興和銀行の十一月のキャンペーンは、ローン推進キャンペーンだった。

 銀行というところは、いつも何かしらのキャンペーンを展開している。

 ただ、銀行の変わっているところと言えば、その大半が客に向けてアピールされるような性質のものではないということだ。

 つまりキャンペーンと言っても、客にとって興味をそそられる特別な商品やイベントが登場するわけでもなく、要するに支店同志を競わせ、銀行の利益を上げるための行内キャンペーンがほとんどなのだった。

 それでも行員たちは年中このキャンペーン活動に振り回されていた。

 その都度本部から設定されたノルマを達成するために日々働いていると言っても過言ではなかった。

 というのも、ノルマを達成できるか出来ないかでその支店の行員全員のボーナス支給額が変わってくるし、役席の出世も違ってくる。だから支店長は自分の出世のために必死で部下を働かせるし、部下たちはそんな上司を恨みながらも、より多くのボーナスのために必死で働くのだった。

 そういう意味では、この時期に萩原が四億円の新規融資を実行させたことの功績は大きかった。

 かつての華やかなりしバブルの時期とは違って、ほとんどの銀行がその本業であるところの融資業務において様々な損失と問題を抱え込み、そのうえ国の金融緩和政策による超低金利時代を迎えたことで保身のために極めて消極的な経営戦略をとらざるを得なくなった状況にあって、今回のキャンペーンは上層部も営業店に対してあまり大きな成果は期待していなかった。むしろ、このような時期だからこそ、小規模でも健全な融資先の確保さえ出来れば良しとしようと、それだけを狙ってキャンペーンを打ったのだ。

 そこへこの四億の融資だ。萩原はそれまで自分の手掛けていた仕事からすべて手を引き、ひと月掛かりでやり遂げたこの案件は、それだけでも価値のあるものと言えるだろう。

 それが折からのローン推進キャンペーンの波に乗り、彼の仕事は高い評価を受けた。その点では、萩原は運の強い男と言えた。

「──萩原くん、きみにこの仕事を任せて良かったよ」

 部長室の大きなデスクの席に着き、本田営業部長は満足げに言って笑った。

「はぁ……」と萩原は気のない返事をした。「でも、青山くんも頑張ってくれましたから」

「そうだな。しかし、キャンペーン期間は今日で終わりだから、正直言ってそれに間に合うかどうか心配しとったんだ。四億の仕事に変わりはないが、キャンペーン中に実行するのとしないのとでは、本部の評価がまるで違ってくるからな」

「ご心配かけて申し訳ありませんでした」萩原は丁寧に頭を下げた。

「いずれにせよ、きみの仕事に間違いはなかったわけだ。その歳で係長のポストに就いただけのことはある。同期ではまだきみだけだろう?」

「いえ、国際資金管理部の小笠原おがさわらくんがこのあいだ……」

「ああ、彼か。彼なら私も知ってるが、どうも駄目だ。京大出だが、理論派だからな。実践派のきみの方が営業畑での仕事に期待が持てる。法人部に行っても、きみとは折に触れての意見交換を望みたいね」

「──はぁ」あまり褒められたような気がしなかった。

「まあ、これからを楽しみにしているよ」

 部長は萩原の今ひとつの反応に戸惑いながらも、清々しい笑顔を崩さなかった。


 部長室を出た萩原は、溜め息をつきながら廊下をゆっくりと歩いた。

 彼にとって今や出世は何の魅力もないものだった。銀行員という職業には特に不満はなかったが、今の仕事には満足していなかった。だからその仕事が評価されても、それほど嬉しいとは思わなかったし、もっと上を目指してやろうという欲も沸かなかった。こういう性格は学生時代から変わっていない。興味のないことには、彼はいたって愛想がないのだ。

 それどころか、今の彼には出世コースへの近道となる部署への転属もあまり有り難くない話だった。美雪を引き取ろうと思ったときにはそうでもなかったのだが、この前麗子や鍋島に男手での育児の難しさを指摘されてから、出世は美雪を引き取って育てる上で、時間的にマイナスであるように思えてきたからだ。

 それにしても、曲がりなりにも一児の父親であることには変わりない自分が、子供を産んだことも産ませたこともない二人に忠告されるなんて── しかも、それぞれの立場に立った彼らの発言は妙に説得力があった──いかにも皮肉な話だと思った。

「あの、萩原主任」

 振り返ると、青山が営業鞄を持って立っていた。

「あ、なに?」

「この前来られた女性の方がお見えです。えっと──」

「日下?」

「ええ、その方です。すいません、名前思い出せなくて」

「店頭に?」

「いいえ、今、外で。筋向かいの喫茶店で待ってらっしゃるって」

「子供も一緒やった?」

「いえ、お一人でしたけど」と青山は首を振った。「どうしましょう。僕の方から課長に断っておきましょうか?」

「いや、訊かれたらでええよ」萩原は時計を見た。「……まあええか。五時は過ぎてるんやし」

「そうですね」と青山は笑った。


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