、知ってるよ」

「だったらのんびりしてんじゃねぇ」

 そう言って三郎は僕の手を取って引っ張った。僕は必死にそれに耐えていたが、もう一人大樹和弘が現れて、二人して僕を抱き上げ、連れ出した。僕は必死に抵抗していたが、結局三郎の運転する車に押し込まれて、福山良二が緊急搬送された病院へと連れて行かれた。


 病院に入り、緊急病棟と書かれたプレートの前に、辰子も来ていた。そばのベンチには、良二の母親が座っていた。

「やっぱり辰子ちゃんも来てたか。で、良二の具合は」

 川上の質問に二人共うなだれて答えなかった。それが、危険な状態であることを意味していた。母親が、うつむいたまま涙声で苦しそうにつぶやいた。

「あの子、過去に二回事故にあってたから、本当は体の中ボロボロだったの。それなのに誰にも言わないで、ずっと我慢してきたみたい。それで、今回の事故で、体中の細胞とか、内臓とか、」

 母親は最後まで頑張って話そうとしていたが、とうとう言葉につまって泣き崩れてしまった。

「良二君、三時間前にここに運び込まれたときには、もう虫の息だったって、お医者様が」

「三時間前だって」

 僕は思わず大声で叫んでいた。周りにいた誰もが驚いて僕を見た。

「だ、だって、さっき、辰子の家から帰る最中に、あいつと出会ってるんだ。確かに暗かったし、雨も降ってたから、姿はよく見えなかったけど、声も風体も確かに良二さんのものだった」

「もしかしたら、あいつ最後にお前の元に、」

「川上、最後とか縁起でもないこと言うなよ」

「けどよぉ和弘、そうとしか思えねぇじゃねぇか、そうでなきゃ……」

 僕は、川上と和弘のそんなやりとりを聞き流しながら、良二の眠る病室の中へと入っていった。良二の体には幾重も包帯が巻かれてあり、腕や花からはいくつもの管が繋がっていた。顔が全くわからなかった。全身包帯に巻かれている姿は、あたかも妖怪かどこかのモンスターのようであった。

「ちゃんと君に償いをしていないのに、先に逝くなよ」

「償い?」

 後ろから誰かの声が聞こえた。僕は一瞬躊躇したが、思い切って話すことにした。僕自身が彼にした罪深き行為について、辰子以外には黙っていた過去の罪を話すことにした。

「中学二年生の時、良二さんが二度目の事故にあって、退院してすぐの頃、僕は、僕は、」

 僕は、そこから言葉が出なかった。誰もが何も言ってこなかった。みんな待っているのだ。僕の言葉で、僕自身の口で語るのを待ってくれていた。それがわかって、僕はますます緊張した。それでも僕は、顔をうつむかせ、目をつぶって思い切って語った。いや、つぶやいたという方が正しいぐらい、小さな声で告げた。

「良二さんの首を絞めたんだ」

 一瞬で空気が変わったのを感じた。何か目に見えない重たい物が全身に乗っかっているような、そんな錯覚さえあった。

「う、そ、だろ。ハ、ハハ、どうせあれだろ、あの当時お前たちの中で、はやってたプロレスごっこの延長で、たまたま絞め技が偶然入っただけだろ、ハハハ、お、おどかしやがって」

 川上のその乾いた空気のような声が病室内を漂うと、あちこちからため息のような吐息が聞こえた。だけど僕は、そのため息をさらに凍らせることを告げた。

「あれは、プロレスごっこなんてものじゃない、ふくちゃんの体の上に馬乗りになって、僕は確かに首を絞めたんだ。きつく、きつく」

「馬鹿なこと言ってんじゃねぇぞっ、どうせけんかかなんかで、思わず入ってしまっただけとか言うんだろ。現にふくちゃん何も言ってなかったぞ、何も、言ってなかったんだぞ」

 川上の声が力なく小さくなっていった。僕は、後ろにいるであろう仲間たちの顔を見ることができなかった。きっと全員困惑している、それだけは確かだった。何せみんなにとっての僕は、生真面目で曲がったことが嫌いで、力はないけど正義感だけは誰よりもある、そんな僕しか知らないのだから、困惑するのは当然だった。

 突然誰かの手が僕の腕をつかんだ。辰子だと思って僕はその手をつかみ返した。しかし、それは辰子の手ではなかった。それは、いまだに意識の戻らない良二の左手だった。後ろでいくつかの、息をのむ小さくて短い悲鳴が聞こえた。誰もがその奇跡に気づいていた。僕はその手をそっとベットの上に戻し、誰の顔も見ないように足早にその場を立ち去った。そして、そのままその病院から立ち去り、雨の中をあてもなく歩き続けた。


