この日はよく晴れた土曜日で、大阪城公園の噴水の前のベンチに腰掛け、萩原は久しぶりに清々しい気分でいた。

 彼は目の前で噴水の池を覗き込んでいる美雪の姿を眺めた。美雪は胸のあたりに大きなぼんぼりのついたグリーンの厚手のセーターを着て、 黒いスパッツをはいている。

 そして彼女には少し大きめの真っ赤なキルティングのフードつきコートを羽織っていた。

 少し早めのクリスマス・カラーのつもりらしい。

「パパ、お池の中にお魚がいる!」

 美雪は萩原に振り返り、大きく目を見開いて叫んだ。

「そうか。あんまり底まで覗き込んだらお洋服が濡れるで」

「うん」

 美雪は小さく頷くと、今度は噴水を見上げた。

 彼は両手をベンチの背もたれにまわした。こうして休みの日に公園でのんびり過ごすことなど久しぶりだった。

 銀行なんかで働いていると、土、日の休みは疲れ切って家でゴロゴロしていることがほとんどで、あとは持ち帰ることのできた仕事をしているか、出勤させられているかのどちらかだった。

 そういえば、前回こうして公園で過ごしたのはワシントン勤務の頃だった。もう二年近くも前のことだ。

 彼はワシントン時代を思い出した。休みの日にはアパートの近くの小さな公園で、十センチ近くもあるワシントン・ポストの日曜版に缶ビールとサンドイッチで午前中いっぱいを過ごした。穏やかな陽射しと名も知らない小鳥のさえずりが彼の心に安らぎを運んでくれた。

 そして午後には笑顔のチャーミングなエレナのアパートへ──。

 エレナは銀行のオフィスが入って いたのと同じビルの保険会社に勤める役員秘書だった。

 二人は一目でお互いを気に入り、二度目にエレベーターに乗り合わせたときには、彼は気づいたら彼女をランチに誘っていた。

 それからはもうお決まりのパターン。

 ただ、彼の渡米目的からしても、お互いその関係が長く続くとは思っていなかった。

 やがて彼に帰国の辞令が出て、二人はきれいに別れたのだった。


 ところが、帰国しても彼にはアメリカ生活との切り替えがまるでできなかった。

 エレナのせいではない。彼の日本での第一歩が、望み通りの部署には迎えられなかったという大きな失望から始まったせいだ。

 その上、長く離れて暮らしていたせいか、妻の智子は彼に夫として、父親としての自覚と責任を強く求めてきた。

 彼女に言わせれば当たり前のことだったのだろうが、アメリカでは何もかもが別天地の出来事のようだった彼にとって、そうした平凡な生活は色褪せて見えたのだった。

 それだけ、彼はまだ大人になり切れていなかったのだ。

 そういう意味では、大学卒業と同時に結婚をしたのは早急だったようだ。

 帰国してふた月ほどたった五月のある週末、いつものように疲れ切ってマンションのインターホンを鳴らした彼は、迎えに出た智子の顔を見るなり言った。

 ──別れてくれ。

 当然、智子は承知しなかった。それからの毎日は、今思い出しても首を振りたくなるような暗さだった。

 そして、とどのつまりがあのセリフ。「クズ」。


「──パパ、お腹減った」

 いつの間にか美雪がそばへ来て、彼の洋服の裾を引っ張っていた。

「あ、そうか。じゃあ何か食べに行こか」と彼は笑顔で言った。「何が食べたい?」

「うんとね──ハンバーグ!」

 美雪は元気いっぱいの声を上げた。

「よし、ほな行こう」

 彼は美雪の肩に手を回して言うと、そのまま抱き上げた。

 これ以上自分のわがままにこの母娘を巻き込んではいけないのだと、彼はこのときようやく確信した。


 レストランを出た萩原は、美雪を連れて智子との待ち合わせ場所である天満橋南詰へと向かった。

 途中、二人は天満橋の水上バス乗り場から河を眺めた。対岸の一帯は天満の街で、鍋島の勤める西天満署の所轄管内であるはずだった。

「──美雪、ここから水上バスに乗ってずうっと河を巡ったことあるか?」

 萩原は美雪とつないだ手を前後に揺らしながら言った。

「すいじょうバス?」と美雪はたどたどしく復唱した。「なに? それ」

「そうか、知らんのか」と萩原は笑った。「今度ママに連れてってもらうとええよ」

「パパは連れてってくれへんの?」

「パパはな──」萩原の顔が曇った。「ママがええて言わんと、ダメやな」

「ふうん」

 美雪はがっかりしたように俯いた。萩原はそんな彼女を見て心が痛んだ。そして何とか彼女の喜びそうな話題を考えた。

「そうや美雪、クリスマス・プレゼントは何がいい?」

「クリスマス?」と美雪は顔を上げた。「パパ、プレゼントくれるの?」

「当たり前やないか。去年もあげたやろ」

「ほな、クリスマスはパパも一緒?」

「それは──」と思わず口ごもった。「それもママに訊いてみんとな」

「パパ。パパはまだママとけんかしてるの?」

 美雪は大人じみた心配顔で萩原をじっと見た。まるで恋人と喧嘩した友達を気遣っているような顔だった。

 萩原はたまらなくなって美雪を抱き上げた。我が子とクリスマスを過ごすことのできる平凡な幸せも、今の彼には簡単に手に入るものではなかった。当たり前のことが当たり前でなくなったとき、人は初めてその大切さを知るのだと彼は痛切に感じていた。アメリカから戻ったとき、彼はそのことに目を背けてしまっていたのだ。

