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土曜のせいで普段のサリーマン客が見当たらず、二、三組の二人連れが離れて座るこぢんまりと落ち着いた居酒屋で、萩原の話すのを黙って聞いていた鍋島は、話が終わると一気にグラスの冷酒を呷った。
「辛いとこやな」
彼は吐き捨てた。
「全部俺の蒔いた種や。ここへ来てようやく摘み取ったんや」
「それにしても、その再婚相手がおまえから見てもええやつやったっていうのが ──何か悔しいやないか」
「あの男やったら、俺とは違て家庭を大事にするタイプみたいに思える。安心や」
そう言って萩原は微笑むと、灰皿の中で煙草を潰した。
「美雪ちゃんはどうなんや」
「あの娘も、しばらくは拒絶するやろう。けど、そのうち分かってくれると思う」
萩原は俯いた。「きっと俺が逢うのをやめたらええんやろうけど」
「そこまでええカッコすることないぞ」
「ええカッコか。そうかもな」
「それに、おまえまでがそんなことしたら、美雪ちゃんはどこに自分のほんまの気持ちをぶつけたらええんや」
「そうやな」
萩原は空になったグラスを傾け、氷を鳴らした。
「けど、美雪ちゃんを引き取るってあれだけ頑張ってたのに、よう決心したな」
「いつまでも子供みたいに駄々こねててもしゃあないしな」
萩原は笑って言うと鍋島を見た。「おまえと麗子に一斉に説教されたら、俺もよう踏ん張れん」
「おまえ、ほんまにそれでええんか」
「ええわけないやろ」
「それやったら──」
「それでも決めたんや。自分のためにもそれが一番ええんやと言い聞かせて」
「そうか」と鍋島は溜め息をついた。「大きい代償やな」
「ただのクズやった男が、再生ゴミにくらいにはなれたかな」
「おもろないぞ、なんにも」
「ええから。おまえも早よ決心しろよ」
萩原は鍋島の肩をつついた。
「何やそれ」
「今朝、純子ちゃんから電話もろてな。『お兄ちゃんにはっきり言うてやってください』って頼まれたぞ」
「……余計なことを」
鍋島は舌打ちした。そして首を伸ばしてカウンターの中の店員に声を掛けた。
「すいません、冷酒もう一本」
「ごまかさんでええから。真澄ちゃんが見合いするんやて?」
「みんなでよってたかってその話ばっかりや。俺と真澄の問題やろ」
「おまえがいつまでもうじうじしてるからやろ。はっきりせえよ」
「……真澄が俺みたいなんとつき合うて上手いこと行くと思うか?」
「おまえにはその気はないんか」
萩原はボトルのウィスキーをグラスに注ぎながら鍋島を見た。
「あるとかないとか──そういうことの前にその考えが先に立つんや」
「何で」
「ほら、あいつはああいうコやろ。素直で純粋やけど、世間知らずのお嬢さんや。 俺に対する気持ちもよう分かるだけに、自信がないって言うか」
鍋島はカウンター越しに出された冷酒のボトルを手に取った。
「自信がない、か」
「その、どうしても構えてしまうんや。ずっとええカッコしてなあかんみたいで」
「それを彼女の前で続けられる自信がないというわけか」
萩原は頷いた。「まあな。あのコにはおまえの存在は絶対みたいやから。おまけにつき合うには、その絶対的存在を崩すことは許されへんみたいな感じはある」
「潔癖性やからな」
「けど実際は、おまえは言いたいことを何でも言える相手の方が合うのと違うんか」
「別にそうでないとあかんとは思わへん。要は、楽でいられたらええみたいなんや」
「果たして彼女がそういう相手かどうか、ってことなんやな」
「確かに、あいつのことを好きなんやなっていう気持ちもある。けどいざその気持ちを出そうとすると、なんか引っかかってしもてな」
鍋島はため息をついた。「自分でも、ええ加減はっきりせえよって腹立つときもある」
「麗子はどう言うてるんや」
「早く答えを出してやれって。あいつ、俺が七年前と同じことをまた繰り返すんやないかって、それを心配してるんや」
「なるほどな」
「どっちの答えを出そうと、そこまで指図するつもりはないとも言うてるけど──何しろ従妹やからな。暗にええ返事をして欲しいっていう信号を送ってきてるのが分かる」
「真澄ちゃんがああいうコだけに、傷つけて欲しくないってのがあるんやろな」
「そんなこと、あいつに言われんでも分かってるつもりや。従姉妹同志でも、あいつとは全然違うんやからな。真澄は」
そう言って冷酒をグラスに注ぐ鍋島を萩原はじっと見た。
「……おまえ、心の底に眠ってる気持ちに正直になった方がええぞ」
「何やそれ」と鍋島は顔を上げた。
「よう考えたら分かるはずや」と萩原は笑った。
鍋島は首を傾げ、ようやく杖なしで歩けるようになった右足をさすった。
二人で飲むのは久しぶりだった。そのせいかそれから彼らは何軒もはしごして飲み歩き、結局最後に屋台のおでん屋の前で別れたのは午前二時近くのことだった。
翌朝、自室のロー・テーブルの前に座り、鍋島は電話を前に考え込んでいた。
部屋の壁掛け時計は午前六時を指していた。どう考えても、人に電話を掛けていいような時間ではない。こんな時間に電話が鳴ったら、誰だって悪い予感しか抱かないだろう。
ただ、今を逃すとまたずるずると考え込んでしまう自分が分かっていた。
そしてきっと、最後には逃げてしまうことも。
鍋島は丁寧にボタンを押した。自宅ではなく、携帯電話に掛けていることがせめてもの救いだった。
「──もしもし?」
相手を確かめるように言った。「あ、俺やけど──」
彼は俯いた。「ごめんな、こんな時間に。──ううん、違うよ。うちから掛けてる」
「あの、真澄」彼は咳払いをした。「その──二十四日は予定はあるんか?」
それから相手の返事を待った。「そう、おまえを誘ってるんや」
「ええのか?」ほっとしたような表情になった。「そうや──え?俺の誕生日はどうでもええから、とにかくその日はおまえと──」
「うん、仕事はある。うん、分かった。そしたら六時に。──え? 大丈夫や。行けるよ」
そして彼は電話を切ろうとした。しかしまたすぐに受話器を耳に当てた。
「もしもし、真澄?」
「その──やっぱりええんや。何でもない」
そして今度は本当に受話器を戻した。しばらくのあいだ両手を電話の上に置いたままじっとしていたが、やがてゆっくりとため息をついてその手を外した。
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