 歩き続けている間に、どこからか声が聞こえてきた。

「なにやってんだよ」

 もうそれが幻聴なのは間違いなかった。良二の幻聴が僕に語りかけ続けていた。僕は、その幻聴に耳をかすことなく、ひたすら歩き続けた。

「逃げるのかよ」

「僕は、僕はいつかまた、あのときと同じことをしてしまうかもしれない」

 僕は人通りのない真っ暗な道を、トボトボと歩きながら、つぶやいた。

「そうかもな、けどいいんじゃねぇの」

「よくないっ」

 僕は力一杯叫んだ。目に見えない幻聴に向かって叫んだ。きっとそばで見ている人がいれば、チキガイかなんかと思われたかもしれなかった。

「いっそこのまま頭がおかしくなれば、少しはましなのかもな」

 僕のそのつぶやきは、雨の音と共に薄れて消えていった。

「あれから一度だってあんなことやろうとしなかったんだろ」

「僕は、辰子と一緒にいるとき、どうしょうもない感情がわいてくる。ずっと彼女と一緒にいたいと。彼女にそばにいてほしいと。そのためならどんなことでもすると。僕はいつか、彼女と一緒にいるために、またおかしなことをしてしまうかもしれない。彼女を裏切ってしまうかもしれない。だから僕は……」

「どうするつもりなんだ」

 僕は答えなかった。僕は、もう一度死ぬことを選択肢の一つにいれていた。良二君に罪の償いができないのなら、このまま生きている意味はなかった。それに、仲間たちに全てを打ち明けてしまった。もう戻れない、もう二度と帰ることはできない、そう思った。僕の足は、ひたすら歩き続けていた。どこへ行くのか全く決めずに。


 僕の足はなぜか、辰子が一人暮らししているマンションにたどり着いていた。医院の経営をしている両親の家から離れて、町外れの静かな場所に辰子の住むマンションはあった。なぜ僕はここに来たのだろうか。僕にはもう戻るべき場所も、居場所もないというのに。僕は、再び歩き出そうとしていた。そこに、一台の赤い乗用車が止まった。僕が選んだ辰子の車。辰子のようにかわいらしく、電気自動車でありながら馬力のある車、それが彼女に勧めた車であった。その車が今僕の前に止まった。そして、扉が開き中から辰子が現れた。

 僕はとっさに体を反転させて走り出そうとしたが、足がもつれてその場で転んでしまった。

「卓真君」

 彼女の悲痛な叫び声と共に、足音が聞こえてきて、そのまま意識が遠くなった。


 僕が目を覚ますと、そこは辰子の住む部屋の中だった。

「気がついた?」

 辰子の声がすぐ近くから聞こえてきた。僕の体には、バスタオルが巻かれていた。

「服は洗濯機に入れたとこだから、乾燥機に入れるのはまだ先ね」

 僕は、ボーッとする頭を振って、状況を整理しようとした。しかし、頭が重くて、起き上がろうとすると関節が痛かった。辰子が、起き上がろうとする僕の体を支えて、右手を額にあててから話した。

「だめよ、体温がひどく高くなっている、安静にしておかないと」

 さすがは医者の娘、とっさに応急処置をしてくれたのだろう。僕は、そんな彼女のことが愛おしかった。とても愛していた。

 僕は突然彼女の体を自分の寝ているベットに押し倒し、彼女の体の上に馬乗りになり、彼女の唇を無理矢理奪った。彼女の唇に何度も自分の唇をあて、キスをした。何度も何度も。彼女は抵抗をしていなかった。だから気づくのが遅かった。彼女の目からうっすらと涙が見えた。あのときの良二君と同じように。

 僕はそのことに気づいてすぐに体をどけて、玄関口まで走った。彼女の僕を呼ぶ声が聞こえなかったら、僕は裸のまま外に出ていただろう。

「だから、だめなんだ、僕は、きっとまた誰かを裏切る。きっとまた、同じことをしてしまう」

「いいよ」

 彼女の声があまり聞き取れなかった僕は、ゆっくりと玄関の扉に手を持っていき扉を開けようとしていた。このさい裸族で捕まった方が気が楽だと思っていた。

「私だったら、全然かまわないから」

 彼女の悲痛な叫びが聞こえて、僕はゆっくりと振り返り、涙で濡れた頬のままこちらを見つめる辰子を見た。

「卓真君がしたいようにすればいい。私はかまわないから」

「けど、」

「もちろん、私だってわがままいっぱい言うよ。でも、卓真君にはもう自分を抑えないでほしいの。ありのままの自分を出してほしいの。もう、我慢しなくていいんだよ。私がいるから。私が、そばにいるから」

 彼女は、僕が良二にした裏切り行為を知っている唯一の人だった。数年前彼女に告白されたときに、告白を断るために正直に話したことだった。それでも彼女は僕のそばにいてくれた。だから、わかっていた。彼女の気持ちはわかっていたはずだった。

「辰子ちゃんごめん、」

「また謝る」

「ちょっと、ベットまで、戻れ、そうに、な、い……」

 僕はそこまで言うのがやっとで、そのまま意識をなくした。


【続く】

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