 後悔先に立たず。使い古されたことわざに、彼はやっと気づいたのだった。


 五時をまわって、空からは夜が降りて来ていた。いよいよ本格的な冬を迎え、頬を撫でていく風の冷たさも研ぎ澄まされてくるこの時期は、ゆく年を惜しむのには似合いの季節と言えた。

 そして、家族の暖かさとありがたさが急に恋しくなるのもこの時期だ。

「あ、ママだ!」

 突然美雪が声を上げた。

 萩原はあたりを見回した。すると前方から、藤色の訪問着に白い帯を締め、左の腕にきちんとたたんだコートを下げた智子が、少し戸惑った表情を浮かべながらこちらに向かって歩いてくるのが目に入った。

 その隣には、見るからに好感の持てる体格の良い男性が、彼女を包み込むようにして付き添っていた。

「あ──」

 萩原はしまりのない声を出した。

 目の前まで来ると、智子は軽く会釈してから隣の男に振り返った。

「あの、この方が──」

「萩原です」と彼はぺこりと頭を下げた。

「初めまして。榊原耕平さかきばらこうへいです」

 男は穏やかな笑顔で言った。仕立ての良さそうな焦げ茶のスーツに趣味のいいネクタイを合わせ、智子と同じように腕にコートを持っていた。

 萩原は二人の姿を見て、少しバツの悪い思いがした。

 それというのも今日の彼はブルー・グレイのシャツの中にタートルネックのセーター、さらにその上に着古したGジャンを着て、下もまたかなりはき込んだ感のあるジーンズに茶色のショートブーツという格好だったからだ。いくらそれらがかなり値の張るヴィンテージものだったとしても、目の前の二人との差は割引かれるものではなかった。そしてその腕に美雪を抱く姿は、小さな娘を持てあましているだらしのない父親のようだった。

「──あなたには、一度お会いしたいと思っていました」

 榊原は萩原から視線を外すことなく言った。その顔には、どこか男としての自信のようなものが伺えた。

 逆に萩原には言葉が浮かばなかった。いつかは顔を合わせなければならないのだろうと思ってはいたものの、あまりに突然に、何の心の準備もできていない無防備な状態で美雪の養父となるだろう男が目の前に現れたのだから、それも仕方がなかった。

 萩原は無理に笑った。そして美雪をそっと下ろすと、自分も彼女と同じ目の高さになるようにしゃがみ、そして言った。

「美雪、パパはここで帰るしな。次に逢うまで、いい子でいるんやで」

「いや、もっとパパといる──!」

「何言うてるんや。ママが迎えに来てくれてるやろ」

 萩原に優しく言われ、美雪は智子に振り返った。しかしその隣にいる榊原をじっと見つめると、またすぐに萩原に抱きついて顔を埋めた。

「いや、いや──!」

「美雪、そんなわがまま言うんやったら、パパはもう知らんぞ」

 萩原は声を強めた。その声で美雪は余計に頑なになり、そしてとうとう泣き始めた。

「──あの、萩原さん」

 榊原が進み出て言った。

 萩原は顔を上げた。そしてゆっくりと美雪の腕を自分の肩から外し、立ち上がった。

「すいません、あの──」

「いえ、違うんです。どうぞ、私に気を遣わないでください」

「いえ、ダメですよ。この子にも、もうそろそろ分かってもらわないと困るんです」

 そこまで言うと萩原は情けなさそうに笑った。「俺がこんなこと言えた義理やないですけど」

「萩原さん……」

 萩原はもう一度しゃがみ込み、美雪と向かい合った。

「ええか、美雪。ママの言うこと、よう聞くんやで」

「パパは……?」美雪はベソを掻いていた。

「パパはいつも通りや。また来月になったら、美雪に会いに来るから。クリスマスのプレゼントは、サンタさんに渡しとく」

「ほんま……? 約束……?」

「ああ、約束するよ」と萩原は頷いた。「そのかわり、美雪もパパが今言うたこと約束できるな?」

 美雪は仕方なさそうに頷いた。そして諦めたようにゆっくりと萩原に背を向けると、項垂れたまま智子のもとへと歩き出した。

 萩原はそんな美雪の姿をぼんやりと眺めながら立ち上がった。

 そして智子と榊原を代わる代わる見つめ、やがて榊原に向き直った。

「この娘のこと、どうか可愛がってやってください」

「萩原さん」

「俺にはできませんでしたが、あなたになら──」

 萩原は俯いた。ジーンズのポケットに両手を突っ込み、やがて決心したように顔を上げた。

「彼女たちを幸せにしてもらえそうですね?」

「それはお約束します」

「じゃあ、俺はここで」

「萩原くん」

 ここで初めて智子が口を開いた。

 萩原は振り返った。そして今の彼に出来る精一杯の穏やかさで彼女に微笑んだ。

「ありがとう」と智子は声を震わせた。

「あの、萩原さん」

 榊原が思い立ったように言い、萩原は彼を見た。

「あの、クリスマスは美雪ちゃんと過ごしてあげて下さいませんか?」

「え? でも」

「いいですよね、智子さん?」と榊原は智子に振り返った。

「ええ」

「……ありがとう」

 萩原はその伏し目がちの瞳で足もとを見つめた。なぜだかとても安らかな気持ちになった。そしてこれはたぶん榊原のせいなのだろうと思った。彼はきっとそういう男なのだ。確か、前に智子もそう言うてたっけ。

 萩原は来た道を戻り始めた。川面に映ったビルの明かりがゆらゆらと踊り、まるで炎のようだった。

「パパァ、バイバイ!」

 後ろから美雪が叫んだ。萩原は振り返らなかった。




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