第2話 まさかの魔界へ
天正十年(1582)、織田信長は甲斐武田の討伐を成功のうちに終わらせていた。武田家には信玄の頃のようなかつての力はもはやなく、木曽義昌や譜代の穴山信君などの寝返りもあり、あっけなく滅亡した。ともかくも、これで織田家を恐れさせてきた武田は消滅したのである。
信長は甲州征伐に参加した諸将を
信長はいつになく上機嫌であった。やはり因縁ある武田を除いたことが、心の一つの区切りとなったのであろう。諸将を前にした祝宴で珍しく笑顔を見せていた。このところの信長はいささか狂気じみたところがあって、諸将は彼の機嫌を損ねることを恐れていた。
やがて祝宴は終わり、信長は気心の知れた武将たちだけを残し、さらに内輪での宴会を行った。残されたのは柴田勝家、前田利家、佐々成政、明智光秀、羽柴秀吉、滝川一益、堀秀政(久太郎)、給仕役として森蘭丸、そして退屈なことが嫌いな正室の帰蝶も顔を見せていた。
しかしこの時の信長は、公式の祝宴の時とは違い、なにやら寂しげで落ち込んでいるようであった。
「信長殿、どうされたのです?」
いまの信長に遠慮無く聞くことができるのは帰蝶ぐらいのものだ。諸将も気になっていたことなので、耳を傾けていた。
「……なに、いささか寂しくなったのよ。武田もいなくなれば、もはや我の敵といえば毛利くらいのものだ。敵が居なくなっては戦ができなくなってしまうではないか」
「まあ! この上まだ戦をなさりたいのですね」
帰蝶は呆れたように言った。正直なところ、織田家の中でも戦が終わることに安堵する者が数多くいた。長年の戦で運良く生き延びたものの、戦が続けばいつ死ぬかわからない。終わりのない戦いに疲れ果てた将も少なくなかったのである。
しかし、その場にいた諸将には信長の心情がよく分かった。実は彼ら自身もそのような感覚を共有していたからである。
「殿、寂しゅうござりまするな……」
勝家がそうつぶやいた。勝家は若い頃は信長に背いたこともある荒くれものだ。
「殿の後について駆け抜けた頃が懐かしゅうござる」
「まさに!」
これは利家と成政である。彼らは信長の
勝家や利家の言によって、場がしんみりとした。諸将は黙ってしみじみと酒を飲んでいた。
しかし――
それは突然のことだった。諸将のいた部屋の天井に、巨大な黒い球体が姿を現した! 球体は放電しながら周囲の空気を吸い上げ、その場はさながら嵐に遭遇したかのようであった。
「なんだ、これは!?」
「殿、ここは危のうござる! こちらへ!」
戦に慣れた織田の諸将も、見たこともない怪奇な現象に大混乱に陥っていた。
信長も表面上は平静を保っていたが、突然のことに我を忘れていた。
信長たちはその場から逃れようとするが、球体は強い力で全てのものを吸い上げようとしており、その場に留まるのが精一杯であった。
「その方ども、大丈夫か!?」
信長もそう部下に訊ねるのが精一杯であった。
「はっ、万一の時は私もお供いたしまする!」
側に控えていた蘭丸がそう答える。信長の顔が一瞬緩んだように見えた。
――が、部屋はすでに暴風が吹き荒れていた。
「うわああああああ」
利家が最初に球体の中に飲み込まれて行った。
「利家ー!」
そう叫んだ信長であったが、次々に諸将が吸い込まれていく。
勝家、成政、光秀。
「きゃぁあああああああ」
そして家臣に手を掴まれていた帰蝶も、ついに嵐に抗しきれず飲み込まれていった。
「帰蝶!!」
「ええい、やむをえぬ。このまま踏ん張っていても埒が明かぬ。自分の最期は自分で決めてやるわ!!」
信長はそう叫んで、自ら球体の中へと飛び込んでいった。
*****
どれくらいの時がたったであろうか。信長はようやく眼を覚ました。
「!?」
信長は自分が眼にした光景を信じられなかった。そこは安土の城ではなかった。もっといえば、日本とはとても思えぬ場所だったのである。赤い大地に暗黒の空、見渡す限り何も存在しない空間であった。
(やつらはどうしたのだ!?)
信長はようやく勝家や帰蝶のことを思い出した。自分よりも先にあの球体に飲み込まれたはずである。
「殿! ご無事でおられましたか!」
遠くから利家が駆け寄ってきた……利家?
確かに利家だが、何かが違う。すぐには思い至らなかったが、信長はやがて理解した。そう、若返っているのだ。甲州征伐の時、利家は四十を超えていた。しかし、今は明らかに20代の容貌に戻っている。
「利家! そのナリはなんだ!」
「ナリ? ああ、この姿のことでござるか。我々も突然のことで驚いておるのですが、どうやらここに来た者はみな若返っているのです」
「みな? 勝家や帰蝶もいるのか!?」
「ははっ。みなさまあちらに揃ってござりまする」
利家は信長が居ないことに気づき、周辺を探しにきたのであった。信長はみなの無事を聞いて安堵した。何が何やら分からぬことが多すぎるが、いまは家臣たちが居てくれることが心強かった。信長は利家に案内され、みなのところにたどり着く。
「帰蝶! おぬし若返っているではないか!」
「はい、お館さま。そういう信長殿こそ若いころの凛々しいお姿になっておりますよ」
帰蝶の減らず口は直っていないらしい。思わず信長は笑みをもらした。
「しかしこれは奇っ怪ですな。我々の姿といい、この場所といい。ここはどこなのでござろう」
これも若返った秀吉が疑問を投げかけた。
「分からぬ。誰か事情を知っている者がおれば良いのだが……」
光秀が遠くを眺めながらそれに答えた。
「まさか死後の世界というのではないだろうな?」
成政がいささか現実離れしたことを言ったが、この光景を見ればあながちそれも否定出来ない気がしてくる。
「馬鹿め、それなら我々全員が同じところに居るはずもなかろう。足も付いているようだしな」
信長が成政の言をたしなめた。人は死んで霊となれば、足がなくなるというのは常識である。
「しかし、ならばここは……。とてもこの世とは思えませぬぞ」
智慧者の秀吉も混乱しているようだ。
「ここは魔界です、皆さん」
「!?」
いきなり明らかに彼らとは違う存在の声がした。信長たちは驚き、辺りを見渡してその声の主を探す。
「殿! 上でござる!」
勝家の声に信長は上に視線を向けた。するとそこには奇妙な格好をした人間が空に浮かんでいたのだ。
「私の名前はメフィストフェーレス。魔界の王ライゼルさまから使わされてきました。以後お見知り置きを」
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